再会◆10
映画のモチーフ(というかまんま)は『The Fall 落下の王国』という『ザ・セル』などを手がけたターセム・シンの映画です。
美しい映像と、可愛らしい少女カティンカ・アンタルーちゃんが絶品の映画です。
ガタン、と体が揺れて、目が覚めた。
目を開けると、知っているが見慣れない場所が、窓の外に見える。
もぞもぞと動くと、「起きたか」と了の声がした。
窓に寄りかかったままの体を起こし、きちんと座り直すと、改めて窓の外を見る。だが、何やら地下に入ってしまったようで、コンクリートの壁と、やけに高級な風貌の車ばかりの風景になってしまった。時折、コンクリート製の太い柱に『18』や『25』と言った数字が書かれている。どうやら、駐車場のようだ。
了は『29』という数字の書かれた柱と『30』と書かれた柱の間にある八つの駐車スペースに車を停めると、「着いた」と言ってエンジンを切り、さっさと降りてしまった。数字は、駐車エリアのようだ。
ユリも慌てて下りると、了はトランクからユリの鞄を取り出していた。
トランクを閉め車に鍵をかけると、鍵を持った手で「あっち」と前方を指差し、歩き出した。
「ここは…?」
後ろから追いながら問いかけると、了が振り向いてにやりと笑った。
「もうちょっとのお楽しみ。」
「?」
ユリは首を傾げながら了に着いて行く。
了が向かった先にはエレベータがあって、昇りのボタンが脇にあった。了がボタンを押す。
見回してみると、駐車場のコンクリート壁は、普段見る地下の雑多なものとは違い、照明に照らされて艶やかに光っていた。若干白い色をしていて、パイプなども見えない事から、利用者にかなり気を遣って作られた駐車場だという事が解る。
よくよく見ると、柱の数字はシンプルな額に入って、柱にかけられているようだった。
ポンと軽やかな音がして、エレベータの扉が開いた。
了が乗り込む。ユリも続いて階数ボタンを見るが、何故か『1』『B1』『B2』しかなかった。
「…?」
眉を顰めるユリの横で、当たり前のように了が『1』を押す。
扉が閉まってすぐにエレベータは動き、『B1』を通り越して『1』のところで扉が開く。
出ると、全面ガラス張りのフロアに出た。狭い中にやや金色かかった銀色の小さな扉の付いた箱が沢山並んでいる。小さなダイヤルと数字のプレートが付いているので、ポストだろうと思った。エレベータのある背後の壁も銀色で、左側にある角に自動ドアらしき扉がある。その脇には見慣れぬ機械がある。
細く、小さな筋があるので、どうやらカードを通すようだが、前面にパネルのようなものがあって、何か印が映っている。
了はポスト群の中の一つをチラリと覗きこみ、起用に狭い穴から幾つか封筒を取り出すと、真っ直ぐに機械に歩み寄って、カードを通してパネルを覗き込んだ。パネルに薄緑色のラインが一瞬過ぎり、ピ、という小さな電子音が鳴っると、銀色の扉が左右にスライドして開いた。
「先に入れ。」
言われて、先に扉を潜ると、中は検察庁のロビーなど比べ物にならないほど広々とした空間になっていて、シンプルながら高級感のある金色のランプが天井から何本も下がり、空間を煌々と照らしていた。右手には四人がけのソファセットがニセット並んで置かれていて、下には控え目な色合いの絨毯が敷かれている。ソファもテーブルも一見するとシンプルだが、気の遣われたデザインだ。観葉植物は青々と葉を広げ、人の導線を邪魔しないよう配置されている。
正面の奥にはエレベータが二基並んでいて、扉はポストなどと同じ銀色をしている。
左手にはカウンターがあって、男性が一人、立っていた。男性は俯いて手元の何かを弄っている。
ぼんやり突っ立っているユリの脇を、了が追い越してカウンターへと歩いて行った。ユリが着いて行くと、カウンターの男性がにこりと笑った。
「おかえりなさいませ、蕪木様。」
「ただいま。来客があるので、お知らせに来ました。」
「有難うございます。来客用カードはご入用ですか?」
「要りません。一人では出入りしませんので。」
「畏まりました。」
「ただ、彼女宛の来客は、すべて断って下さい。」
「承知致しました。」
