閑話 私と『私』
────夢を見ていた。
夢の私は今の『私』と変わらず弱肉強食の世界に生きている。
幾百万、幾千万という、いわゆる普通の人々が平穏に暮らしている中で、私の周囲だけは特別に優しくなかった。
強者が奪い、弱者はただ耐える。
私が長らく住んでいた箱庭の真理だ。
私は弱者だった。
背は低く、力もない。
同じ部屋には数人の同居者がいたが、長い間私は最底辺の地位にあった。
両親が気まぐれにくれた私有物は直ぐに盗られる。食事すら奪われて碌に食べることが出来ない。ストレス解消に殴られることなんてそれこそ日常茶飯事だ。
抗議などは通用しない。強者こそが正義であり法なのだ。
管理する大人も見て見ぬ振り。
テレビで牢獄の特集がやっていた。
私の住んでいる場所とどう違うのだろう。
幼いながらにいつもそう思っていた。
ただ、幸いというべきか不幸にもというべきか、頭は悪くなかった。
中学生になる頃には私は強者から身を守る術を覚えていた。
簡単なことだ。
弱者が身を護る方法。
更なる弱者を生贄に差し出すのだ。
私の代わりに虐待される子を見ても可哀想とは感じない。
それが箱庭のルールなのだから。
場面は変わる。
天気の変わり易い、暑い夏の日。
クマ蝉が煩い。
私は中学のセーラー服に身を包んでいる。
リボンは三年生を示すピンク色。
この頃には法律が変わったらしく、マシな大人が増えていたが、私は既に心の底まで諦観と絶望、そして、普通の幸せを持っている者に対する憎悪に色濃く染まっていた。
学校も箱庭と変わらない。
弱い私は明るい笑みを周囲に振り撒きながら、強者にへつらい、弱者を踏みつけている。
正直、上手くやっていたと思う。
他人の不幸を喜ぶだけの心の余裕も出来ていたし、表面上は人畜無害に見えるように明るく、それでいてやりすぎないようにも振る舞えていた。
もちろん、己の汚さは誰にも見せない。
そうすることが人間として当たり前だし、強く生きることなのだと思っていた。腐り果て、よりクズになることが、楽になる秘訣なのだと。
この夏に……あの理解不能な人に出会うまでは。
急に強い雨が降り始め、私は雨宿りするために近くの公園に走っている。
傘は持っていない。いや、持つことが許されていなかった。
本当の私を知られている箱庭での地位は相変わらず低いから。
夢だと理解しているのに『私』の心は無邪気な喜びで弾む。
夢で会うときだけは今でも『私』だけの彼だから。
そう、雨宿り出来そうな公園の藤棚の下にあるベンチには先客がいた。
近所にあるレベルの高い公立校の制服に身を包んだ特徴の無い青年。
私は彼を既に知っていた。
彼は私を知らなかっただろう。ただ、一方的に嫌っていただけだから。
私の知っているその先輩は幸せそうだった。
美人の幼馴染と仲の良い親友といつも一緒。
派手さはないけど品行方正で努力家。親友と一緒に入ったサッカー部では、誰よりも熱心に練習し、後輩に対してはどの先輩よりも親身になって教えていたらしい。
性格も穏やかで礼儀正しく、私の同級生からはそれなりに人気があった。
(裏で何を企んでいるのかな)
人間はみんな同じ。
得にならないことはしない。
彼ほどの善人であれば、抱える闇はさぞかし深いに違いない。
なのに、この人は進んで厄介事を引き受け、それを苦としている様子もなく、淡々と片付けていく。明白に不器用なのだけど、彼は嫌な顔一つせず、誰も巻き込むことなく最後にはやり遂げてしまう。
