第十八話 狂った提案
翌朝、他の二人よりも先に目を覚ました俺は、宿の主人から貰った冷たい水で顔を洗い、身嗜みを整えて、宿の外で少しだけ体を動かす。
故郷であるクルト村よりも温暖なエールは、冬以外は常に湿気の混じった生温い風が吹いているらしく、今日も爽やかとは言い難い、すっきりしない感じである。
だが、漁師の街でもあるエールの朝は早く、漁師達による適度な賑わいが始まっている。
あまり静かでも落ち着かない俺としては、昨日の夜に考えたことを冷静に整理するには十分な環境だった。
「兄さん若いのに大したもんだな。『クラストディール』を倒しただけはある」
「ありがとうございます。それからすみません、無茶を言って」
「いいよいいよ。お前さん達のお陰で客には困らん」
人の良さそうな初老の主人が、宿の前を掃除しながら穏やかな表情で笑う。
『クラストディール』を俺達が倒したことで、彼の経営する食堂は連日連夜、大勢の客で賑わっていた。
単純に客が増えることを喜ぶわけにはいかないはずだ。
彼の身体は一つしかなく、いつまで現在の状態が続くかわからないのだから。
普段と違う料理の材料の仕入れ、大量の注文による重労働……それをチャンスと取るには宿の主人は年を重ねすぎているだろう。
そんな無茶をさせた上で、すぐにでも宿を発つと彼に告げたのだ。
「まあだが、複雑な気分ではあるな。実は『水龍亭』の水龍というのは、クラストディールのことなのだよ。まさかうちの客が倒すとはなぁ」
初老の主人は、箒を持ちながら腕を組み、感慨深そうに頷く。
さすがに何と返せばいいのか困り、俺は苦笑して左手で髪を弄った。
「ああ、責めてるわけじゃないんだ。君で良かったとすら思っておるくらいなんだ。他の者であれば、大喜びであの魔物を貶しただろうからな」
「そういう気にはなれませんでしたね。とても」
あの召喚装置を見れば……とてもそんな気にはならない。
それは命懸けで何かを守ろうとした者を冒涜する行為だろうから。
「宿を長年続けておるが、あんたは始めてみる客だよ。英雄の若い頃ってのはこんなのなんかねと思ったんだ。同時にちょいと危ないなとも思ったが……あ、いや悪い」
「構いません。続けてください」
「変わっとるなぁ。そう……流れる水に逆らうように生きておるなと思ったんじゃ……爺の戯言とでも思ってくれればいい」
敬虔な水の神の信者らしい言葉だが、意味はなんとなく理解できる。
色々と解釈出来る言葉ではあるが、それだけ俺が危なっかしかったのだろう。
俺は頭を下げて礼を言った。
初老の主人はそんな俺の肩を軽く叩き、にやりと笑う。
「で、実際、どんな魔物だったんだ? ずっと聞きたかったんだ」
「水龍の名前に恥じない、巨大で格好いい魔物でしたよ。二度と会いたくはないですが」
「そうかそうか……! お、そうだ。絵で書いてくれんかね!」
「いいですよ。時間が無いので簡単にでよければ」
無邪気な子供のように喜ぶ初老の主人のために、他の者が起きるまで俺は主人の質問を受けながら、あまりうまくもない絵を書いた。
現実に戦った気味の悪い悪魔のようなものではなく、遥か昔に楽しんだゲームに出てくるような幻想的な水龍の絵を。
三人が起きて朝食を食べ終えると、普段と変わらず静かに椅子に座っているアリスに対して、予定通りに話を切り出す。
彼女は感情を感じない瞳を俺に向けていたが、一度ずつクルスとシーリアに顔を向け、納得したように小さく頷いた。
「護衛の仕事は打ち切りたい」
「理由は?」
金色の流れるような髪、整った顔立ち。
まだ少女と呼べるような歳にも関わらず、掛け値なしに美しいとは思うがその表情は冷たく、どうしても好意は持てない。
『クラストディール』を退治することを通じてそれに慣れはしたが、仲間と呼べるかというとそれは違う。敵とは言わないが味方とも言えない。
組織を考え、その上司を考えれば敵に近いと考えるべきだろう。
彼女の発言で気になることはあるが……。
「入国許可証が出たんだ。ヴェイス商国に向う」
「なるほど。しかし、船は?」
「ウルクは『湖の民』の島まで行けたんだ。探せば無茶をしてでもって人はいるよ」
恐らくはいるだろう。金は掛かるだろうが……それなりに蓄えはある。
ディラス帝国とは問題が起こっているがヴェイス商国とはそこまで問題にはなっていない。湖賊の問題は残るが、安全な船頭を選ぶ方法はある。
「唐突ね」
「遅すぎたくらいだよ」
俺の言葉にアリスは薄らと微笑んで、小さく頷く。
「構わないわ。元々正式な契約ではないのだし」
「悪いな」
彼女は考える素振りもなく、あっさりと了承する。
まるで、予想していたというように。
そして、少し考えるように俯き、顔を上げて続ける。
