第二十六話 母と子と
クルスを背負ったまま家に戻り、真っ青な顔で待っていたクルスの母親であるメリーさんに彼女を届けると、涙を流しながら彼女を抱きしめた。
家でただ待つしかない彼女にはよほど心配だったのだろうと思う。
クルスの方は冷静で何度も、
「私もお義父さんも大丈夫」
と、抱きつかれたときの痛みで顔を顰めながらも彼女に優しく声を掛けていた。
クルスとメリーさんの母子関係はあまり見ることがない。
昔は、本音を言えば彼女たちの関係も心配だった。
ぼろぼろの服を着ている上、クルスは痩せてがりがりでちゃんと生活できているのか……との不安が常に付きまとっていたのである。
当時は母やエリー姉さんがとにかく気にかけて、よく服や食事を差し入れていて届けるのと同時に、それをきっかけとして彼女たちと話をしにいったりしていた。
今でもどっちが保護者なんだろうと思わなくはないが、現在の彼女達の姿を見ていると以前に感じていた漠然とした不安は杞憂だったかなあと安堵している。
「ケイト君、有難う」
「いえ、僕のほうが助けてもらったんです。寧ろ怪我をさせてしまって謝らないといけないくらいで。本当に助かりました」
そういって、メリーさんに頭を下げた。
事実、彼女がいなければ俺の命は無かっただろう。
「あれ以上どうすることも出来なかった。別にケイトのせいじゃない」
「うーんそうかな」
もう少しなんとかなった気がする。
初めから魔法を準備すればよかったとか、緊張と恐怖心できちんと動けなかったとか……そんな後悔があった。
全てを上手くやろうと考えるのは傲慢だろうか。
「それにケイトを今回は守れた」
そう嬉しそうに微笑む彼女に、
「僕としては、クルスが怪我しないのが一番嬉しいんだけどね……」
苦笑するほかなかった。
クルスを送り届けて一人になっても現実感が乏しいような気持ちで家への道を歩く。
まるで、心が凍りついたような……。
会話も出来る、笑顔も浮かべることができたと思う。
なのに心がついてきていないような、別の誰かが話しているような感覚がしている。
家にたどり着いて、中に入る。
皆まだゴブリン討伐に使用した罠等の片付けを行っているのだろう。
エリー姉さんもジンさんから応急手当を学んでいるため、討伐が終わり次第、薬草を準備して皆の治療のために山に入っているはずだ。
いつも明るい家の中はがらんとして、まだ日は高いのに真っ暗なように思えた。
急に疲労を感じてダイニングの椅子に座る。
疲れているのに頭が冴えていて眠くはならない。
水さえも用意する気になれずテーブルの上に手を置く。
何も考える気力も沸かない。
戦って勝った喜びも、体の痛みも、命の危険に対する恐怖も沸かない。
ただ、疲労だけが残っていた。
いつまでそうしていたのだろう。
一瞬だったような気もするし、長い時間そうしていたような気もする。
「ただいま……ケイト。今日は一段と難しい顔してるわね」
はっ……と気がつくと普段着に着替えた母さんが、何時も通りの穏やかな笑みを浮かべながら隣に身体をくっつけるように座っていた。
「母さん……早いね?」
「早くないわよ。ま、少し早く帰らせてもらったんだけどもうすぐ夕方。貴方が心配でね……勘は信じるものね」
言われて窓を見ると、空の色が徐々に赤くなって来ている。
家に戻ってから数時間は経っていたようだ。
「……そんなに様子おかしかった?」
「逆。様子がおかしくなかったからおかしかったのよ」
母さんは筋肉痛なのか、いたたと少し顔を顰めながら俺を正面からみれるように椅子を動かす。
「今は酷い顔をしているわ。良かった」
「良くないよ……本当に……!」
母親は悪くないと頭でわかっているのに、思わず怒りの感情をぶつけてしまう。
だけど、母さんは動じず微笑んだままだ。
ますます、こみ上げるように苛立ちが沸き上がる。
「また死にかけたんだ……怖かったんだ……あんな思い何度もしたく……ないっ!!」
「そうね」
幼馴染に刺されたときのことを思い出す。
大事な人と一生会えなくなる辛さ、置いていく悲しみ、物理的な痛みと精神的な痛み。
「死んだら……何も無くなるんだ。大事な人も守れない」
「まるで、死んだことがあるみたいね……」
はっと驚いて母さんに顔を向ける。
余裕がなく何も取り繕うことができない。
誤魔化すのは諦め、息を吐く。
「……そうだよ。僕にははっきりと死んだ記憶がある」
「記憶が……貴方が子供離れした知識を持っていたのはそのおかげなの?」
「信じるの?母さんの子供じゃないかもしれないんだよ?」
ついに話してしまった……自分自身が延々と抱えていた自己嫌悪感と罪悪を。
しかしその問いに対する母さんの態度に非難の色はない。
「話してもらっていい?」
母さんはこちらに暖かい視線を向けたまま、肩を優しく引き寄せて自分の胸に抱きしめて呟く。
「……僕は平和な世界で学生をしていたんだ。親友がいて、幼馴染の恋人がいて、優しい後輩がいた」
「うん」
「幸せだったんだ。だけど、親友と幼馴染は僕を裏切ったんだ」
何年も立って記憶が薄れてもこの記憶だけは鮮明に残って色褪せる事がない。
10年近く隠してきた記憶と本心を激情にかられるままに話し続ける。
