外伝 おまけ ある騎士の受難
無駄に精緻な装飾が施された家具が置かれている広い執務室に、俺は報告書を提出するために訪れていた。塵一つ落ちておらず、部屋は清潔であるが、薄らとインクの匂いが染み付いている気がする。
俺はこの部屋の匂いとその主である中年の……眼光の鋭い細身の男、元カイラル騎士団団長であり、領主カイラルの懐刀と言われているグラス・ルーフェルが苦手だった。
この男は冗談の通じない堅物であり、騎士時代から苦手だった。事務職に移ったと聞いたときには小躍りしたものだ。最もすぐに俺の直接の上司になってしまい、肩を落とすことになったのだが……。
執務室の大きな机の向こう側に座っている堅物は報告書を一枚一枚読み進め、読み終えると眉間を抑えた。
「ジェイド・グラウス特務騎士。この報告書は間違いないか?」
「はっ! 間違いありません!」
直立して敬礼する。冒険者出身であり、魔法が使えるばかりに特務騎士などというわけのわからない職務に付けられ、上司は苦手な相手。
騎士に憧れ、騎士になれたのはいいが、なかなかに現実は厳しい。それ以上に厳しいのが俺の仕事だが……内偵に潜入に……今回のは特に酷い。
「ラキシス・ゲイルスタッドか……相変わらず迷惑な。だが、今回は感謝か……」
「はぁ……」
俺はこの合理主義者で規則が服を着て歩いているような面白みの無い上司が、顔を歪め、『迷惑』などという感想を零したことに心底驚いていた。
感情のない魔法生物か何かだと思っていたのだ。
ラキシス・ゲイルスタッド。城塞都市カイラルでは一、二を争うほどの知名度を誇る、美貌のエルフ。『氷の魔女』の異名を持つ……最悪の精霊使い。
目の前の堅物、グラスのさらに上からの命令で俺が見張ることになった女。
正直、俺はこの任務を引き受ける時は無表情を貫きながらも、内心喜んだものだ。美貌のエルフを堂々と口説くチャンスがあるかもしれないと。
男の悲しい性である。今はどう思っているか? 決まっている!
二度とあの女と組んで旅に出たくないっ!
恐怖の記憶を思い出しそうになるのを、溜息を吐いて止めて顔を上げ、目の前の上司の言葉を覚悟しながら待つ。
なぜ覚悟しているかというと……任務に失敗したからだ。
俺の任務は三つ、ラキシス・ゲイルスタッドの監視。アルカイン山脈で行われている儀式の遂行。儀式を行う少女に何かあった場合の儀式の代理。
結局、あのエルフの力業で後ろ二つの命令の遂行が困難になったのである。
「そう固くなるな。君を罰するつもりはない」
「よろしいのですか?」
「あの女がやることで部下を一々咎めていては部下がいなくなる。何を考えているのかわからないからな。あの女の行動にくらべれば一年後の天気の方が読みやすい」
珍しく饒舌だ。よく見るとペンを持つ手が震えている……何か嫌なことでもあったのだろうか。
ありそうだ。
あの女はエルフ。年を取らないのだから。
「それにすまないな。儀式が生贄のような代物だったとは。私の落ち度だ」
「これは本当のことなのですか?」
「恐らく本当だろう。上に確認はしない方がいいだろうが」
あのエルフは人を生贄にして稼働させる魔法装置と言っていたが……俺は妄想なのではないかと疑っていた。カイラルからの監視の推理も確かに俺が付いていたが、彼女の予想は間違えていたし。
装置に付いても、適当に言っているだけだろうと俺は思っていたのだ。
だが、事実だとすれば……それは……。
俺が生贄になっていたかもしれないという……。
血の気が引いていく音が聞こえる気がする。
「本当にご苦労だった。任務は失敗だが被害は最小限、特別手当は弾もう」
「有難う御座います」
俺は任務の失敗を追求されないことにほっとしながら、恭しく頭を下げた。
これで減給になったら堪らない。生きているのが奇跡のような任務だったのだから。