無駄のない、簡単なやり取りをして男性に会釈をすると、了は奥にあるエレベータへ向かった。ユリも会釈をして、了を追いかけるために体の向きを変えたが、横に流れる視界の中、男性の後ろの壁に文字が見えた。歩きながら見、ユリは目を見開いた。
”LADYASH TOWER MANSION”…。
驚いて了の背中を見る。
レディアッシュタワーマンション。
了の住むマンションではないか…。
「…ちょっと…。」
ユリがやっと出した声で了を呼ぶと、了はエレベータのボタンを押しながらユリに振り返った。
「ここ…、あのマンションじゃない…。」
「そうだよ。俺が住んでたの忘れたか?」
「忘れてないわよ…! でも…、いいの?」
「何が?」
「…入っても…。」
「俺が入れてるんだから、いいんだろう。」
「え、まぁ、そうなんだけど…。」
しどろもどろに問うユリを面白そうに笑った後、了は真顔に戻って、
「ここしか安全な場所が思いつかなかったんだよ。」
と言った。エレベータのいるフロアを表示するディスプレイを見上げる。エレベータは最上階にいたようで、途中で止まる事無く下へと降りて来ている。
「庁舎に寝泊りさせる訳に行かないしな。ホテルは案外と人の出入りには無頓着だし。取り敢えず、俺んちにいて貰う事にした。」
エレベータが到着した。乗り込んだところで、了に鞄を持たせっぱなしだと気付き、「鞄、ごめん」と持とうとして「いいよ」と言われる。
了が『29』のボタンを押して、扉を閉めた。なるほど、駐車場の柱の数字は階数だったのだ。
「このマンション、意外と人の出入りには厳しくてね。
来客拒否をすると、インターフォンをカウンターに切り替えられて、居留守の応答をしてくれたり、勝手がいいんだ。入るには絶対にカードと網膜認証が必要だから、知らない人間は入れない。清掃も、基本的には住人が行う事になっているし、修繕の時くらいだな、その辺りが緩くなるのは。
明日は、俺があちこち行かなきゃいけないところがあって、ほとんど調査室にいられないのと、高遠さんも渡部も日下部も外出の用が入ってるんで、誰もユリを護衛出来ないから、一日俺んちにいて貰う事になってる。」
「え…。」
ユリが声を漏らすと「嫌か?」と了が振り返った。
そういう訳ではないので慌てて首を振る。
「そうじゃなくて…。」
「別に盗まれて困るものはないぞ。」
「盗まないわよ!」
ユリがムキになると、了が笑った。
「ここにいて貰った方が、俺が安心出来る。
連れて周る訳に行かないし、ここは、何かあればすぐに対応してくれるから。」
よほど、管理会社を信用しているようだ。
「その方がいいなら、それでいいけど…。」
そう言いながら、ユリは壁に凭れ、ふふと笑った。三ヶ月前のあの日から、気になっていたのだ。
了も、傍目でその様子を見、ユリに悟られぬよう満足げに息を吸い込んだ。
エレベータはあっという間にニ九階に着き、ポンと音を鳴らしながら扉が開いた。
エレベータ前は少し長い廊下になっていて、すぐに開けた空間に出る。真四角の空間の中央には大きな葉の観葉植物があり、エレベータの左右に二つずつ扉がある。玄関だろう。と言う事は、やはりいつぞや見たチラシどおり、一フロアに四世帯が入っているようだ。扉はそれぞれ少し窪んだ壁の奥にあって、玄関から隣の玄関を覗く事は出来ない。
了は左手の二つのうちの右側の扉に立って、ジーンズのポケットから鍵の束を取り出すと、一つ選んで鍵穴に差し込んだ。ガチャリとやや重たい音がして、扉が開いた。了がその扉を大きく開けて、先に入った。
ユリが続くと、鞄を置いた了が振り向いて鍵とチェーンをかけた。
そして、「どうぞ」と言って素早く靴を脱ぎ、さっさと行ってしまう。
「お邪魔します…。」
ユリは小声で言うと、きょろきょろしながら靴を脱いだ。
玄関は広々としていて、真っ白い壁に濃いこげ茶の家具がよく映えている。大きな鏡と添え付けのシューズボックスがあり、上は小さなカウンターのようになっているが、灰皿のような銀色の小さな器があるだけで、物はほとんど置かれていない。靴は何足か出ているが、恐らくきちんとしまわれているのだろう、散らかっている印象は皆無だ。
シューズボックスの脇には、見慣れぬ道具が並べて壁に立てかけてあった。
黒いボディプロテクターのようなものと、硬そうな帽子、先に針金のようなもので作ったケバケバとした毛玉のついた細長いもの、そして、ブーツにグローブだ。
