外伝 六話 解放
他の全員を下山させると私は、魔法の装置の術式を改造するための準備に取り掛かる。
シーリアには中位精霊の加護がある。雪崩などに巻き込まれる危険はないだろう。
(う……なにこの面倒臭い術式は……)
格好をつけたはいいが魔法の術式の解析に、私は苦戦していた。
三つの術式は純度の高い魔力石を加工した物で別々に作られているのだが、それぞれが連動しているために、どれか一つを弄ると相互に影響が出そうな気がして、どうなるか予測がつかなかったのである。
簡易な術式を作るための魔力石を液体にしたもの……術水も持ってきていたが、この術式に付け加えて使うことは出来なさそうだった。
この装置を維持したまま上位精霊『イルファータ』の封印を解くことは難しい。ならば……私は巨大な魔法の装置になっている術式を眺めながらポンと一つ手を叩いた。
(別にこの装置を残す必要ないよね)
私は封印を術式に従って解くことを諦め……いや、効率的に封印を解くことに決め、距離を取って魔力を三つの術式のうち、魔力を吸収し、封印を維持している部分を術水で囲っていく。
今作っているのは元々の術式を弄るものではなく、これから使う魔法の範囲を壊したい部分だけに限定するための術式である。
私はそれを書き終えると封印を維持している術式に対して剣を向けて集中する。
「『光の理』『火の理』『風の理』……光爆」
直接この術式に魔法を打ち込むと魔力が吸収され、魔法が発動しない。だから、術の影響範囲を小さくすることにより威力を上げ、少し離した場所からの爆風で物理的に魔力石を吹き飛ばし、術式を潰す。
予想通りに私は増幅する術式と封印をするための術式を綺麗に残して成功させることができた。そして、封印を維持するための結界が破壊されたということは……。
「……ァァァァァァァァァァッ!」
アルカイン山脈全体がこれから現れる天災を司る者に怯えるかのように震え、轟音と怒りの色の混じった鼓膜が破れそうなほど大きな咆哮が、何もないところから響く。
そして徐々に雪山から雪が消えていき、私の前方に集まって固まり一匹の巨大な獣の姿を形作っていく。
私は冷静にその光景を受け止め、ゆっくりと実体化しようとしている氷の上位精霊『イルファータ』の姿を眺めていた。
氷で出来た狼の姿をした中位精霊『ヘルムート』。『イルファータ』の姿はそれに似ていた。ただし、大きさと感じる圧力は桁が違う。まさに山のような……。
「神と並ぶ……そう言われるのもわかるわね」
この季節では信じられない光景が目の前に広がる。周囲の白銀の風景が消え、赤茶けた山肌がむき出しになっている。
冬のアルカイン山脈の深い雪山の……目に見える範囲の全て雪が、ただ一点に集まっているのだ。そして集まった雪の全てが『イルファータ』の力へと変換されていく。
私が見た中で最も巨大な生物……大きな館くらいの大きさを持っていたドラゴンよりも目の前の神々しささえ感じる狼は更に大きい。
ドラゴンが大きな館だとすれば、まるで巨城だ。
セインに勝率は五割と言ったのは言い過ぎだったかもしれない。
一割といったところか。だけれど……。
「子供に良い所見せなきゃね」
私は笑う。恐怖に押しつぶされないように。
勝利条件は相手を倒すことじゃない。原因はわからないが無理矢理アルカイン山脈に縛り付けられて狂っている『イルファータ』をあるべき場所に返せばそれでいい。
問題は私の力でそれが出来るかだ。
「氷の精霊『ヘルムート』。呼び出しに答えよ」
私はここに来る前に用意していた小さな宝石を使い、狼の姿をした三匹の中位精霊を召喚する。私の魔力も魔法の使いすぎで底が見えつつある。
さて、ここからは賭けだ。彼らを媒体として、『イルファータ』に語りかける。
「『イルファータ』よ。私は貴方を解放しに来た!」
だが、山のような巨大な狼は何も反応を起こさない。まだ動くことはできないのか低い声で唸るだけだ。赤く光る瞳には憎悪の色しか見つからない。
そして、語りかけるための媒体にした狼が、『イルファータ』の一睨みで身体が溶けてその姿が消えていく。
私は拳を握り締め、次の狼を言葉を届けるために放った。
寒いのに手には汗をかいている。
「『イルファータ』私に力を貸しなさいっ!」
自らを解き放つのに協力させるために、私は叫び続ける。
だが、それでも動かない。二匹目も簡単に砕け散った。
思った以上に相手の力が強く、声が届かない。
