第十九話 一歩
春が過ぎ、肌を焼く強い日差しの照りつける夏が来て俺とクルスは9歳になった。
今の年齢では一年くらいでは、体格もなにもほとんど変わらない。
ただ、ほんの少しだけ伸びた身長が俺達の身体が成長していることを教えてくれる。
ヘインと話した日以来、クルスと一緒にいる苦痛は前よりも少なくなった。
感じないわけでもないが、半分は開き直ったともいえるかもしれない。
将来のことは大事かもしれない。
裏切られるかもしれない。
だけど、それまでは恋愛抜きにしてもいい関係を築いていこう……そう考えたのだ。
その上で成長して大人になったとき、お互い答えを出せばいい。
これは問題の先送りだろうか。
その時に好きになっていたら、クルスが俺を好きでなくても彼女を好きになれるだろうか。
正直言って自信がない。
そう考えるとクルスはすごいと思う。
ヘインもだ。
彼は好きな相手に幸せになって欲しいと言った。
これも一つの答えだし、それを自分で考えて決断したのは勇気のあることだと思う。
それに、彼は今まで小さい村しか知らないのに何も分からない外の世界に行こうとしている。
俺も怯えてばかりいるわけにはいかない。
どうするか悩んだ後、俺は久しぶりにクルスの家へと足を運ぶ。
よく考えれば向こうがこちらに来ても自分からこちらに来ることは少なかった。
いざ来てみると緊張するものだ。
彼女の心境はどうなんだろうと考えて苦笑する。
他の家より幾分小さなクルスの家のドアをどんどん!とノックすると髭の無いガイさんが中から出てくる。
この気の良い大男が髭を全て剃ってからかなりの時間が経っているのだが、未だに違和感に慣れない。
今までよりは着る物も清潔感に溢れていて良くなったとは思っているんだが。
一瞬眉を顰めたが、彼はそんな様子には気付かず何時も通りの気持ちのいい爽やかな笑顔で迎えてくれた。
「お早うございます」
「おう、ケイトじゃねえか。珍しいな……どうした?」
さて何と言おうか少し考えて、素直に話すことにする。
「うん。クルスを誘いに来たんだ」
「クルスなら出かけたぜ。一緒じゃなかったんだな」
「クルスは何かいってた?」
「いんや。いつもどおりの様子だったぜ?」
そういってうーむとガイさんは首を傾げる。
そんな彼を横からそっと遠慮がちに、ごめんなさいと退いてもらって長い綺麗な黒髪の女性がドアの前に出てきた。
クルスが大人になったら彼女に似てくるのだろうか。
彼女の母親であるメリーさんは以前に会った時よりも血色が良くなり、元々美しかったが健康的な美しさが更に加わっている。
表情も明るくなっているのは……ガイさんのお陰なんだろうと思う。
「おはよう。ケイト君。娘に会いに来たのね。有難う」
「お早うございます。メリーさん」
余り慣れてない人な上に、美人な彼女を目の前にして緊張しつつ挨拶する。
メリーさんはびしっと直立している自分を見て穏やかな表情で上品にくすりと笑った。
「あ、笑ってごめんね。ちょっと娘の話と印象が違ったから」
「どんな話してるんだろ……。」
「王子様も逃げ出しちゃうような感じね」
「えええ!」
本当にどんな内容なんだろう。
とりあえず過大評価されているのは間違いないようだと恥ずかしさで顔が赤くなる。
「冗談よ。娘はいつものところに行くっていってた。君は分かるんでしょう?」
「なるほど。有難う御座います」
いつものところそれは即ち。
「ケイト君。娘のこと……よろしくね?」
「おう、頼んだぞー!」
「はい!」
二人が笑いながら声を掛け並んで手を振る。
俺は目的の場所へ向かって、振り返りもせずに駆け出していた。
村の北東に向けて、ばてない程度の速度で駆けていく。
夏の陽射しは厳しく、じわりと服が湿って不快になってくるがそれでも走る。
いつも釣りをしていた場所……木陰になっているところにクルスはいた。
昔と変わらず、静かに釣り糸を彼女は垂れている。
冬は寒さが厳しい上、雪が降ると足元が危ないので毎年川には行っていない。
例年は春になるとまた釣りに来るのだが、俺は去年の収穫祭以来ここには来ていなかった。
それでも彼女は俺を待ってここに着ていたのだろう。
木陰で日差しはさえぎられているもののじっとりとして暑い。
こんなところで休みのときに毎回じっとしているのはかなり大変だろう。
バツの悪さを感じ、彼女にかける言葉を考えながらゆっくりと近づいていく。
「クルス……釣れてるか?」
後ろから声を掛けるとびくっと彼女は震えた。
ゆっくりとこちらを向いた彼女は表情はあまりでていないが、何と無く嬉しそうに見える。
「大物が釣れた」
言われて彼女の魚を入れる桶を見てみたが魚は入っていない。
