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男爵は微笑う  作者: L→R
面影
22/48

面影◆8

 突然、体がぐらりと揺れた。

 驚いて目を開けると、小さな少年が目と鼻の先で見下ろしていた。

 似ている。

 眠たそうで、その形のせいでぱっと見では解らぬほどに大きな目と、形のよい鼻と、程よい唇と、印象よりもしっかりとした顎のラインが…。

「ユリちゃん、起きないの?」

 呆っと眺めるユリに、稜が言った。

「あ、ごめん。おはよう…。」

「おはよー。」

 声を出すと、部屋中の空気が一気に体に流れ込んで来た。ほのかに、食べ物の匂いがする。

 ユリが体を起こすと、稜はベッドから滑り落りて、「とおちゃん、もう起きてるよ」と言った。

 部屋の壁にかかる時計を見ると、まだ七時を迎えていなかった。

 カーテンの隙間から、強めの朝陽が差し込んでいる。

「下、いこっか。」

 ユリが言うと、稜がうんと頷いて、ドアを開けた。

 稜について廊下に出、階段を下りると、食べ物の匂いが明確になった。

 バターや、焼いたベーコンの脂の焦げた匂い。

 先に洗面所で顔を洗い、稜と揃ってキッチンへ向かうと、見事なまでの手際の良さで料理をしている了がいた。

「おはよー!」

 稜が駆け出し、了の脚にしがみつく。

 その稜を、了が仕方ないという表情で見下ろした。

「危ないだろ。」

 注意されても脚から離れず満面の笑みを浮かべる稜に溜め息を吐いて、了がユリを振り返った。

「おはよ。」

「…おはよ…。」

 あまりに馴染んだ光景を、暫く呆然と眺めていたユリは、不意におかしくなってふふと笑った。

 親子のようにも見えるが、ただ仲のよい兄弟のようにも見えるし、不思議な二人だ。

「何か、手伝う?」

 ユリが歩み寄ると、素早く包丁を上げ下げしていた了が、手元から目も離さずに「うん」と言った。手元を覗くと、切られていたのはきゅうりだった。

 了の横に立ち、シンクで手を洗うと、了が手を止めて、傍らのボールをユリの傍に置いた。

 中には小吹芋が少しだけ潰された状態で入っていた。その上には薄切りにしたたまねぎに、少し焦がした細かなベーコンが乗っている。

「少し塊が残ってていいから、適当に潰したら、これとマヨネーズ入れて混ぜて。」

 そう言って、了が先にラップを巻いた伸ばし棒とコンビーフの缶を置き、再びきゅうりを切り出した。

「はい。」

 ユリは返事をして、規則正しい包丁の音に感心しながら、棒で芋を潰し始める。

 ふと、了のマンションのキッチンにあったパスタケースや調味料を思い出した。なるほど、料理上手ならあれらにも納得が行く。

 感心をしていると、了はきゅうりを切り終わり、塩水に漬けて少し軟らかくなったレタスを太目の千切りにし始めた。

 足元には、相変わらず稜が了にしがみ付いている。

 言われたとおりコンビーフ缶を開け入れ、マヨネーズを適当に入れて混ぜると、了がティスプーンを取り出し、ユリに渡した。

「稜で味見。」

 言いながら、了は千切りにしたレタスをボールのポテトの山の上に乗せる。

 ユリはスプーンの先で少しだけポテトを掬い、稜に見せた。稜は了の脚から離れ、ユリを見上げながら口を開ける。スプーンを口に入れると、稜がぱくりとスプーンを咥えた。

 横目で見ていた了が「どうだ?」と聞くと、稜はにこりと笑って「おいしいぃ」と答えた。

「じゃあ、ユリはボールをテーブルに乗せて。稜は座ってなさい。」

「はーい。」

 ユリと稜がほぼ同時に返事をし、並行してテーブルへ向かうと、駆がダイニングへやってきた。

「おはよう。悪いね、お客さんにやらせてしまって。」

「いえ。お世話になっているので…。おはようございます。」

 ユリがにこりと笑うと、駆は傍らの稜の頭を捏ねながら、「お前はパパの隣だろ」と言った。

 稜が座ったのはダイニングルームの入り口側に並ぶ三つの椅子の真ん中で、駆は反対側の椅子を指差した。

「やだ。ユリちゃんの隣なの。」

 にやにやと笑いながら稜が言った。

「お前、独りで綺麗に食べられないだろう」「やだー」の親子の問答を見物しているユリの後ろで、了が言った。

「俺が隣だから、平気だろ。」

 一言に、駆が困惑してユリを見た。ユリは一瞬口篭ったが、すぐにうんうんと頷いて、「私は構いませんよ」と答えた。

「悪いね…。」

 駆が苦笑し席に着くと、最後の弥がにこにこと笑いながらやって来た。

「おはよう。」

「もう少し早く起きられないのか? お客さんもいるっていうのに…。」と駆。

「申し訳ないね、ユリちゃん。」

「い、いえ、大丈夫です。」

 笑い顔は崩さないが、眉を下げて謝る弥に、ユリがぶんぶんと手を振った。

