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男爵は微笑う  作者: L→R
再会
2/48

再会◆1

 梅雨も世間の知らぬ間に明け、陽炎立ち上る真夏を迎えたある日、芳生(よしお)ユリはとある裁判の傍聴のため、東京地方裁判所を訪れていた。

 被告人は三〇歳の男性。都内在住で元交際相手の三二歳の女性宅へ押し入り、致傷させたとして、強盗致死傷罪か過失致死傷罪かが問われている。

 事件発生は先月の二日未明。友人と食事後、タクシーで帰宅した女性が自宅の鍵を開けた際、男性に侵入され、脅迫と拘束を受けた。男性は女性に復縁を迫ったが、女性が拒否をすると直ちに女性に危害を加え、全治三ヶ月の怪我を負わせた。その後、女性が上げた悲鳴を聞きつけた近隣住人が通報。駆け付けた警察官により、家宅侵入と致傷の罪で身柄を拘束された。

 というのが当初の捜査経過であった。

 が、事態は思わぬ方向へと展開する。

 その後、海外逃亡中と思われていたあるスパイ容疑の指名手配犯と、この被疑者が同一人物である疑いが浮上。捜査は急遽、警視庁から専門機関へ受け渡されたのだった。

 だが、公にはこのスパイ容疑については伏せられており、この法廷では、女性宅への家宅侵入、暴行、致死傷罪について争われる事となっているらしい。

 争点は、強盗致死傷か、過失致死傷かというところで、これにより、その後行われるスパイ活動についての捜査に影響が出ると見られている、そうだ。

 ここまでが、ユリが匠に聞かされた話であった。

 ユリにはそこまで聞いても、未だ自分が何故この裁判の傍聴をしなければならないのか、理解出来なかった。

 今日は大学時代からの親友であるマミコと二人で、東京駅グルメツアーをする予定であったのだが、マミコが家へ迎えに来た時、匠にこの話を聞かされ、傍聴へ行くようにと言われた。ユリの抵抗はまるで効かず、匠はただ、行けと言うばかりだった。

 結局マミコが「面白そうだし、行こうよ」と乗った事で、事態は収拾した。

 開廷時間五分前。

 被疑者の弁護人は既に席に着いているが、検察側は空席だった。

 ユリが何気なく法廷内の時計に目をやると、検察側の通路へ繋がる扉が開き、薄グレーの細身のスリーピーススーツを着た若い男性が入って来た。公判資料や証拠品であろうか、彼は書類の束と頑丈そうなジュラルミンケースを持ち、足早に席に着くと、手際良く書類を並べて行く。

 背が高く、程よく鍛えられたらしい体格をしていて、少し長めの髪をやや後ろに流している、容姿の良い男性だ。

 男性が資料を並べ終えると、再び検察側の扉が開き、今度は品の良いベージュのスーツを着た、すらりとした若い女性が入って来た。女性もやはり大量の資料を抱えており、男性の隣に座るなり、それを広げ始めた。

