第十二話 湖上の戦い 後編
時折飛んでくる水飛沫で目を痛めながらも俺は必死で狙いを付ける。
俺には目の前で痛みに狂って大暴れしている山のような化け物をどうこうする方法などは思い浮かばないが、アリスには考えがあるらしい。
彼女は魔術の習熟度も魔力もシーリアより上だが、絶対的な差とまでは言えない。
どんな方法なのか検討も付かない。
だが……。
どちらにしろ左目を潰すことには意義がありそうだ。
右目を失ってから、触手は大きく振り回しているが狙いは出鱈目になっている。
ある程度の効果はあるようだ。
「くっ……」
尖った頭を振り回し、何かから逃げるようにもがく『クラストディール』は大きな水音を立てながら暴れているため、狙いが上手く定まらない。
一度弓を引くのを止め、口で矢の羽根をくわえて両手の汗を拭き、弓を構え直す。
「ふぅ……」
息を吐いて、息を止める。
狙うのは顔を上げようとする瞬間だ。
『クラストディール』の頭は大きい。一度顔を上げれば水に落ちるまで、二、三秒はある。後は動きを予測すればいい。
慌てない。まだだ……。
小さく顔を上げ、直ぐに潜る。
「行く」
囁くようなアリスの声。能力を強めて確実に相手の頭を出してくれるということだろう。
見ていた限り、その能力を使う瞬間は彼女の表情は苦しくなる。
恐らく身体への負担は大きい。
……一発で決める!
相手が暴れて出来た波で大きく船は揺れる。だが、問題はない。
水面から尖った頭が見え……。
「……ふっ!」
息を吐き出し、指を放す。
「いい腕ね」
「……それほどでも」
はぁぁぁ……と大きく息を吐いて脱力する。
俺が放った矢は狙いを違わず、『クラストディール』の歪んだ左目に命中し、爆散させた。
「それで、この後はどうするのかな?」
そんな俺の問いかけに、金色の濡れた髪が目に入らないよう、シーリアに髪に手を入れてもらいながらアリスは薄らと笑う。
「あいつは今暗闇の中にいる」
「え……?」
「耳は退化している。鼻は効かない。身体も動かない。音は私に封じられている」
にぃ……と、口の端を持ち上げてアリスは笑みを浮かべた。
ネズミをいたぶる猫のような嗜虐的な表情……俺はそんな風に思う。
ネズミにしてはサイズが大きすぎるが。
「心は生まれて初めて感じる狩られる恐怖で染まっている。まるで子犬ね」
嬉しそうにアリスは声を上げて笑い……昏い瞳で俺の方を見た。
一向に慣れない……寒気が走る。
「ウルクに能力を解くから用心するように伝えなさい」
「能力を解いて大丈夫?」
「音波は完全に封じた。身体は封じきれなかったけど、視界に変わるものはない」
彼女の『心の蔓』というのは、持続の効くものなのか……わからない。
サイラルの『結界』より、謎が多い。敵になったら……。
畏れを感じるのを隠すように俺は歯を食いしばってから、叫ぶ。
「ウルク! 能力を解く! 相手は動くがこちらは見えない! まぐれ当りに注意しろ!」
「了解っす!」
アリスが何をする気かはわからないが、何かあれば言うだろう。
俺はシーリアが魔力を込めた残りの矢を手に取り、再び『クラストディール』を狙う。
今度の狙いは馬鹿でかい口の中だ。狙いやすい。
「さて……と。杖、借りるわね」
少しふらつきながら落ちているシーリアの杖を拾い、両手で持つ。
息も少し乱れ、倒れないようシーリアが後ろに控えていた。
「大丈夫?」
「魔力は消費していないわ」
微妙にずれた返事を返しつつ、アリスは一度深呼吸し、杖に意識を集中する。
「全員、私が魔法を使うときは伏せなさい……死にたくなければね」
それだけ警告すると、彼女は静かに魔法を行使するための詠唱を始める。
普段聞き慣れているシーリアのものとは少々異なるようだ。
「ディラス式ね。詠唱を聞く限り、攻撃するようなのに思えないけど……」
「どんな意味があるの?」
相手の口の中に矢を放り込んでから一度下がり、シーリアに訊ねる。
アリスはその魔法に自分の魔力を全て注ぎ込むつもりらしく、かなり集中しており、頭の上で話す俺達を気にする素振りもない。
身体の自由を取り戻し、混乱し、狂ったように動き回る『クラストディール』を冷めた目で見つめている。
「複雑でわからない……けど、何かを細かく振動させてる……っぽい?」
「大人しく警告を聞いたほうがよさそうだね」
魔法への知識が深いシーリアですら理解できないらしい。
だが、彼女の口振りでは俺ならわかってもおかしくなさそうだった。
繊細な硝子のような透き通る詠唱はまだ続いている。
大規模な魔法であることは間違いない。
「『正と負を……生み出せ』」
「ちょ……ケイトこの子、標的指定してない! 全部威力に!」
