面影◆7
了の予想よりずっと道は空いていて、予定より一時間ほど早く庁舎に着いた。
駐車場から調査室へ行き、会議と言って高遠と出かけて行く了を見送り、ユリはいつもどおり、ソファに座った。オフィス内には渡部、日下部のほか、珍しく三笠もいて、しかし当然三人は黙々とパソコンと向かい合い仕事をしていた。
テーブルの上にはハードカバーの小説が数冊用意されていて、ユリは適当に一冊取り、読み始めた。
半分ほど読み進め、一度凝り固まった首筋を回して解していると、後ろを振り返ったところで三笠と目が合った。
「あ…。」
とはにかむと、三笠はふと淡く笑って立ち上がった。そしてユリの隣に座り、ふふんと得意げに小さく笑う。
「ちょっといい?」
言うや否や、三笠がユリの耳たぶを触った。両手を添えて何やらやったあと、手を離して少し後ろに身を退く。
「うん。ばっちり。」
満足げに言う三笠に首を傾げながら、ユリは三笠が触れた耳たぶを触った。すると、指先に硬い何かが触れ、崩れ落ちるように揺れた。
「?」
ユリがさらに首を傾げると、三笠がユリの目の前に手を掲げた。指先には何かを摘んでいて、それがちらちらと照明を反射しながら揺れている。
イヤリングだった。濃い、ラピスラズリのような深い青い色の石のイヤリングだ。
「あげるわ、これ。」
「え…。」
「昨日、衝動買いしたんだけど、私には似合わなくて。」
そう言って苦笑する三笠だったが、どうみても三笠によく似合っている。
「でも…。」
「そんなに高いものじゃないの。おもちゃみたいな値段だったから。気にしないで受け取って欲しいのよ。」
と言って、三笠がユリのもう片方の耳たぶにイヤリング付けた。
「…あ、ありがとうございます…。」
付けられてしまった以上、断るのも憚られ、ユリは素直に受け取る事にした。
何より、好感を持っている三笠から譲られたものとあっては、無理矢理返す事自体が嫌だった。
ユリが礼を言うと、三笠はにこりと笑い、何か呟いた。ユリにはそれが、「そう言えば…」と言ったように聞こえた。
そこへ、高遠と了が戻って来た。
「はい?」
三笠が振り返り、話を切ってしまったので問い返すと、三笠は「いいの、何でもないわ」と言って立ち上がってしまった。
「おかえりなさい。」
高遠と了に、三笠が声をかける。
「ただいま。」
そう答える高遠は笑顔を浮かべているが、その後ろの了はすこぶる機嫌が悪そうだった。
ユリが怪訝な顔で了を見ると、一足先に席に着いた高遠が「じゃあ、とーるちゃんよろしくね」と言った。
了も「はい」と返事をして、ころりと表情を戻してしまう。
「ユリ、行くぞ。」
「あ…、うん。」
そそくさと出て行く了を小走りで追う。
了はユリを振り返る事なく、まっすぐエレベータホールへ向かい、ちょうど到着したエレベータに乗り込むとカードを翳した。そしてユリが乗り込むのを待って、点滅している『B3』のボタンを押す。
「地下に行くの?」
「ああ。」
短く答えながら扉を締め、ユリに向き直ると、了は説明をし始めた。
「地下三階に、資料室がある。」
「資料室…。」
「裁判の資料…、主に証拠品に関する資料が保管されている。資料と言っても、個人情報が特定出来ない、至ってシンプルな物品リストと言えばいいか。実際に証拠品として提出された物も置いてあるが、やはりそこまで重要度が高い物ではない。」
「ふぅん…。でも、そんなところに私が入っていい訳?」
当然のように問うと、了はユリを指差した。
「お前、『外部監査官』って事になってる。」
「…は!?」
突然の告白に、ユリがあんぐりと口を開けた。
『外部監査官』。ずいぶん御大層な肩書きである。
「ここには、国内外問わず様々な人間の個人情報が集まる。ユリ個人の情報も、俺個人の情報も、大袈裟に言うと無制限に集積する事が出来るのが、この機関だ。
だから当然、無闇に外部の人間を入れる事は許されない。
だが、一方でユリの身を護る事は、俺たちにとっては任務にも関わる重要な事だ。
だから、ちょっとコネを使って、ユリを『すごく偉い人』にしてある。」
「…う、うん…。」
どきまぎしつつ、少し了を恨む。もう少し早く言ってくれれば、それなりの行動をしたのに、と。
内心はともかく、表面上は未だ鳩が豆を食らったような間の抜けた顔で驚いているユリに、了はさらに「ついでに教えておくと…」と続けた。
