第七話 二つ目の欠片 ゴーランの話
なるほど。ケイト・アルティア────君がこの神殿を訪れた理由は理解した。
再度の機会を神から頂けたことは私の最大の幸せである。我が神ガランに感謝を。
そう。再度と言った。
私は以前にも神託を頂いたことがある。
三十年以上も前の話だ。『話、助言せよ』と。
うむ、同じ言葉だな。
私が神託を受けたことを話すと、彼は今の君のように不服そうな表情をしていたよ……。
彼の名か? ああ、よく覚えている。
ユダ・アルザス────歳に見合わぬ知性と哀しみを秘めた深い瞳を持つ、不思議な青年だった。
君には彼の持っていた影を感じないが、何処か似ている気がする。
神が選んだ男だからだろうか。
彼は誠実かつ実直な青年だった。外から一人で旅をしてきたとのことだったが、種族や貴貧に拘ること無く、誰を相手にしても丁寧に聴き取りを行なっていたように思う。
子どもも好きでな。よく食える菓子を選んで持ってきて、神殿に住む孤児達に分け与えておった。我が神ガランに誓って、今も私はその姿が偽りであるとは考えていない。
当時のローウェンの住民達の多くは、彼を忘れてはおらぬだろう。
彼は命を賭けてこの街の危機を救ってくれたこともあるのだ。
それに、初めは絶望に打ちのめされていた様子の青年が、この都市で不器用に走り回りながら蘇っていく姿は、人々の心に勇気を与えていたからな。
私も忘れることはないだろう。
深い闇を心に抱えながら、優しさを忘れていなかった青年のことを。
ユダ・アルザスと出会わせて下さったことを私は神に感謝している。
彼は残念なことに神を信じていない……いや、憎んでいる素振りすらあったが、その振る舞い、他者への思いやりは『聖者』を思わせるものだった。
順調に位階を上げ、誰よりも神のご意思に近いのだと自惚れていた私は、神を信じぬ冒涜者であるはずの彼の振る舞いを見て、己の不足を恥じたものだ。
だから、彼が討伐されたと街に伝わった時、誰もが何かの間違いだろうと思った。
冤罪だと。
しかし、彼を討伐した者達を知る私はその可能性を捨てた。
私は悩んだ。
彼が道を誤ったのは私が神の御心に応えられなかったせいではないかと。
だが、神は無能な私の力を奪わなかった。
それは今日この時があることを知っておられたからかもしれぬ。
慈悲深き、我が神ガランに感謝を。
話が逸れた。すまぬな。
だが、ユダ・アルザスの報告書は既に読んだのだろう。
噂では相当酷いものだと聞いておる。だが、私には彼がそのようなものを作るとは到底思えぬのだ。私は君が謎を解き明かしてくれるのではと期待している。
はははっ! 自信は無さそうだな。
出来ればで良い。私もわかってはいるのだ。人の心は誰にもわからぬと。
さて、神殿にとってのカルヴァス殿と学長殿のことだったな。
我が神殿に残された文献によると、全滅戦争前は特定の神への信仰は当然のものであり、ローウェン伯爵領にも信仰している宗教があったらしい。
人は神の教えを拠り所に、善悪を為すものだ。
信仰の大切さを学び、神の御心を知り、そして初めて人として必要な道徳を身に付けていく。
ローウェンにもその習慣は根付いていた。
人類が死に絶えるほどの打撃を受けた全滅戦争によって、神への信頼が揺らぐまでは、神を信じないことは有り得ないことだったのだ。
それは、人を辞める事に等しいことなのだから。
事実、かの大天災により人々は神への信仰を忘れ、心は荒廃した。
結果として凄惨な弱肉強食の時代が訪れたのは、間違いのない歴史的事実だ。
だからこそ、信仰は復活したのだから。
そして、神もまた人を見捨てなかった。
人は再び心の平穏を掴んだのだ。
話をカルヴァス殿に戻そう。彼は神の信仰が生きていた時代に生まれたにも拘らず、人は己の力で生きるべきだと主張し、”神は敬えども頼らず”と信じていなかったそうだ。
元より神を信じる者が少ないエルフである学長殿はともかく、カルヴァス殿の主義は当時の貴族としては断罪されかねない異端であったと考えて良い。
それが許されたのは彼が領地を継承する可能性が無かったからだろう。
堂々とエルフを妻に迎えたように、彼は種族には拘らなかった。
だが、宗教についてはその主義にも関わらず、相当悩まれたようだな。
ことが政治にも関わっていたからかもしれぬ。
さて、当時の事情を振り返ってみるとしよう。
カルヴァス殿は十五歳の頃に『大災厄』に巻き込まれた。
大災厄の原因はわからない。
何が起こったのかは、多くの学者により仮説は立てられているが。
未曾有の災害によって引き起こされた全滅戦争は、カルヴァス殿の一族を彼を残して死に絶えさせ、弱冠十五歳にして本来背負うはずの無かった責務を彼は負うこととなった。