「全員伏せろっ!」
杖に魔力を込めてアリスが杖を振り下ろし、そのまま杖を捨てて床に伏せた。
同時に何度もの爆音と悲鳴が上がり、視界が真っ白に染まる。
音が止むと辺りは静寂に支配されていた。
全員が声を失い、呆然としながら頭を振り、何とか立ち上がる。
ウルクも自分を取り戻したのか操船に戻っていた。
『クラストディール』を見ると白煙を上げており、ぴくりとも動かずに浮いている。
「まさか……雷?」
「似たようなものよ。あいつの近くに高電圧を生み出して流してやれば、鉄製の銛から体内に流れてくれるかもと思ってね。どうかしら」
電気の存在、原理を知るものはこの世界では少ないだろう。
彼女は魔法でそれを実現した……ということか。
「ちっ……しぶとい。まだ生きているわね」
能力を使ったのだろう。死んでいれば心もない……というところか。
悔しそうにアリスは舌打ちをしている。
だが、相手も明らかに虫の息だ。
巨体の殆どの部分は無傷なものの、頭は焼け焦げ、眼は潰れ、口の中も抉れている。
白煙が身体の至るところから、上がっていたことを考えると内部のダメージも大きそうだ。
「ウルク……止めだ! あいつのすれすれを通れ!」
楽しそうに兄が声を上げる。
ふとそちら見ると、バリスタの巻き上げを終え、兄は両手剣を構えていた。
すれ違いざまの一瞬で斬る気か!
「カイル兄さん、無茶な!」
「俺を信じろ! ケイト!」
「もう……! どうなっても知らないっすよっ!」
ウルクは左舷と相手の頭がすれ違うように迂回して位置取りし、場所が決まると全速力で船を走らせる。
俺も慌てて矢を番え、相手の接近に備えた。
なるようになるしかない。覚悟を決める。
ずっと離れて攻撃していたが、近付くと『クラストディール』の大きさは圧倒的だ。
大きな船の先端のような頭が迫って来て……。
「うおおおおおおおぉぉぉぉぉ!」
兄が吠える。
身体を回転させて遠心力を付け、すれ違いながら尖った頭の下に潜り込み、斜め下から力無く浮いている『クラストディール』を切り上げた。
クルスも至近から銛を撃ち、俺も続くように弓を放つ。
ガシィィィッ!
『クラストディール』の巨大な頭が通りすぎるのと同時に鈍い音が響いた。
俺は慌てて兄の無事を確認する。
「こ、怖ええええ……」
「無茶しすぎだよ。カイル兄さん」
手には剣が無かったし、吹っ飛ばされて大の字になって倒れていたが怪我はないようだった。
ふぅ……と安堵の息を漏らす。
先ほどまでビクビクと震えていた『クラストディール』はぴくりとも動かない。
出来すぎの結果だった。
初めに作った優位を生かしきり、そのまま封殺することが出来たようだ。
「死んだわ」
アリスが冷たく呟く。今度こそ死んだらしい。
結局、一番活躍したのは彼女だったと思う。
彼女の力がなければ、どうすることも出来なかっただろう。
……だが、まだ終わっていなかった。
それは最後の意地だったのかもしれない。
心を掴まれた事への怒りだったのかもしれない。
もて遊ばれたことへの恨みだったのかもしれない。
触手の一本が水の中から飛び出し、背を向けているアリスを狙っていた。
出鱈目に振ったものだろう。偶然のはず。
死んでいるし見えていない……最後のひと振り。本能だろうか。
戦闘を終え、油断していた俺達を嘲笑うかのよう触手を高々と上げる。
油断なく、じっと死体を見ていて一番初めに気付いたはずのホルスはアリスの方をちらりと見たが動かない……嗤っている……?
気付いたとき俺は走っていた。
俺は勢いのまま彼女を抱えると、床に転がる。
僅かの差で俺の胴体くらいはありそうな触手が、アリスの身体があった場所を通り過ぎて船に激突し、轟音を鳴らし、大きく船を揺らした。
「ごほっ! せ、背中……痛た……あ、危ない……」
船の角で強かに背中を打って息も出ない。
いや、湖に落ちなかっただけ、運がよかったのだろうか。
死んでいなかったのだろうか……いや、俺にも生死を確認する手段がないわけではない。
痛みが引くのを待ちながら全員のレベルを確認する……上がっていた。
最後まで気は抜いてはいけない。
当たり前のことだが、忘れないようにしなければと思いながら安堵の息を吐く。
「馬鹿ね。敵を助けてどうする」
「しょうがない。俺は馬鹿だから」
「え……?」
立ち上がって俺を見下ろしているアリスに、痛みを必死で堪えつつも俺は笑いながらそう答える。
彼女は暫く驚いた様子で黙って俺を見ていたが。
「そう……」
それだけ呟いて彼女は俺の側から去っていった。
何故か……これまで見たことのない程の憎悪に表情を歪めながら。