微かにケモノの臭いがしたので、はたと思い出した。
(乗馬道具か…。)
よく見ると、ブーツのつま先に少しだけ泥が付いていた。
靴を脱ぎ、自分のを整える序でに了の靴も整え、廊下を進む。廊下は五メートルほどだが、ユリの家よりずっと長くて広い。左の壁沿いに引き戸が一つと扉が二つ。引き戸は恐らくバスルームだろう。扉のどちらかはトイレかと思った。右沿いの壁には扉が一つで、少しだけ開いていた。中は真っ暗だったが、廊下から差し込む光が届く範囲は薄ぼんやりと見る事が出来た。スーツが何着かと、大きなスーツケースが見える。クローゼット代わりに使っているのだろうか。
さらに進むと、突き当たりに縦長の窓のついた扉があり、中へ入ると、ユリの家の一フロアよりも広い部屋に出た。
右手に大きな窓があり、中央付近にこれまた大きなベッドがある。目隠しか、薄手のレースのような布が天井から垂れ下がっている。部屋の角にはソファと小さなテーブル、大きなテレビがある。左手にはバーのようなカウンターがあり、その奥はキッチンのようになっていた。
この部屋だけを単純に例えるなら、ミニキッチン付きワンルームなのだが、何もかもが大きかった。冷蔵庫すらユリの家のものと同じくらいの大きさがある。
ただ、確かに面積は広いのだが、それを助長しているのは紛れもなく、家具や生活雑貨の少なさだ。
必要最低限のものしかない、という印象だ。
しかも、男性臭さは皆無だ。
「綺麗だけど…、随分殺風景ね…。」
ユリが言うと、了が鼻で笑った。
「必要ないからな。家には寝に帰って来てるだけみたいなもんだし。」
了の手元で、ぱちんと何かが弾けた。目をやると、電気ケトルが沸騰したようだった。了は大き目のマグカップを二つ食器棚から出すと、珈琲のドリッパーと、有名な海外ブランドの紅茶のティパック缶を両手に持って、ユリに見せた。どちらがいいか、という事のようだ。
「…紅茶…。」
と言うと、了が片方のカップに珈琲を、もう片方に紅茶をセットして湯を注いだ。
手持ち無沙汰で、ユリは窓に歩み寄った。窓には薄手のカーテンだけがかかって、厚手のカーテンは脇に寄せられたままだった。ニ九階の高さでは、滅多な事では家の中を覗かれたりはしないのだろうから、開けっ放しでも問題なさそうだった。
窓の外は、眼下で夜景がキラキラと煌いていた。
「少しだったら、出てもいいぞ。」
了が背後で言った。
「ほんと?」
言いながら、ユリは窓の鍵を開け、ベランダに出た。ベランダも広々として、こまめに掃除をしているのか、綺麗だった。窓の脇にベランダ用の外履きがあったので拝借し、出る。
びゅっと一瞬強い風が吹いた。
ユリは身構えて目を瞑ったが、その拍子にバランスを崩してしまった。後ろによろめくと、背中に温かな板のようなものが触れた。振り返ると、両手にカップを持った了が立っていた。
「ん。」
と言って、了がカップを差し出した。ほんのり、紅茶の香りがしてくる。白濁色だったので、ミルクを入れてくれたのだろう。
「ありがと。」
そう言って口に含むと、甘いダージリンとミルクの味が口いっぱいに広がった。濃いダージリンとミルクの配分は完璧と言っていい。大袈裟だが、今まで飲んだ中で、一番美味しいミルクティかも知れないと思った。
ユリは外側の窓に凭れて、了は内側の窓に凭れて、暫し無言で夜景を眺めた。
「…いい暮らししてるじゃない…。」
つんとして言うと、了が笑った。
「眺める暇もないよ。」
「そんな忙しいの?」
「…忙しいというか…。」
「心の余裕がね…」と言って、了が珈琲を啜った。
「今、こんな景色だっけ、と思ってる。」
そう呟いて、了が笑った。
ユリはその様子を見て、複雑な心境になった。
元はと言えば、ユリの事件を追うために検事になったのだ。理由はそれだけではないかも知れないが、その一端にユリの事件がある以上、妙な話だが、責任を感じる。
だがそんな事を口にすれば、絶対了に怒られるだろう。だから言わない。
その代わり、一緒にいる間は、楽しくなるようにしようと思う。
「検事さんって、お給料いいんだ?」
「そんな良くないな。刑事ん時よりはまだマシだが。」
「そんな良くない人は、こんなとこ住めないでしょ!
