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男爵は微笑う  作者: L→R
再会
12/48

再会◆11

 翌朝。

 パタパタと足音に気を遣いながらも走り回る音で、ユリは目を醒ました。

 目脂がこびり付いた瞼をゆっくりと開けると、了が何やら慌てている。

 カウンターの椅子には、三ヶ月前に見たあの皮の鞄が乗せてあり、了自身は法廷で見た時とは違うスリーピースのスーツを着ていた。ただ、ジャケットは羽織っていないのと、時間がないのかネクタイもしていなかった。

 さらに目を擦って目脂を一通り剥がし、もぞもぞと動くと、了が気付いた。ベッドまで歩み寄って膝を付き、ユリを見る。

「じゃあ、出かけて来るから。

 何かあったら、カウンターの上にメモ置いておいたから、そこに連絡しろ。」

「うん…。」

 若干寝ぼけている上、何故か喉が枯れていて、声が巧く出なかった。

「一応、昼に一度連絡をするから。

 あと、食事は、来客拒否をしてあるから、なるべく自分で作ってくれ。どうしても駄目なら、その電話使っていい。一応何件か店の広告は置いておいた。」

「…ありがと。」

「家の中は好きに使っていいからな。」

 そう言うなり、了はさっさと立ち上がって鞄を持ち、小走りで部屋を出た。

 が、玄関でも何やらガタガタとやっているので、流石に気になり、ユリはタオルケットを頭に被ったまま玄関まで見送りに出た。

 玄関では、了が先程の鞄と違う鞄にジャケットを投げ置き、靴を履き終えていた。

 すぐさま慌ててドアを開けた了だが、はたと何か思い出したようで振り返った。そこにユリがいたので、ちょうどよかったようだ。

「俺が出たら、鍵をかける事。チェーンもな。誰が来ても絶対に開けない事。」

「はい。」

 先程より出て来た声で返事をすると、了は微笑んで「じゃ」と言いドアを大きく開けた。

 その時、ユリは思い付いて了を呼び止めた。

「了!」

「ん?」

 振り向いた了に、ユリは悪戯気に笑ったあと、飛び切りの笑顔で「いってらっしゃい」と言ってやる。

 了の驚く反応を期待しての事だったが…、意外にも了は素直に「いってきます」と言って行ってしまったのだった。

 少し拍子抜けしたユリは、不満そうに唇を尖らすと、玄関の鍵をかけ、チェーンもかけた。

 部屋に戻ると、カウンターは愚か、床も大分散らかっていた。

 それを見て、本当は、普段からこのくらいの部屋なのだろうと思う。

 ユリはくすくすと笑うと、すっかり醒めてしまった眠気が戻らないうちに顔を洗い、片付けを始めた。

 とは言え、他人の家だ。勝手にあれこれと触る訳にいかないので、物をまとめて脇に置くだけの作業だ。床はほとんど汚れていなかったが、念のため、埃だけ取っておいた。

 洗濯機を回し、部屋に戻ってシンクに置き去りにされたままのカップを洗う。洗濯物は、天気も好かったのでベランダに干した。時計を見ると、十一時を過ぎていた。冷蔵庫を開けると、無難な食材が綺麗に並べてあった。意外だったのは、若干使いかけのものがあった事だ。

(料理するのかしら…。)

 昨夜のミルクティの巧さを思い出す。見かけによらず、料理は巧いのかも知れない。

 キッチンは新品同様にぴかぴかだったので汚すのも偲びなく、ユリは豚肉と葉物を少しだけ拝借して、簡易的な冷しゃぶを用意した。カウンターに着き、食事を始める。腹も減っていなかったので、少しの量で満腹になってしまった。

