面影◆5
了が開けた扉の向こうは大きな書斎で、中にはずらりと並んだ似た顔の四人の男性たち、そして、先ほど会ったサヤという少女と、どこかで見た事のある初老の男性がいた。
初老の男性以外はみな何故か険しい顔で立っていて、それぞれ腰に手を当てたり、腕組をして仁王立ちだったりと、とにかく偉そうだった。よく見ると、知っている顔が一つだけあった。駆だ。即座にカナエが言っていた事を思い出した。
了には兄が四人いて、その四人はそれぞれ双子だと言っていた。だが、どうみても四人とも同じ顔だった。そしてその全員が、ユリと了を見ていた。
了がその中へ入り、ユリに通路を開ける。ユリは一歩部屋に入ると、視線に身を縮めた。居心地自体は最悪だった。
それを察したのか、駆たちはしまったという顔をして慌てて苦笑し、了に目配せをして出て行った。その中の一人がサヤの手を取ったので、その男性が”たるおじちゃん”だと思われた。
男性たちが出て行った後、了は書斎の奥のデスクに着いてこちらを見ている初老の男性を見た。男性が了に一つ頷くと、了はユリを見、何も言わずに出て行ってしまった。
背中で扉が閉まり、重い空気の中、初老の男性と対峙したユリは、全身を固まらせて男性をじっと見た。
男性はふと笑うと、デスクの前にある立派なソファセットを指差し、「お座りなさい」と言った。
ユリがおずおずと、男性を真正面に見るようにソファに腰を下ろすと、男性はユリに改めて微笑み、デスクの上で両手を組んだ。
「驚かせて済まないね、ユリさん。」
しゃがれた、穏やかで優しげな声に、ユリの緊張が一気に解れた。
「いっ、いえ…。」
ユリの家のワンフロア程あるかと思うほど広い書斎に、ユリの引き攣った声が響いた。慌てて肩を竦めると、男性はくしゃと笑い、背筋を少しだけ伸ばした。
「まずはご挨拶をしなければな。
了の父の、蕪木 一穂と言います。いつも息子がお世話になっています。」
「あ…っ、え…!?」
見覚えがあるはずだ。毎年必ず一度はテレビに顔が映るのだから…。
しかも、珍しい事に与野党に拘らずどの党からも一目置かれる政治家で、現在内閣において唯一、野党議員として法務大臣として席を置く。
「いえ…、あの…。」
正体が解り、解れた筈の緊張がまた体を固めてしまった。
「私のほうが、お世話になってばっかりで…。」
ユリが言うと、一穂はにこりと笑って「緊張しなくて大丈夫」と言った。
「何なら、敬語もやめてしまって構わないよ。」
「そんなっ…!」
政治家が偉いと思った事は一度もないが、目上の人ではある。無闇に普段使いの言葉で話すのは躊躇う。
「まぁ、とにかく、そう畏まらなくて大丈夫だから。言葉遣いも特に気にする必要はない。
私も気にしないで話をさせて貰う事にするよ。」
そう言って一穂は笑うと、「そうそう」と続けた。
「稜が懐いているそうだね。あれは親族には大丈夫だが、極度の顔見知りでね…。
初対面のユリさんに懐いたと聞いて、みな驚いているんだよ。
あれは駆の子なんだが、この歳になって出来た子なので、可愛がり過ぎたんだな。」
「え!? 駆さんの子?
了…さん、の子じゃ…?」
ユリの問いに、一穂は一瞬驚き、すぐに大笑いした。
「はっはっは!