 女性が広げ終わった資料を、男性が指をさしながら女性に何か訊ねている。女性は男性の指が動くその都度、頷いたり首を振ったりしている。助手のように見えた。

 やがて、男性は納得したのか小さくつまらなさそうに頷くと、傍聴席をちらりと見…、ユリを見て目を見開いた。

 当のユリも、男性と目が合って驚いた。

「…あ…アイツ…っ。」

 ユリが呟くと、マミコが不思議そうにユリを見て首を傾げた。

 男性から目を離せないユリはそのまま硬直し、男性もまた硬直していた。

 ユリと視線を交わらせている男性。

 紛れもなく、蕪木(かぶらぎ) 了(とおる)だった。

 あの”紅い泪事件”から三か月。とんと音沙汰ないと思っていたところでの再会であった。

「それでは…。」

 呆然とするユリの耳に、しゃがれた男性の声が聞こえた。

 目をやると、裁判官が一人、席を立って机の書類をペラペラとしながら話していた。

「これより、開廷致します。

 一同、ご起立下さい。」

 裁判官の指示通り、検察、弁護人、被疑者及び被疑者を連行する看守、係官、傍聴者が起立をした。

 「礼。」という声とともに、一同は一礼をし、着席をした。

 しんと鎮まり返る法廷内で、ユリは了を気にしつつも、緊張して背筋を伸ばした。

 了はというと、相変わらずの眠そうな目で、裁判官や弁護人、被疑者を観察している。

「では、検察側による起訴状朗読を。

 蕪木検事。」

 裁判長による人定質問が終わり、裁判官が言うと、了がすくと立った。そして一束の資料を手に取ると、何故か空いている手を腰に宛て、偉そうに事件経緯について話し始めた。

 話の内容は大凡匠から聞いた通りで特に目新しいものもなく、ユリは聞き流しながら、なんであんなに偉そうにするのかと了を見ていた。

「…以上の事から、検察側は被疑者に対し、強盗致死傷罪を問うものとします。」

 言い終わり、了が席に着くと、続いて弁護人と被疑者による罪状認否と確認事項が始まった。

 話を聞いても理解が出来ない、というのは後の言い訳で、ユリは話など聞かず、ひたすら了を見ていた。

 了は自分が話さない間は、真っ直ぐに弁護人や被疑者を見、正確に言うと睨み付け、資料をとっかえ引っ返しては、何かメモを取っていた。その姿は、三か月前、美術館で見ていた了とはまるで別人で、本当の了はここにいる了である事を、まざまざと見せ付けられているようだった。

「検事。」

 裁判官が突然了を呼んだので、ぼうっとしていたユリが驚いてビクついた。

「冒頭陳述をどうぞ。」

 裁判官の言葉に、了が立ち上がった。そして手ぶらで検察官席の前に立つと、机に腰をかけて被疑者を見ながら話し始める。

「では、一通り確認させてもらいたいと思います。

 女性とはどのような関係か、あなたの口からご説明願いたい。」

 了が言うと、被疑者は落ち着いた表情で「昔、お付き合いをしていました」と述べた。

 了の事ばかり気になっていたユリが、改めて被疑者を見ると、被疑者は女性のような華奢な風貌の、綺麗な顔立ちをした男だった。

 凡そ、女性を脅すようなタイプには見えない。声も透き通っていて、口元に湛えた微笑が、どことなく西洋の天使像を思わせた。

「どのくらい前にお知り合いに?」

「七年くらい前でしょうか。」

「どのように?」

「街で、彼女から声をかけられました。

 夜、友人と飲み歩いているうちに道に迷ってしまったので、駅まで案内して欲しいと。

 そこで意気投合して、彼女の友人と三人で食事を。

 結局朝まで飲み明かして、連絡先を交換して別れたのですが、後日彼女から会いたいと連絡を貰いました。

 その後も、彼女から連絡を貰って、何度か会う内に、親密に。」

 被疑者は淡々と、微笑を浮かべたまま語る。

「その後、彼女とのお付き合いはどのように?」

「どのように、と仰いますと?」

 不明瞭な質問に対しても、堂々と冷静に問い返す。

 弁護人は発言の多くを被疑者に任せているようで、余裕を見せていた。

 が、了も臆する様子もなく、淡々と質問を続けている。

「きちんと付き合おうという話が出てからは、度々結婚の話も出ていました。

 二人とも前向きに検討をしていましたが…。」

「『が』?」

「彼女が突然、別れを切り出して来たのです。」

「何故?」

「解りません。ただ『もう会えない』と繰り返すばかりで。

 一度は引き下がりましたが、どうしても納得出来ず、先日、彼女のアパートへ…。」

「ふぅん。

 あなた、彼女のアパートへ向かう前に、彼女に電話をしているそうですね。」

 了は後ろ手に資料を取り、ぺらりと捲った。見ずとも、どこに何を置いたか記憶しているような、自然な手つきだった。

「通話記録があります。携帯電話会社(キャリア)に確認しました。

 彼女も留守電にせず、きちんと電話を取っている。

 何を会話したか、大凡で結構、再現出来ますか?」

「はい。『今から会いたい。少しだけでいいから、話がしたい』と言ったと思います。

 そうしたら、彼女が『いいわよ』と。

 『家の前で待っているから』と言うと、彼女が電話を切って、暫くして、タクシーで彼女が帰宅しました。家の前で待っていた私にかの…。」

「まず、そこまでで結構。」

 話を続ける被疑者を、了が止めた。

「なるほど、あなたはあの日も今日のように冷静だった訳だ。

 それとも記憶力がいいだけですか?

