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超兵器が出てこない 比較的史実に忠実な仮想戦記

1945年米軍が台湾上陸作戦と九州上陸作戦を行ったとき 日本はどうなっていくか 完全版 かなり長編です

作者: アントノフ
掲載日:2026/10/15

後書きまで本文の一部に使っているので、80000文字と少しあります。大変長くなってしまいましたが最後までお付き合いいただけると幸いです。

読了まで3時間程度かかります。

登場人物のタチアナはなじみのない赤軍に対する読者の目として入れています。名前が出てくる人物では彼女のみ架空の人物です。


序章 同志スターリンがお呼びです


1945年5月10日 モスクワ



 タチアナ中佐が机の上の日本語電報を読み終えたところで、上司が扉を開けた。


「タチアナ中佐、同志スターリンがお呼びです」


 彼女は顔を上げた。


「私を、ですか」


「日本の件だ。資料を持って行くといい」


 机には、台湾の戦況、日本政府の対ソ外交、極東へ向かう鉄道輸送、それに北海道の港湾図が重なっていた。タチアナは必要なものだけを革の書類鞄へ収めた。


 廊下にはまだ冬の名残の冷たさがあり、窓から差す光も白かった。執務室の扉が開くたびに煙草と紙、濡れた外套の匂いが流れてくる。細身で背が高く、腰の位置も高い。軍服の襟元から革帯、長靴まで手入れは行き届いていたが、飾り立てた印象はない。歩調が速く、すれ違う相手の方が自然に道を空けた。


 情報機関の上級将校で、日本語をほぼ母語のように読み、新聞、軍の文書、官庁の言い回しまで翻訳を挟まず扱える者はタチアナだけだった。長い訓練と実務で身につけた日本語は、単語の意味だけでなく、書いた側が何をぼかしているかまで拾えるため、情報部では日本関係の重要資料が最後に彼女の机へ回ってくる。


 スターリンの執務室へ通されると、机の上にはヨーロッパではなく極東の地図が開かれていた。


「Товарищ Сталин(タヴァーリシチ・スターリン、スターリン同志)」


「座ってくれ。日本の分析を書いたそうだな」


 タチアナは書類を開いた。


「はい。このまま進めば、日本は我々が北海道へ上陸する前に降伏する可能性があります」


 スターリンは黙ったまま続きを待った。


「満州へ入るだけなら間に合います。しかし、日本本土が先に降伏し、米英の占領が始まったあとでは、その占領地域へ軍を進めることはできません。同じ連合国軍同士で撃ち合うことになります」


「それで、情報部の提案は」


「日本を勝たせる必要はありません。降伏を少し遅らせます」


 タチアナは台湾を指した。


「米軍は台湾で戦っています。台湾は沖縄より広く、山地も深い。帝国陸軍は負けていますが、弾薬が続けばまだ時間を使わせられます。台湾で米軍を1週間長く止めることが、我々に1週間を与えます」


「日本へ武器を送るのか」


「日本本土へは送りません。台湾だけです。しかもソ連製の武器ではありません」


 タチアナは続けて別の紙を取り出した。


「ノモンハン以来、こちらに残った日本製兵器があります。対日参戦後には満州でも関東軍の倉庫を押さえられます。小銃そのものより、弾薬、迫撃砲弾、砲弾、通信器材、医療資材が使えます。帝国陸軍の規格品なら、台湾へ入っても出所を証明しにくい」


 スターリンが地図を見た。


「輸送は」


「第三国船と沿岸輸送を混ぜます。積荷の書類も日本側の在庫移動に見える形にします。全部を隠す必要はありません。連合国の船が、別の連合国の船を片端から攻撃したり臨検したりする状況ではありません」


 スターリンは少し考えてから口を開いた。


「同じ連合国の船を攻撃したり臨検はしないだろう。ただ、行きと帰りで喫水が違うのは不安だな」


 タチアナは地図の台湾を見て、ほんの少し笑った。


「では、帰りは砂糖とバナナを積ませて、喫水も同じくらいにしておきます」


 スターリンが視線を上げた。


「台湾にはあるのか」


「あります。行きの船だけ重く、帰りだけ軽いより自然です。それに、モスクワで砂糖とバナナが余って困る人はいません」


 数秒の沈黙のあと、スターリンは書類を閉じた。


「やってみたまえ。台湾の帝国陸軍には勝たせるな。だが、すぐには負けさせるな。できるだけ長く戦わせろ」


「Понятно(パニャートナ、了解しました)」


 タチアナは立ち上がった。


 そして、台湾がここまで重要な戦場になった発端は、2年前のカイロにあった。


第一章 台湾を自分たちで取り戻す


1943年11月22日 エジプトの首都・カイロ



 1943年11月、エジプトの首都カイロで、米国大統領フランクリン・D・ルーズベルト、英国首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席・蔣介石が会談した。史実のカイロ会議である。三者は、今後の対日作戦と、日本が敗れたあとの東アジアをどうするかについて話し合った。


 そこでまとめられたカイロ宣言には、日本が中国から奪った満州、台湾、澎湖諸島を中華民国へ戻す方針が明記された。ただし、それは戦後の領土処理についての合意であり、中国軍が台湾へ上陸し、自ら帝国陸軍と戦って奪還することまで決めたものではなかった。


 この世界では、蔣介石がそこからさらに一歩踏み込んだ。戦争が終わったあとに台湾を引き渡されるだけではなく、中国軍自身を台湾攻略に参加させたいと求めたのである。


 蔣介石は、台湾を示した地図の前で、ルーズベルトとチャーチルに同じ説明を繰り返した。


 窓の外には乾いたエジプトの光があり、会議室には紙と煙草の匂いが残っていた。机上の大きな地図は、何度も折り返された部分だけが白くなっている。蔣介石は端に細長く描かれた台湾へ指を置いたまま、二人の首脳から目を離さなかった。


「戦争が終われば台湾が中国へ戻る。それだけでは、中国国内では十分ではありません。台湾には中国軍も入って、帝国陸軍と戦ったうえで奪還したいのです」


 ルーズベルトはすぐには答えず、米陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将へ視線を向けた。マーシャルは地図を見たまま確かめる。


「中国軍を海の向こうへ出すとなると、輸送船と上陸用舟艇が必要になります。中国本土から精鋭部隊を抜けば、帝国陸軍がそこへ兵力を集中して攻撃してくる可能性があります。その点は承知されていますね」