「本来、その肩書きは匠さんのものだ。」
「…は!!?」
これは意味が解らない。了もそうだろうとでも言いたそうな顔で頷き、さらに説明を始める。
「匠さんは、特別調査室の外部監査役官という肩書きを持っている。
立場的には、高遠さんの上。
これは、調査室の人間の素行やら、資料の扱いに問題がないかどうかを監査する第三者国家機関に所属する者が役割を担っている。」
「…つまり…?」
「……。」
恐らく多少は意味を理解しているのであろうが、眉を顰めて尋ねるユリに、了はなるべく言葉を砕いて説明を続けた。
「つまり匠さんは、オレらの行動制限が出来る、国に雇われた偉い人。」
「なんで、叔父さんが!?」
ユリの声が裏返った。
了は匠から、匠の過去についてユリは何も知らない事を聞いていたので、驚きも疑問も想定内だった。匠とは予め、必要が在らばユリに匠の素性を話す事は合意しており、ちょうどよい機会でもあったので、了はその話をする事にした。
「匠さん、今の事務所を立ち上げる前は何をしてたか知ってるか?」
「え…、ずっと探偵でしょ?」
小さな頃から、探偵だと信じていた。
何日も帰って来ない事や、逆に毎日家にいる事がある事も見ていて、それは、探偵と言うユリからすれば特殊な職種に就いているせいだろうと疑問にも思わなかった。
ふと仕事の話をしている姿を見た事があったが、難しい話をしていたという程度の理解しかしていなかったが、そんな匠の姿は、ユリの目にはちょっとした英雄のように映ったのだった。
そんな事を思い出したユリだが、しかし了の口ぶりでは、その記憶は肝心なところが間違っているようだ。
「…匠さんは、元公安部外事課の捜査官。九年前に退職してるけどね。
かなり腕の好い捜査官と評価も高かったらしい。
「…え…。」
ユリが絶句した。
捜査や調査を主とする点では職業のイメージに大差はなかった。が、問題は『外事課』というところだ。
外事課と言えば、海外組織でいうところの、情報機関のような性質を持つ。捜査対象は主にスパイや国際テロリストだ。そのため、CIAをはじめとした海外各国の諜報機関や、各大使館との情報共有、連携捜査が基本となる。
凡そ匠の印象からはかけ離れすぎている。
そして、退職が九年前…?
と言う事は探偵事務所は九年前に開いた、と言う事か?
ユリの記憶と大分違う…。記憶では、物心ついた時から既に匠とカナエはあのビルに住んでおり、そして一、二階はオフィスになっていて、ユリ自身出入りしていた事も覚えている。
どういう事だろうか…。
目と口を開きっぱなしにしているユリの内心を悟って、了が続けた。
「あの事務所、元々、他人が経営していた探偵事務所なんだ。匠さんたちはその上の三、四階を住居として間借りしていた。職業柄、元経営者とは顔馴染みだったようで、借りた経緯があったらしい。
それを、九年前の退職後に、買い取った。退職直前に、前任者が亡くなったんだ。だからビルごと事務所を買い取って、芳生探偵事務所と改め、匠さんも探偵になった、という事らしい。
んで最近、元公安捜査官の実績を買われて、外部監査官に任命されている。」
「…いつ…から…?」
「去年の、”ユングベリ伯爵事件”のすぐあとくらい。」
この発言で、ユリの中で燻っていた全ての疑問が解けた。
匠は、五月の”赤い泪事件”以前より、事件や”男爵”について知っていたのだろう。あの不自然なまでに解り合っているようなやり取りは、当然、という事だったのだ。尤も、高遠とは旧友関係なのだから、そのせいでも情報を知る余地は十分にあった事だろうし、事件後に了もそんな話をしていた。それを推測出来なかったのは、偏に経験不足と言い切って問題ない部分ではあるかも知れない。
若干消化不良のような胸の疼きを覚え、片頬を膨らませると、了が鼻で笑った。
「すまんすまん。とはいえ、軽々と話せる事ではないからな、こればっかりは。」
「…それはわかるけど…。」
もごもごと言っていると、チンと音がして、一瞬足場が沈んだ。
途中、どの階にも止まらず、エレベータは目的の地下三階へ着いたようだ。
ガコンという音とともに扉が開き、了が先行してエレベータを降りた。エレベータからまっすぐに廊下が続いている。歩いた事のあるフロアと違い、廊下は薄暗く、空気もひんやりとしていた。足音が妙に響く。
