面影◆7
〇時を過ぎて、仕事の都合で帰らねばならぬ覚と至、紗綾を見送り、了は携帯電話で調査室へ連絡を入れた。
何度か呼び鈴が鳴ったあと、高遠が出た。
『はい、調査室。』
「蕪木です。」
『はぁい。お疲れ様。
早速だけど、預かった青いあの箱の中身、黒崎クンに回しておいたから。』
「ありがとうございます。」
『よく返さずに持ってたね。しかも巧い事持ち続けていたよ。状態も良好。未だに使われている形跡があるようだから、黒崎クンも張り切って受けてくれたよ。』
「それは、よかった。」
一穂から、先日預かり物をした。青いビロードの小箱で、中身を調べるよう言われた。
進行中の事件に関わるものではないため、私的に調べなければならなかったが、頼める人物は限られた。そこで科学捜査研究所の黒崎という男に頼んで貰ったのだった。黒崎とは了の方が仲がいいのだが、手が離せない事情もあり、高遠に頼んだ。
『で、どう?』
「何とか、話は終わったみたいです。」
『そう。大臣には、お手数をおかけして申し訳なかったね。』
そもそも、ユリに両親の話をしようと言うのは、高遠の提案だった。匠もカナエも知らぬオオトリ・ケミカルの話については、匠に洗い浚い話し、ユリに話すなら自分ではなく別の役者を立ててくれと言われ、当事者として名を連ねる一穂に頼む事になって、今に至る。
「いえ、いずれは、話さなければならなかったでしょうから…。」
『…そうだね…。
ユリちゃんの様子は、どうかな?』
「特に変わった様子は…。
ただ、まだ整理が付いてないだけだと思います。」
『そっか、そうだね…。
強い子のようだから、心配はないと思うけど、何かあったら、頼んだよ。』
「はい。」
『追跡車の件は、だいぶ調べ終わったよ。
ちょっと気になる事があったので、明日詳しく話すよ。
それから、”例”の件、とーるちゃん独りで動いて貰わなきゃならなくなったから。
どうやら、こちらで認識している以上の状況みたい。細かい事は、追々相談しましょ。』
「解りました。」
『今日は遅い。ボクもそろそろ上がるし、とーるちゃんも早く寝なさいな。』
「そうさせてもらいます。」
『じゃ、また明日。』
そう言って、高遠が電話を切った。
了は携帯電話を閉じ、ソファに横になった。稜が遊び散らした玩具が足元でがちゃと音を立てる。
ユリに両親の事を話そうと言われた時、どうして良いのか解らなかったのが正直なところだった。
知りたがっているようには見えないが、隠すべき事なのかと言うと違う気がした。
ただ、自分がユリの立場なら、気に病むだろうと思った。
躊躇いつつ、父にそれを任せた。
父は当然という顔をし、「知るべきだろう」と言って二つ返事で引き受けてくれた。
兄弟を集めたのは、これらの調査を行ったのが、一穂と兄たちだったからだ。
まだ了が警察官になる前の出来事だったし、短時間で調べるには厄介な捜査相手だった。何より、その当事者と、捜査をした当人たちだ。情報整理は彼らに任せるのが適格だというのは、了でなくともそう判断するところだろう。
了は高遠に大まかな話を聞き、父と兄たちから、細かな説明を受け直したという状態だった。
思い出話をするように優しい声で話す父と兄たちをみていて、良くも悪くも”蕪木家”と言うものについて考えた。
法曹界で大なり小なり影響力を持つ我が家は、頼もしくもあるが、極めて危険なもののようにも思える。
小さな頃から、この”蕪木”の名は、重く肩に圧し掛かった。
苦い記憶しかない家に頼るのは躊躇いもあるが、頼れる唯一の場所でもある。複雑な心境で、ユリをここへ連れて来た。
結果はどうだったのだろう。
正解だったのか…。
答えが出るのは、もう少し先だ。
ふとユリが気になった。稜も心配だし、部屋を少し覗く事にした。