「承知しています。それでも、戦後に連合国から行政権を受け取るだけでは困ります。中国も戦勝国として台湾の地面を踏みたいのです」


 蔣介石の主張には、軍事上の必要性だけでなく政治的な意味もあった。日中戦争を長く戦ってきた中国として、最後に台湾だけを米軍から引き渡される形は避けたい。その意図はルーズベルトにも伝わっていた。


「では、参加兵力、指揮系統、上陸後の担当区域を一つずつ決めましょう。台湾攻略そのものが採用されるかは、まだ決まっていません」


「それで結構です。ただ、中国軍が参加することだけは計画の最初から入れてください」


 会談の席では、それ以上決まらなかった。


 しかし台湾は、戦後処理の対象ではなく、連合軍の作戦目標として改めて地図の中央へ置かれた。


第二章 CAUSEWAY


1944年9月20日 ハワイ・真珠湾



 米陸軍第10軍司令官サイモン・B・バックナー中将は、台湾攻略案CAUSEWAYの兵力表を前にした。


 バックナー自身、台湾攻略には支援部隊と補給の不足が大きいと考えていた。それでも中国政府からの政治的な働きかけと、台湾を中国沿岸作戦の足場にしたい海軍側の意向が残り、CAUSEWAYは実施計画として生き残った。


「戦闘師団だけ数えても、話はまとまりません。台湾で困るのは、むしろ上陸したあとでしょう」


 バックナーがそう言うと、参謀はうなずいた。


「港湾部隊、工兵、通信、輸送、医療、航空基地の整備要員まで入れると、足りません」


「台湾は南北に長い。高雄を取ったあと、台南、嘉義、台中、新竹、台北まで進むなら、その間の道路と鉄道を使える状態にしなければならない。帝国陸軍が山へ入れば、東側まで問題になります」


 机の上には、もう1枚、中国軍の参加条件をまとめた紙が置かれていた。


 中国側が必要としているのは、台湾を自力で奪還したという実績である。一方の米軍には、中国軍まで大陸から台湾へ運ぶ余分な船腹がなかった。


 バックナーは文面を読み直した。


「中国軍の参加は認めます。ただし、台湾へ来るまでの輸送は中国側で持ってもらうのが妥当でしょう。こちらは米軍を運ぶだけでも余裕がありません」


 上陸用舟艇まで中国側に求める案も出た。


「最初の敵前上陸は米軍が担当します。港や橋頭堡を確保したあと、中国側が自分たちの船で入ればよい。それでも中国軍が台湾で実際に戦ったことにはなります」


 この条件は重慶へ伝えられた。


 中国側では反発も出たが、結局は受け入れた。米軍に輸送してもらった軍隊が米軍の後ろから入るだけでは、自力で奪還したという印象が弱くなる。自分たちで船を集めること自体に政治的な意味がある、というのが蔣介石の判断だった。


 問題は、中国にそのための船が十分にないことだ。


第三章 高雄沖


1945年2月15日 台湾・高雄沖



 夜明け前の台湾南西海岸には、水平線を埋めるように艦影が並んでいた。


 高雄沖の海は、夜明け前にはまだ黒に近い藍色で視界は悪い。東の空が明るくなるにつれて艦影の下に鈍い青灰色の海面が見え始め、低い波の上には船の重油と排気の匂いが漂う。遠くで最初の艦砲が鳴ったあと、しばらくすると腹に響く低音が少し遅れて海岸へ届き、そのあとから沿岸砲の乾いた発射音が重なった。米海軍の空母群に加え、戦艦ミズーリやサウスダコタ級戦艦、巡洋艦、駆逐艦が海面を埋め、上陸船団の外周には無数の輸送船と揚陸艦が並んでいる。


 第10軍の地上兵力を運ぶ船団の外周には駆逐艦と巡洋艦が付き、さらに沖合には空母部隊が展開していた。夜明け前から艦上機が発進し、高雄、岡山、台南周辺の飛行場と交通線には数日前から航空攻撃が繰り返されている。


 日本陸軍第10方面軍司令官・安藤利吉大将の司令部にも、米軍が南西部へ来ることは分かっていた。


「高雄沖の艦艇は、昨日よりさらに増えています。左営方面にも掃海活動が見えます」


 参謀の報告を聞き、安藤は壁の地図へ目を向けた。


「海岸だけで決める戦いにはしない方がよいでしょう。米軍の火力を正面から受け続ければ、こちらの兵力を短時間で失います。第50師団には、高雄の防御と、その後の後退路の両方を考えてもらってください」


「港湾施設については、どの程度まで破壊しますか」


「米軍がすぐ使える状態で残す理由はありません。ただ、こちらが移動する前に自分たちの道路まで塞がないよう、順序だけは整理しておきましょう」


 その間にも、港の外ではすでに戦闘が始まっていた。


 掃海艇が上陸船団の進入路を確保し、駆逐艦は日本軍の沿岸砲台へ砲撃を加えた。戦艦と巡洋艦の主砲弾は海岸陣地だけでなく、後方の砲兵陣地や交通結節点にも落ちていく。空母機も高雄周辺の飛行場を繰り返し攻撃し、日本側航空機の集団離陸を妨げた。


 それでも日本側は航空攻撃を続けた。


 雲の切れ目から低く入った陸軍機が船団へ突っ込み、船団護衛の駆逐艦から海面近くへ対空砲火が集中する。1機が輸送船の近くへ落ち、別の1機は揚陸艦へ命中する。火災を起こした艦の横を、次の上陸用舟艇がそのまま海岸へ向かっていく。


 海岸へ達した米軍は、艦砲射撃と航空支援の下で橋頭堡を広げる。上陸後には戦車と野砲も次々に揚げられ、平地での火力差はさらに大きくなる。


 だが高雄を取れば台湾戦が終わるわけではなかった。


 第50師団の部隊は市街地と郊外で抵抗したあと北へ下がり、第12師団は台南方面で鉄道と道路を使いながら戦線を作り直した。嘉義方面には第71師団がいる。さらに北には別の部隊があり、台湾の中央には長い山地がある。