弱者を痛めるようなことも一切しない。
一見損なことばかりしている先輩の行動は私には理解し難く、同じ生き物だとも思えず、不気味にすら感じていたのである。
だけど、この日は違った。
藤棚の隙間から漏れる雨が服を濡らしても意に介さないくらい、先輩は放心している。雨が降る前から長い間座り込んでいたのかもしれない。
昏い瞳で彼は宙を見詰めている。
何かの不幸に見舞われたかのように。
(何があったんだろう)
興奮で身体が疼く。
ゾクゾクと私の胸は震え、無意識に口の端は上がっていた。
しかし、時を経た『私』の胸は切なさに締め付けられている。
抱き締めて慰めたい、そんな狂おしい想いを感じて。
私は気付いた。
自分が彼を嫌っているのではなく、このお人好しな偽善者を貶めて、裏側にある本当の醜い姿を知りたかっただけであることに。
愚かだけど、それが当時の私。
歪な出来損ないの弱い怪物。
先輩の抱える負の感情はどれだけ甘美なのだろう。
その誠実さの裏側はどれだけ歪んでいるのだろう。
想像するだけで雨で冷え切った身体が、熱を帯びた。
知らずの内に太ももを擦り合わせる。
私が近付いても先輩は微動だにしない。
またとない機会。同じ中学を卒業した今となっては、彼の真実を知る最初で最後の機会になってしまうかもしれない。
だから、私はこの蠱惑的な獲物に接触を図ることにした。
「酷い雨ですね。先輩」
先輩は力無く空を見上げた後に此方を見る。
疲れきった表情で。
しばらく彼は先輩と呼ぶ私の顔を思い出せず、不思議そうに見詰めていたが、制服で後輩であることだけは理解したのか、気にしないことにしたらしい。
面識がないのは当然。昨年までは関わったことなど一度もないのだから。
込み上げる嗤いを私は内に押し込める。
「そうだね」
先輩は小さな穏やかな声でそう呟いた。
それだけで瞳の中の絶望の色は僅かだが薄まり、暖かな光が彼に戻ろうとしている。
私は失敗したと思って焦り、思考を巡らせた。
どうすれば更に貶められるのか。私と同じ醜さを引き釣り出せるのか。
立ち直らせてはいけない。
「先輩の顔はもっと酷いですよ。何があったんですか?」
精一杯心配している振りをして、私は彼の傷を逆撫でした。
こうした無作法な偽善が対象の怒りを一番誘うことを私は知っている。大抵が心配ではなく、知りたいだけの好奇心からの言葉だからだ。
先輩が立ち上がる。
彼は背が高い。いや、私が子供みたいな体型だからそう感じるのか。
身を縮め、精々心配そうに目を潤ませて、私は彼を見上げる。
私の無神経さに彼がどう反応するか。
いつも能天気で幸せそうな穏やかな顔が、どれ程醜く歪むのか。
お人好しと皆に言われている彼が、どのように他者を恨み、憎悪し、私のような弱者に不条理な怒りをぶつけて踏みつけるのか。
私もずぶ濡れで雨宿りの意味は既に無い。
地面を叩く雨の音に耳を澄ませ、私は彼の返答を胸をときめかせながら待つ。
しかし、私が望んでいたような反応は無かった。
「本当につまらないことなんだ。心配してくれてありがとう」
そこには普段通り……いや、辛そうではあったが、普段と変わらない態度で彼は心の底から礼を言い、一見子供にしか見えない私に頭を下げた。
(え……どうして? こいつ馬鹿じゃないの?)