ユリと稜が眠っているのは了の自室だ。弥と駆は各自の自室で既に眠っている。了はユリと稜のいる自室の隣、覚の部屋を使う事になっていたが、何となく一階にいたかったので、先ほどの部屋のソファで寝る事に決めていた。
自室の扉の前で、慎重にノックをする。廊下に響かぬよう、音を極力抑えてノックをするのは、とても難しい。
返事がないのでノブをゆっくりと回し、少しずつ扉を開ける。
規則正しい小さな寝息が聞える。
廊下も部屋も明かりは付けていないが、窓から月光が指している分、廊下のほうが明るい。扉の隙間が開くたび、ベッドを月明かりが照らして行く。小さい山と大きな山が二つ、こんもりと見える。
扉を半分ほど開け、体を滑り込ませる。
扉は少しだけ開けっ放しにし、部屋の中が暗闇にならないようにして、ベッドに近付く。
稜は珍しく暴力的なまでに悪い寝相が出ずに、すやすやと眠っていた。
反対側のユリも覗く。マンションで既に見慣れた寝顔を見て、ふと笑みが毀れた。
が、その瞬間、ユリの目元から、きらりと何かが落ちた。
しゃがんでよく見ると、睫毛と鼻筋が少し濡れていた。
これも、マンションで何度も見たのだった。
朝起きて、顔を覗き込むと、睫毛が濡れていた。涙が流れた跡がくっきりと残っている事もあった。
何か悪い夢でも見ているのだろうかと思ったが、問えなかった。
了は床に腰を下ろし、ベッドの縁に凭れながら、そっと親指の腹でユリの目元の涙を拭った。
と、ユリが、ゆっくりと目を開けた。
「…了…?」
寝起きで声がしゃがれていた。
そしてユリは目元の涙に気付き、「あれ」と呟きながら涙を拭った。
「嫌な夢でも見てたか…?」
「…わからない…。覚えてないの。
でも、たまにあるの…。起きると、泣いてる…。」
「……。」
まだ、心の傷は癒えていないのか。そんな気がした。
明るく振舞っているが、どこか奥の方で、きっと哀しんでいるに違いない。
「ねえ、了…?」
「ん?」
「聞いてもいい?」
「…何を?」
「了は、後悔してないの…?」
「後悔?」
「うん。
本当は、検事じゃなくて、他の仕事に就きたかったんじゃないの?
私ね、了のお父さんに、うちのお母さんとお父さんの話聞いて、心配になったの。あの事件に巻き込まれて、仕方なく検事になったんじゃないかって…。
だとしたら、うちの両親が了の人生壊しちゃったんじゃないかって…。」
暗闇の中で、表情が見えない分、声や耳は鋭く機能し、素直だ。問うユリの声は囁いているように聞えるが、よくよく聞けばやっと搾り出している様子だったし、心なしか震えてもいた。
そんな事を心配させたのかと、了は居た堪れなくなった。同時に、想像力の幅広さに感心する。
了は小さく苦笑して、まだ残っているユリの目元の涙を親指で拭き取った。何だか手を離せなくなって、そのまま頬に手を添える。
そして、静かに語る。
「…俺、小さい頃から、何をやっても二番だった。
受験結果も、資格試験結果も、習い事も…、次席合格、次席卒業、準師範、二等賞…。
冷めた性格のせいで、飄々として見えたんだろうな。トップのやつから怨まれたり、目を付けられる事もしばしばだった。
特にうちは、兄貴たちが出来が良かったし。何やらせても大概トップだったんで、そのせいもあったと思う。子供の頃にはすでに親父もそれなりに有名だったしな…。
”蕪木家”の人間だから、手を抜いてるんだろう、加減してるんだろう、ってね…。
それでついたあだ名が”次席の末っ子”。
大抵は、皮肉だった。」
「…。」
「…でも、本当は違うんだ…。
二番が俺の精一杯だった。いつだってそうだった。どう頑張っても、二番にしかなれなかった。
だから、”蕪木”の名前が重くてね…。何度も”蕪木”を棄てようとした。
俺が大学を受ける頃には、兄貴たちはみんな法曹界へ向かってたし、一度は、別の道を模索したりもした。