 食後、一息吐いて片付けついでに紅茶を用意しようと立ち上がると、カウンター脇に置かれた電話の子機が鳴った。

 取っていいかどうか躊躇する。

「…どうしよう…。」

 そう言いながら、数えていた呼び鈴は次で十一回目が鳴る。思い切って出てみる。

「…はい。」

 慎重に出る。緊張しすぎて、声がほとんど出なかった。が、この緊張は、次の瞬間に、不要のものとなる。

『お、出たな。』

 了だった。

「…なんだ…。」

 思わず安堵の溜め息を漏らす。

『…?』

「なんでもない。お疲れ様。」

『おう。大丈夫か? 何か変わった事はないか?』

「ううん。大丈夫。あ、色々借りちゃった。」

『ああ、それは構わない。好きに使ってろ。何か食べたか?』

「うん。今食べ終わったところ。」

『そうか。夕方には戻れると思うから。』

「うん。」

『それから…。』

 了がそう言って、一瞬だけ黙った。

「うん?」

『三笠が、行くと思う。』

「ここに?」

『ああ。』

 何故だ?

 職場は一緒だし、ここから庁舎も近い。ここへ来るくらいなら、職場へ戻ればいいではないか…。

『三笠は鍵持ってるんで、玄関までは来る筈だ。』

「…え?」

 ユリの思考が止まった。

 …鍵を持っている…?

 その理由は、単純明快な気がする。

 ただの同僚に、自分の家の鍵など渡さない。

『でも、開けなくていいからな。出なくてもいい。居留守にしてくれ。』

 何故だ…?

 実は三笠は、ユリがここにいると知らなくて、それを知られたくないのか…?

 ただ、何故と問うていい事ではない気がする。

 ユリはやっと声を出し、「わかった」と答えると、やる事があるからと言って電話を切った。了もそれ以上の用はなかったようで、すんなりと了承した。

 子機をカウンターに置き、ふらふらとソファに歩き腰を下ろす。

 部屋を見回す。

 綺麗に片付けられている理由は、三笠が出入りしているなら納得が出来た。

 居た堪れなくなった。

 致し方ないとは言え、本当なら、ここにいない方がいいのだろうと思った。

 勘繰り過ぎなのだろうか…。こんな事を想像する事自体、無粋な事ではないか。

 仮に事実だとしても、了には了の暮らしがある。自分が何かを思ったり、況してや何か言う義務も権利もない。

 自分がここにいるのは、了の仕事のためだ。

 そうだ、そうなのだ…。

 ユリは、ゆっくりと鼻から息を吸い込んで、ゆっくりと口から吐き出した。

 自分が動揺すべき事ではない。ここにいるにも、出て行くにも、了の言葉を待てばいい。

 ユリは、どっと疲れた体をソファに横たえた。

 窓からは、空に近いというのに柔らかく心地好い陽が差し込む。少し窓を開けているので、時折風がふわりと入り込んで来る。

 ゴォと、飛行機が飛ぶ音がする。警視庁が近いから、パトカーの音も聴こえる。自宅でも、この辺りの物音はよく聴こえていた。だが、自宅よりは大分官庁区域に近いから、色々な音がよりはっきり聴こえる。

 一転、防音設備が整っているのか、隣の物音は全くしない。平日の昼間だから、いないのかも知れない。

 ぼうっと、静寂と遠くの雑踏に耳を傾ける。

 不意に、インターフォンが鳴った。驚いて、顔だけ上げる。そして、了の電話を思い出す。

『三笠が、行くと思う』。

 三笠か…?

 了に言われたとおり、じっと様子を伺う。なんだか物音を立ててしまいそうで、姿勢もそのままだ。

 二度、インターフォンが鳴った後、暫くして、ガチャガチャと音がした。鍵を開けているようだ。

 続いて、カチャリという音の直後、ガンという音とチャリという音が混ざって響いた。ドアをある程度の勢いで開けたのだろう。チェーンがかかっているので、勢いが余ったようだ。