入り口も少なく、それぞれの間隔が妙に離れている。
「一番奥。」
了が振り向きもせずに言う。
廊下は、エレベータから離れれば離れるほど、進めば進むほど照明が弱くなっているのか暗くなって行く。
そして、大分後方のエレベータのドアが小さくなったところで、廊下は突き当たりになった。
薄っすらと埃に汚れた廊下の白い壁には、鈍く銀色に光る扉がポツンと填っている。
あまりに壁にそぐわないその扉の脇には、各出入り口にあるようなカードリーダが設置されているが、これがまた一層壁の雰囲気にそぐわない。
了が素早くカードをスライドさせると、リーダから『ピ』という軽やかな電子音が小さく鳴った。次いで、カチャ、という音が扉と壁の隙間から聞こえた。
了がノブに手をかけ、掴むと、重いのか、全身で扉を押す。
ギィという鉄の擦れる音がして、扉は徐々に開いて行った。中は真っ暗で、まさに一寸先も見えなかった。廊下の弱い灯りすら吸い込んで、部屋の闇は奥深く広がっているように思えた。扉が開くたび、鉄の臭いが混じった古い紙の臭いが強くなる。
程よく扉が開いたところで、了がドア横の内側の壁を探った。パチという音とともに部屋の照明が何度か瞬きをし、点った。
照明が落ち着いたところで、扉をユリに預け、了が奥へと入っていく。ユリも入って中を見回す。
少し低めの天井に、壁のみならず迷路のように立て横に並べられた灰色のキャビネットの森。キャビネットには背に白いインデックスシールの貼られた青や黒のバインダーがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。壁や天井は薄汚れた白い色だが、天井以外はほとんどキャビネットに隠れて見えない。
路地のように入り組んだキャビネットとキャビネットの間の通路を抜けると、部屋中央はひらけていて、木製の大きなデスクがどんと置かれていた。だが椅子はなく、一時的に物を置くだけの机だとすぐに解る。
奥深いと思われた部屋は、中央のスペースまで出ると大した広さではないと解った。十畳ほどだろうか。そのほとんどがキャビネットに占領されている。
ユリがデスクの脇に立つと、了がユリに小さな紙切れをひらりと見せた。
「このナンバーのファイルを探してくれ。ナンバーはファイルの背の下の方に書かれているはずだ。」
言われて紙切れを手に取り、確認をする。
『タ 58』。
『ハ 66』。
『マ 12』…。
「ファイルは、そのカタカナ順には並んでない。どこにあるかわからないので、端から見て行ってくれ。あったら、このデスクの上に。」
「うん。」
ユリが頷くと、了はポケットからもう一枚紙切れを取り出した。探すファイルは、三つ以上あるようだ。
そのまま、了は奥のキャビネットを探し始めたので、ユリは反対側の入り口付近のキャビネットから探す事にした。
了の言うとおり、ファイルの背のナンバーは隣同士で揃っておらず、ただ詰め込まれただけ、というようだった。
骨が折れそうだと思いつつ、幸先よく一つ目のキャビネットで『マ 12』を見つけ、それを脇に挟みながら見続けて行く。
二つ目、三つ目のキャビネットでは何も見つからず、四つ目、入り口から左、右と細い通路を辿った先にある、中央スペースの左端に目隠しのように置かれたキャビネットで、漸く『タ 58』を見つけた頃、ナンバーだけを念頭に置き、無心のままにひたすらファイルの背をなぞって行く単調な流れの中で、いつしか無心の心に不安が沸いた。
『自分は、ここで何をしているのだろう』…。
数ヶ月前まで、『普通』とは確かに言い難い人生ではあったけれど、一見して他人と変わらない、ただの一般市民だった自分が、今、検察庁の地下資料室で資料を探している。
何の因果かと言えば、自分が生まれる前に両親が携わった研究から派生した出来事であるから、余計に逃れ得ぬ状況であるような気がする。そして、この状況はまだまだ終わりが見えない。
そればかりか、沢山の人を巻き込み、そのうちの少なくとも数名が命を落としている。
ユリに一切の原因がない事象のはずなのに、罪悪感は胸いっぱいに広がる。
気にしなくていいと言った了でさえ、まだまだユリの中では、この事象の犠牲者に過ぎない。
そう思うと、膝が震えた。
『申し訳ない』。
そんな言葉が、無だったはずの頭を埋め尽くし、そしてあっという間に溢れ出た。
