第二十六話 幻想の終わり
耐え切れない程の光を腕で遮り、収まるのを待ってゆっくりと目を開けると、周囲の色は元に戻っていた。
色彩は鮮やかなものではない。すぐに目に付いたのは、たったの二色。
どこまでも続く赤茶けた土の色。そして、突き抜けるように澄んだ空の蒼だけだ。
「ど、どうなったんすか?」
ウルクが慌てた様子で俺に駆け寄る。本当に時間は僅かしか経っていないらしく、彼は油断なく槍を構えている。ゼムドやシーリアも同じだ。
しかし、あの時間が真実だった証として、剣を構えていたクルスは落ち着いた様子で剣を納めていて、アリスも終わったことを確信し、つまらなさそうな表情で俺の傍に立っていた。
「終わったよ。ウルク」
「えっ……」
俺は先程まで巨大な熊がいた方向を指差す。
そこには白い世界で話をした女性がそのままの姿で横たわっていた。熊の姿は仮初のものであったのか、服も破れていないし、負傷している様子も見受けられない。
「そのまま起きて下品なことを言いそうね」
嫌そうにアリスは呟く。彼女の言う通り、すぐに起きて元気に話出しそうなくらい、アリエルは穏やかな表情で静かに眠っていた。
だけど、その肌は青白く、永遠の眠りであることは誰の目にも明らかである。
胸が小さな刺で刺されたように痛む。
白い世界での活力に溢れた彼女を見ただけに、今の彼女の姿は俺には信じ難かった。
「こいつ、好き放題に言ってた」
クルスがアリエルの傍に屈み、頬を人差し指で突っつく。クルスに変わり果てた彼女を哀れんでいる雰囲気はない。ただ、少しだけ残念そうだった。
「よほど名のある聖職者だったんじゃろうな」
「そうだろうね」
ゼムドの感慨深そうな独白に、俺は彼の顔を見ず、短く肯定する。
彼は何か言いたげに髭を触ったが、それ以上何も言わなかった。
「ふむ……まぁ、とりあえず埋葬するか」
しかし、危険が無いことは理解したのか、ゼムドはようやく警戒を解き、大きく息を吐いてアリエル以外の死者の方へと目を向ける。
彼女を縛っていた結界の術式もいまや完全に崩壊しており、ジューダスに半ば人柱にされた形のゼムドの仲間達も解放されているようだった。
「こやつらの任務も終わったことだしの」
ゼムドの表情は読めない。
淡々としているが、恐らくは心の中は穏やかなものではないだろう。それとも彼にとってこれは普段のことで慣れてしまっているのだろうか。
死者に対しては明白に無関心なアリスと違い、判断は難しい。
《その場に眠る死者は我が送ろう》
脳裏に頂上で出会った炎の竜、ガラルの重い声が届く。
威厳に満ちた彼の声を初めて聞いたゼムドやシーリアは周囲を慌てて見回していたが、その姿は近くには見えない。恐らく声だけを届かせたのだろう。ガランドフレイに準備をさせるために。
準備もなくあの精霊に近付かれては、それだけで焼き殺されてしまうから。
「あの赤い竜は頂上から動けるの?」
「奴もまた己の役割から解放されたのだ」
首を傾げていたクルスに、ガランドフレイが多少の羨望が混じった表情で答えた。
聖輝石は既にクルスの手元にある。その守護の役割を担っていたガラルとの契約もアリエルがクルスを認めたことで終わったらしい。
ガランドフレイの想いは俺にはわからないが、微笑んでいるようにも見える。
彼は頂上でそうしたように炎を和らげる結界を作ると、全員にアリエルの周囲を空けるように伝えた。
「おおおおおおお、あんな大きいのが空を本当に飛んでるっすよ!」
「迫力あるわね。物語に出てきそう」
「格好いい」
仲間達は先程までの死闘など忘れたようにはしゃぎながら、天空を舞い始めた巨大な炎の竜を指差す。彼らが興奮するのも無理はない。俺も同じ想いだからだ。
幻想の世界が今ここにはある。
子供っぽいと否定していたその光景は、冒険に出るときに心の奥底で描いたそれではなかったか。
「まさか自分がこんなものの立会人になるとは」
思わず苦笑いしてしまう。
もう少し俺は地味な冒険を意識していたはずなのに、現実はこうだ。計算を間違えすぎて、クルスやシーリア、ウルクほどに俺は素直にはしゃげない。
透明に近い白い霧が満ちるとガラルはアリエルが眠る場所にゆっくりと降り立った。
おそらく彼女の身体は炎の巨竜と重なった時、瞬時に跡形も……灰すらも残さず消滅したのだと思う。離れた場所で眠っていた他の死者達も次々と蒼い炎に包まれて、一人一人姿を消していった。
その時にはみんなも口を閉じて、それぞれの形で彼女達の旅立ちに祈りを捧げていた。
俺自身も宗教とは縁がないが、それでも黙祷を捧げる。こういうことは心の問題だろうから。
《災いを運ぶ者、そしてその仲間達よ。よくぞアリエルの魂を救ってくれた。礼を言う》
数分間の沈黙の後、ガラルは口を開く。
死という概念の無い、精霊である彼もまた彼女を悼んでいたようだった。
《契約は消えた。我もまた定められた使命を終えて消えることになるだろう。その前に我はお主らの勇気に報いなければならない》
「噴火は止まりますか?」
気になっていたことだ。どのような方法で噴火を抑えるのかまでは彼は語っていない。ガラルを疑うわけではないが、全員の生死に関わる以上は確認はしておきたかった。
俺の遮るような問いに、気を悪くした様子もなくガラルは鷹揚に頷く。
《完全には止まらぬ。自然とはそれほど容易いものではない。だが、遅らせることはできる。それが数年か、数十年かは神ですらわからぬだろうが》