 小さく、ふぅ、という溜め息が聞こえた。

 そして、ドアが閉まる音がし、そのまま物音がしなくなった。

 ユリは数秒、固まったまま様子を伺い、のそのそと起き上がった。

 本当にこれでよかったのか…。

 あの三笠に居留守をする事は、ユリには躊躇いがあった。が、了の言葉には従順に従う義務があるように思える。

 だから言うとおりにしたのだが、この先、この件が終わるまでは、三笠と何度も顔を合わせるだろう。どんな顔をすればいいのだろう。

 ソファに座り直し、肩を抱えて蹲った。真夏だと言うのに、体の末端が冷え切っていた。

 突然、室内のどこかでブルブルと何かが小刻みに震える音がした。床か、カウンターか、固い場所で固いものが震えている。一定時間を置いて、何度も何度も震える音を聴きながら、物音の方向を探る。そして、ベッド脇の小さなテーブルの上にある携帯電話を見てやっと、電話がかかってきている事に気付いた。

 慌てて携帯電話に駆け寄ると、了からかかって来ていた。急いで取ると、落としそうになった。

「…は、はいっ!」

『…?』

 若干切れた息と、裏返り気味の声に、電話口の了が首を傾げる気配がした。

『どうした?』

「あ、ううん。何でもない。ちょっと、ぼうっとしてて…。」

 心配そうに訊ねる了に、ユリは平静を装ってみせた。が、了にそんなものが通用する筈もない。了は暫く無言になったあと、溜め息を吐いた。

『まぁ、いい。後で聞く。

 三笠、来たか?』

 三笠の名で、心臓がどきりと波打った。

「う、うん。来た、みたい。

 顔見てないから、解らない…。」

『そうか。』

「ねえ…。」

『ん?』

「…。」

 聞きたい。何故、三笠の訪問を受けてはいけなかったのか。

 だが…。

「…ごめん…。なんでもない…。」

 …問えない。

『……。』

 了はユリの様子に少しだけ戸惑って、何か言おうと息を吸ったようだった。だが、了も了で何も言わなかった。

『…今日、少し遅くなるから、先に休んでていいから。』

「…うん…。わかった…。」

『それと…。』

「うん。」

『悪いんだが、適当に何か作っといてくれ。』

「…え…?」

 ユリは一瞬、言葉の意味を理解出来ず、直後に「ああ」と言った。

「晩ご飯?」

『そう。』

「いいけど…。」

『けど?』

 聞き返す了に、ユリは見えないのにつんとして、「文句言うでしょ」と言った。そんな表情を声で悟ったのか、了が鼻で笑った。

『不味かったら容赦ないな。』

「…いいわ。びっくりして声も出ないくらいの作ってやるんだから。」

 ユリがムキになると、了はふふと笑った。

『予定が変わって、夕方には帰れなくなった。多分、〇時回ると思う。』

「わかった。」

 ユリが返事をすると、電話は切れた。

 了は感付いていただろう。ユリが動揺している事に。だが、気を紛らわそうとしてくれたに違いない。

 ユリは、三笠の事を一時脇に置き、ゆっくり深呼吸をし、めいっぱい伸びをすると、早速食事の支度に取り掛かる事にした。手の混んでいない、しかし味もバランスもよく、そして夜中でもすっと食べられるもの。

 簡単なようだが、意外と手間のかかる料理が殆どだ。

 冷蔵庫を漁って食材を確認し、ユリは鼻歌を歌いながらベランダで揺れる洗濯物を見る。

 何だか変な気分だ。

 昨日来たばかりだと言うのに、ふと無意識にここが既に自分の家のような気になってしまう事がある。

 了に話したら、笑うだろうか。厭がるだろうか…。

 …きっと、笑うだろう。そんな気がする。

 だから言わない。

「大根があったから…。」

 ユリは独り言を呟く。

 大根があるなら、大根おろしがいいだろう。

 そんな事を考えると、自然に思考が料理へ傾く。

 きっと肉は欲しいはずだ。鶏腿肉があったから、少量をソテーしてみよう。生姜があったから、生姜で少し香りをつけてもいいかも知れない。

 人参と牛蒡があったから、きんぴらが作れそうだ。付け合せは、そのくらいで十分だろう。葉物が足りないから、適当に浅漬けでも作ろう。

 汁ものは、夜中だから要らないだろう…。

「なら、お米の支度はしとかないと…。」

 キッチンを見回すとカウンター脇に、炊飯器を見付けた。妙に小さいのは、用がないからだろう。流石に適度に使い古されていた。米はその隣に袋のまま置いてある。よくよく見ると、カウンターには珈琲や紅茶などの嗜好品やら、パスタなどの乾物やらが雑多に並んでいた。

