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男爵は微笑う  作者: L→R
再会
13/48

再会◆12

 窓の外に目をやる。日が西へ傾く時間。部屋に差し込む日の光が、だいぶ軟らかくなった。

 そろそろ洗濯物を取り込んでもよい時間だろう。ベランダに出、のんびりと洗濯物を片付け、竿を仕舞う。窓辺の床に座って洗濯物を畳みながら、自然と顔が綻んだので、何かと思って我に返ると、無意識に鼻歌を歌っている事に気付いた。

 また歌ってしまった…。

 家にいても、鼻歌を歌う事などほとんどない。

 カナエがいるからという事もあるだろうが、何か別の理由に因るものだと言う事は、よく解る。

 何だろう…。

 胸がざわついた。

 胸の中が自分のものではないような、もやもやとした何かに包まれているようだ。

 気を紛らわせるために、わざと大きな音を立てて立ち上がり、バッグに洗濯物を詰め込む。ついでに洗ったタオル類をバスルームへ戻し、少し早いが夕食の準備を始める。音がないとまた歌を歌ってしまいそうだったので、テレビを点けた。いくつかチャンネルを回すが、下らない芸能ニュースばかりだった。もう少し待てば昔のドラマの再放送や子供向けのアニメが始まるが、どれにも興味はなかった。ケーブルテレビでも契約していないかと試しに回すと映ったので、クラシック音楽専用チャンネルに切り替えた。

 詳しい訳ではないが、クラシックは好きなのだ。元は父が好きだったからだが、 父に連れられてコンサートなどに出向くうち、自分でも進んで聴く様になった。小さな頃から、試験勉強や特別気を落ち着かせたいときは、クラシック音楽を聴く様にしている。

 テレビでは、先月行われた海外オーケストラのコンサート特集が放映されていた。

 数カ国の交響楽団による、日本公演の様子が流れていて、一団辺り一時間半ほどに編集されているようだった。

 手軽に観られそうだったのでそのまま流しながら、料理を進める。

 調理のスピードも曲のテンポにつられて早まったりゆっくりになったりしたが、それがいいアクセントになったのか、下準備の段階から何もかもが普段より格段に出来がよかった。

 二団体ほどのOAが終わったところで支度もすっかり終わってしまい、ユリはそのままソファに座って見続ける事にした。

 時折ちらりと窓の外を見ると、すっかり夜になっていて、街灯りがきらきらとしていた。

 了は十一時くらいになると言っていたから、まだ時間はたっぷりある。先に寝る事は考えていなかったので、テレビに集中する。

 番組も終盤に差し掛かり、ついに最後のドレスデン交響楽団のコンサートが始まった。喉が渇いたので紅茶を貰う事にし、一旦玄関に向かってチェーンを外したあと、ケトルで湯を沸かしながら、キッチンでコンサートを眺める。

 五曲ほど演奏が終ったところで、ゲストとして呼ばれた日本出身のピアニストが登場した。ピアニストは七十を超える老女だが、力強い演奏と、リストを弾かせたら右に出る者はいないと言われるほどに定番のリストの楽曲を多数持っている事が魅力で、まさに今からそのリストの楽曲を数曲ソロ演奏するのだった。

 ユリも、このピアニストは好きだった。常々コンサートには行きたいと思っていたが、チケットは発売と同時に即完売してしまう人気ぶりで、買えた例がなかった。

 老女が客に一礼をする。少し珍しいデザインの衣装を身に纏い、太ったその体を優雅に進めながらピアノ前に座る。

 一呼吸、二呼吸置いて指を鍵盤の上に静かに下ろすと、指を、体を躍らせる。

 ピアノの音につられ、ユリの気分も一喜一憂する。

 優しく、時に厳しいタッチはどの音を奏でても繊細で、聞えて来る音は耳に入った瞬間体中を駆け巡るような気がする。

 二曲目、三曲目と曲は続き、ほんの束の間、老女の囁きが終わり、最終曲、老女がその実力を世界に知らしめた、今や彼女の定番ともなっている曲『ラ・カンパネラ』の演奏が始まった。