 バックナーは上陸から数日後、高雄港の被害状況を聞いた。


「限定的な荷揚げなら始められますが、大型船を継続して入れるには沈船と機雷の処理が必要です。荷役設備もかなり傷んでいます」


 バックナーは作戦日程への影響を確認した。


「港だけを見れば遅れます。ただ、海岸からの揚陸を併用すれば前線への補給は続けられます」


「それなら、港の復旧を急ぎながら、陸上の前進速度を補給に合わせてください。台湾でいちばん避けたいのは、先頭だけが進んで後ろが追いつかなくなることです」


 台湾戦は、米軍が勝っているのに終わらない戦いとして始まった。


第四章 中国軍が海を渡る


1945年3月4日 台湾・高雄港



 高雄港が一定程度使えるようになると、中国軍の輸送船が姿を見せ始めた。


 港にはまだ焼けた倉庫の匂いと重油の臭気が残り、海面には黒い油膜が細く光る。破損した岸壁ではハンマーと切断機の音が絶えず、荷揚げを待つ兵の列の横を、泥と煤で汚れたトラックが行き来する。中国軍の兵士が船から降りると、湿った南国の空気と、港にこもった焦げ臭さが一緒に押し寄せる。


 米軍の強襲上陸船団ほど整ったものではない。徴用された商船、貨客船、沿岸航路の船が混じっている。米海軍は作戦海域の警戒と航路情報は提供したが、中国軍専用の輸送船団を編成して運んではくれなかった。


 中華民国陸軍の孫立人中将は、上陸した部隊を見ながら幕僚に言った。


「ここまで来ただけでも、かなりの船を使いました。本土からさらに兵を抜けば、船だけでなく向こうの戦線も苦しくなるでしょう」


「重慶からは、後続部隊を増やしたいという話が来ています」


「台湾で中国軍が戦ったという事実は、もう作れます。数を増やすために中国本土の帝国陸軍を楽にしてしまっては、本末転倒です。その点は中央にも伝えてください」


 実際、中国本土では変化が出ていた。


 台湾へ回された部隊は、中国軍の中でも比較的装備と訓練の整ったものが多い。その穴を見て、帝国陸軍が局地的に前へ出始めた。中国側は後続部隊の一部を台湾へ送れなくなり、米第14航空軍も大陸側への支援を増やさざるを得ない。


 台湾の中国軍は後方警備にとどまらず、高雄から北へ進む戦線の一部を引き受け、帝国陸軍と実際に交戦した。


 蔣介石が欲しかった形は、少しずつできていった。


 しかし、そのために台湾戦そのものが短くなったわけではなかった。


第五章 沖縄から見えるもの


1945年4月1日 沖縄・第32軍司令部



 沖縄の第32軍司令部では、台湾上陸の報告を受けても、すぐに安心する者はいなかった。


 日本陸軍第32軍司令官・牛島満中将は、第10軍主力が台湾へ入ったあとも沖縄へ転進する可能性を参謀に確認した。


「台湾を早期に片付ければ、その後こちらへ向かう可能性は残っています」


「そうでしょうね。準備は続けます」


 沖縄は台湾より日本本土に近い。米軍が台湾を先に取ったとしても、次に沖縄を攻略して本土への基地とする可能性は十分にある。


 そこで第32軍は陣地構築を続けた。


 住民も、米軍上陸があるものとして動員される。飛行場には空襲が続き、海上輸送も細くなっていく。それでも上陸船団は現れなかった。


 春が過ぎ、夏になり、台湾戦がなお続いても、沖縄沖に米第10軍は来なかった。


 それでも、この段階では「飛ばされた」とはまだ言えなかった。


 その後、米軍は沖縄を攻略しないまま日本本土への上陸作戦へ移る。結果として沖縄は、太平洋を北上する飛び石作戦の中で、攻めずに残された島になる。


第六章 台湾の奥行き


1945年4月20日 台湾・嘉義北方



 台湾西部の戦線は北へ動いた。


 西部平野には水田と畑が続き、晴れた日には遠くの山地が薄い青色に見える。ところどころで砲撃に焦げた草木の匂いが混じり、道路脇では砂糖黍の葉が風に擦れて乾いた音を立てる。前線を離れると一見静かな農村に戻るのに、数km先では野砲の音が低く続く。


 台南から嘉義へ進むにつれ、米軍は帝国陸軍の陣地だけでなく、壊された橋と鉄道、破壊された道路に時間を取られる。工兵は前線の直後に入り、仮橋を架け、路盤を直し、港から来た燃料と弾薬をさらに北へ送る。


 帝国陸軍は、米軍の戦車と砲兵を相手に平地で正面戦闘を続けることを避けた。


 西部の交通線を使って後退しながら要所で抵抗し、山地に接する地域では縦深のある陣地を構築する。空襲で工場や鉄道施設を失い、燃料補給も細るなかで戦力は確実に減っていたが、沖縄のように狭い島の一角へ追い詰められる戦い方にはならなかった。


 安藤は補給状況の報告を受けた。


「小銃弾はまだ持ちますが、迫撃砲弾と野砲弾は部隊によって差が大きくなっています。燃料は航空部隊を中心に厳しくなっています」


「島外からまとまった補給が来る可能性は低いでしょう。残っている物資は、必要な地点へ集中させる方がよいと思います」


 参謀は台北を最後の中心にする案を出した。


「台北を中心にしながら、東側へ移れる部隊の準備も進めてください。米軍が島全体を自由に使えるようになるまでの時間を延ばします」


 台湾戦は、日ごとに日本側が不利になった。


 それでも、終わる日だけは見えなかった。


第七章 台湾へ送るもの


1945年5月~6月 モスクワ・極東



 ドイツの降伏でヨーロッパの戦争が終わると、ソ連軍の鉄道輸送は西から東へ向きを変え、戦車、砲兵、工兵、通信部隊、司令部要員がシベリア鉄道を通って極東へ運ばれていく。


 航空部隊も東へ回され、中心になるのは、ドイツ戦で地上軍の直前を飛び続けたIl-2「シュトルモビク」と、新しいIl-10である。戦闘機だけを増やすのではなく、砲兵陣地、車列、橋、鉄道、飛行場を低空から叩くための地上攻撃機をまとまった数で持っていく。


 この世界では、ドイツで鹵獲したJu 87「シュトゥーカ」のうち整備可能な少数機も、部品取り機と一緒に極東へ回された。ソ連製機ほど数はそろわず主力にはならないが、日本側の戦闘機が少ない地域で限定的な低空攻撃に使う。黒い十字を消して赤い星を描いた機体も、シュトルモビクに混じって東へ送られていく。