どういうことかと無言でクルスを見る。
「ちゃんとここで待ってたらケイトが釣れた」
「……大分待たせてしまったかな」
その答えを聞き、左手で頭を掻いて苦笑する。
しかし、クルスは微笑んで首をゆっくり横に振った。
「思ったより早かった」
「喜んでいいのか嘆いた方がいいのか」
ぴちっ!と魚が陸へと打ち上げられる。
クルスも釣りがうまくなった。
暑い日差しで川面も光を反射して見にくくなっているのに、こうして俺と話をしながら魚を釣り上げている。
彼女は微笑みつつ、じっとこちらを見つめながら言う。
「三年は待つつもりだった」
「気が長いなあ」
内容に反して言葉は彼女の口調は冗談めかしていて軽い。
なんとなく感じていた気まずさは無くなり、俺は彼女の隣に腰を降す。
何匹か釣れたところでクルスがふと気付いたようにこちらを向いた。
「ケイト。竿は?」
「今日は暑いからさ。走って汗もかいたし、泳ごうかなって」
川の水は冷たいが今日ほど暑ければそのうち慣れるだろうし。
俺は服を脱ぎ下履き一枚になって水に飛び込む。
予想通り身を切るほど冷たいがそんな冷たさが気持ちいい。
俺はふといたずら心を起こした。
「うおおお、冷た……それ!」
「きゃっ!」
釣り糸を回収してそんな俺を岩の上で眺めていたクルスに手で水を掬って思いっきり掛ける。
「あははは!油断したなクルス!」
「ケイト……」
最近の俺たちのぎくしゃくした関係を元に戻すために、そして、不安を吹き飛ばすように意識して明るく振舞う。
水をかけられたクルスの方はしばらくぽかんとしていたが、薄く笑うと彼女も服を脱ぎはじめた。
「おいこら、クルス。はしたないぞ!」
「心配無い。今はケイトしかいない」
「俺がいるだろうが!」
「仕返しするから」
彼女も下穿き一枚になって水に飛び込む。
まだ彼女は子供で出るところも出ていないが、女性を思わせるしなやかな柔らかさは何と無くで出始めている。
何と無く気恥ずかしくて横を向いた俺の隙を彼女は見逃さなかった。
泳いで俺に近づくと足を引っ掛けてバランスを崩し、俺を水のなかに転げさせたのだ。
「ぶわっ!ごほっ…ごほっ!!」
「ふ、借りは返した」
彼女は咳き込んでいる俺を見てちょっと小悪魔っぽく薄く笑う。
そんな彼女に俺はまた水を掛けてやり返す。
そしてお互いを水に沈ませようと体をくっつけて争い、水を掛けて遊んでいると意識的に明るくしていたのが本当に楽しくなってくる。
他愛のない水遊びは昼時まで続き、終わった頃には二人とも疲労困憊で暫く動くことができなかった。
だけど、なんだか不思議な満足感があった。
昼時になると太陽が雲に隠れてほんの少しだけ肌寒くなったので、俺達は焼いた魚を食べながら冷えた体を焚き火で温める。
服を着直した彼女は火に手を当てながら真剣な表情でこちらを見つめた。
「実はね……ケイトがこんなに悩むなんて本当は思ってなかった」
「自分でもわかってなかったんだ。で、考えた。いつか考えなきゃいけないことだったから……クルスのお陰だよ」
正直今でも答えは出ていない。
だけどこれも自分で選んだ答えだ。
「人の気持ちは変わるよクルス」
「そんなことは……」
「だけど、それでもいいんだ」
なるべく言葉が重い感じにゆっくりとした口調でクルスに笑って俺の内心を伝える。
今まで自分の心を表に出さないようにしてきたから不恰好だけど、少しずつ。
「俺は俺で、クルスとちゃんと向き合う」
「ケイト……」
「将来俺もクルスもどうなるかわからないけど……できればいい風に心が変わると信じたいな」
「そうだね」
俺が彼女の目をしっかり見てそう微笑むと、彼女も納得したように頷いた。
「もし、その時お互いに好きな人が出来たとしても後悔しないようにしたい」
「うん……」
クルスは不満そうにちょっと唇を尖らせている。
やはり彼女はずっと気持ちは変わらないと信じているんだと思う。
「だから、これからもクルスが嫌じゃなければよろしく頼む」
情けない先送りかもしれない。
だけどこれは流されたものではなく、大人になった時に進む道を決める自分で選んだ一歩だ。
「嫌なわけない。今日も楽しかったし。もっと好きになってもらえるように頑張る」
「俺も俺も!」
ことさら明るく俺が返事すると似合わないとクルスが笑う。
いつしか二人とも顔を合わせて笑っていた。
心の靄が少し晴れた気がする。
まだまだあの時の悪夢は俺を襲うんだろうと思う。
だけど、前向きに地道に一歩ずつ進んでいきたい。
それが前世から続く俺の生き方だから。
二人の関係がどう変わるのか、それは今はわからないが……。
依存するのでなく二人で成長していけたら最高かもしれない。