「ただし、条件……いえ、これは変ね。お願いがあるわ」
「聞けるものなら」
「簡単なことよ」
アリスは右側だけ別に括った髪に軽く触れながら、真っ直ぐに俺を見つめる。
その瞳には初めて見る感情の色があった。
前に見た憎悪のようなものではない。
明るい雰囲気の何か……そんな風に俺には思えた。
貿易都市エールの街中を、アリスと並んで歩く。
何を考えているのかはわからないが、彼女は別段楽しそうでもなく、ただゆっくりと街の中を観光するように歩いていた。
彼女の頼み……それは『二人』でエールの街中を歩いて欲しいというものだ。
何の意図があるのかはわからない。
ただ、護衛の拒否の意味はわかっているからか『リブレイス』の拠点や、人気のないところには近付かないという条件を向こうから切り出してきたため、頼みを引き受けたのである。
探知をすると、クルスとシーリアは少しだけ離れて護衛してくれていることがわかる。
俺達は昨日の話し合いで護衛を断った後は絶対に二人きりにはならないと決めていた。
だから二人に確かめるまでもなく、しっかりと付いてきてくれている。
「それで話は何かな」
「無粋ね。デートを楽しみなさい」
露店の小さなアクセサリーを触りながら、アリスはこちらを向く。
とても楽しめる気持ちにはなれないが……冗談を言う彼女は今までにない楽し気な表情を浮かべていた。何時もの無表情に比較してだが。
今になってどうして……そう思わないでもない。
ただただ、そんな彼女を見て苦笑する。
「悪いけど恋人以外とのデートを楽しめるような甲斐性はないんだ」
「わかってはいたけど、本当に無粋な男ね」
まるで俺の答えがわかっていたかのように、くすりとアリスは笑う。
「話は難しいものではないわ。『リブレイス』に入りなさい」
「正気で言ってるのか?」
彼女は知っているはずだ。
サイラルの上司……ジューダス・レイトという男の部下なのだから。
『呪い付き』であるサイラルを俺は殺している。組織は俺の故郷を襲っている。
彼女個人がどうあれ、確実に敵だ。お互いに。
「上司からの命令なの。同士を仲間に引き入れろってね」
「ふざけてるとしか思えないね」
「私もそう思っていたけど、会って考えが少しだけ変わったわ」
歩みを止めて、アリスは不思議な光彩を放つ深い蒼の瞳でじっと俺を見た。
落ち着いていて静かで……どこか懐かしさと追い詰められるような圧迫感を感じる。
「改めて言うわ。『リブレイス』に入りなさい」
背の低い彼女は一歩近付いて俺を見上げる。
辺りは人通りが多く、喧騒も激しいのだが彼女の小さな声は、まるで遮る物が無いかのように耳に響いた……なんだ……この不安は……。
「お金では貴方は受けない。身の安全を口で約束しても信じないに違いない」
アリスは両手で俺の首に優しく触れる。
全身に鳥肌が立ち、思わず俺は後ずさった。
「代償として私が貴方の物になる。どんな命令でも聞く。死ねと言われれば死んでもいい。私の人生を差し出しましょう……どうかしら」
冗談であれば、どれ程いいだろうか。
彼女は間違いなく本気だ。冷や汗が流れ、俺は更に後ろに下がる。
「悪くは無いと思うのだけど。今は貧相だけど、数年すれば身体もましになる。それに自分で言うのも何だけど、私は役に立つわよ?」
「そういう問題じゃない……嫌っている相手に……何を考えている」
だが、アリスは普通の少女のようにきょとんとした表情を見せ、静かにくすくすと笑う。
「嫌ってはいないわ。嫌うわけがないわ。さっき歩いていて確信した」
「そんなこと……」
「残念ね。人通りが少なければ、身体で証明するのだけれど」
『クラストディール』やサイラル……強敵を前にした時とは違う恐怖が心に沸き上がる。彼女の瞳には……狂気の色は無い。だから余計に怖い。
あの時の憎悪は本物だった。
だが、今、彼女はおそらく本心から嫌っていないと言っている。
見間違いとは思えない。あれは何だったのか。
俺は気圧されないように歯を食いしばり、アリスを真っ直ぐに見る。
「どんな条件を出されても断る」
「そう……残念ね。ま、今はいいわ。今は断ると思っていたし」
断ったことに対して、彼女はさして残念そうな表情はしなかった。
この一連の会話をすることが目的だったのだろう。
「あ、ついでだけど、もう一つ上司の命令があったわ」
「何?」
「『精霊石』……いえ、『聖輝石』を私に渡して欲しいの」
カイル兄さんが直感で俺に預けたあの石は、常に身に付けている。
探知の能力を用いると、先ほどまで???としか表示されていなかった、石が『聖輝石』と、表示されていた。これが意味をするところは……。
俺はすぐには応えず、興味がなさそうなアリスの意図を図っていた。