 タチアナ中佐の仕事は、その軍隊を直接指揮することではなかった。


 台湾へ何を送れば、米軍を最も長く拘束できるかを選ぶことだった。


 日本製小銃を何万丁も送っても、台湾の帝国陸軍にはすでに小銃がある。必要なのは、撃てばなくなるものだった。


 必要なのは、小銃弾と機関銃弾、迫撃砲弾と野砲弾、爆薬、無線機の部品、包帯や医薬品、それに被服だった。


 タチアナは一覧を見ながら、同じ口径でも製造時期や保存状態の異なる箱を選別させた。ノモンハン以来の保管品には劣化した弾薬も混じっている。台湾で暴発事故を起こせば、日本軍を支えるどころか、供給経路そのものを疑われかねない。


 船積み書類には、できるだけ帝国陸軍の補給品に見える名称を使った。箱を新品に詰め替えるより、古い部隊印の付いた木箱をそのまま使った方が自然なものもある。


 担当者が満州の部隊印を消す案を出すと、タチアナは首を振った。


「全部消す方が不自然です。帝国陸軍の補給品が帝国陸軍の手に戻るのですから。出所が一つに見えない方がいい」


 台湾から戻る船には、約束どおり砂糖とバナナが積まれた。


 最初の輸送が成功してからおよそ1か月後、モスクワへまとまった台湾産の砂糖とバナナが届いた。


 スターリンのところへ回された木箱の上には、小さな封筒が置かれていた。


 中にはタチアナの字で一行だけ書いてあった。


「親愛なる同志へ」


 それ以上の説明はなかった。


 台湾では、帝国陸軍の砲弾使用量が一度落ちたあと、再び増え始める。米軍の情報部は異変に気づいても、島内の隠匿在庫なのか、別の経路から来たものなのかをすぐには確定できない。


 作戦そのものは機密のままだったが、タチアナには昇進辞令が出て、中佐から大佐になった。同僚が祝いの席で言った。


「台湾工作で大佐になったそうだな」


 タチアナはバナナを一本持ち上げた。


「バナナと引き換えに大佐になりました」


 笑いが起きたが、彼女の机にはすでに次の資料、北海道の港湾図が置かれていた。


第八章 仲介を頼んでいた相手


1945年7月12日 モスクワ



 日本政府は、ソ連の動きを読み違えた。


 7月になっても、政府内にはモスクワを通じて米英との和平条件を探れないかという考えが残っている。近衛文麿を特使として送る案も、その一つだ。


 駐ソ日本大使・佐藤尚武は、東京の期待が現実的ではないことを何度も伝えた。


「ソ連政府は、こちらの希望どおりの仲介役にはなりません。少なくとも、具体的な条件を示さずに話を進められる状況ではありません」


 東京から返ってくる指示は、それでも、連合国との敗戦処理条約を少しでも日本に有利な条件で結べるよう、ソ連に仲介してもらう可能性を探ってほしい、というものだ。


 そのため、日本国内でのソ連像は奇妙なままだ。


 米英に対しては、「鬼畜米英」という言葉まで使って敵愾心を煽る宣伝が長く続いてきた。一方、ソ連については警戒していても、政府自身が最後まで敗戦処理の仲介者になり得ると期待している。住民の側から見ても、米英とソ連は同じ強さの敵像ではない。


 8月にソ連が参戦したあとも、その心理の差はすぐには消えなかった。


 スターリンは、日本側のこの認識も利用できると考えた。


第九章 本土防衛の向き


1945年8月9日 東京・大本営



 ソ連軍が北海道へ向かう時点で、日本本土の守備兵力には大きな偏りがあった。人員、砲、車両、燃料、築城資材は、長い準備の結果として特定地域へ集中していた。


 その一つが九州である。


 台湾へ米軍が上陸したこの世界では、その次に南九州へ来るという判断が強い。第16方面軍の管内には本土各地から新設・転用された師団や独立混成旅団が集まり、飛行場、海岸陣地、山地陣地、弾薬集積所も対米上陸戦を前提に整備されている。帝国海軍も、残存航空機、潜水艦、特殊潜航艇、回天、震洋などを輸送船団へ集中する構想を維持していた。


 もう一つが、長野県北部、現在の長野市南部にあたる松代である。東京への空襲が激しくなるにつれて、山中の地下施設へ皇室、政府、軍中央の中枢機能を移す準備が進み、それを守る部隊、通信、警備、物資まで同じ方向へ寄っていく。


 その結果、人口も鉄道も工場も多い北関東から東京北方には、正面戦闘へ使えるまとまった野戦軍が薄い。巨大な平野に町と工場が詰まっているのに、軍事力だけを別方向へ吸い出したような配置になっていた。


 大本営の会議では、北方への増援元が検討される。まず九州から師団を抜く案が出るが、兵站担当者は首を振った。


「米軍が南九州へ来ると考えて、1年以上かけて砲と弾薬を集めています。いま抜けば、上陸正面を自分で薄くすることになります」


 松代周辺の部隊も候補に上がったが、政府と大本営を守る兵力を動かす決定は出なかった。


「北関東から拾うしかない」


「部隊番号はあります。しかし、人員だけ多くて重火器が少ない部隊もあります。空襲で鉄道輸送力も落ちています」


 九州の部隊を北へ動かすには、兵だけでなく、砲弾、食料、車両、通信機材まで何千kmも運ばなければならない。燃料も貨車も不足している。橋梁と操車場は空襲を受けている。


 この時点の大本営は、米軍が本当に南九州へ来ると信じていた。


 ソ連参戦を知ったからといって九州の兵力を北へ移せば、その直後に米軍上陸を受けると考えた。


 日本側には、米軍正面を薄くして新しいソ連正面を厚くする判断ができなかった。


 そのため、九州には長く準備された帝国陸軍の大兵力と対米専用兵器が残り、北海道から東北では地域守備部隊がソ連軍を受け、北関東には交通と人口の大きさに比べて野戦兵力の薄い空間が残った。


 のちに米軍が実際にOLYMPICを開始すると、この偏りはさらに固定された。九州の日本軍は米第6軍を相手にその場で戦わなければならず、燃料も貨車も不足するなかで近畿へ大規模に転用することはできない。米軍が九州で日本軍を拘束したこと自体が、近畿へ集められる増援を減らす効果を持つことになる。