 紅茶のティパックをゆらゆらと湯に潜らせていたユリの手が止まった。

 テレビやCDなどで何度も何度も耳にするが、その都度、この曲だけは手が止まる。

 不思議と聴き入り、思考まで止まってしまうのだ。音が優しいから静かに聴き入っているだけなのだが、終盤、心の中は怒涛の如く様々な感情が弾け、暴れる。こんなに情感を載せて演奏するピアニストを、少なくともユリは知らなかった。

 初めて彼女のラ・カンパネラを聴き終えた時など、呆然と立ち尽くし、膝が震えていたほどだった。涙が込み上げ、何か言葉を吐き出したくて堪らないくらいに、感情の制御が出来なくなっていた。

 その衝撃的な出会いから五年。ずっとファンだ。

 前半の静かで哀しげな音。時折叩くように奏でる高音の音の素晴らしさ。中盤前後で徐々に盛り上がる雰囲気と彼女が入れ込む情感の強さに引き込まれ、そして終盤。

 すべての感情を指先に乗せ、一見乱暴に、そして感情的に鍵盤を叩き、言葉のすべて、心のすべて、情景のすべてを乗せ、仕上げへと、正に雪崩れ込むように流れていく演奏に、ユリの息が詰まった。

 込み上げる感情は、言葉では表せない。ただそこに、この音があればいい。それだけで胸満たされるのだ。

 嵐の去る如く演奏が終わり、盛大な拍手によって老女が舞台から去る時になって、漸くユリの意識も戻った。気付けば涙が、頬ばかりか首まで伝って流れていた。

 はぁ、と重たい溜め息を吐くと、「何だお前…」と突然声をかけられた。

「!!」

 驚いて振り向くと、困惑気味な表情を浮かべて了が立っていた。

「え…、あれ!?」

 時計を見ると、十一時をすっかり過ぎてしまっている。一時間半のコンサートを四団体観て、さらに一時間ほど経ったのだ、当然といえば当然の時間なのだが、ユリにとってはあっという間に経過した時間だったので、戸惑いを覚える。

「あ、ごめん。おかえり。」

「ただいま…。」

 そう言いながら、未だ怪訝な顔でユリを見る了が、テレビをちらりと観た後、つかつかと棚に近付いて一枚のCDを取り出した。

 ユリに差し出すので受け取ると、数年前に開催された、あの老女のとある演奏会を収録したCDだった。

 了は着ていたジャケットを脱ぎ、ネクタイを解きながらソファに歩み寄り、再び始まった楽団の演奏を眺めながら話し始めた。

「俺もその人好きでさ。

 たまたま暇潰しに観に行ったコンサートが、その人のソロコンサートだった。

 その日からその人のコンサートは、時間があれば必ず行くくらい。

 それを知った、アメリカの楽団にいる友達が送ってくれたんだ。元々日本に輸入される量が少なくて、しかも今はもう廃盤になってて、手に入らないと思う。

 欲しければ、やる。」

「え、でも…。」

 乾きかけた頬の涙を拭きながらユリが言うと、了はジャケットとネクタイを丸めて持ち上げ、「聴きたくなったら生で聴きに行くし」と生意気な事を言って、隣の部屋へ行ってしまった。

 ユリはCDを裏返し表返しにくるくるやりながら暫く眺めたあと、せっかくなので貰う事にした。

 急いで夕飯の仕上げを始めると、了が戻ってきた。了は昨晩と同じ白いシャツに丈が短めのパンツスタイルで、凡そ昼間のスーツ姿とはかけ離れただらしなさ具合を漂わせていた。