 一字一句、寸分の誤りもなく、その通りの通話記録が残っています。

 彼女も用心深かったのでしょうね。携帯電話のボイスレコーダーにその時の記録が残っていました。」

「そうですか…。」

 被疑者が、少し溜め息交じりに答えた。

 その様子を見て、了が気だるそうに首を傾げた。

「さて、続きを伺いましょう。

 あなたはタクシーで帰宅した彼女と、彼女の住むアパートの前で会った。それから?」

「はい。

 彼女の部屋は一階で、彼女はちょっと待っててと言いながら鍵を開けて、家の中へ入れてくれました。

 その後、お茶を出されて、暫くは、話を。」

「なるほど。」

「なんでしたら、その時の会話も覚えている範囲でお話ししますか?」

 被疑者が言うと、了はにやりと笑った。

「そう言うのは結構。続きをどうぞ。」

 了に促され、被疑者が一瞬黙った。

 いつの間にか、被疑者の口元から微笑は消えていた。

「…はい。

 落ち着いて話をしていた筈です。少なくとも私はそれまで、落ち付いていました。

 話も途切れ途切れになり、やがて別れ話についての話になりました。

 そこで、何度も納得が行かないと繰り返す私に、彼女が怒ったのです。

 宥める私に彼女は刃物を取り出して突き付けて来て…。

 揉み合いになった後、気付くと、彼女が倒れていました。そのあと、鍵をかけていなかった玄関から警察官が何人か入って来て、取り押さえられました。」

「間違いありませんか?」

「ええ。」

 訊ねる了に、怪訝な顔をしつつ、被疑者が頷いた。

「有り難うございます。

 被疑者ではなく、弁護人。

 あなたの主張は、被疑者による家宅侵入はなかった。傷害は自己防衛だ、という事でよろしいですか?」

「間違いありません。先ほども申し上げましたが?」

 了よりだいぶ年上の弁護人が、了の態度にあからさまな苛立ちを見せ、答えた。了はそれを、面白そうに見つめている。

「有り難うございます。

 さて裁判官、ここで私に、この携帯電話を少し弄る許可を頂きたいのですが。」

 そう言って、了がパールピンク色の携帯電話を取り出した。

「これは、被害者女性の私物の携帯電話です。」

「証拠品としての届けがあるものですから、どうぞ。」

 先程から進行をしている裁判官が頷くと、了がスライド式携帯を操作し始めた。

「今から、ある音声を流します。

 これは、先程、開廷直前に警察の鑑識から届いた情報で、弁護人はご存じないものの筈です。私たちも、つい先程知ったばかりです。

 まず、こちら。」

 そう言って、了は法廷内のスピーカーに繋がったマイクに携帯を近付けた。

『…もしもし。』

『俺だ。今から会いたい。少しだけでいいから、話がしたい。』

『………。

 いいわよ。』

『家の前で待っているから。』

「これは、先程の証言にもあった、被疑者が被害者へかけた電話の通話内容です。

 次に…。」

 ――バン。

 ――カツ、カツ。カツ、カツ。

『久しぶりね。どうしたの?』

『………は………………。』

『そう。変な事しないなら、家に入れてあげるわ。』

『そ…な……………………………。』

『…わかったわ。』

 ――カツ、カツ、カ…。

『あぐっ!!』

 ――ガチャンッ。ガッ。カタタ…。

『…まったく…。』

 ――シャラ…。

 ――ズ…。

 ――チャリ。

『……………る部……すね…。』

 ――コツ、コツ。コツ、コツ。コツ、コツ。コツ、コツ。コツ…。

 ――ズズズ。ガチャ。キィ…。バタン。

 ――ゴトゴト。トン。ト、ト、ト、ト、ト。

 ――ドン。ザラ…。ガサッ。

『…レロッシェ…ム、エ…シ。』

 ――ト、ト、ト、ト、ト、ト…。

 ――…。

 ――……。

 ――………。

 ――…バタバタバタバタッ!

 ――ドンドンドンドン!