あれには子供はいないよ。結婚もまだまだだろうなぁ。
うーん、そうか、呼び方に語弊があったのだろうな。
我が家の息子たちには、誰が始めたんだか、名前を二文字で呼ぶ習慣があるようでね。
駆なら”ける”、了なら”とお”…。」
「…あ…。”とお”、”る”、ちゃん…。」
「そうそう。そういう事だ。
生まれた時から了だけは泣かれなくてね、了もそれなりに可愛がっていたんだが何分子供の扱いに慣れていなくて、結局素っ気無いものだったんだが…。二年前に稜が大病を患ってね…。
今は完治しているが、それ以来、了までが猫可愛がりだよ。最近はやっと少しは厳しく出来るようになったがね。」
一穂が面白そうに笑った。
ユリは、あの了が…と言う不思議な感心をしながら、一穂を見つめた。
ここに来て見聞きした色々な事が、不思議な事としてユリの脳裏に入って来た。意外と言う感覚とは違うが、ユリの知る言葉の中に、それを表現する言葉がなかった。敢えて言うなら、『不思議』だ。
頬をやや紅潮させ、一穂を見つめるユリを見て、一穂が静かに笑いを収めた。
そして、「さて…」と言い、ユリから視線を外す。
「今日、わざわざここまでご足労いただいたのは、大切なお話があるからなんだ。」
「…お話…。」
「ユリさんが知るべきだと思うかどうかは、私たちにも解らない、私たちだけが知る話があってね…。
叔父さんの匠さんにはすでにお話をしているが、巧く説明が出来そうもないから、私たちから貴女に正確に伝えてやって欲しいと言われた。
そこで、ユリさんにここへお越しいただいた。」
事の経緯は、実に単純のようだ。
問題は、その内容だ。ユリが少し、緊張した。何を話されるのだろう。
「…ユリさん。ご親族については、どのくらい知っているのかな?」
一呼吸置いて切り出された話に、ユリは瞼を瞬いた。
「…親…族、ですか…?」
「ああ。」
親族…。
この話をするたび、誰にもに一度は驚かれるのだ。次いで、家庭の事情を心配される。
ユリにとって、余り口にしたくない話であった。
少し躊躇った後、しかし一穂は、既に何もかも知って話していると気付いたユリは、手短に説明をした。
「…両親の他は、叔父夫婦しか知りません。
小さい頃は、祖父母の事を訊ねた事がありましたけど、教えてはもらえませんでした。
でも、不便はなかったし、特に私も聞く事は…。」
両親も匠とカナエも、自分たちの両親や親戚の事は話したがらなかった。聞く必要がないほどに愛情を注いで貰ったし、ユリ自身もそれほど意識した事はない。
「そうか…。」
一穂は淡く笑うと、小刻みに何度か頷いて、デスクの上の手を組み直した。
「では、ご両親のお仕事も?」
「いえ。両親の仕事は、三ヶ月前の事件で、了さんから聞きました。
それまでは、全く知らなかったんですけど…。」
「具体的には、どの程度まで?」
「職業は理解しています。遺伝子研究と毒物研究をしていたと…。
ただ、どこに勤めていたかまでは解りません。」
ユリが答えると、一穂はまた頷いて、今度はふぅと溜め息を吐いた。
「ユリさんのご両親、芳生夫妻と私は、ちょっとした顔見知りでね…。」
「…え?」
「隠しても仕方がないので、すべてお話しするけれども。
そもそも、ユリさんのお母さんの奈津子さんのお父さん、つまりユリさんのお祖父さんと私は友人だったんだ。」
「……え…。」
「ユリさんのお祖父さんは、一六年前に既に亡くなっているが、名を熊耳 壮一郎と言って、今の与党である民党の第三五代目幹事長を務めた人だ。」
ユリはぽかんと口を開けたまま、動かなかった。
一穂は淡々と続ける。
「若い頃は、それは意欲的に政治活動を行う人でね、ライバル政党からも一目置かれるような人だった。今でも、立派な人だったと思うよ。
アジア、ユーラシア周辺国との貿易に熱心で、名はそれほど大きくはないが貴重な資源を有する小国との間にある今の貿易ラインの草案を作った、非常に優秀な政治家だった。
そして、ユリさんのお父さんと、叔父さんである匠さんのお父さん、つまり芳生のお祖父さん。
名を芳生 績。こちらは大変に腕の良い貿易商で、日本ではあまり聞かないが、アジア、ユーラシア圏を回る貿易商なら知らぬ者はいない、『オオヨシ・トレーディング・コーポレーション』の創設者の一人だ。