「ご飯食べるでしょ?」

「うん。」

 ユリは返事を待たずにさっさと食器によそえるものから順に用意し、カウンターに並べていった。テレビから拍手と喝采が聞える。番組も終わったようだ。

 了は昨夜と同じ席に着いた。カウンターの短い辺の方で、廊下を背にする位置だ。そこが低位置なのだろう。

 ユリも食事をしていないので軽く自分の分も用意し、ベッドを背にする位置で、了と一つだけ椅子を空けて座った。大きなカウンターだが、それでも料理を並べると狭かった。

 ユリが「どうぞ」と言うと、「いただきます」と律儀に言って手を合わせ、了が食事を始めた。

 大飯食らいの腹を満たすのに十分な量か不安で暫く眺めるが、了は無言で次々と口に料理を運んで行くだけで、特に何も言わなかった。

「…どう…?」

 何か何でもいいので感想が欲しくて堪らず、ユリが声をかけると、了は「ん?」と一瞬顔を上げたあと、口に入れたものを租借し終えるまで待って、ふふんと笑った。

「さすがカナエさんだな。よく教育したもんだ。」

 その言葉に、ユリがむっとする。

「何よムカツク…。素直に美味しいって言ったら?」

 不貞腐れて言うと、了はくすくすと笑った後、

「旨い。」

 と素直に言った。

 ユリも素直ではないので、面と向かって素直に言われると、還って照れくさい。

 照れ隠しに、当然でしょうとも言いたげな顔でふんと笑い、食事を始めた。

 皿が半分ほど空くまで無言で食事を進めたが、夜中とは言え無言の食事も味気なく、ユリがCDをくれた友人について訊ねた事から、了の友人についての話になった。

「あんた、友達いたのね。」

「失敬な。」

「だって、その性格でよく友達出来るわよね…。」

「俺だって別に、誰彼構わず愛想が悪い訳じゃないぞ…。」

「しかも海外の楽団に入れるような、すごい人が友達なんて。」

「他にも活躍してるヤツはいるぞ。

 ただ、大体が大学が同じヤツだから、自然に法曹関係者になるけどな。」

「弁護士さんとか?」

「ああ。検事が一人と、弁護士が五人…。あとは海外で弁護士をやってるのが二人と、法律マネージメントをしてるのが三人、だったっけな。」

「…エリートじゃないの…。」

「そうでもないだろ。言うほど身入りがいい訳じゃないしな、この職業。

 目立ちはするが…。

 あとは交響楽団に入ったのが一人と、映画制作会社でCGをやってたり。」

「みんな了みたいな性格な訳?」

「…お前ホント失礼だな。」

「失礼はお互い様じゃない。

 みんなとは仲いいの?」

「ん? ああ、たまに集まって呑んだりはしてるけど。

 それぞれ忙しいしな。日本にいないヤツもいるし、年に一回とか、そのくらいのペースでしか会えないよ。でも、大学出てそろそろ十年、ずっとそんな付き合いだし、仲はいいんじゃないかな。」

「ふぅん。いいな。

 私はそういうのないのよね…。」

「性格悪いからだろ?」

「失礼ね。

 私はこんな自由に暮らしてるけど、大抵はみんな会社勤めだから、時間の余裕がないのよ。

 マミコくらいよ、私と時間合うの。あの子も自由だから。」

「この間、一緒に食事してた子か?」

「うん。今カナダに住み込みのバイトに行ってるの。」

「何でまた…。」

「そういうのが好きなの。半年くらい住み込みで国内国外で仕事したあと、日本で遊んで過ごすのよ。」

「羨ましい暮らしだね…。」

「大学の頃からそうだったのよ。自由奔放で。」

「同級なのか。」

「うん。入学した時からずっと仲良し。」

「へぇ。」

「他にもいて、仲良しグループ五人で遊んでたんだけど、段々みんな落ち着いて来ちゃって…。」

「残るは二人って訳だ。」

「…そう。」

 答えながら了の皿を見ると、いつの間にか綺麗に片付いていた。一方で、ユリの皿の上には、まだこんもりと食事が残っている。

「食べるの早くない…?」

「お前が遅いだけ。喋ってて食べてなかっただろ。」

「う…うん…。」

 指摘されると確かにそのとおりで、ユリが口篭った。そんなユリを横目に面白そうに見ながら、了が立ち上がってコーヒーを淹れ始めた。

「夜にカフェイン取ると、眠れなくなるわよ…。」

「お前は子供か。

 昨日も飲んだろうが。」

「夜中、目、覚めちゃったわ。」

「やっぱり子供だったか…。」

 残念そうな顔をする了を、ユリが睨んだ。了はお構いなしに手早く珈琲を淹れたマグカップをユリの手前に置き、自身は啜りながらソファへ歩き出した。

「もういいの? ご飯。」

「ん? ああ。ご馳走様。」

「はい。」

 などと妙に馴染んだやり取りをし、ユリもさっさと食事を済ませると、食器を洗い、カップを手にソファへ向かった。

 了は何故かパンツのポケットに手を突っ込み、ソファにだらしなく座りながら、点けっ放しにしていたテレビを眺めていた。チャンネルは変えたらしく、海外のサイエンスドキュメンタリー番組が流れていた。