第十章 満州で鹵獲したもの


1945年8月13日 満州



 ソ連軍が満州へ入ると、関東軍の倉庫から大量の帝国陸軍装備を鹵獲した。


 倉庫の中は油紙、古い木箱、機械油の匂いでむっとする。長く積まれていた弾薬箱には埃が厚く付き、釘を抜くと乾いた木の音のあとに、油を染み込ませた包装紙の匂いが立った。ソ連兵にとっては敵軍の規格品でも、箱の中身は台湾の日本兵がそのまま使える小銃弾や砲弾だ。


 小銃、機関銃、迫撃砲、砲弾、小銃弾、被服、通信器材。


 保管状態の悪いものもあり、種類も揃っていない。それでも、台湾の帝国陸軍にとっては価値があった。


 ソ連側は、その中から比較的状態の良い帝国陸軍規格の弾薬を選び、複数の経路に分けて台湾方面へ流していく。


 台湾北部の補給所では、見慣れない部隊印の箱が増え始めた。


「満州向けの印が入っていますね」


 補給将校が箱を見ながら言った。


「こちらへ転送された記録はありません」


 参謀は弾薬の状態を確認する。


「選別は必要ですが、規格は同じです。迫撃砲弾も相当数あります」


 参謀は箱の側面を見た。


「出所については、今は詮索しても答えが出ないでしょう。危険なものを除いて、使える分だけ部隊へ回してください」


 安藤利吉のところにも報告は届いた。


「ソ連から来たのではないか、という話まで出ています」


 参謀がそう言うと、安藤は少し考える。


「確証が出るまでは司令部の判断を保留します。ただ、補給が戻った理由は記録しておきましょう。戦後に誰かが調べるかもしれません」


 台湾の帝国陸軍は、再び迫撃砲と野砲を使う頻度を上げた。


 米軍情報部も、ほどなく異変に気づいた。


「6月には砲弾の使用量が落ちていましたが、8月半ばから増えています。島内生産が急に回復した形ではありません」


「隠し倉庫が見つかった可能性は?」


「もちろんあります。ただ、回収した弾薬箱の一部に満州方面の部隊印があります」


 情報参謀は、その事実だけを報告書に書く。


 ソ連が送った、と断定できる証拠まではない。


 それでも台湾戦は、また少し長くなった。


第十一章 終戦にならなかった日


1945年8月14日~15日 東京・松代



 広島と長崎に原子爆弾が落ち、ソ連軍が満州へ侵攻すると、日本政府内では降伏を求める意見が急速に強くなった。


 しかし、この世界では沖縄はまだ落ちていない。台湾でも帝国陸軍は後退しながら戦闘を続けていた。米軍が南九州へ来ることは予想されていたが、本土の主要地域で地上戦が始まったわけでもない。


 政府、大本営、帝国陸軍、帝国海軍の内部は、降伏を求める側と継戦を主張する側に割れた。


 史実の8月とは違い、この時点では継戦派の方が多かった。


「原子爆弾を使われた以上、次もあります」


「だからこそ、降伏条件を決めないまま武器を置くわけにはいかない」


「ソ連まで参戦しました」


「満州と本土は同じではない。沖縄もまだ取られていない。台湾も戦っている」


 議論はまとまらなかった。


 天皇も、この段階では全国へ降伏を表明しなかった。


 東京への空襲が続く中、皇室、政府中枢、大本営は松代へ退避し、地下壕には通信、会議、執務の機能が集められた。一方、東京には官庁と行政機能の多くが残る。


 8月15日に全国へ流れた玉音放送はなかった。


 帝国陸軍と帝国海軍には戦闘継続を前提とする命令系統が残り、それぞれの方面軍、鎮守府、基地が上級司令部からの指示を待った。


 中央内部の意見も割れていた。


 降伏派の官僚や軍人は戦争終結の方法を探し続け、現地では戦況と補給の悪化から独自に停戦交渉へ入る部隊も出る。一方、松代には継戦派が集まり、政府と大本営を維持して本土決戦を続ける構えを取る。


 この時点で、日本はまだ降伏していない。


 しかし、東京と松代、降伏派と継戦派、各地の司令部の判断は、少しずつ別々の方向へ動き始めていた。


第十二章 北海道上陸


1945年8月24日 北海道・留萌沖



 1945年4月12日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が死去し、副大統領だったハリー・S・トルーマンが大統領を継いでいた。カイロで蔣介石から台湾の話を聞いた大統領は、もういない。


 スターリンは北海道北部をソ連軍の降伏受領区域に含めるようトルーマンへ求めたが、米側に拒否された。それでも、日本政府の統一した降伏が成立していないことと、米軍主力が台湾と九州準備に拘束されていることを理由に、北海道北部への実力進出を決める。


 作戦の中心を担うのは第87狙撃軍団だ。


 南樺太へ集められた部隊は、太平洋艦隊の輸送船と上陸用舟艇に乗り込んだ。米国からProject Hulaで渡された掃海艇や上陸用舟艇も、その中に含まれていた。


 目標は、北海道北西部の日本海側にある港町・留萌だった。


 ソ連側にとって重要なのは、十分な港を確保することだ。


 日本側では、日本陸軍第5方面軍司令官・樋口季一郎中将が北海道防衛を指揮していた。


 樺太でソ連軍との戦闘が始まっている以上、北海道への上陸可能性は無視できない。


「留萌方面の海上偵察で、船団らしい動きが確認されています」


 参謀が報告すると、樋口は落ち着いて聞いた。


「規模は分かりますか」


「まだ正確ではありません。ただ、掃海活動らしい動きもあります」


「上陸を前提にした方がよさそうですね。沿岸部隊には、海岸だけで兵力を使い切らないよう伝えてください。港を失っても、その後に戦える形を残しておきたいと思います」


 夜が明ける前、ソ連海軍の航空隊が飛行場と通信施設を攻撃した。


 留萌沖には低い雲がかかり、海から吹く風は8月末でも冷たい。波しぶきを浴びた上陸用舟艇の中では、濡れた軍服とディーゼル排気の匂いが混じり、機関音が大きく隣の兵の声さえ聞き取りにくい。海岸から砲撃が始まると、暗い水面に白い水柱が立ち、夜明け前の水平線が一瞬ずつ橙色に光る。