二〇年前に亡くなった。」
ユリの口は、益々閉じなくなる。
オオヨシ・トレーディング・コーポレーション。
企業としては、国内ではそれほど知名度は高くない。だが、国内流通に於いて一流海外ブランドの数社と独占契約をしていて、貿易会社としては高名だ。日本名は確か、『大芳貿易』と言ったか。
「この『大芳貿易』は、『大鳥純忠会』内の企業でね。他にも、このグループは国内外に企業や研究所、施設を多数持っている。三ヶ月前の純・美術館も、ここの持ち物だが…。
そのうちの一つに、ヒトにとって有害な毒物や化学物質、そのワクチン開発や、一般的な医薬品を研究、開発する研究所があってね。
『オオトリ・ケミカル』と言う企業で、研究職を志す者には、それなりに名の通った研究所なんだが。
ユリさんのご両親は、一時期そこに勤めていたんだ。
私の、紹介でね…。」
「え!?」
「ユリさん、政治には興味はないかな?」
一穂が少し悪戯っぽく笑った。
「い、いえっ! そんな事もないのですが…、なかなか…。」
無関心な訳ではないが、詳しいかと言われると全く詳しくない。
ユリが慌てると、一穂は予想通りと頷きながら、「気にする事はない」と言って話を続けた。
「私は以前、民党員だったんだ。政治家になってまだ間もない頃だ。まだ無名の頃だし、今でこそ名を知る国民も少なくないが、当時の事を知るのは、年寄りばかりなんじゃないかなぁ。
今の党に移籍をしたのは、了が生まれるか生まれないかという頃だから、三三年も前の話だな。」
「…そう…だったんですか…。」
「民党は、今ではあまり気にする者もいないが、大鳥とは強い繋がりのある政党でね、当時そこに在籍していた私は五年ほど、大鳥の傘下、関連企業や施設を回り、講演会や、票集めのための便宜を図る、そのための言わば工作員のような役割を勤めていた。まぁ、こう言うと大袈裟だが、要はパシリだな。
ただ、中途半端ながらも顔が利く身分ではあってね。
たまたま、施設回りに出た先が、大学との共同研究を始めていたところでね、協力者として当時学生さんだったご両親と顔見知ったんだ。ちょうど就職活動中で勤め先を探していると相談をくださったので、うちの一族が持っていた医療施設と大鳥が出資する研究所のオオトリ・ケミカルを紹介したんだ。
そのとき、研究内容的に大鳥の研究所の方が良いと仰ってね。数年後、大学院を卒業と同時にオオトリ・ケミカルに席を置く事になった…。
その後、季節のご挨拶くらいはする間柄ではあったんだが、徐々に減ってね…。あっという間に、完全にやり取りが途絶えてしまった。
私も今の党に異動してからこの方、ずっと幹部をやっていたし、ご両親が気を利かせて、やり取りを減らしてくれたのかも知れない…。私も、忙しさに感けてご両親の事も放ってしまってね…。」
ユリは、この時点でまだ、両親の仕事の話、という大雑把で極めて単純な話としてしか、一穂の話を聞いていなかった。だから、続いた一穂の言葉に、背筋が伸びた。
「それが七年前のある日、突然に連絡をくれてね…。」
「…七…年前…。」
一穂は解るだろうと言いたげな顔で、ユリを見た。ユリも勿論察しはついた。
「あの…事件の少し前だった。
誰に相談したらいいか解らず、私を頼ってくれたと言って…。早めに会いたいと言うので、ここへお呼びしたんだよ。
そこで、中東の小さな国で数年前に自殺して亡くなった王妃が、自分たちが原案したオリジナルの毒物を使って自殺した可能性が高いと言う話を聞いた。
この毒物の研究はオオトリ・ケミカルの極秘開発でね。資料がどこかから漏れたのではないかと言う心配をしていた。
漏れたと言う事であればオオトリ・ケミカルの信頼に係わる。この頃、主要医療施設で使用されている認証薬品の四割がオオトリ・ケミカル製でね…。今でこそこのシェア率は低下したが、当時はそれは影響力のある製薬研究所だった。
ご両親は、大鳥の法人に勤める人物と、件の毒物について調べに行くと言ってね。
ただ、もしそうだった場合、早急に国内でも調査をしなければならない筈だから、と、私にその役目を頼みに来たんだ。」
「それ…。」
「…シリングの、あの事件だよ。
今日本に来ている、クレアさんのお母さんの事件だね…。」
「……それで…。
どう、だったんですか…?