 ユリはソファには腰掛けず、ソファとテーブルの間の了の足元に座って、テレビと了を見比べた。

 ユリの視線に気付いた了が、「ん?」と言いながら首を傾げた。

「こういうの好き?」

「好き。」

 間髪入れずに答えが返ってくる。余程好きなのだろう。

「天文学、量子力学、遺伝子工学に、宇宙開発。

 こういうのが好きだから、これ(ケーブルテレビ)契約したんだもの。」

「…男の子よね…。」

 ユリが悪気なく呟くと、了が苦笑した。

「”子”と来たか。」

「ああ、ごめん。別に悪い意味じゃなくて。」

「別にいいけど。

 法律関係の学科に入れなかったら、滑り止めで遺伝子工学の勉強が出来る大学受けてた。」

「そんなに好きなの…。」

「好きだね。面白いよ。

 検事になって、法曹も面白いとは思うけど、別の面白味だな。」

「…。」

 意気揚々と語る了を、ユリが無言で見つめた。

 了が笑って、「おかしい?」と訊ねる。

「ううん。違うの。」

 ユリが首を振った。

「意外な事ばっかりで。

 了。初めて会った時、そんなものに興味なさそうだったし、あんなに性格悪そうだったのに。」

「性格は余計だろ…。」

「余計だから驚いてるのよ。」

 そう言うと、ユリが溜め息を吐いた。

「…わかんなくなっちゃった…。」

「何が?」

「蕪木 了って人が。」

 珈琲を一口啜って、ソファに頬杖を突くと、了が笑った。

 そして、テレビに視線を戻すと、ユリにも聞き取り辛いくらい小さな声で呟いた。

「普通の人だよ、蕪木 了は…。」

 その声がとても寂しそうで、はっとしてユリが了を見上げると、穏やかな横顔が見えた。

 ただ、穏やかさの中に、声のとおり寂しそうな、憂いが見える。

 何か拙い事を言ってしまったかと焦ったが、訳も判らず謝罪したところで墓穴になりそうで、ユリはじっと了を見つめた。

 そして一言、「そうね」と呟くと、テレビを眺めた。

 了の好きなもの。

 不思議だ。それが何であれ、とても大事に思えて来る。

 それが、何であれ…。

 各々、ぼんやりと何かを考えながら、テレビを観続けた。言葉を交わす事も、何故か突然躊躇う様になり、だが、これと言ってこれ以上何か口にするような言葉も思いつかず、ユリが、足が冷たくなったのでソファに腰掛けた以外は身動ぎもせず、ただじっと二人で、宇宙の星星の映るテレビ画面を眺めた。

 部屋の明かりは元々少し暗く、テレビ画面は闇に美しい色の銀河が映るのみ。音声は、日本語字幕が付いているだけで英語のナレーションなので、うっかりしていると眠気を誘われてしまう。

 昼間大して疲れるような事をしていない筈のユリだったが、番組の中盤頃にはうつらうつらとし始めた。

「眠いならベッドに…。」

「ううん。駄目。今日はここで寝るって決めたの。了がベッドで寝なきゃ駄目。」

 必死に眠気と戦いながら言うユリに、了が苦笑した。

「何で?」

 何故かは何となく解っていた。が、敢えて訊ねなければならなかった。そうしないと、ユリはこのままソファで寝てしまう。さすがに今日は色々と出て回ったので、ユリを抱きかかえてベッドへ連れて行くのは無理そうだった。

「了、昨日ソファで寝たでしょ?

 絶対疲れてるでしょ。」

「疲れてないよ。」

「嘘。絶対疲れてる。

 それとも、今日も寝ないの? 遅くまで仕事する?」

「…いや、今日は何もしないけど…。」

「じゃあやっぱり、今日は了がベッドで寝なきゃ。」

「…。」

 了が溜め息を吐いた。眠いせいで頑固になっているのだろう。きっと何を言っても納得しないと思った了は、ユリに体を向けて、ソファの背凭れに頬杖を突いた。ユリは横向きに座って、ぐったりと背凭れに体重のすべてを預けている。よほど眠いのだろう。思わず、親戚の子供を思い出して笑いそうになった。