巻き込んだ。了を。にも拘らず、了はその責任を負うかのように果敢に立ち向かってくれている。時に命を顧みず、生活すら犠牲にして。
『無力だ』。
ユリにはその責任は負えない。何も出来ない。何の力も持っていないから、走り続ける了を、ただ眺めている事しか出来ないのだ。
『愚かだ』。
それなのに、のほほんと部屋にまで居座り、気楽に構えている。
『あなたが、いなければ』。
突然、そんな言葉が脳裏を過ぎった。
そうか、自分があの日、空港に行かなかったら、少なくとも了がここまで事態にのめりこむ事はなかったかも知れない。
了だけでも、この煩わしく複雑な事件に関わらずに済んだかも知れない。
それに気付き見開いた目から、大粒の涙が零れ落ちた。
自分のせいか…。
自分のせい、だ…。
血の気が引いた。
全身、立っているのがやっとなくらいに力が抜けた。
脇に挟んだファイルが、ばさっと大きな音を立てて落ちた。
了が驚いて振り返った。
視線の先には、了に背を向けたまま立ち尽くすユリの姿がある。
眉を潜め、「ユリ?」と問いかけると、消え入りそうな小さな声で「ごめん…」と聞こえた。
ただならぬ様子を察した了は、いくつか見つけて手にしていたファイルをデスクに雑に投げ置くと、小走りにユリに駆け寄った。
萎縮したように身を縮め、目を見開いたまま俯きがちに耳を塞ぎ、空を見つめるユリを、了は肩を力いっぱい掴んで無理矢理振り向かせ、強く揺さぶった。
「ユリ…!?」
瞬きも疎かに焦点の合わない瞳を覗き込む。顔は涙でべたべたと濡れ、醜いほどだった。
「ユリ!」
もう一度呼びかけると、ユリがゆっくりと了と視線を交えた。ユリ、瞳孔は開いたまま、何かに恐れ戦いている様にも見える表情で、口を小さく震わせている。
「ごめんね…。」
呟きと同時に、涙が落ちた。
何があったのか…。探る余裕を見出せず、どうしていいか解らずユリの肩に手をかけたまま、了も呆然とユリと見つめ合った。
「私の…せいで…、了…。」
途切れ途切れに口から漏れる言葉に、漸く事態の一端を察した了だったが、そんな事かと安堵したと同時に、ついこの間気にするなと言ったばかりなのにという怒りにも似た感情が沸き上がった。
動揺しているからだという事も理解していて、しかし、心の中は複雑に色々な感情が入り乱れてしまい、収拾がつかなかった。どんな言葉をかけようか、ぐるぐると回る頭で考えていると、ユリの膝ががくんと折れた。
寸でのところで崩れ落ちる体を抱き止め、ゆっくりとユリを床に座らせながら、自分もしゃがみこむ。
床に座り込んだまま、仕方なくユリの頭を抱え込み、そっと撫でる。
それでも、ユリはずっと「ごめんね」と詫び続けていた。いつかの自分のように、全てを背負い込んだような、絶望の眼差しで。
了はただ無言で、ユリを抱き締める事にした。まだ動揺は治まらないが、こうしていると自分が宥められているように思えた。
ユリの体は少し震えていて、小さな嗚咽も続いていた。背中を優しくとんとんと叩く。だが、こちらは一向に治まる気配がなく、いつまでもこうしている訳にも行かず、どうしたものかと考えていると、指先に硬いものが振れた。拍子に、シャラという音が聞こえた。
覗き込むと、ユリの耳たぶでイヤリングが揺れていた。深い蒼い石のついたこじんまりとしたイヤリングだった。
こんなもの、していただろうか…。
記憶を手繰っていると、イヤリングが耳たぶから滑り落ちた。了は慌ててそれを拾い上げ、反対側のイヤリングも外して、ポケットに入れた。
そしてもう一度、「ユリ?」と呼ぶ。
ユリは少し落ち着いたのか、体の震えは治まっており、呼ばれて了をゆっくりと見上げた。
「…了…?」
まるで、今初めて了に気付いた様子で、了を見ている。
「大丈夫か?」
問いかけると、ユリが小さく頷いた。
しかし、まだ体に力が入らないようで、ユリは了の腕の中で、ぐったりと体を預けている。
仕方なく、了は体勢を整え、床にきちんと腰を下ろすと、ユリを抱き締めなおした。そのまま頭を撫でてやる。
そして、ふとある事に気付き、ユリに見えないように、少し険しい顔をした。それは思い付きだったけれど、何故か”間違っていない”ように思えた。
戻ったら、調べ物をしなければ…。
そう決意すると、了は一層強くユリを抱き締めた。