有り得ないお人好しさに私は混乱している。
『私』は滑稽なその一場面を未熟だった私を通して眺めていた。
『私』が後に知った情報によると、この日は気に食わないあの女に一度目に拒絶された日だったらしい。
確かにつまらないことではある。
だけど、幼馴染であるはずのあの女は彼を良く理解していたはずであり、拒絶するにしても、ここまで傷付くことが無いように気を配れたはずだった。
間違いなくあの悪魔は意図的にこの状況を作り出している。
初めて彼女に会った時、私はそれを確信した。
苦しむ彼の反応を楽しむためだけに、一番酷い方法で先輩を拒絶したのだ。
彼が自分から簡単に離れるはずがないと見抜いていたから。
同じ高校に入ってその顛末を知ったとき、自分がしようとしたことを棚に上げて、私は彼女に怒りと吐き気がするほどの嫌悪感を覚えていた。
しかし、この時の私は背景を知らない。
私は彼の不可解な反応に戸惑い、立ち尽くしていた。
何事も無かったかのように鞄の水気を払っていた彼は、そんな私に初めて気が付いたかのように小さく声を上げる。
「ずぶ濡れだな。あー……後輩。傘は?」
「忘れ……ました」
何を聞くのだろうと思ったけれど、彼は私の答えを聞くと鞄を開き、折りたたみの傘を取り出した。そしてそれを私に投げ付ける。
「ほら、持ってけ。風邪引くぞ」
「貰う理由が……」
「先輩らしいからな。俺は」
そうすることが当然といった様子で彼は朗らかに笑い、鞄を担ぐ。
雨の中でも、何故だか此方まで笑みを誘われそうだった。
「じゃあ、気を付けてな」
先輩は一度ぽんと私の頭に手を置き、背中を向けて歩き出す。
彼は自分の善意に見返りを求めていない。どれだけ辛くとも、他人を思いやれる人なのだ。
それを理解した時、私の心に湧き上がったのは苛立ちと激しい憎しみの感情だった。
自身の生き方を全否定するような、不条理な存在に対する怒り。
(このままでは終わらせない)
どうしてもこの男の本当の姿が見たい。
地に堕とし、這い蹲らせて見下ろしたい。嗤いたい。
その上でそっと手を差し伸べて、叩き落す。
さぞかし愉快に違いない。
灰色の世界に生き、物事に諦観していた私の初めての渇望だった。
「待ってください。先輩!」
「え?」
思わず私は呼び止めていた。
何も考えてはいない。その場で必死に理由を考える。
「私、先輩と同じ学校を目指しているんです」
口から出まかせだった。
それでも日頃の訓練の御陰か、私は自然な笑みを浮かべていたはず。
先輩は理解出来ずにきょとんとしていた。
「だけど、点数が足りなくて……勉強を教えて貰えませんか?」
雨の音が響く。
先輩は見知らぬ後輩のいきなりの頼みに困惑したのか、苦笑いしながら頭を掻いた。
「きっと俺よりも塾の方が上手く教えてくれるよ」
正論だと私も思ったが、もう引くわけにはいかない。
私は精一杯恥ずかしそうに身を縮める。
「その……貧乏で。サッカー部とか忙しいと思うから……迷惑じゃ無ければ」
「ああ、サッカーはもうやってないんだ」
「なら、お願いしますっ! どうしても、絶対行きたいんです!」
僅かに先輩の表情が曇っていた。
ただそれも短い間で、すぐに真剣に考え込んでいる。
『私』ならこんな怪しい頼みは即答で断るが、先輩は切羽詰った様子の頭のおかしい後輩を無碍にすることは出来なかったらしい。
「わかった。週に一度くらいなら」
「本当ですか! やったぁ! 言ってみるもんですね」
一通り小さな身体を子供のように大きく使ってはしゃいでから、私は彼の気が変わる前に手早く日取りを決めてしまう。
そして内心では新たに得た機会を利用して、不可解な存在であるこの先輩の弱点を探ることが出来ると怨みの篭った笑みを浮かべて喜んでいた。
本当に彼が表裏のない真っ直ぐな人間だと思い知らされることも知らずに。
眩い程に誠実であるが故に、自分のクズさを再認識させられることにも気付かずに。
そして、疑う必要がない先輩の優しさがどれだけの平穏を私に与えたのか。
本当の絶望に先輩が落ちた時、『私』は先輩が伸ばした手を払うことが出来なかった。
一緒に地獄に堕ちてもいい。
そう思った。
違う。私こそが彼の手を必要としていたのかもしれない。
強制的に幾度となく見せられるわざとらしい私の無邪気さは『私』にとっては気持ち悪いし、打ちのめされることは多かった。
それでも、この日の私の判断は誤りではなかったと今の『私』も思っているし後悔もしていない。
先輩と過ごすことが出来た数年間は、私にとってかけがえのない一時となったのだから。短い人生において唯一輝いていた宝石のような日々に。
結果的に私の存在が彼を最悪の不幸に陥れたのだとしても。
護りきれなかったことは後悔しても、出会ったことには後悔していない。
だけど私は借りを返せなかった。
それは私の安い命では賄えない程のもの。
だから『私』は奇跡が起きない限り、意味のないことを世界に誓った。
何かの間違いでもし先輩と再会出来るのなら…………。
結局、『私』が一番嫌っていた私は、最期の時まで貰った傘を護り通した。
大切な思い出になる。そんな針の先ほども無い可能性を、この時の私は心の何処かで信じていたのかもしれない。