 その間に、すべての食事の用意を終えた了が、「メシ」と一言言って席に着き、食事が始まった。

「ける兄は今日は事務所?」

「うん。稜を家に置いたら、そのまま事務所。仕事が貯まってるから、今日は帰れないかもなぁ…。」

 弥の問いに、駆が悲観に暮れた。

「とおは調査室にいるよな?」

「いるよ。」

 続いて弥の問いかけに、了が手短に答えた。

「なんで?」

「再審の通達、今日辺り行くらしい。」

「まだ来てなかったの?」

「すまんね、ウチは調査室の少数精鋭部隊のようには動けないんだよ。」

 弥が皮肉混じりににやりと笑う。

「うちほど人手不足の組織もないと思うけどね…。」

 了がさらりと言った。

「とにかく、今日行くらしいから。」

「はいよ。」

 喋りながら、了は隣の稜の食事の世話もしている。稜には与えてよいものとそうでないものがあるようで、皿には食パンと脂身の少ないベーコンが少量、固めのスクランブルエッグのみが乗せられていた。

 気になってユリがしばらく見ていると、疑問を察したのか駆が言った。

「生まれたばかりの頃に腸疾患を患ってね、少し大きな手術をしてから、消化機能が低下してしまったんだ。そのせいで、過度の脂や食物繊維を摂取すると、消化不全を起こして発作が出る。

 食べるものは、選んで与えないとならないんだ。」

 話の内容の割りににこにことして、声色も明るい駆の説明に、ユリは呆然とした。

 昨夜、一穂から稜の話は聞いたが、今後も背負う疾患とまでは聞かされなかったので、若干、ショッキングな話だった。

「まぁでも、食べ物さえ気を付ければ大した事ない体だからねぇ、本人は元気なもんさ。」

 ユリが見下ろす先で、稜は無邪気にフォークでポテトサラダを摘んでいる。当の本人はまだ事の大変さに気付いていないのだろう。歳を取り、大きくなればなるほど、恐らくその事実は稜の選択肢を狭めて行くはずだ。その中で悲観せず、選択肢を最小にしない生き方をするには、途方もない努力が必要だ。

 ユリは遣り切れない思いで食事を再開した。

 了が稜に構うのも理解出来た気がする。エルシの時もそうだったが、恐らく生きる事の根底に死んだ弟や母親があるのだ。

 その了は、弥と未だ仕事の話をしている。話が途切れないようだし、駆も話に加わってしまったので、ユリは稜と二人、黙って食事を進めた。

 やがて計ったように全員が同時に食事を終え、少し食休みをしてから揃って蕪木邸を出た。家の中の片付けは、定期的にやって来る一穂の秘書が行っているそうで、食器洗い以外はそのままで出る事になった。

「じゃあ、気を付けて。」

 一足先に弥が駐車場の一番端に停めた白いセダンに乗り、去って行った。

 が、その後トントンとは解散出来なかった。

 稜が了と離れたくないと愚図ったのだ。

 了は稜を抱き上げて困惑気味に宥めているが、それが仇となって稜は了の首にしがみ付いて離れなくなってしまった。

「やだもん。」

「我侭言ったらパパ困るだろ…?」

「困んないもん。」

「困ってるだろ。」

 そう言って苦笑した了の視線の先で、本当に駆が困惑していた。引っぺがしてでも車に乗せないのは、甘やかしと言うより了がきちんと説得出来ると踏んでいるからだろう。

「またすぐ会えるだろ。」

「いつ?」

 『またいつか』が大人の特許なら、『いつ』は子供の特許だ。了はふふと鼻で笑って、稜の耳元で囁いた。

「クリスマスに稜が言ってたおもちゃの新作が出るって聞いた。今日からいい子にしてたらそれお土産に稜のうちに遊びに行く。」

「…。」

 若干心が揺れたのか、稜が愚図るのを止め、だが疑い深げな眼差しで了を見上げた。

「ほんと?」

「ホント。だって俺も遊びたいもん。」

 了がにやりと笑うと、稜はユリを見た。

「ユリちゃんも来る?」

 その質問に、了とユリが驚いた。

「え…。」

 ユリは駆と了を交互に見、何と答えれば良いかを目で訴えた。

 了はさすがに眉を下げ困り果てている様子だったが、駆はのほほんと笑って、ただ一つ頷いた。その意味合いを、ユリは瞬時に悟った。

 ユリは稜を抱く了に歩み寄り、稜に顔を近づけてにこりと笑う。

「稜くんが呼んでくれたらね。」

 その答えに、稜は観念したように頷き、了の腕から滑り落りた。駆が助手席に誘導し、チャイルドシートに座らせると、ユリと了を見て「ありがと」と言うと運転席に座った。

 窓を下ろし、少しだけ身を乗り出す。

「ユリちゃん、また近いうちに事務所にお邪魔するので、よろしくお願いします。」

「あ、はい。」

 へこへこと頭を下げるユリに駆はにこりと笑うと、了に手を挙げ、「じゃあ」と言って車を出した。走り去る駆の車が曲がり角を曲がって見えなくなるのを見届け、了がユリに向いた。