 海上ではソ連軍の掃海艇が先行した。日本軍の沿岸砲がこれを捉えて発砲し、海面に水柱が立つ。ソ連側の駆逐艦と警備艇は発射位置を確認すると、沿岸砲台へ応射した。


 留萌港の外では、これまで日本本土では起きなかった種類の戦闘が始まった。


 上陸用舟艇が接岸し、ソ連兵が海岸へ出る。先頭の小隊長が「Вперёд!(フピリョート、前進!)」と叫び、兵が海岸の遮蔽物へ走った。


 帝国陸軍の機関銃陣地から射撃が始まり、先頭の舟艇の一部が損傷する。ソ連側は砲兵を揚げるまでの間、艦砲と航空支援で陣地を抑えようとする。


 日本側も残存機を迎撃に投入した。千歳や旭川方面に残る五式戦闘機、四式戦闘機「疾風」、海軍の零式艦上戦闘機など、北方へ回せた機体は多くない。それでも北海道の飛行場から発進した機体は上陸船団へ向かい、ソ連戦闘機との空戦になった。


 燃料も機体も不足する日本側に継続的な航空優勢を得る力はなかったが、最初の数日間は港と船団へ損害を与えた。


 港湾施設の一部は日本側が破壊した。


 ソ連軍は上陸そのものには成功したが、港湾被害のため翌日以降の揚陸量は限られた。


 揚陸できる量が進撃速度を決めた。


第十三章 最初の降伏部隊


1945年8月27日 北海道・留萌周辺



 留萌周辺の戦闘が数日続いたあと、帝国陸軍の一部が包囲された。


 ソ連軍は降伏勧告を出した。


 その前に、ソ連側の幕僚は、降伏兵をソ連領へ後送せず北海道内に残す方針を確認した。


「Да(ダー、そうだ)。スターリン同志はそのように言われています。鉄道員、通信兵、医療要員は北海道内に残して使う、と」


 その方針を確認したうえで、日本側の大隊長に通訳を介して条件を伝えた。


「兵はソ連領へ送られますか」


「原則として北海道内に留めます。武器は提出してもらいますが、鉄道、通信、医療などの技能者は登録し、必要な仕事に戻ってもらいます」


 大隊長は将校の扱いも確認した。


「部隊ごとに審査します。戦争犯罪などの問題がなければ、全員を長期収容する方針ではありません」


 大隊長は幕僚と相談した。


 戦闘を続けても弾薬は少ない。


 負傷者も増えた。


 それでも、ソ連では政治犯などがシベリアの収容所へ送られるという話が知られていたため、降伏すれば自分たちもシベリア送りになると考える兵は多かった。


「本当に日本に残すというのなら、負傷者の治療を先に確認させてください」


 ソ連側は応じた。


 降伏した兵は武装解除されたが、そのまま船へ乗せられることはなかった。


 負傷者は野戦病院へ運ばれた。


 鉄道員だった兵は別枠で登録される。


 通信兵も同じ扱いになる。


 数日後、その情報は周辺部隊へ伝わった。


 宣伝放送より、日本人同士の口コミの方が早かった。


第十四章 札幌まで


1945年8月30日~9月2日 北海道



 留萌から内陸へ入ったソ連軍が最初に必要としているのは、広い地域を一度に占領することではない。港と鉄道をつなぐことだ。


 日本側は旭川方面にも部隊を持っている。札幌も行政と交通の中心として無視できない。


 ソ連軍は装甲部隊を突出させず、鉄道の復旧状況と砲兵・補給部隊の展開に歩調を合わせて前進した。


 日本側の守備隊は、最初の数日間は抵抗した。


 道路沿いの陣地から対戦車砲を撃ち、橋を落とし、山間部では小部隊がソ連軍の側面を狙った。


 ソ連軍は、道路を塞ぐ陣地へ先に砲撃を集中した。


 欧州戦線で都市と陣地を攻め続けた部隊にとって、道路を守る帝国陸軍陣地は未知の相手ではなかった。


 しかし北海道の地形と道路事情は、ドイツとは違う。


 装軌車両が通れても、後続の補給車が通れない場所がある。


 橋を直しても、その先の道路が狭い。


 そのたびに日本人の道路管理者や鉄道員が呼ばれた。


 旭川近郊では、帝国陸軍部隊の一部が戦闘を続け、別の一部は撤退した。


 退路を失った部隊には、日本人民軍の前身となる日本人警備隊が降伏条件を説明した。


 ある連隊長は、同じ帝国陸軍の制服を着た相手を見て戸惑った。


「あなた方は、いつからソ連側の部隊になったのですか」


 警備隊の将校は少し考えて答えた。


「まだソ連軍になったつもりはありません。武器を置いたあと、鉄道と町の警備を任されただけです。こちらへ来るなら、少なくとも捕虜船に乗せられることはありません」


「その保証は誰がするのです」


「絶対の保証と言われると困ります。ただ、私たちは今ここにいます。留萌で降伏した兵も、同じように北海道内に残っています」


 連隊長はすぐには答えなかった。


 数時間後、その部隊は武器を置いた。


 こうした降伏が増えるほど、ソ連軍の進撃は速くなった。


 札幌では、全面的な市街戦になる前に守備側が分裂した。


 抗戦を続けたい部隊と、これ以上の戦闘に意味はないと考える部隊が同じ市内にいる。


 日本人警備隊の将校が間に入り、部隊ごとに武装解除を進めた。


 ソ連軍が札幌へ入ったとき、戦車の前を日本人部隊が案内する場面もあった。


 市民の目には、それがいちばん奇妙に見えた。



          ◇ ◇ ◇



 函館はまだ日本側に残った。


 本州へ渡る港であり、津軽海峡を押さえる位置にある。札幌へ入ったソ連軍も、補給線を整えないまま函館へ急ぐことはしなかった。


 函館守備隊は沿岸砲台を維持し、港内の小型艦艇も出撃準備を続けた。海峡の向こう側には本州側の部隊もいる。


 この時点では、函館の将兵も、数日後に札幌で第5方面軍司令部と北海道庁がソ連側との正式な交渉へ入ることをまだ知らない。


 北海道侵攻は、最初から「帝国陸軍が何の抵抗もできなかった」戦争ではなかった。