ここ、チラシだと、最下階でも月の家賃三〇万って書いてあったもん!
三〇万よ!? フツーのサラリーマンの一ヶ月のお給料よ!」
ユリが若干興奮すると、了がにやりと笑った。
「俺、ここのオーナーと知り合いなの。だから格安で借りてる。
月十万くらいかな…。」
「は!?」
ユリが食いかかった。夜中なので、一応声は殺したのだが、お蔭で妙な声になってしまった。
了は、ユリの反応に含み笑いをしながら、またカップに口をつけた。
「その家賃だろ?
いくら金持ちって言ったって、そこまで金額出すくらいなら、別の場所に買っちゃった方が得だからな。賃貸契約も順調には行かなかったんだよ。
その上、立地はいいけど地代が高くて、生活に必要な施設が作れないから近くにないしな。
住むには向いてないんだ。
匠さんのビルみたいに、事務所兼自宅にしても、あのくらいの規模のビルじゃないと割に合わない。
地代が高いから、賃貸にしても分譲にしても、採算が合わないんだ。」
「じゃあ、何で建てたの?」
「広告のためだよ。
ここの建設会社と、管理会社のね。景気よく見せたいんだ。
ま、実際、ここの住人の中には、本当に正規の賃貸料払ってる住人もいるから、大きな声じゃ言えないが。」
「何その美味しい話…。」
ユリが呆れると、また風が吹いた。空には月が見えるが、少し雲がかかっている。風の所為か、体も少し冷えて来た。沸かしたての湯で作ったミルクティも、あっという間に冷めている。
「入るか。風邪ひく。」
「うん。」
そう言って部屋に入ると、外履きを元に戻し、窓を閉めて振り返ると、了が廊下に出て行こうとしていた。
「風呂、入るよな?」
「え、あ、うん。借り…ます。」
ユリが答えると、了が手招きをした。
着いて行くと、了は廊下の引き戸を開けて中に入って行く。中を覗くと、これまた綺麗に整頓されたバスルームだった。大きな洗面台もあるが、鏡も台もぴかぴかに磨かれている。
「何であんたんち、こんなに綺麗なの?」
「ほとんど家にいないからだろ。」
ユリの問いにそう答えながら、了は一頻りバスルームの説明をした。
「洗濯は、したければ明日すればいい。俺いないし。」
「うん。」
「あと、着替え持って来たよな…?」
「うん。…あ。」
ユリが止まった。着替えは確かにあるが、日中の心配しかしていなかった。部屋着の代わりになりそうなものはあるから、あれで凌ぐか…。などと考えていると、了が向かいのクローゼット代わりにしている様子の部屋から、Tシャツと短めのパンツを持って来た。袋に入っているので、新品のようだ。
「ん。」
「ありがと。ごめん。」
「ま、あとは適当に使って構わないから。」
「うん。ありがとう。」
ユリが礼を言うと、了は静かに戸を閉めて部屋に戻った。
ユリは念のため引き戸の鍵を閉め、服を脱ぎ始める。別に何を意識している訳ではないのだが、つい音を潜めてしまう。脱ぎ終わった服を丁寧に畳んで、バスルームに入り戸を閉めると、むわんと湯気が体を包んだ。湯も張ってくれたようだ。
他人の家に泊まるなど、ここ数年しなかったので、妙な緊張をしていた。
取り敢えずシャワーで体を流し、持って来たソープ類で一通りを洗うと、やっと緊張が解れた。
改めて見回すと、ユリの家の倍の広さがある。
何もかもが大きい。
泡がすべて流れたのを確認して、湯船を見つめた。何となく、浸かるのを躊躇う。了を嫌悪しているとかそういう事ではなく、綺麗過ぎて汚してしまうのが嫌なのだ。
が、そんな事を考えても仕方ないので、思い切って浸かる事にした。
(お風呂が大きいと、落ち着かないものね…。)
そんな事を思いながら、内心満更でもなく、手足をうんと伸ばした。
どこもかしこも綺麗なのは不自然だ。
きっと、ユリが来るからと気を遣ってくれたに違いない。