『こんばんわー。…警察です。どうかしましたかー? 入りますよー!』

 ――ギ…、キィ。バタン。

『…ッ…。』

『…これは、あなたが…?』

『ええ。そうです。』

『こ、拘束しろ。現行犯。』

『ハイ。』

「ご清聴有難うございます。」

 そう言って、了が携帯を片付けた。

「これは、この携帯端末のボイスレコーダーに記憶されていた音声です。

 録音日時は、事件当時。

 タクシーから下車後、被疑者に気が付いた被害者が、故意に録音したものだそうです。

 この音声からすると、あなたの証言とは随分状況が異なるようですが…?」

 弁護人や被疑者は、この録音に気付いていなかったのだろう。弁護人は呆然として、被疑者を見ていた。一方で、被疑者は涼しい顔をして、了を見ていた。

「被告人。これを、疑いますか?」

 了が問うと、被疑者は愚問とでも言うように笑った。

「いいえ。そんなものがあったんですね…。」

「気付かなかったと?」

「ええ。気付いてたら…、落ちた携帯を拾った後、彼女のカバンに戻したりなんかしませんよ。」

「…認めますか?」

「…認めざるを得ないでしょう?」

「…。」

 了と被疑者のやり取りに、弁護人はただ呆然と互いの顔を見比べていた。

 携帯電話は検察側の証拠品だ。弁護人がその詳細について知らなくても不思議はない。

 そして被疑者がこれに気付いていなかったのであれば、結果的にお粗末な虚偽証言をしても、やはり何ら不思議はない。

 ただ、ユリには気にかかる事があった。

 それは了の表情である。

 被疑者を見る了は、美術館で幾度となく浮かべた、あの笑みを浮かべている。

「以上です。」

 了がくるりと踵を返し、席に着くと、進行役の裁判官が立ち上がり、弁護人を見た。

 視線に気付いた弁護人が、進行役の裁判官の下へ歩み寄り、何やら小声で話を始める。暫くして、弁護人が席に戻ると、裁判官が立ち上がり、今度は中央にいる裁判長へ耳打ちをした。

 裁判長はうんと一つ頷き、

「弁護側からの要請により、本法廷を閉廷致します。

 検察側、弁護側には、後ほど明日以降について伝達をします。

 以上。」

 と言い、席を立った。

 看守が被疑者に手錠をかけ、法廷を出て行く。弁護人もがさつに書類を片付けそれに続き、了と女性も足早に退廷した。

 係官からの指示を受け、傍聴人もぞろぞろと出て行く。

 ユリとマミコは最後まで待って、法廷を出た。

 裁判所内の休憩スペースで、一息吐く事にし、自動販売機でコーヒーを買って、並んでベンチに座った。

 何が起きたのかは理解していたが、あまりに呆気なく閉廷してしまったので、二人とも少し面食らっていた。

 やがて、マミコが、

「やっぱゲームとは違うよね。」

 などと言って笑った。

「まぁ…。派手なものじゃないわよね、裁判って…。」

 ユリも苦笑した。

「ねえ、同期のナナコがこの間司法書士受かったって言ってたけど、こんな感じなのかな?」

「司法書士は弁護士とか検事とは違うわよ。裁判に出る事もないだろうし…。」

「えー、そっかー。」

 気楽な会話を意識してくれているのか、マミコがはしゃいだ。

 何故か気が重いので、正直マミコの態度は有り難い。

「ね、もう少し休んだら、歩いて東京駅まで行こうよ。早く終わったからまだ時間あるし!」

 そう言って、マミコがユリを覗き込み、「あ」と声を出して止まった。マミコは廊下の向こうをじっと見ている。ユリもその方を向くと、薄グレーのスーツの男性がポケットに手を突っ込んで歩いて来た。