 珈琲も紅茶も有名なブランド名が書かれた缶に入っている。パスタは既に袋から出してあるが、捩じれたものから幅広いものまで、ざっとみても八種類ほどが、それぞれ透明のパスタボトルに入って並んでいる。

「お米より、パスタの方がいいかしら…。」

 夜中だから、腹持ちがいいよりは手早く食べられるものの方がよさそうだ。

 ユリは先程頭の中で立てた献立をパスタを軸に置き換えた。

「鶏肉と生姜と、葉っぱを一緒に炒めて…。」

 大根おろしを乗せるだけなら手早く出来るし、下準備も要らないだろう。ただ、これだと若干ボリューム不足な気もする。

「うーん…。どれだけお腹空かせて帰って来るかよね…。」

 三ヶ月前、芳生家に食事に来た時の事を思い出す。あの時は、結構な量の飯を平らげていた。

「やっぱりお米の方がいいか。」

 どうせ、大量に食うのだろう…。

 時計を見るとそろそろ三時だった。そんなにあれこれ考え事をしていただろうか…。

 了が帰って来るのは十一時を過ぎるのだから、急いで支度をする事もない。取り敢えず葉物だけを準備する事にし、冷蔵庫から小松菜を取り出すと、昼間使った鍋で軽く茹でて塩を振り、置いておいた。

 序でにコンロ下などを覗き、調味料を家捜しする。棚の一つにまとめて並べられた調味料は、オリーブオイルから醤油、出汁など、適度に揃っていた。ただし、どれもユリが近所のスーパーで見かけるものとは違う。メーカーは聞いた事はあるが、高級百貨店や小洒落たショッピングモールの食料品売り場でしか見ないものだ。確か、長野の高原に本拠地を置く農業家が集まって作った団体だった。調味料のほか、ジャムやワインなども製造していて、ワインはフランスで賞を受賞している。

 ユリは棚を閉め、立ち上がって溜め息を吐いた。

 思考が三笠の元に戻って行く。

「…近所の独身のお兄ちゃんの世話してると思えばいいのよね…。」

 先程の結論の通り、自分が割り込んでいるのではなく、致し方ない事なのだから、割り切る必要がある。

 ベランダから、心地好い風が吹いた。窓を開け、外に出ると、洗濯物の間から景色を眺める。

 しかし何故、こんなに三笠が気になるのだろう…。

 きっと、自分が三笠の立場なら、とてつもなく厭な気分になるからだろうと思う。仕事とは言え、自分の相手の家に異性が寝泊りすれば、それは心地好い事ではない。況してや、居留守をせよなどと言われれば、腹を探りたくもなる。

 ユリは風に溜め息を乗せて吐いた。

 ふと、昨夜の了を思い出す。寝惚けた頭で少し恥ずかしい事を言った気がする。その自分を、了は優しく笑った。

 照れくさかったのを覚えている。

 優しく微笑まれる事がくすぐったくて、妙に心が揺れた。

 そう言えば、あの後一体どこで寝たのだろうか。

 起きた時、ユリはあのでかいベッドのど真ん中を陣取っていたから、恐らく了はベッドでは寝なかったはずだ。ソファだろうか。

 だとしたら、疲れているだろう…。

「今日は、逆でもいいわよね。」

 今日と言わず、ここにいなければならない限り、ソファで十分だった。

 だが、そう思ったところで、了が素直に頷く訳がない。何か策でも講じない限り、ユリがソファで寝る事は難しいと感じる。

 どんな策がよいか…。

 本やDVDを観ながら、寝落ちなどどうだろう…。だが、これを毎晩やっていたら、それはそれで怒られるかも知れない。

 寝床について真剣に悩むなど想定外であるが、ユリの中では了に対して引け目がある。せめて、一歩退けるところでは退いておきたい。

 了にこれ以上負担がかかっては、自分自身が耐えられないのだ。

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