その間にも『イルファータ』の力はさらに強まり、彼が発する力によるアルカイン山脈全体の振動も強まっていく。ちらちらと振る程度だった雪も身体を打ち付けるような風を伴う吹雪へと変わり、立っているだけで体力が奪われていく。
「まずいわね……」
思わず呟いてしまう。私の精霊使いとしての技量が足りていないのか、この精霊を呼び出した術者が相当の実力を持っていたのか。
おかしい……私でも手も足も出ない上位精霊を、準備を揃え、条件を整えていたにせよ呼び出せる術者がいるなら、そもそも封印などせずに、失敗した時点で解放しているはずだ。
わざわざカイラルを危険にする理由がない。
そんなとき、私の目に自分が潰した魔法装置が目に入った。
この術式は互いに連動しているものの、術式一つ一つは異なる物だ。
ああ……そういうことか……。
私は薄く微笑んだ。
もし、私が失敗すれば完全に実体化した『イルファータ』はその身体に相応しい暴走を始め、氷の嵐を地域一帯に吹き散らすだろう。
今、下山を始めているシーリアもまず助からない。
私は魔力を増幅させる術式の中央に足を踏み入れた。
「さぁ……『イルファータ』……勝負よ」
目を閉じ、精神を集中していく。
尽きかけているはずの私の魔力が増大していき、私の身体の中を走り回る。
今、私がやろうとしていることが、もしかしたら実験の目的だったのかもしれない。
暴走を招くほどの魔力の増幅による、上位精霊の召喚が。
その先にあるのは……国による精霊の軍事利用だろうか。
ただの術者では制御できない。『イルファータ』を呼び出した術者も恐らくは失敗している。私なら……私ならどうか?
暴れ狂う魔力の波を必死に制御し、三匹目を自分の近くまで呼び寄せる。
「さて、古の術者と私……どちらが勝っているのかしらね」
私の指先から真っ赤な血が垂れる。指先だけではない。
目からも血が流れているのを感じるし、靴の中も既に血溜まりになっているに違いない。
身体のあちこちの血管から血が出ている。だが、痛みは感じない。
魔力に酔っているからだろうか。
「『ヘルムート』……私と『イルファータ』を繋ぎなさい」
増幅した魔力を最後の狼に注ぎ込む。
「『イルファータ』……貴方を呼び出した術者はもういない。私が貴方の主よ!」
恐らく精霊を呼び出した術者もこの術式を利用し……そして、召喚に成功したものの魔力を制御できずに死んでしまい、精霊は狂った……いや、命令が無いために本能の赴くまま、天災を引き起こしていたのかもしれない。
ならば、召喚主以上の魔力で強引に『イルファータ』への支配権を奪い、命令を与えればいい。
三匹目の中位精霊も砕け散り、私は術式から出て地面に膝を付く。
全身血だらけになってしまったけど、気絶もせずになんとか生き残っていた。
最も、目の前の山のような大きさの狼に私の命令が届いていなければ、踏まれて終わりなんだけれど……。
「グルァァァァァァァァァァァッ!」
『イルファータ』が空を向き、咆哮を上げる。
私は覚悟を決めて、上位精霊を見つめた。
彼の瞳の色を見て、私は勝利を確信する。
「グル……チイサキモノ……メイレイヲ……」
信じられないくらいに巨大な狼は私を踏まないように座り込み、大きな顔を近づけた。
それだけで凍るような寒さを感じる。
だが、何とかなった。シーリアも助けることができた。
私は嬉しくて笑っていた。
「貴方の居るべき場所に戻りなさい。長い間お疲れ様」
「カンシャ……スル……チイサキモノ……レイ……ダ……」
『イルファータ』から光る物が飛び出し、私の手にそれが落ちる。
「石……いや、宝石?」
青い握れるくらいの小さな石。私にも何の石かはわからない。
だが、考えている暇はなかった。
「ちょっと……『イルファータ』……?」
アルカイン山脈の目に見える周辺一帯の雪を全て集めて形どった『イルファータ』が精霊の住む世界に帰ってしまえば、残された雪はどうなるか。
『イルファータ』の見た目以上に雪は集められている。
精霊の気配が消えると、地鳴りと共に本来あるべき雪の質量へと戻ろうとするように、巨大な狼の身体がゆっくりと膨らんでいく。凄まじい勢いで。
私は残された左耳のイヤリングを取り外し、最後の力を振り絞って中位精霊を呼び出すと、叫ぶように命令した。
「『ヘルムート』……私を雪崩から守りなさいっ!」
荷物を抱え、疲労しきった身体に鞭打ち、痛む足を我慢して私は走り出した。
生き延びるために……ちょっと涙目になりながら。