湯船の縁に顎を乗せ、天井を見上げる。湯気で曇った天井には、四角いお洒落なランプがぶら下がっている。
まさかここへ来て、こんなにあれこれと了のプライベートを見るとは思わなかった。
三ヶ月ぶりに再会して、一週間経たぬうちの今日だ。
スパンとしては決して長くはないが、再会まで、偉く時間がかかったという気分だった。
それほど会いたかったのか、印象的だったのかは解らない。もう少し再会までに時間がかかっていたら、大して何とも思わなかったかも知れない。
ちょうど、会いたくなる時期なのだ。
きっと。
ユリは静かに立ち上がり、用意して貰ったタオルを手に取った。タオルはふかふかで、柔らかかった。これも、新しいものに違いない。
申し訳なさしか出て来ない。もっと雑多に扱われていたら、気分も楽だっただろうか。
否、違う。雑多だったら、今頃心が折れていたに違いない。
そんな事も見越されているようで、三ヶ月前に匠に言われた一言を思い出す。
――そのうち蕪木クンに頭が上がらなくなる。
その通りだった。
体の水気を取って、渡されたシャツとパンツを身に付ける。流石にこれらは自分のものらしく、サイズはかなり大きい。こんな大きな体だったかと思う程だ。パンツは長すぎるので、三回ほど折ってショートパンツの丈にした。
髪がまだ濡れているのでタオルは持って行く事にして、脱いだ着替えを丸めて鞄に入れると、部屋に戻る。
部屋では了が、カウンターに書類を広げているところだった。
「お借りしました。」
と言うと、了は「はいはい」と言いながらユリにカップを差し出した。手に取って覗くと、少し黄色い、温い液体が入っていた。柑橘類の皮のようなものが浮いている。飲むと、甘い柚子の香りがした。
「適当にその辺座っていいぞ。眠いなら寝てもいいし。」
了は資料をこれでもかと広げて、ユリを見ずに言った。
言われると眠いのだが、もう少し話がしたかったので、ユリはカウンターの空いている席に腰をかけた。
「腹減ってるなら何か用意するぞ?」
「ううん。いい。あんまり空いてない。
これから仕事するの?」
「ああ。明日までに目を通さないといけないからな。」
時計を見ると、もう夜中の一時を過ぎていた。広げている資料は膨大だ。これにすべて目を通すのに、ユリなら確実に丸一日かかる。
「…邪魔?」
「いいや。」
そうは言うが、了はユリを見ない。すでに仕事モードのようだ。傍にいないほうが、いいだろう。
「…寝るね。」
そう言うと、了がやっとユリを見て、ベッドを指差した。
「使っていいぞ。」
「え、でも…。」
「俺は適当にその辺で寝るから。」
了が手元に視線を戻しながら言う。
「…。」
様子から、どうせ、これ以上何を言ってもベッドで寝ろと言うに違いないと思った。
ユリは素直にベッドに向かうと、ゆっくりと腰を下ろした。
自慢ではないが、男友達は皆無だ。
彼氏が出来た事はあるが、実は高校まではずっと女子高だったから、ほとんど男性と交流を持った事もない。
だから、飽く迄も聞いた話や作り話でしか知識がないが、男性のベッドはもっと乱雑に荒れているものだと思っていた。仮令今回のように来客があって、少しは整頓したにしても、限界というものがあろう。
そんな事を思ってしまうほど、了のベッドは綺麗だった。
腰を下ろした事で出来てしまったシーツの皺がとても気になる。
誰かに頼まないと、ここまで綺麗には出来ないのではないだろうか。そう思うと、ヘルパーのような者がいるのかもしれない。
ただ、訊ねるのは憚られ、ユリはもう一口柚子茶を飲むと、きょろきょろと部屋を見回した。
「電気消したいなら、ベッドの上にリモコンあるから消していいぞ。退屈ならテレビ点けるなり、DVD観るなり好きにしてていいから。」
了は相変わらず、こちらを見ずに言う。