あの女は生贄予定の子供を助ける為に一片の躊躇もなく、俺を殺そうとしたのだ。間違いない。もしも、俺が任務通りに子供を生贄にしようとしていれば、間違いなく……。
あの時のあの女の冷たい視線は、一週間以上が過ぎた今でも夢に出る。
魔法が使える俺を警戒していたし、少しでも敵対行動を取ればまるで事務作業を行うような気軽さで俺の命を狩っていたに違いない。
俺はあの女の名声は美貌で得たものだと思っていた。剣の腕と魔法の腕を認められ、騎士になった自分に適うわけがないと。
だが、あの女は『本物』。桁違いの化け物だ。
恐怖で動くことが出来なかった……そのおかげで今、ここに立てている。
そして、子供が事故が何かで死んでいた場合には、俺が魔法装置で……。
他にも冒険中は空気が悪くて胃が痛かったってのに子供のお守りはしないといけないし、雪山は寒くてきついし、雪崩には巻き込まれそうになるし、最悪だった。
「ジェイド・グラウス特務騎士」
「はっ!」
そんな風に考えに耽っていた俺を不意に目の前の上司……グラスが口の端を釣り上げて……笑っているのか? よくわからない表情でとにかく俺を呼んだ。
「ラキシス・ゲイルスタッドはどうだった?」
「……恐ろしい女です」
色んな表現が頭を過ぎったが、俺は無難にそう答える。
上司は大きく頷いた。そして、今度は明らかに笑っている。
「時にジェイド・グラウス特務騎士、君の趣味は女性を口説くことだそうだな」
「ひ、人並みであります」
俺は目の前の堅物……グラス・ルーフェルが笑ったところを初めて見た。
しかも、俺をからかうような……獲物を見つけた肉食獣のような……そんな笑みな気がする。なんだか嫌な予感が……。
「君に新しい任務を与える。喜べ、君好みの任務だ」
「はっ!」
「美しい女性を専任で監視する仕事だ」
「まさか……」
目の前の上司は清々しい笑みを浮かべ、俺に一枚の紙を差し出した。
任務の詳細が書かれている紙だ。俺は絶望するような気持ちで紙に書かれた文面を読み進めていく。
「ラキシス・ゲイルスタッドが冒険に出るとき、同じ依頼を引き受けて監視を行うように。国益に反する時は、なんとしてでも止めたまえ」
「無理に決まってんだろ! あの女を止めようとしたら俺がやばいっ! あ、いや、その……えー……私では力不足でありますっ!」
思わず地が出てしまったが、上司は少しだけ眉をひそめただけで咎めはしなかった。
だが、いつもの睨みつけるような威圧感のある表情で俺を見て一つ咳払いし、
「命令だ」
「……拒否権とかは……」
「そのようなものがあると思っているのかね?」
「思いません」
「よろしい」
そして上司は小さく頷き、椅子から立ち上がった。書類の仕事ばかり受け持っており、鍛えていないはずだが……それでも勝てる気がしない。
身体の所作には一分の無駄もなく、洗練されている。
彼は執務室にある棚の方に歩いていくと、引き出しから一本の瓶を取り出し、俺に向かって投げた。ラベルを見ると……高級なワインのようだ。
安酒しか飲まない俺には価値がよくわからないが。
彼は椅子に座り直してペンを持ち、次の仕事に取り掛かりながら呟く。
「若い頃は私もお前のように、女を口説いて廻ったものだ。当時は無名だったラキシス・ゲイルスタッドに出会うまでは……」
「はぁ……」
「これからジェイド・グラウス特務騎士は非常に苦労するだろう。その酒は私の秘蔵の酒だが……私からのせめてもの餞別だ。頑張りたまえ」
「余計に不安になるのですが……」
俺はこの日以降、ラキシス・ゲイルスタッドが依頼を引き受けたときには、一緒に組むことに決まった。彼女が受ける依頼は大事件しかなく、俺は数限りなく死線をさまようことになり、何度も転属を申し出ることになるのだが……。
初代のあのエルフ担当だった上司のグラス曰く、『あの女も丸くなった』そうである。
俺は苦手だったこの堅物な上司といつしか愚痴を零し合う、飲み友達になっていた。