 了だ。

 了はユリをマミコを見止め、ユリに向かって肩を竦めた。

「久しぶり。」

 ユリが声をかけると、マミコが驚いてユリを見た。

「知ってる人? さっきの検事さんでしょ?」

「うん。ちょっとね。」

「ええー。知り合いなら早く教えてよ!」

「ごめん。まさかここで会うと思わなかったんだもん。」

「んもう…。」

 何が不満なのか、マミコがむくれた。了はユリの目の前まで歩いて立ち止まると、マミコをちらりと見た後、ユリに視線を戻した。

 ユリも座ったまま了を見上げる。

 美術館で会った頃より、大分大人びて見えるのは、恐らく服装のせいだ。

 赤いベルトなどしていないし、髪型もきちんと整えていた。

 眠そうな目は変わらないが、若干痩せたように見える。

「このまま帰るのか?」

「うん。ああ、ちょっと遊んでからね。」

「そうか。」

 了はポケットに突っ込んでいた手を抜き、ユリに差し出した。

 ユリが手を添えると、その手の中に、何かをぽとりと落とす。

 それは、白い小さな箱だった。

「匠さんに渡してくれ。頼まれてたものだと言えば、通じるから。」

「…うん。夜になっちゃうわよ?」

「構わない。」

「わかったわ。」

 そう言って、ユリが箱をカバンに仕舞うと、了がネクタイを緩め、シャツのボタンまで外して服装を乱した。首元に、あのロケットがちらりと見えた。

 それを見て、ユリは心なしか安心する。ロケットをまだ身に付けてくれていた事もそうだが、服装を乱した事で、知っている了に戻った気がしたからだった。

「ん?」

 じっと見るユリに、了が首を傾げた。こんなところも、余り変わっていない。

「…ううん。」

 特に何を話す事もなかったが、久しぶりなのでついじっと見てしまう。

 そんな気持ちを汲んでか、了はふと微笑った。

「了!」

 廊下の向こうで、了を呼ぶ声がした。

 振り向くと、先程法廷で、了の隣にいた女性が小走りで近付いて来た。

「本部長が呼んでるの。すぐ戻って。」

 女性はそう言うなり、ユリに気付いて「あら」と言った。

 女性は暫しじっとユリを見た後、にこりと笑って、

「あなたがユリちゃんね。」

 と言った。

 「え…。はい。」と、ユリがおどおどと答えると、女性はちらりと了を見た後、

「了の秘書をしています、三笠と言います。よろしくね。」

 と言い、手を差し出した。

「あ…。」

 ユリは慌てて立ち上がり、ワンピースで手のひらを拭くと、三笠と名乗った女性の手を握った。

 別に汚れていた訳ではないが、三笠が余りに美しかったので、より綺麗にしたかったのだった。

 ほっそりとしつつメリハリのある体型に。長い手足、つるつるとした白い肌に、濃すぎず、地味過ぎないメイクを施した顔には、格好の良い鼻と、大きな目、小さな口が付いている。

 手も、汚れ仕事などと無縁と思えるほどに細くしなやかな指と、きめ細やかな肌をしており、少しゴツゴツした手のユリは、恥ずかしくなる。

「…初めまして…。」

 身を縮めて挨拶をするユリに、三笠がふふと笑った。笑顔すら、様になっている。

「ごめんなさいね。せっかく久しぶりに会えたんだから、ゆっくり出来ればいいのだけど、了も仕事が多くて。」

「いえ…。大丈夫です。」

「また遊びに来てね。」

「…はい。」

 凡そ場違いなセリフではあるが、突っ込むのすら躊躇うほど、今ユリの周りは三笠の空気で満たされている。

 三笠はユリから手を離すと、片手に持っていた書類を抱え直し、了を見た。

「行きましょ。」

「ああ。」

 了のやる気のない返事を聞き、三笠はユリにもう一度笑いかけると、「じゃあ」と言って歩き出した。

 了は、三笠を見た後、横目でユリを見、「近々、連絡する」とだけ言って、三笠のあとを追って歩き出した。

 三笠が一時止まって、了を振り返る。そして了と並んで歩き出した。

 何かが過ぎ去った後のような呆然とした様子で二人の背中を見送るユリに、マミコがにじり寄った。

「かっこいいわねぇ。検事と秘書カップルかぁ。」

 言われると、確かに並んで歩く姿は妙にバランスが取れている。距離も遠すぎず近すぎず、適度だ。弁えている大人、という印象を持つ。

 何を期待していた訳でもないが、奇妙な寂しさを覚えた。

「…いこっか。」

 ユリがマミコに言った。

「うん。お腹空いたね。」

「うん。空いた。」

 ゴミ箱に近いマミコが、ユリと自分のカップを棄て、笑いながら言った。

「お肉食べようー!」

「肉ー!」

 あっという間に気持ちを切り替えた二人は、鼻歌を歌うように裁判所を出た。

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