面影◆3
合計八冊のファイルを手に、資料室を出たのは、ここへ来てから約一時間後の事だった。
大半は、取り乱したユリが落ち着くために費やした時間だ。
残りのファイルを探し出して、八冊全てのファイルを脇に抱えた了がユリの背中を軽く叩き、調査室へ戻る事になった。
呼吸も精神も安定はしたが、大いに泣き崩れた顔は最悪だと、鏡を見ずとも解った。瞼が異様に重いのだ。顔も少し腫っている。廊下の温度のせいか、体も少し冷えていた。
見られたくなくて俯き気味に了のあとに続く。出かけると行っていたが、この顔はあまり人には見せたくない。だが、そんな事も言っていられないだろう。
行きも帰りも暗い地下の廊下を行き、少しエレベータを待って、どの階にも止まらず十三階へ戻る。
途中、エレベータの中で、「このあと」と了が言った。
「…うん。」
「ちょっと急用を思い出したから、十分くらい留守にするが、すぐに出かけるが…。」
「うん。」
「行けるか?」
了がユリの顔を見た。
「その顔じゃ、家の方が…。」
「う…、うん…。大丈夫。」
指摘されると、余計に恥ずかしい。両頬に手を添えて、ユリは眉を下げた。
そんなユリに、壁に凭れて眺めていた了がふと笑った。そして左手でふわりとユリの頭を撫で、流れるような手付きで親指を使って目元を撫でたあと、ユリの手を掴んで引き寄せた。
「…!?」
了は息を飲み込むユリを一瞬で抱き寄せると、ぐっと腕に力を入れた。
驚きと、すっかり冷えてしまった体に染み込むような了の温もりに、ユリはたじろぎながらも安堵していた。固まり切っていた体が解れて行くのが解る。
だが、それに反比例して高鳴る鼓動のせいで、別の緊張で固まってしまったユリが「誰か乗ってきたら…」と言いかけると、了は企み事が成功した子供のような満足げな声で呟いた。
「大丈夫。地下から出入りするエレベータは、機密上、どの階にも止まらない事になってる。」
「!」
なるほど。一階にも止まらなかったのは、そういう事だったのか。
「ただ、カメラは点いてるけどな。」
「えっっ!」
ユリが吃驚して体を離そうとしたので、了は悪戯っぽく腕にさらに力を入れて、ユリが動けないようにしてしまった。ついでに、見上げようとしたユリの頭を抑える。そしてそのまま、了は胸元にあるユリの鼻先まで唇を近付けた。
ユリが一層固まる。
何を期待して、ではない。このようなシチュエーションに慣れていないせいでもない。
ただ、抗えない何かを感じていた。
それが何かは、ユリ自身解らずにいる。
そんなユリを見透かしてか、ほんの少しだけ無言でいた了は、ユリの額に頬を付けて、囁いた。
「気にしなくていい。
何も気にする必要はない。
物事に偶然はないと思えばいい。総て決まっている事だと、今は思っていればいい。
そのうち必ず、自由になれるから…。」
言い聞かせるように、エレベータのモーター音に消されてしまいそうなほどに小さな囁きは、ユリの耳にすっと入り、体の隅々まで行き渡って行くようだった。
それはまるで魔法のような、不思議で、そしてとても懐かしい感じだった。
子守唄…。
そんな感じだ。
「…”自由”に…?」
「そう…。”自由”に、な。」
柵を感じた事はなかったかも知れない。しかし、ふと気になる事は何度もあった。
無意識になれない、と言う事は、つまり、”それ”に取り憑かれ、縛られているという事だ。
ユリも了も、”過去”に縛られている。そして、その”過去”が引き寄せた”現在”にも。
了は、ユリをそれから解き放つべく、走り続けている。ただ、それには同時に、了が解放される意味も含まれていなければならない。
時に息切れて立ち止まりながらも、了は一歩一歩確実に解放への道を探り、辿っている。
ただユリにはそれが、険しい道筋であるようにしか見えない。走るには余りに、困難な道。一つでも角を曲がってくれれば、少なくとも了は逃れる事が出来る。それにより、ユリも楽になれるかも知れない。
逃げであったとしても、了にはそれが必要なのではないかと思って来た。
そして、頑固として道から逸れようとしない了の中に破滅を感じるからこそ、ユリは自責の念に負け、脆く崩れ落ちてしまう。
本当に、いずれ辿り着く結末に、了を解放する術を見出せるのか…。
「了も、”自由”になれる…?」
ユリがゆっくり了を見上げた。頭を抑え付けていた手の力が抜けたからだ。
