エピローグ 彼女達の復讐
古めかしい酒場に特有の染み付くようなアルコールの匂いがしない、比較的新しい馴染みの酒場には、珍しい客が訪れていた。
僕の前に座って美味しそうに酒を飲んでいるカイルも、意外そうな表情で彼女を見詰めている。
他の客も何人かは驚いているようだ。
僕自身も此処に彼女が姿を表すとは思っていなかった。
カイルは直ぐに友好的そうな人懐っこい笑顔を浮かべ、彼女に手招きする。
「おー! アリスちゃん。こっちこっち! おい、ホルス。椅子一脚持って来いよ」
「はいはい」
僕は苦笑しながら、椅子を僕とカイルの間に椅子を用意する。
どうせ用事は僕達にあるんだろうから、彼の判断は間違いではない。
彼女……煌めくような金色の髪と氷のような美貌、それを台無しにする死んだ魚のような暗い目を持つ少女。
『呪い付き』のアリスは一人で僕達、リブレイスの中でも直接『姫様』に仕える派閥の拠点である酒場に足を運んでいた。
「珍しいね。君がこちらに来るなんて」
「同じ組織なのだから、構わないでしょう」
「確かに同じ組織だけどね……」
僕はアリスに苦笑を向ける。彼女は全く動じている様子はない。
派閥と言ってもジューダス・レイトの力は圧倒的だ。
他の全ての者を合わせても果たして勝てるのかどうか……。
むしろ、彼に『リブレイス』は必要なのか実際のところ僕には疑問だ。
圧倒的な経済力、人脈、呪い付きの不思議な力……。
だが、事実として奴は『姫様』に忠誠を誓い、組織の発展に力を尽くしている。
従順に。誠実に。それこそ手段を選ばずに。
まるで悪魔のように。
他の幹部達を相手にするときは小馬鹿にするように笑いながら、世間ずれしている『姫様』にだけは逆らわず、絶対の忠誠を誓っているのだ。僕には奴がさっぱり理解できない。
「僕達は君の上司の邪魔をしたから、殺されるかもと思っているのに」
「欠片も思っていない事を言うものじゃないわ」
わざとらしくおどけてみたが、アリスは興味なさそうに断定する。
そう……彼は、自分の邪魔をされても、楽し気に薄く笑うだけなのだ。
おそらくは今回も。
僕は彼が何を狙っているのかは大体の検討が付いている。
その結果、組織が巨大になることもわかっていた。
だが、邪魔をした。
『湖の民』の願いを利用し、『姫様』から命令を引き出して。
「まあまあ、細かいことはいいじゃないか。乾杯しようぜ」
「『クラストディール』退治お疲れ様ってところかな」
「いやいや、ホルスとアリスちゃんの完全敗北、残念でしたってところじゃね?」
木製の大きなジョッキで既に二杯目に入っているカイルが大笑いし、アリスは彼の意外な発言に少しだけ身体を震わせて反応した。
「僕は負けてないよ。目的は達成したし」
「そうか? まあ、流石は俺の弟だったな」
愉快そうに笑う兄馬鹿の方を向きながら僕は息を吐き、小さく首を横に振る。
カイルは単純だけど意外と鋭い。あの弟にして、この兄ありか。
性格は全然違うけど。
「何故私が負けたと?」
「俺の弟は真面目だからな。あいつがいるところは、一番危険な場所のはず」
「会議の情勢を知る者の中で一番邪魔しそうなのは君だったしね」
だが、彼女自身はあの島に現れなかった。
わかったのは、どんな手段を用いたのかはわからないが……湖の民、ウルクを利用したことだけだ。だが、カイルはそれを彼女の仕業だと断定している。
「その後の毒殺は完全に予想外だったがな。助けられちまった」
「う……まあ、そこはね」
意地の悪い笑みを浮かべ、カイルは僕の方を見る。
ケイトは僕達が旅立った後も真面目に薬師から指導を受け続けたのだろう。
あの親友の恐ろしいところは、膨大な知識や知性ではない。
地道に一歩ずつでも止まることなく確実に進んでいく、あの性格だと思う。
今回の毒を見抜いたのもそうした積み重ねの結果なのかもしれない。
「まぁ、ジューダスはよくぞ『姫様』の命令をこなした。と、喜んでいたわ」
「お褒めに預かり光栄です。と伝えておいて」
僕が『リブレイス』の強大化を防いだ理由がこれだ。
ジューダスにとって、僕達はまだ敵にすらなっていない。
目に止まっているのかすら怪しい。
彼の計画が今始まれば、僕達はただの有象無象で終わってしまう。
それでは、僕とカイルの目的は達せられない。
僕達二人の立場が一定の所に這い上がるまで、彼の計画が実行されては困るのだ。
ジューダスが僕達を利用する気になるまでは。
「それでアリス。それを伝えに来た訳ではないんだろ?」
「……そうね」
アリスは頷いて、光のない目を僕へと向ける。
「私に協力して欲しい」
「内容によるね」
私に……か。これも珍しいことだ。
『呪い付き』が、ジューダスを通さずに自分達に助力を求めるというのは珍しい。
彼等は僕達を何処か下に見ているところがあるからだ。
「ケイト・アルティアの監視に私が選ばれるよう、『姫様』に口添えして欲しい」
「それはまた、不思議な頼みだね」
「おいおいアリスちゃん。まだ弟の命を狙うなら夜道が危なくなるぜ?」
冗談めかしているが、カイルは本気で殺すつもりだろう。