確かに退屈はしていたので、ユリはテレビの横にあるクラシカルなデザインの背の低い本棚に歩み寄った。ハードカバーの書籍が何冊かと、洋画を中心としたDVDが何本か。あとは参考書や、六法全書のような法律関連の分厚い本が並んでいる。ところどころ空洞になっているが、ソファの上や、了のいるカウンター上にちらほら本が見える事から、それらが入っていたのだろうと思う。
ユリは並ぶDVDを左から順番になぞって行った。
DVDは三〇本ほどあるだろうか。聞いた事がある有名な映画から、全く聞いた事のない海外ドラマまであり、ジャンルも比較的幅広く揃っている。
その中で、昔マミコが面白いと騒いでいた映画を見付けた。
『落ちる王国』と言う、何かにつけて落ちる描写がある映画だと言っていた。こう言ってしまうと身も蓋もないのだが、ロケ地がすべて世界遺産であり、元々自然光の取り入れ方に定評のある映画監督で、映像レベルの高さは申し分ないという事だ。ストーリーは一見在り来たりな冒険物だが、ちょっと変わっているらしい。
ユリはこのDVDに決めて、テレビの下にしゃがみ込むと、DVDをセットして再生ボタンを押した。
ベッドに戻って、少し考え…、拓き直って寛ぐ事にした。
大きくて弾力性があり、尚且つふわりとしているクッションや枕の位置を少し変えて、よっかかって座って脚まで伸ばす。
ベッドは、ユリ独りでは大きすぎ、贅沢すぎる。
ちらりと了を見ると、赤ペンを片手に資料を嘗め回していた。ユリはまずテレビの音量を小さくし、部屋の電気も消した。
了の手元は、カウンターに置いてある球体の間接照明がオレンジ色に照らしている。
一方でテレビから漏れる青い光が、暗闇の中で踊る。
ユリが入浴している間に締めたのであろうカーテンは、外の光の一切を遮光して、部屋の中は完全に闇と青とオレンジの光だけの空間になった。
DVDは配給会社のフライヤーから始まって、同時期発売のDVDのプロモーションや、注意書きが素早く流れた。その後、ふと暗転して、白い字幕が浮かび上がる。
『お話を聞かせてあげるよ。』
『聞かせて!』
『でも、交換条件がある。』
『なぁに?』
『一階の薬置き場にある茶色い小瓶を取ってきて欲しいんだ。夜、眠れなくてね。』
『お話聞き終わってからでいいでしょ?』
『ああ、いいさ。』
『いいわ。約束ね!』
『ありがとう。では、始めよう。これは、とある騎士と、王女と、少女の物語だ…。』
小さな声で、男性と少女の声が聞こえる。
映画は、売れない俳優をしている男性が、映画の撮影中に落下事故で両足に回復見込みのない重傷を負い、搬送先の病院で少女と出会ったところから始まる。何気ない日常のシーンが延々続くのだが、不思議とユリは映画に釘付けになった。
外見はいいがどこかぱっとしない主人公の男性と、あっという間に仲良くなった人懐こい可愛らしい少女の友情と、男性が時折見せる絶望の眼差し、純粋なまでに男性を信じる少女の明るさの対比が、心の中をぐつぐつと煮出すのだ。
だが、面白いのだが眠気も襲って来た。話の流れからすると、あと半分くらいだろうか。そう思いつつ、知らず知らず抱きかかえたクッションに蹲って、必死に眠気と戦う。
ストーリーの奥底に渦巻く感情はとてつもなく激しいのに、映像は優雅で優美でなだらかで。その映像に、眠気を誘う効果がありそうだ。
観たい。観たい…。
そう思い、しょぼしょぼと閉じようとする瞼を上げるが、その抵抗も虚しく、やっと終盤というところで、ユリの記憶が一旦途切れた。
が、ふと目が開いた。
体が、クッションを抱いたまま横に倒れている。視界には、カウンターに向かって資料をとっかえひっかえする了が見える。テレビからは音が聴こえない。DVDはとっくに終わったのだろう。加えて、テレビ側から光を感じない事から、了が消したのかも知れなかった。
何時だろうと思い、ベッドの脇にある半透明のアクリルで出来たデジタル時計を見ると、四時になったところだった。