了と目が合った。
了は静かに微笑んでいた。いつだったろうか。美術館の館長室で、二人静かに語り合った時に見せた笑みを浮かべていた。
「なれるよ。」
「…本当…?」
「ああ。ユリが”自由”になれれば、俺も”自由”になれる。
だから何も心配しなくていい。
ユリはそこにいてくれれば、それでいい。」
”変わらず”そこにいる事。
それはとても難しい事だ。
だが、同時に大事な誰かの支えとなるなら、這い蹲ってでも意地を貫き通す必要のある事だ。
『大事な』…。
そうか。
大事なのか…。
目の前の、人が。
優しく微笑う、了が…。
出来るだろうか。頑張れるだろうか。
肩肘を張ってしまっては意味がない。”ユリ”で居続ける事。
心の変化に戸惑う事無く、芳生ユリでいる事。
沸々と込み上げる不安を感じつつ、やらねばならぬという覚悟も必要だと悟る。
ユリが小さく頷くと、了はにこりと笑ってユリの頭を撫で回した。同時にエレベータが止まる。
十三階へ着いたのだ。
扉が開く前に素早く了が体を離した。
そして颯爽と歩き出す。
何度も何度も見ている後姿。
まだ了の温もりの残る自分の体を包み込むように、ユリは腕で肩を抱いた。この温もりが消える事が不安だった。
後姿を追いかける。いつかもそうだった。一本道の廊下を行っているだけなのに、了の姿を見失うのが怖い。
あの時と、少し理由は違うかも知れない。だが、根本的に”失う”事が怖いのだ。
歩幅が違うから、少しずつ離れてしまう距離を、ユリが小走りで詰めながら歩く。
見失わないように…。
失わないように…。
意識をし過ぎて、息が上がる。やがて尽き当たりの調査室の前に辿り着いた頃には、小さくだがはぁはぁと息が切れていた。
了が不思議そうに首を傾げたが、特に何も言わずロックを解除してドアを開けた。
「おかえりぃ。」
それほど時間が経ったわけでもないのに、妙に懐かしく聞こえる高遠の声に出迎えられ、室内を見回す。高遠しかいないようだ。
「ちょっと色々頼み事をして出払ってるよん。」
「はい。」
深くは聞かず、了が返事をした。
その後ろで、少し目を腫らせているユリを見て、何か只ならぬ状況を悟った高遠が、にこりと微笑んだ。
「ユリちゃん、悪いんだけどコーヒー淹れてくれるかな? 三人分。」
気を紛らわそうとしてくれたのだろう。ユリは「はい」と素直に言い、準備を始めた。備えられたコーヒーメーカーの前に立ち、誰かが差し入れたのであろう挽いたコーヒーとフィルタをセットし、脇の浄水器で水を入れる。
「とーるちゃんは、ちょっと…。」
スイッチを入れると、後ろで高遠が了を呼んだ。了の足音が徐々に遠ざかり、ひそひそと話し声が聞こえ始める。だが、それもやがて、ゴボゴボとコーヒーメーカーが水を沸かす音で聞こえなくなった。
暫し手持ち無沙汰になり、窓辺に立って外を眺める。
今日は薄い雲がかかっているものの、陽も強く、暖かい。南向きのガラス越しに差し込む日光で、調査室も少し暑いくらいだ。視線を下ろすと、正門で立ち警備をする警備員の後姿が小さく見えた。庁舎を出入りする人人は、不思議と疎らな行列を成しているように見える。まるで蟻の巣付近の様だ。
検察庁舎前には、少し背の低い高等検察庁がある。その向こうには左手に警視庁、少し行った交差点を右手に、了のマンションがある。思えば、大層な場所にあるマンションである。
しかし、改めてじっくり見てみると、意識していたよりずっと多くの建物が建っているものだ。
じきに飽きるだろうが、未だユリの目には新鮮に映る。そのお陰で、コーヒーが出来上がるまで十分な時間潰しが出来た。
コーヒーメーカーが後ろで沸き上がった湯を吸い切ったと自己主張をし出した。ごーごーと大袈裟に最後の湯を吸い上げ切り、コーヒーも出来上がったようだ。
使い捨てのカップ三つを小さなトレーに置き、コーヒーを注ぐ。初日に渡部が、ここの人間は甘いものを飲まないからと言っていたが、念のためスティックシュガーとミルクも人数分乗せ、高遠の机に向かった。
近付くごとに、二人の会話が聞こえて来る。
「……が…うには、それほど大した……じゃないらしいんだけど、原…が解らないらしいの。」
「解らない?」
「うん。相変…らず…力では動……り出…るし、検…も応……はくれるらし…の。も……ん、…果は特に異……し。なの…、突然…識不明……る。」