でも、逃げ切れなかった。逃げ切る勇気がなかったんだ。
”蕪木”を完全に棄てる度胸もなかった。
周りが期待するとおりに法学に進んで、司法試験も通った。でも、足掻く様にして受けた国家I種にも合格して…。
中途半端に警視庁に逃げた。
でも、俺が考えていた以上に”蕪木”は大きくてな…。結局、警察官になっても、”蕪木”の名前からは逃げられなかった…。
ずっと”蕪木”から逃げる事ばっかり考えて生きてた。どう生きたいかとか、夢とか、そんなもの、最初から持ってなかった。大学の滑り止めだって、本気じゃなかった…。
ただ逃げる事だけ考えて生きて、どうしたらいいか解らなくなって…。
そんな時に、空港でユリを見付けて、あの事件を見て…。」
了の親指が、ゆっくりユリの頬を撫でた。
「生きてて初めて、何かのために、誰かのために生きようって思った…。
それまで、生きてる事に何の価値も見出せなかった俺に、何もかもを与えてくれたのは、ユリなんだよ。
あの事件に感謝をするなんて事はしないけど、あの事件は確かに転機だったし、こういう言い方が赦されるか解らないけど、あの事件のお蔭で、俺は自分がどうしたいか決められるようになった。
貴重な切欠だったと思ってるし、結局は感謝してるとしか言えない。」
「……。」
「ユリは、俺にとって、命よりも大事だ。
何があっても、守ろうと思ってる。
すべて終わらせて、ユリがもう辛い思いをしないようにしてやりたいと思ってる。
俺が自分で、そう決めて思ってる。」
もう一撫でした了の親指に、ユリの涙が零れ落ちた。
「だから、ユリは何も心配しなくていい。少なくとも、申し訳ないなんて気持ちを持つ必要は、どこにも、少しもない。
それに、俺が検事になると決めたのは、俺自身だもの。
ユリの両親を恨まなきゃいけないなら、まず俺は、親父を恨まなきゃいけない。
親父が政治家になった事、それよりもっと前、俺を生んだ事を恨まなきゃ…。」
「そうだろ?」と問いかける了の手に、ユリが自分の手を添えた。
因果応報を呪うなら、生まれた事そのものを呪わねばならなくなる。
ユリが、添えた手で了の手をぎゅっと握った。
ユリはいつぞや、匠が言っていた言葉を、漸く理解した気がしていた。
――いつも、心配をしている…。
理解をすればするほど、了から出て来るのは自分への慈悲だ。我が身のように想い、何よりも優先して手を差し伸べてくれる。
脳裏に、一穂の言葉が過ぎった。
――あなたが予想だにしない答えが、返って来ると思うよ…。
こんなに率直に、すべてを告げてくれるとは思わなかった。
そしてこんなにも、心が満たされるとは思わなかった。
「ユリはそのままでいればいい。
ユリがそこにいる事が、俺にとって重要な事なんだから。」
そう言って微笑む了のすべてが優しくて、ユリは涙が止まらなかった。
握る手は相変わらず大きくて、冷たい。するすると頬を撫でる親指の感覚は、くすぐったく、しかし心地好く。
これがずっと続けばいいと思う。
そのためにも、了には傷ついて欲しくない。
もうすぐ終わる。
何もかも。
ユリがさらに了の手を強く握り締めた。どうやっても涙が止まらない。
空いている手で涙を拭い続けるユリに、了が苦笑した。
「明日、目腫れて大変だぞ…。」
「…うん…。」
返事はするが、一向に止まる気配のないユリの涙に、了もさすがに戸惑った。
了にとっては何がそんなにユリを泣かせているのか、解っていなかった。
どうしたものか、溜め息を吐くと、ユリのうしろで稜の声がした。何か夢で大変な目に逢っている様だ。
起こしてしまったのかと二人で驚いたが、寝言だとわかってつい吹き出した。やっとユリも泣くのをやめた。
了がもう一度親指でユリの頬を撫でると、それを合図にユリの手の力が緩んだ。
「もう、大丈夫。」
言いながら、まだ潤んだ目で笑うユリに、了も頷いた。