体を起こすが、了がこちらに気付く気配がない。若干肌寒さを感じ、畳んで置いてあった薄手のタオルケットを頭から被って、暫く了を観察する。
赤ペンで何かをメモしたり、一つ資料を眺めながら、手探りで別の資料を探し、手にしたかと思えばそちらを注視し。印代わりか、時折クリップを資料にかけ、何やら書いた付箋をそこに貼る。カップを口に運ぶ最中ですら、視線は資料に注がれたままだ。
忙しい。
風呂に入ったのか、帰って来た時と服が変わっていた。白いTシャツに、膝丈の黒いパンツを穿いている。カウンターの椅子は脚が長いので、ユリが座っても足が床に届かなかったのだが、了は平然と足を床につけ、座っている。ただ、ちゃんと座り続けるのが辛いのか、椅子の脚の段に置いた左足が、床に付いたり段に上がったり、カウンターに突っかけたりしている。
眠らないのだろうか。
顔はかなり眠そうだが、手元はてきぱきと動いて余念がない。
こんな生活を、続けているのだろうか。だとすれば、痩せたと思ったのは気の所為ではないと思った。夜な夜なこんな時間まで起き、日中はあちこち出て周っていれば、痩せもするだろう。
ユリは堪らずベッドから下り、タオルケットで体を包んだまま、了に歩み寄った。足音は極力殺した。
了の右横少し後方に立って、数十秒。
ふと右手にある資料に目をやった了が、やっと人の気配に気付いた。目を見開いてユリを見上げる。よほど驚いたらしい。
了は一瞬ユリを見上げて止まった後、溜め息を漏らしながら苦笑した。
「…起こしちゃったか?」
ユリは無言で首を横に振った。そのままユリが何も言わないので、了も少し心配そうにユリを見上げたまま手を止めた。
「寝ないの?」
寝起きだからか、しゃがれた声でユリが問うと、了は俯いて小さく笑った。
「うん。もうちょっとかかるな。」
了の答えに、ユリが黙った。ユリは、少し不貞腐れたような、哀しそうな顔で了を見下ろす。
灯りが邪魔で眠れないのかと思った了が、「少し暗くしようか?」と訊ねるが、それにも黙って首を横に振って、ユリはただ、了を見下ろした。
暫く二人でただ見つめ合っていたが、了が溜め息を吐いてペンを置くと、ユリに向いて言った。
「寝ないと、疲れるぞ。」
その言葉に、ユリが微かに頬を膨らませた。それは、ユリこそが言いたいセリフなのだ。
「了が寝るまで寝ない。」
「…。」
依怙地のような顔で言うユリに、了は困惑した表情を見せ、広げた資料に視線を戻した。了としては、そう言われても、という気分なのだろうが、ユリは譲る気はなかった。
了もそんな気がしたので、名残惜しそうに資料を眺めた後、苦笑しながら溜め息を吐いて、すくと立ち上がった。
そして、球体の照明を消すと、真っ暗闇の中、ユリの目の前に立った。
「…?」
ユリが首を傾げる…、そんな暇もなく、了はユリを抱きかかえた。
「!」
ユリが慌てると、了の腕から体がずり落ちそうになったので、慌てて了の首に腕を回した。突然の事ですっかり動揺してしまったユリの心臓が高鳴る。
了は動じもせずに、まっすぐベッドに向かっている。真っ暗になると、カーテンの隙間から少しだけ光が差し込む。その灯りで、ほんのりと照らされた了の顔には、微かな、穏やかな笑みが浮かんでいた。
了は、静かにベッドにユリを降ろすと、脇に座って脚を組み、膝の上で頬杖を突いてユリを面白そうに眺めた。
「…何よ。」
まだどきどきと止まらない鼓動で震える手を隠しながらユリが言うと、了は「ユリが寝るまで寝ない」と言ってふふと笑った。
「…む…。」
仕返しされ、ユリが本気で膨れた。不貞腐れて勢いよく横になり、目を閉じると、了がくすくすと笑ったのが聞こえた。
なんだかその声が、とてもくすぐったくて、甘くて、優しくて、ユリは自然と眠りについた。