「……。」
「医…も…を傾……たよ。」
「も…少し、様子見…必……しょうね。変に監視を……ると、墓穴を…り兼……い。」
「そう…ね。ああ、あと、と…るちゃ……頼まれてたミ………の事なんだけど…。」
そこで、了を見上げていた高遠がユリに視線を移した。
後半盗み聞きの様になっていたので、高遠と目が合うなり、ユリは緊張してしまった。そんなユリの内心など見透かしているのであろう高遠は、ユリににこりと笑うと、「ありがとう、ユリちゃん」と言った。
「いえ。」
了の横に立つと、了が高遠と自分の分のカップを手に取り、「さんきゅ」と手短に言った。その一言で、ユリもこの場を離れるよう言われている事を悟り、無言でソファに戻った。
静かに座り、一口、ブラックのまま口に含み、カップだけをテーブルに置く。全く要領を得ない、途切れ途切れに聞こえた二人の会話を反芻する。
『検…』。検査。
『…果』。結果。
『異……し』。異常なし。
『医…』。医者、或いは医師。
もしかして、クレアの事ではないかと思った。
『突然…識不明』。突然、意識不明…。
クレアが意識を失う時があるのか。
会話の内容からすると、大事には至らない様子だが…。
そして、どうやらその様態を、二人は怪しんでいるようだ。
『監視』という単語が、それを物語っている。
果たして、クレアの何を怪しんでいるのだろう…。
大まかな経緯しか耳にしていないユリには、丸で想像がつかない。
だが、そもそもクレアの事と特定出来る要素はない。
安易に決め付けては危険だ。特に自分の性格上、今は誰の事でもないと思っていた方が、事態をややこしくしなくて済みそうだ。
ユリはすぅと鼻で息を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら天井を仰いだ。
地下から戻って一息吐いて、漸く気分も元に戻った気がする。了にはまた大分迷惑をかけてしまった。ちらりと横目で了の背中を見る。いつもどおり姿勢のいい背中が見える。ポロシャツの上からでも解るほど、程よく鍛えられた背中は、見る限りではそれほど大きくないのに、身を預けるととても広く大きく感じる。
その背中がそこにあるだけで、ほっとする感覚は、他人には説明し難い。
両手で大事に支え持つカップを口元へ運ぶ。もう一口含み、舌の上で溜める。少し冷めて冷たくなったコーヒーは、甘みがなくなり、苦味が強くなっていた。残っている酸味と苦味が、呼吸のたびに鼻を通り、どことなく時間の経ったタバコの吸殻の臭いがする。
(おえ…。)
タバコの臭いが嫌なのではないが、こういう状態になったコーヒーは飲む気がなくなる。
ユリは静かにカップをテーブルに置くと、ソファの背凭れに凭れて首筋を擦った。ふと、親指の付け根に、生暖かい耳朶が触れる。その感触に、人知れぬ安らぎを感じて、ユリはさらに弛緩した。
「疲れたかい?」
突然、声がかかった。
声は高遠で、見ると了と高遠と揃って、ぐったりとしているユリを見て苦笑していた。
「あ、ごめんなさい…。」
慌てて座り直し、肩を窄めて見せると、高遠は優しく笑って、
「いいよ、無理をさせてしまっているようだからね。
とーるちゃん、急ぎの報告がなければ、予定の用事を済ませて、夜はゆっくりさせてあげて。」
と言った。
既に了解済みなのか、了も「はい」とすんなり返事をして「ああ。」と慌てた。
「十分ほど。科研に行ってきます。」
「黒崎くんのとこ?」
「はい。ちょっと…。詳しい事は、あとでまとめて。」
「はいはい。」
きょとんとしたものの高遠はそのまま出て行く了を見送った。
が、了は十分かからず戻って来た。そしてユリを見、「行くか。」と言った。
「う、うん。」
すごすごと立ち上がり、了に近付くと、了が高遠を見る。
「では、行って来ます。
明日、昼には戻れると思います。」
了が言うと、高遠がひらひらと手を振った。
入り口でユリを呼ぶ了に歩み寄りながら、ユリは高遠に振り返った。
肩越しでは、高遠が満面の笑みでユリに手を振っている。その人懐こい仕草に、ユリはいつぞやのようにまた手を振りそうになり手をびくつかせたのだが、今度は思いきってそのまま振り返してみた。
すると、事の他意外だったのか、高遠は一瞬驚いて、そして一層、笑顔を大きくしてみせたのだった。