両親が作った、毒だったんですか…?」
「…。」
ユリの問いに、一穂が口をきゅっと噤んだ。ユリもそれを見て、はっとした。
そう、両親はそれを確かめる事無く、死んだのだ。
だが、事の真相はどうだったのだろう…。調べていないのだろうか。
ユリがじっと一穂を見つめていると、一穂は一つ、小さく頷いた。
「結果をまず言おう。
ご両親の予想通り、自殺に使われた毒物は、ご両親が原案の特殊な毒物だった。」
ユリが唇を噛んだ。
両親はあの事件に巻き込まれただけだと思っていた。
だが形はどうあれ、関ってしまっていたなんて…。
「だが、問題はご両親が想像していたより遥かに悪い様相を見せ始めていた。
特別調査室の原型とも言うべき内閣調査室と、公安の極秘捜査により、大鳥一派とシリングとの強い繋がりが見え、その中で大鳥が、シリングの国立研究所に膨大な量の極秘研究資料を流している事も判明した。
大鳥の研究には、国家が絡んでいるものも少なくなかった。
ただ、無闇に事を荒立てては、国内の混乱は火を見るより明らかだった。デリケートな問題だっただけに、事は慎重に進めていかなければならなかった。
当時の情勢は、今ほどには、正義を声高に掲げて必要悪を叩き潰すような行為が赦されるほど、立場や権力が均されたものではなかったからね…。良くも悪くも、知るべき人だけが知るべき事を知ればいい、という世の中だった。
だから、私と高遠で、国家を外側から見られ、且つ何者にも束縛されない組織の立ち上げを行ったんだ。それが、特別調査室だよ…。」
「…え…?
じ、じゃあ、特別調査室は…。」
「高遠が立案した捜査組織案を、練り直したものだ。大元には、大鳥一派を専門に捜査するという名目がある。勿論、今はだいぶ幅広く事件を取り扱っているが、根底にはまだ、大鳥と中東諸国との間にある裏取引を捜査するための組織という立場が残っている。」
ユリは、吸い込んだ息を吐き出せず、そのまま飲み込んだ。
了も…、知っているのだろうか…。
そんな思いを悟ったかのように、一穂が視線を落とした。
「了には、ユリさんのご両親の話をするときに、私の口から打ち明けた。だが、調査室に所属するそれ以外の面々はこの事実を知らない。
あの現場に了が居合わせたのは、私や高遠にとっては偶然に過ぎないが、結果として、パイプ役にもなれる了は調査室へ加わる事になり、この件の捜査は飛躍的に進む事になった。
親の私がこうして言うのは、あまり良い事ではないがね…。
ただ、大鳥の捜査がさらに進み、中東諸国との係わりを断ち切る事が出来れば、色々な事が丸く収まると考えている。
今起きているシリングの暴動も、了が追っている”男爵”の一件も、国内の大鳥の件も…。」
事は重大と言うより、ユリにとってはただ大き過ぎる事なだけだった。
そして、了をこの事件に巻き込んだ者たちの中に、両親がいる事…。結果論である事は解っているが、それでもユリには堪えた。
いつか、夢中でケーブルテレビのサイエンスドキュメンタリー番組を観ていた了の横顔を思い出す。
ユリの両親の研究は、了の人生を狂わせたのではないか…?
「ユリさんにこの話をしたのは、そろそろ、この件に関わるすべての事を終わらせる目処がたったから、なんだよ。」
「…終わるんですか…、何もかも…?」
本当に、終わるのか?
そのとき、了も解放されるのか…?
「好い方向に終わるかの保証は出来ない。だが、一連の件すべて、一つに収縮しつつあるのが現状でね。
良くも悪くも、終わりは近付いている。
そのとき、きっとユリさんもその場にいる事になる。
だから、何もかも知っておく必要があるんじゃないかと思ってね…。」
一穂はそう言って微笑むと、質問があればと訊ねた。
だが、今のユリには、話を噛み砕く時間が必要だったから、聞く事など何もなかった。
ユリが首を横に振ると、一穂は頷いて、「最後に」と続けた。
「いつでも、何でも訊ねてくれて構わない。
あなたには、その権利があるからね…。」
その言葉に、ユリはぼうっとして重たい頭を上下に振るのが、精一杯だった。