アリスが弟と同年代なせいで妙な甘さを見せているが、それが無ければ彼女の命は恐らく既に無い。カイルは敵に対しては、まるで容赦がないのだ。意外な程に。
だが、アリスは少しも動ぜず、カイルに対して薄らと笑みを浮かべる。
「彼の命を狙う気はないわ。むしろ、私以外が選ばれる方が危険」
「……どういうことだ?」
「貴方の『勘』は正しかったということよ」
遺跡の中の石は危険な代物だったらしい。
僕は別にあいつに渡して、貸しを作るのもいいかと思っていたのだが……。
もし、奴が本気で奪う気であれば、確かにケイトがまずい。
「あの石は『聖輝石』。奴はそれを集めている。碌なことは考えていないでしょう」
「石集めが趣味……なんてことはないだろうな。いいのか? 俺達に情報を流して」
「いいのよ」
表情に出さないように注意しながら、僕は内心感嘆していた。
奴の近くにいればその恐ろしさは容易に理解できるはずなのに、彼女はそれを全く恐れていない。
勇気があるのか、恐れない何か理由があるのか……それとも狂っているのか。
「協力の見返りは?」
「私が貴方達に協力しましょう」
思いがけない提案だった。
彼女を味方に付けるメリットは確かに大きい。
『呪い付き』であれば、ケイトのように妙な知識を数多く持っている可能性も高いし、ジューダスに協力している者の情報も集めやすい。
彼女の裏切りというリスクはあるが……利用価値はある。
「だが、わからんな。石が欲しいという訳でもないんだろう」
「一目惚れしたの」
真顔でぽそっとそんなことをアリスが呟き、カイルが固まって黙り込む。
僕自身も何と返せばいいのかわからず、思考が止まった。
「……冗談よ」
「脅かせるなよ。信じそうになったじゃねえか」
苦笑しながらカイルは酒をあおる。
「私には私の目的がある。彼にはそのために生きていてもらう」
「弟に危害を加えるつもりはない……と?」
「ええ。ケイトにはね」
アリスは用意してもらった果実水を飲みながら、落ち着いた口調でカイルに答える。
「僕は構わないと思うよ。困った時はお互い様だしね」
「物わかりがいいわね」
理解できないことは多いけれど、彼女を最大限に利用して、リスクより大きな物を得ればいい。彼女程度を扱えなくてどうしてジューダスに勝てるのか。
例え彼女がケイトを狙おうとも構わない。
ケイトの能力なら……僕の想像が正しければ、彼女はどうせ勝てないのだから。
「カイル。彼女の護衛を此方に選ばせてもらえば安心だよ」
「そうか……」
だが、カイルは余り納得していないようだ。
ケイトと同じ色の瞳に静かな怒りを浮かべ、彼女に視線を向け続けている。
「嫌な予感しかしねぇんだよ。何を企んでいる?」
「何も」
静かに一言だけアリスは呟く。
「貴方の選ぶ護衛に裏切れば殺すよう、命じて置けばいいでしょう」
「……ホルス」
「わかってるよ。一人は考えてある。彼は『姫様』の命令を言葉通り受けてくれるし、絶対にケイトを襲わない。それどころか喜んで護ってくれるはずさ」
カイルは少しだけ悩んだようだが頷いた。
アリスも小さく頷き、席を立つ。用件はそれだけだったのだろう。
「帰るわ。私の力が必要なら連絡すればいい」
「わかった。これからは仲間だね」
皮肉を込めて、僕は笑顔で彼女に手を差し出した。
当然のように彼女はそれを無視し……入口の前で足を止める。
「忘れていたわ。エールで面白い噂を聞いたの」
「何かな?」
此方を振り向いた彼女は小馬鹿にするような笑みを浮かべ、僕の方を見て嗤う。
「売名は悪いとは言わないけれど、内容は選ぶべきね」
「どういうことかな?」
確かにカイルの名を上げるために、僕は人を使っている。
あざといが名声を効率的に作るために。
「ホルス……貴方が男色だという噂が流れていたわ。協定が再開すれば、直ぐに三国の港街、全てに同じ内容が流れるでしょうね」
「……は?」
それだけを伝えると彼女は酒場からあっさりと出て行った。
呆気にとられる僕達を残して。
「ぷっ……くくく……っ!」
どういうことなのかを察したらしいカイルが肩を震わせる。
冷静に考える……これが意図的に……悪意を持って流されたものだとするならば。
「こりゃ、クルスちゃんの仕返しだな。あの娘は昔からきついからなぁ」
「僕は本当に苦手だよ。クルスが一番……全く読めない」
苦笑いするしかなかった。
ケイトにはこんな質の悪い嫌がらせは思いつかないはずだ。
恐らくクルスとあの獣人……シーリアが考えたに違いない。
何という嫌がらせだろうか。
カイルは女好きで通っているから影響は少なく、僕だけが被害を受けることになる噂だ。
「本当にケイトは楽に勝たせてくれないね。というか、三対一はずるいよ」
「ま、頑張れホルス。俺は頼りにしてるぜ。あ、でもしばらく離れててくれよ」
「カイル……」
げらげら笑い続けているカイルを一度睨みつけると、諦観の念を込めた溜息を吐き、嫌なことを忘れるために、目の前の酒を飲むことにした。
自棄酒のツケは翌日、きちっと支払うことになったが。