「裏切ったのは僕ということになってて僕は孤立した。誰も信じてくれない。不条理だと思った。僕が何をしたんだ!!……本当に今でも解らない。僕は幼馴染が好きだったからそれでも我慢した。非難も甘んじて受けた」
「そうなの……」
母さんは俺の脈絡のない話に口をはさむことなく、考えこむような仕草をしながら相槌だけを打っていた。
「信じてくれた人が一人だけいた。その後輩は一年以上、孤立する僕を信じて一緒に居てくれた。漸く立ち直って、僕は自分を好きでいてくれた後輩と今度こそ幸せになれると思ったんだ」
「うん……何かあったのね」
「……その後、幼馴染が謝ってきたけど僕は全く取り合わなかった。そして、その彼女に刺殺された」
母さんは少しだけ考えて、
「貴方はその幼馴染を恨んでいるの?」
「当たり前じゃないかっ!」
「そう……」
「……だけどそんなことより、後輩を守れなくなったことと、幸せにするって約束を叶えられなかったのが……一番辛い」
いつの間にかテーブルに涙がついていた。
指を目元に持っていくと無意識のうちに流れていたらしい。
俺は自分で話しながら気がつかされていた。
振り切ったように忙しなく毎日を生きていたが、あの時の後悔を10年近く経った今でも割り切ること、納得することができずに引きずっていることに。
「ケイト」
母さんに呼ばれてびくっと震えた。
俺は何を話したのか……少し冷静になって恐怖を覚え、母さんの顔を思わずじっと見つめる。
だけど、母さんは何も言わずにただ強く、そして優しく抱きしめてくれていた。
この世界に来てから初めて、俺は誰にも遠慮することなく思いっきり声を上げて泣いた。
どれくらい泣いただろう……窓から差し込む光は赤く染まりきっていた。
泣いたせいか凍りついたような感情は溶けて幾分すっきりとした気分になり、普段通りのようになっている。
「ゴブリンの胸に剣を突き立てたんだ」
「知ってる」
母さんに普通の子供のように抱きつきながらぽつりと呟く。
情けないが縋らないと崩れそうだった。
「あいつ、言葉をしゃべってた。必死に生きてた。殺したくなかった」
「そうね……」
巨大なゴブリンの満身創痍な姿……それでも、生き延びようとしていた姿を思い出す。
「僕は殺そうとしたんだ」
「ケイトはどう思うの?」
上手く言葉にできない俺に母さんはゆっくりと考えてみなさいと、答えを急かさずに問いかける。
俺は整理できない雑然とした気持ちをひとつずつ整理しながら答えた。
「殺さなければ大事な人が死ぬ。僕にはゴブリンよりクルスの方が大切だった」
「そうね」
「多分同じことがあれば……僕は悩んでも同じことをする」
母さんは一つ頷き、少しだけ体を離して顔を両方の手のひらで優しく挟み込み、
「悩むのは大事なことよ。大事な物を守るために冒険者は戦うわ。……それは自分のものであったり他人のものだったりするけれども……人の命を奪うこともある」
俺は冒険に対する良い側面ばかり考えていたのかもしれない。
当然、こういうことはあるのに。
そのための技術を今まで磨いてきていると言うのに。
「今なら……冒険に出ず、村で結婚してゆっくり暮らしていく……ということも出来るのよ?」
「そうだね」
遠くない未来を想像する。
今の気持ちから、もし彼女が変わらなければ、そのまま何も考えずにクルスと結婚し一日一日ゆったりとした時間の流れの中で暮らしていくことになるだろう。
それはきっと幸せなことであるに違いない。
自分の性格としてもそれが向いているのかもしれない。
だけど……
「それでも僕は冒険者になりたい」
縋り付いていた体を起こして、自分の足で立ち上がり母さんの顔を見てはっきりと告げた。
一瞬だけ母さんの顔は哀しそうに歪んだが、すぐに笑顔を作る。
「どうして……今日みたいに辛いことも沢山あるのよ」
「初めは、目指したのもなんとなくだったけど……僕はこの世界が好きだ」
なぜ自分は旅に出たいのか……最近はずっと考えて悩んでいたことでもある。
「ジンさんやガイさんの話とか訓練を通じてもっと見たくなったんだ。辛いことがあっても、廻らなかったことを後悔しないためにも、母さんみたいに世界中を見て回りたいんだ」
前の人生では後輩が一緒に二人で、いろいろ見て回りましょう!と俺の腕を掴んで引き摺り回したのをふと思い出す。
懐かしく、楽しい思い出だ。
この世界での旅も、きっと苦しくても楽しいものになるに違いない。
母さんは苦笑いしつつ、頭を撫でる。
「じゃあ、世界中見て回ったらいつでも帰ってきなさい。貴方の故郷はここしかないんだから」
「冒険に飽きたら戻るよ。ありがとう母さん」
ようやく俺は冗談っぽく笑うことが出来ていた。
「クルスちゃんはどうするの?」
「置いていくよ。僕じゃ守る事はできないし」
そう……と、興味深そうに母さんは呟く。
「他の男に取られてもいいの?」
「……クルスが幸せなら」
母さんは堪えきれないといった感じにくすくす笑った。
何か面白いところがあったんだろうか。
「貴方は人を見る眼は本当にないわね。あの子も本当に心配な子なのよ……まあいいわ……旅に出るまで私が鍛えてあげる」
「母さんが?」
「親らしいこともちゃんとしないとね。今まで楽した分は」
母さんは私は甘くないわよと何時もの優しげな笑みと違う、獰猛そうな笑みを浮かべた。
何か冷や汗が背中を伝ったのは気のせいだろうか……