「さて、とりあえず調査室まで戻るか。」

「うん。」

 ユリがぐったりして頷くと、了が仕方なしと笑いながら車に乗り込んだ。ユリも助手席に座り、シートベルトを締める。この時間だと混んでいるだろう、都心まで三時間以上はかかるのではなかろうか。

 ユリが尋ねると、了はすんなりとそれを認め、「寝てていいぞ」と言って一度車を出すと、駐車場の操作盤で扉を締め、発進させた。

 寝てもいいと言われても、さっき起きたばっかりだ。かと言って、了との共同生活が始まった頃より大分話す事もなくなって来た。道中、暫く無言で前方の車両を眺めて過ごした。

「そう言えば…。」

 了が呟いた。

「?」

「もう少ししたら、また療養所に行く事になるけど…。」

 「行くか?」と了が横目でユリを見た。

 ユリは俯き、太腿の上で両手をもじもじと動かす。

「……。」

 その様子に、了が驚いた。

「飛びつくかと思った。」

「…うん…、本当はね…。」

 ユリとて、飛び付きたかったのだ。クレアのあの様子を思い出すたび心配ではあったし、近くにいる事で自分が安心出来るからだ。

 だが、一方で、それはならぬと思ってもいる。

「まだ、行っちゃいけない気がするの…。」

「…。」

「クレア、きっと独りで心の中で色んな事考えてるんだと思う。私も、そうだったから…。」

 窓に凭れると、車の振動で少しだけ頭がこつんと当たった。

 まだスムーズに走る車窓の外で、景色が流れて行く。

 風の音、空の色、心臓の音…。普段、耳を掠め、意識をしている筈のものの、本当の姿を確認したあの時。

 生きている事の無常さと、儚さと、生き長らえる事の悔しさと、自分自身の存在意義。

 無意識に、色々考えた気がする。

 それでも一端に人として生き、立ち直った者として、あの時間は無駄ではなかったと言い切れる。

 クレアにも今、その時間が必要なのだと思った。

 言ったきり口を閉ざしてしまったユリの横顔をちらりと見た。三ヶ月前、再会した時に見た、あの真っ直ぐこちらの心を見抜く瞳。ユリは今、その目をして流れる景色を見つめている。

 実際に見ているのは、あの日のユリ自身、或いはクレアの姿だろう。

「考え事が終わったら、多分クレアから呼んでくれると思う。」

 そう呟くユリの横顔には、自信が溢れている。

「そうか。」

 了はその横顔に、たった一言だけ返して納得した。ユリが言うなら、恐らくそうなのだろう。

 そのまましんみりしてしまった車内の空気を変えたくて、了が話題を変えた。

「今日さ。」

「うん。」

「調べ物を手伝って欲しいんだ。」

「調べ物?」

「そ。調べ物と言うか、探し物、かな。」

「どんな?」

「色々あるんで、説明は出来ないけどな。その前に、俺会議あるから、少し留守番。」

「はいはい。」

 返事をして、ユリがふぅと気の抜けた溜め息を吐いた。クレアの話題で、少し気が張っていたのだ。

 流れに乗じて、ユリも話を変えた。

「ねえ。紗綾ちゃんって、どんな子?」

「サヤ? なんで?」

 稜ではなく、紗綾の事を尋ねられ、了が少し意外そうに言った。

「うん。嫌われてるのかな…と思って…。」

 ユリが若干言い辛そうに言った。昨夜、一言くらいしか言葉を交わす事はなかったが、とてもではないが好感を持たれている様には思えなかった。

 思い出して、ほんの少し気落ちしていると、了は平然とした声で「ああ…、あいつは…」と答え始めた。

「あいつはいつもああだからな。はっきり言って、普段の俺より愛想ない。」

「え…。」

「澄ましてるだけなんだろうけどな。そういう歳なんだろ。俺に対してもタル兄に対してもあんな感じだから。」

「…ふぅん…。」

 ぼんやりと、紗綾が了を「了さん」と呼んだ事を思い出す。なるほど、大人の仲間入りをしたいのだろうか。

「うちは子供が少ないから、意識してないと子供が大人に合わせなきゃならなくなる。

 そういう気遣いが出来ればいいけど、男ばっかりだし、子供がいてもおっさんのペースで動くからな…。そういう意味じゃ、可哀想だが。ああやられると、可愛がり方が解らないんだよな…。」

「そっか…。」

 そうは言うが、稜に対する態度はそんなように見えない。それは、稜に対しては誰しもが気を遣っているからと言う事だろうか。それとも、ユリがまだ知らないだけだろうか。

 後者だろう、などと思いつつ、納得だけする事にした。

 だから、そのあと了が呟いた一言すら、大して気にも留めなかった。

「あいつも人形みたいだから…。」

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