領土を狙う外敵すら死に絶えた絶望の中、彼が真っ先に取り組んだのは領民と共にその日を生き延びることだ。
彼は宗教を信じていない。
武門でありながら武術は出来ず、賢者と呼ばれる程の知恵もない。
しかし、彼は生き延びる力を持っていた。
彼は助けの手をすぐに差し伸べなかった神々には縋らず、人間やそれ以外の種族だけでなく、それこそ草木や虫を相手にも全力で交渉し、果ては人類の宿敵である魔物にまで、生き延びるために命を賭けて頭を下げたのだ。
これは愚かではあるが、偉大な愚かさであったと言うより他にないだろう。
しかし、神々がすぐに人々を救わなかったからといって、大災厄に無関心であったことを意味する訳では無い。長期的には神々は大災厄から多くの人類を救い上げた。
幾つかの宗教国家はその果てにある。
だが、この都市においてはカルヴァス・ローウェンというただ一人の男の情熱が、彼に従った領民達に多くの希望を与え、未来へと導いたのだ。
その結果、この都市において宗教を信じる者がいなくなったことは仕方のないことだろう。神が救う前に、人は自身の力を持って生き抜いたのだから。
しかし、宗教が無くては人は人足りえない。
道徳が身に付かぬからだ。
自分を律せない者は獣と変わらぬ。
問題はそれだけではない。
安定し始めたローウェン伯爵領に、難民が流れ込んでくるのも当然の流れだ。
先に待つのは人心の荒廃。
カルヴァス殿は決断を迫られたと書き残している。
受け入れるか見捨てるか。
神への信仰を蘇らせるか、新たな心の拠り所を創り出すか。
彼は決断した。
学長殿の為に。
神を信じぬエルフの為に。
”学問の徒は皆同胞である”
そう、ローウェンそのものであるこの言葉が全てを物語っている。
カルヴァス・ローウェンは創り出したのだ。『学問』という新しい神を信仰する街を。
人として生きる道すら学問と為し、神が無くとも人が人として生きられる街を。
彼は神ではなく、学長殿を選んだというわけだ。
そう、宗教の道にある者として、私は彼を憎んでいた。
彼が間違った道を歩んだからではない。私は人間としての彼が間違いなく大英雄であることを理解しており、それが故に憎んでいたと言っても良い。
何故、神では無く、ただ一人の女を選んだのかと。
小人の怒りかもしれぬな。
カルヴァス・ローウェンは学問を選んだことで、あらゆる宗教を信じる難民を受け入れる事が出来た。受け入れる条件は容易。
全ての宗教は条件を等し、相争うこと為らず。
これ程馬鹿な話があろうか。
彼は全ての神を学問の下に置いたのだ!
この蛮行はあらゆる神への冒涜である。
人と神には序列があり、祈りには定められた様式がある。
秩序を乱すのであれば全てを彼は許さなかった!
正邪すら、彼は考慮に入れなかったのだ。
彼は法律で認める他の一切を認めなかった。
彼の時代では恐らくそうするしかなかったのだろう。
事情は理解出来ないではない。
だが、カルヴァス殿が無限に近い寿命を持つ学長殿を選んでいる以上、この冒涜は永劫に渡り行われることになったのだ。
ふふふ、ああ。その通り。
別に今は憎んではいない。この怒りは二十年前のものでな。私はこの冒涜を正すために、敬虔な神の信徒、ユダ・アルザスを神が遣わされたのだと考えたんだ。
結果は違った。ユダ・アルザスは鍛冶の神を歯牙にも掛けていなかった。
神に憎悪すら抱いていた男は、それでも正しく人間であった。
私は人が神の力無しに、聖者へと至る事が出来ることを思い知らされたのだ。
冷静になれば認めることは簡単なことだった。
学問に支配されたこの都市の神殿は、大陸で最も古い神殿ではないか……。
すまないな。ケイト・アルティア。
私は上手く話す事は出来ない。
ただ、学長殿は私以上に宗教に関する経緯に詳しいはずだ。
いや、あらゆる過去は彼女にとっては既知ではないか。
ユダ・アルザスは彼女の過去を調べる内に、初めに抱いていた絶望とは違う、深い苦悩の表情を見せるようになった。それこそが、学長殿の狙いだったのだと私は確信している。
あれだけの誠実さを持ち合わせた者が、不可解な報告をすることになったのは重ねて不思議でならない。或いは君もそうなるのかもしれない。
学長殿……ミリーティア・ローウェンの言葉を鵜呑みにするな。
ユダ・アルザスの残したものにも囚われるな。
ケイト・アルティア。
神に選ばれし者よ。君は君の意思で物事の真偽を判別するがいい。
”過去の名剣に残るは記憶のみ”
鍛冶の神が生み出した如何なる剣も、いずれは朽ちる。
今の時代を生きる君には、君だけの真実が見つかるはずだ。
私が君への助力を拒むことはない。
ケイト・アルティア。君に鍛冶の神ガランの加護のあらんことを。