「じゃあ…。」

 了が、提案、という素振りでユリを指差した。

「ベッドで寝る。」

 了が言うと、ユリは満足げに何度も頷いた。が、「ただし…」と了が続けると、ユリの首が止まった。

「ユリもベッドで寝る事。」

「…え…。」

 ユリは驚いたが、体が寝に入っているため動かなかった。

 了のベッドはキングサイズなので、確かに二人で寝ても窮屈ではないだろう。だが…。

「狭くない…?」

 敢えてそう聞いてみる。

「お前が太ってなきゃな。」

「失礼ね…。」

 相変わらず体が動かないので、何を言われても実質無抵抗だ。

「お前そんな眠いの?」

「うん…。なんでだろ。昼間特に何もしなかったんだけど…。」

 背凭れに凭れたまま、顔だけ困惑するユリに、了が苦笑した。

「緊張して疲れが出たんだろ…。

 その分だと風呂も無理だな。」

「あ…、そうか、入ってなかった…。」

「どうする? がんばるか?」

「う…。」

 一日中家にいたから、それほど汗は掻いていない。が、人様のベッドを借りている以上、なるべく綺麗な状態で寝るのが良いのではと思う。

「がんばる…。」

 ユリが言うと、了が笑った。そして、手を出す。起き上がるのを手伝ってくれるようだ。その手を握ると、了は立ち上がって思い切りユリを引き上げた。

 いつかも、こんな風に立ち上がった気がする。

 勢いよく立ち上がったはいいが、足元はふらふらしていて覚束ない。

「…ありがと。」

 そう言いながらバスルームへ向かうと、「風呂で寝るなよ」と言われた。

「…大丈夫…。」

 そうは答えるが、自信がない。バスルームで服を脱ぎながら、シャワーだけにしようと決め、手早く支度をし、シャワーのお湯を頭からかけると、やっと意識がはっきりした。

 計算がだいぶ違ってしまったが、どうにか了はベッドで眠ってくれるようだ。一緒に寝るのは不本意だが、この状況で良からぬ事をするような人間でもないだろうという信用はある。

 問題なのは…。

「私の寝相よね…。」

 ゆっくり眠って貰う筈が、自分の蹴りで眠りを阻害したのでは意味がない。

 どうしよう…。

 髪を洗い終わり、体も一通り洗い、足元の泡や塵を湯で流してシャワーを止めると、少し寒くなった。

 そそくさとタオルで体を拭き、借りている部屋着を着直すと、髪の水気を拭きながら部屋へ戻る。

 一声かけると、了がバスルームへと向かう。

 ベッドに腰掛て、髪を拭き続ける。ユリが離れている間に、部屋はすっかり眠る準備をされていて、照明もほとんど落とされ、テレビのボリュームも小さくなっていた。

 何もないと言っていたが、ソファを見ると書類が数枚広がっていたので、仕事でもしていたのだろう。

 半乾きになった髪を、今度はタオルで撫でながら、ふぅと溜め息を吐く。

 さて、どう悪い寝相を抑えようか。やはりソファで…。

 などと考えながらタオルをカウンターの椅子にかけ、ベッドの窓側半分に横になってみた。

 シャワーで目が冴えた筈なのに、横になった途端、また眠気が襲って来た。

 聞き取れないほど小さなテレビの音声が、いい子守唄になっている。

 ユリは知らぬ間に、眠りに着いた。

 …が、ふと意識が浮き上がり、体が回転した。寝返りを打ったのだろう。はっとして目を開けると、目の前に了の横顔があった。

 ユリが息を呑む。

 了は眠っているようで、規則正しく胸を上下させながら、小さな寝息を立てている。

 仰向けだが、両手を腹の上で組み、見事なまでにこじんまりとしたスペースで寝ている。

 寝返りを打った自分の体はベッドのど真ん中よりやや窓側にあるが、相手との距離を考えるとこれでもスペースを取り過ぎな気がした。

 起こしてしまいそうだったので動く事はせず、そのまま了の横顔を眺める。

 昼間の生意気な顔も、ふと見せる笑顔も、年相応かそれ以上の大人の顔だが、寝顔は違う。

 照明が落ち、青白い月明かりが差し込む暗がりの中に見えるあどけない横顔は、可愛らしささえ帯びて、頬が緩む。

 護りたい。

 ふとユリの心を掠めたのは、そんな想いだった。

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