この場に存在している神に当てつけるようにガラルは言い、ガランドフレイは鼻を鳴らしてそれに応えていた。
ガラルの答えは俺にとっては十分である。最低限のことをするだけの時間はこれで与えられるのだから。後は受け取る人達の意思次第。
それ以上は俺の関知するところではない。
「助かります。ありがとう。ガラル」
《せっかちな男だ。我はまだ礼をしておらぬのに》
何故か苦々しくガラルは首を横に振る。
あの陽気なアリエルと八百年も関わってきたことを知ってしまったからか、炎の竜のその動作はどこか人間臭く見えた。
《精霊の術の素養を持つのはお主だけか。災いを運ぶ者よ。名は?》
「ケイト。ケイト・アルティア」
《ケイト・アルティアよ。お主が必要とするとき、我は一度だけ力を貸そう。お主ならば仲間達のことをも考えて力を用いるはずだからな。それが命懸けの頼みを引き受けてくれたお主達への我の礼だ》
ガラルは笑っているように見える。
炎の竜の表情はわかりにくいが、間違ってはいないはず。ただ、その笑みはガラル自身に向けられているような気がした。
《偉そうに言ってはみたが、本当はお主がそんな人間かは我にはわからん。我もまた万能ではないし、お主を良く知る時間も残されておらぬ。精霊の勘を信じる他はないのだ》
「他に方法はない……ということですか」
《そうだ。こうしなければ噴火は抑えられぬ。ただ消滅しただけでは、火山に力が満ちて即座に噴火してしまうからな。我を封印するしか道はない。それならば……》
そこまで話すとガラルは再び空に飛んだ。同時に地鳴りが響き始め、全員が立っていられずに、地面に伏せる。ガラルが何かしているらしい。
地割れまではしていないが、能力を使い、硫黄や間欠泉が吹き出さないか細心の注意を払う。
「うお、あの竜まだ大きくなってるっすよ!」
伏せたままウルクが叫ぶ。
彼の言うとおり、空を飛んでいても一目でわかるほどに、ガラルの身体は巨大になっていた。
俺の目にはガラル火山全体から薄い光が炎の竜に伸びているように見えている。噴火するための火山の力を自身に集めているのだろうか。
どれくらいの時間が流れたのかはわからない。体感的には三十分程だと思う。
そこで地鳴りと炎の竜の巨大化が止まり、こちらへ落下するように速度を上げて近付いて来た。竜の形を失いながら。
《我は借りを返すその日まで、依代の中でお主らの旅を楽しませてもらう。友よ……さらば》
そして、俺達の視界が紅く染まり、その全てがクルスが持つ赤い聖輝石へと吸い込まれていった。
「いつかまた……」
ぽつりとガランドフレイは呟く。
一瞬の出来事に心を奪われたのか、誰も他には口を開かず、周囲は静寂に包まれていた。その間に霧のようなガランドフレイの結界も消えていく。
「お主達には感謝してもしきれぬが、ガラルが完全に消えた以上、我が力もまた失われることになる。ガルム自身が力を得るまでは道案内が精々だろう。すまぬ」
幻想的な白い光景が失われていく中、彼は俺達に頭を下げた。俺達に気を使っている様子であったが、その表情はどこか晴れやかだ。
友人達の結末に彼も安堵しているのだろう。
「それで十分です。その代わりガルムのことだけはお願いします」
だから、本心から俺はそう言った。
「欲がないな。神に恩を売る機会であるのに」
「代償は原因を作った奴等から取立てますから」
俺が冗談めかして笑うとガランドフレイもまた、満足したような微笑を残して、ガルムの中へと戻っていった。
全てが終わると現実が残った。
幻想は全て消え去っている。何事も無かったかのように。
山肌を被っていた無数の下級精霊すら、その殆どが姿を消している。
この場に残る、無数の激闘の証拠が残っていなければ俺はまず、自分の記憶を疑ったかもしてない。
そして、普通の火山だけが残った。
普通が何かは他の火山を知らないため、比べようがない。ただ、俺はそう感じていた。
「波模様付いた」
ちょっと嬉しそうに聖輝石を眺めていたクルスの呑気な声で、俺は厄介な石の存在を思い出して溜息を吐く。一つの問題は解決したが更に多くの問題が俺の前に山積みにされた。
「頭が痛いな」
この石は火山の力を集めたガラルを完全に取り込んで尚、まだ余力を残しているようだ。
元々やばそうな代物ではあるが、更にやばい代物に進化したんじゃないだろうか。
この石の力の底が全く見えてこない。
最大の問題はそれだけ危険になった代物の存在を、敵対していると言っても過言ではない組織、リブレイスに所属しているゼムドとアリスに知られていることだろう。
事情を知らないアリエルやガラルを責めるわけにもいかないが、状況が悪化したことだけは否定できない事実だ。
「クルスは気にならないのか?」
「ケイトとお揃い。気に入ってる」
だが、彼女にはとっては聖輝石もその程度で、何もかも関係ないらしい……。
と、この時は思ったのだが、彼女の表情はそれを否定していた。
「アリエルは満足していたし、ガラルもそう。ガランドフレイも納得している」
クルスは腰の袋に聖輝石を無造作に仕舞うと、俺の額を指で突つく。
「だから、哀しいことは終わり。後は守りきればいい。単純」
子供のように無邪気に笑うクルスに、俺は苦笑いしながら頷くしかなかった。
クルスは彼女なりにしっかり考えていて、それでも前だけを向いている。
彼女の切り替えの速さは見習うべきなのかもしれない。