 抵抗はあった。


 ただ、それを長く支える補給と、部隊をまとめ続ける国家の指揮が崩れ始めていた。


第十五章 村が道を教える


1945年9月3日 北海道



 その進撃の途中にあたる9月3日、留萌から札幌方面へ向かう別の部隊では、ある村でソ連兵5人が拘束された。


 村の少女を暴行した兵だった。


 村の広場には、ソ連兵が集められる。村人も少し離れたところから見ている。5人は武装を外され、政治将校の前へ連れ出された。


 政治将校は何も言わなかった。


 処分命令を確認すると、5人をその場で射殺した。


 倒れた5人へ言葉をかけることもなく、政治将校は残った兵士たちの方を向いた。


「彼らの処分は決まっていた。理由を説明しても、叱責しても無駄だ。生きている君たちには言っておく」


 兵士たちが黙って聞いた。


「米軍よりも、できるだけ多くの占領地域を確保せよ。同志スターリンの命令だ。そのためには住民の協力が不可欠になる。妨害されるより案内された方がいい。後方の守備に兵力を割きたくない。住民との関係が良ければ、自分たちの町や鉄道を守り、危険があればこちらへ知らせてくれる」


 政治将校は村人の方へ一度視線を向け、それから兵士たちへ戻した。


「ここはヨーロッパ戦線とは違う。それを理解したまえ」


 その日の別の部隊では、酒保の勘定をごまかした兵士に48時間の歩哨勤務が命じられた。


 軍紀違反の重さによって処分は変わった。


 村人への重大な犯罪を起こした兵が自軍の前で処分されたという話は、ソ連兵の間にも周辺の村にも広がった。


 ソ連軍が留萌から内陸へ進むと、戦闘のない村にも兵が入ってくる。


 ある村で、装甲車を含む車列が古い橋の前で止まった。


 車列が止まると、エンジン音の消えた村には川の音が戻る。土間の家からは薪の煙と味噌汁の匂いが流れ、畑から戻った人たちは泥の付いた長靴のまま道路脇に集まる。ソ連兵の軍服と装甲車だけが、その景色の中でひどく場違いに見える。


 村長が通訳に呼ばれた。


「この橋は重い車でも通れますか」


「荷馬車なら大丈夫ですが、その車はやめた方がいいでしょう。春の増水で橋脚が少し動いています」


 工兵が調べると、確かに危険な状態だ。


「迂回路はありますか」


「川上に林道があります。ただ、雨が降ると泥になります。こちらの農道を通るなら距離は長いですが、地面はまだ固いです」


 村長が地図に線を引いた。


 ソ連軍は、その情報どおり遠回りした。


 数日後、村から軍へ出ていた若者が戻ってきた。


 捕虜として連れて行かれたのではなく、鉄道警備の仕事をするため近くに配置されたという。


 父親は、戻ってきた息子の腕章を見ながら尋ねた。


「赤軍へ入ったのかと思ったが、そうではないんだな。軍務をやめたいと言えば、家へ戻れるのか」


「まだ名前もよく決まっていない日本人の警備隊だって。武器は帝国陸軍のものを使っている。やめるなら、手続きのあと帰してくれるそうだよ」


 この話は、さらに隣の村へ伝わった。


 ソ連側は、村落単位の協力を意識して利用した。


 道路、橋、井戸、倉庫、病院、鉄道。


 土地を知っている日本人が協力すれば、占領軍だけで全部調べる必要がなくなる。


 スターリンが日本人を急いで国外へ送らなかった理由は、人道主義より実用の方が大きかった。


 それでも現地の日本人から見れば、米軍とソ連軍への感情は同じではない。何年も「鬼畜米英」と聞かされ、実際に都市への焼夷弾攻撃も受けた米軍に対し、ソ連は直前まで政府が仲介を頼もうとしていた相手だ。そこへ「降伏してもシベリアへ送られず、日本に残れる」という実例が重なったことが、村落単位の協力が広がる一因になった。


第十六章 タチアナ大佐の小さな部隊


1945年9月6日 札幌郊外



 タチアナ大佐には、スターリンから付けられた政治将校が同行していた。


 役割ははっきり分かれている。


 タチアナは日本語を読み、日本人へ直接質問し、新聞、役場の帳簿、帝国陸軍の命令書、住民の噂まで拾う。日本人が言った言葉をロシア語へ直して軍政側へ説明し、どの政策が抵抗を増やし、どれが協力を引き出すかを提案する。


 政治将校は、軍紀、人事、拘束、倉庫封印、財産接収など、占領軍として正式な命令を出す。


 その二人に無線手、運転手、数人の護衛が付いた。


 車は無線車と乗用車か小型トラックの1、2台で足りる。大部隊ではないので、前線の道路が一本空けば先へ出られた。


 村へ入るときも駅へ入るときも、別の通訳を探す必要はない。


 タチアナ自身が日本語で聞いた。


「橋は壊れていますの?」


「地主さんは、どこへ行かれたの?」


「この工場は、電気が戻れば動きますの?」


 必要なら、その場で政治将校へロシア語で説明する。


 軍政の決定が出れば、また日本語で住民へ伝える。


 人数が少ないため、大都市の統治そのものはできない。


 その代わり、軍政本隊より早く次の町へ入り、何が起きているかを確かめることができた。


 タチアナの部隊は、進撃する軍隊の少し前と少し後ろを行き来する、小さな情報と軍政の結節点になった。


第十七章 日本人民軍


1945年9月8日 札幌



 札幌で最初に問題になったのは、新しい国の名前ではなかった。


 鉄道を誰が動かし、食料をどう配り、倉庫と発電所を誰が守るのか。さらに、武装解除された帝国陸軍の兵を、そのまま何万人も収容しておくのかという問題があった。


 旧北海道庁の会議室には、ソ連軍の政治将校、タチアナ大佐、日本陸軍第5方面軍司令官・樋口季一郎中将、北海道庁長官・熊谷憲一、それに警察、鉄道、港湾の担当者が集まった。


 窓の外をソ連軍のトラックが通った。会議室には古い紙と煙草の匂いが残り、机の中央には北海道の鉄道路線図が広げられている。


 政治将校がロシア語で話した。


 タチアナがそのまま日本語にする。


「武装解除した兵を全員収容所へ入れるつもりはありません。鉄道、港、通信、病院、倉庫の警備に日本人が必要です」


 樋口は路線図を見たまま答えた。


「兵を使うのであれば、部隊として扱ってください。昨日まで同じ指揮系統にいた者を、今日は個人ごとにばらばらに使えば混乱します」


 タチアナはロシア語へ直した。


 政治将校が返す。


「帝国陸軍をそのまま残すことは認めない。武装解除したうえで、必要な者を新しい部隊として登録する」


 樋口はうなずいた。


「それで結構です。ただし、人数だけ集めても軍にはなりません。下士官、通信、工兵、衛生、鉄道、車両整備の技能者を先に選んでください」


 熊谷が話を引き取る。


「軍施設だけでは足りません。札幌では食料配給も消防も動かさなければなりません。鉄道が止まれば石炭も食料も来ない。駅、倉庫、発電所、水道も守ってもらう必要があります」


 タチアナは政治将校へロシア語で説明した。


 短い相談のあと、政治将校が言った。


「Хорошо(ハラショー、よろしい)。民政は北海道庁と市町村に続けてもらう。警察も使う。ただし、武装した部隊はソ連軍政の登録下に置く」


 熊谷はもう一つ確認する。


「住民からの徴発は北海道庁を通してください。軍が町へ直接入って食料や車両を持っていけば、すぐ混乱します」


 タチアナは熊谷の要望を政治将校へ訳した。短いやり取りのあと、その返答を日本語へ戻す。


「徴発量は記録します。北海道庁の担当者にも立ち会ってもらいます」


 ここで初めて部隊の名称が出た。


 タチアナはロシア語で書かれた紙を机へ置く。


「Японская народная армия(ヤポンスカヤ・ナロードナヤ・アルミヤ)。日本語なら『日本人民軍』です」


 樋口は紙をしばらく見た。


「軍と呼ぶ以上、降伏兵を集めただけの作業隊にはしないでください。指揮官を置き、命令系統を決める必要があります」


「上級指揮にはソ連軍の顧問が入ります」


「占領下ですから、それは理解しています」


 兵を部隊ごと丸ごと編入する方針は採られなかった。


 実戦経験のある伍長、軍曹、通信兵、工兵、砲兵、衛生兵、鉄道員、自動車整備兵を優先して登録し、訓練のほとんどない兵や過剰な人員は武装解除後に復員させる。


 新しい軍服を何万人分も用意する余裕はない。


 当面は帝国陸軍の軍服を使い、階級章と所属を示す腕章だけを交換した。灰緑色の軍服のまま、肩や襟、腕の印だけが変わる。


 住民から見れば、昨日まで帝国陸軍だった兵が、翌日には別の腕章を付けて駅や発電所を守っていることになる。


 違いを分からせるため、タチアナは布告文を日本語で何度も書き直した。


 樋口は最後に函館の地図へ目を移した。


「第5方面軍の名で、道内各部隊へ交渉成立を知らせます。函館にも送ります。組織的な抵抗をやめ、代表を札幌へ出すよう命じます」


 政治将校が確認した。


「全員が従うか」


 タチアナが訳すと、樋口は答えた。


「保証はできません。沿岸砲台や帝国海軍部隊には別の指揮系統もあります。ただ、第5方面軍の部隊まで理由なく戦い続ける必要はなくなります」


 熊谷も続けた。


「函館市街が焼き払われれば、北海道と本州をつなぐ港そのものを失います。市街戦は避けてもらいたいと思います」


 政治将校はうなずいた。


 タチアナが日本語で伝えた。


「抵抗しない部隊へ砲撃する理由はありません」


 その日のうちに、札幌から函館へ電報と使者が出た。


 これが、この世界で「日本人民軍」という名称が正式に使われた起点になった。


 まだ北海道の警備組織に近い。


 それでも、ソ連軍政、帝国陸軍第5方面軍、北海道庁が同じ机で条件を決めたことで、日本人自身の指揮系統を持つ新しい軍隊の骨格ができた。


 タチアナは会議が終わったあと、空になった椅子を見た。


 日本語の名称を考えた紙が机に残っていた。


 数週間後、その名前が津軽海峡を渡り、東北へ広がっていく。


第十八章 津軽海峡


1945年9月12日 函館・津軽海峡・弘前



 札幌での合意は、津軽海峡の戦い方を変えた。


 函館へ届いた第5方面軍からの命令は、組織的な抵抗を中止し、武装解除の条件についてソ連側と交渉するよう求めていた。


 守備隊の大半は命令を受け入れるが、沿岸砲台の一部と港内に残る小型艦艇では抗戦を主張する将校が残る。通信が途切れた陣地もあり、札幌から届いた武装解除命令そのものを信用しない部隊もある。


 日本人民軍になったばかりの帝国陸軍出身の将校が、白旗を付けた車で函館の各陣地を回った。


「札幌で樋口閣下が交渉に入っています。武装解除しても部隊全員を国外へ送ることはありません。港と鉄道の警備に残る者も必要です」


「ソ連軍の命令を伝えに来たのか」


「第5方面軍の命令も持ってきています。ここで函館市街を戦場にしても、守るものまでなくなります」


 砲台ごとに返事は違った。


 砲身を海へ向けたまま閉鎖する部隊があり、砲尾を外して武器を引き渡す部隊があった。


 最後まで戦うと決めた陣地も残った。


 ソ連軍が函館へ近づいたとき、港全体から砲撃を受けることはなかった。


 発砲したのは、命令に従わなかった函館守備隊の一部だった。


 ソ連艦艇は、その砲台だけへ射撃を集中する。日本側の砲弾が海面に水柱を上げ、港内から出た小型艇も夜間に接近を試みるが、戦闘は局地化する。


 港湾労働者と鉄道員は、日本人民軍の警備下で仕事へ戻った。


 函館港が使えるようになると、津軽海峡を渡る準備は一気に進んだ。



          ◇ ◇ ◇



 9月の津軽海峡は風が強く、波頭が白く崩れる。甲板へ出れば潮の匂いより先にディーゼル排気が鼻に入り、波しぶきが顔に冷たく当たる。


 掃海艇が先行し、上陸用舟艇と輸送船が続く。


 船団にはソ連兵に加え、札幌と函館で編成された日本人民軍の将校、通信兵、鉄道員も乗り込んだ。青森側の帝国陸軍へ降伏条件を説明し、港と鉄道を破壊させずに接収するのが彼らの任務だった。


 海峡の南側では、その知らせが先に弘前へ届いた。


 弘前師管区司令部には、札幌で第5方面軍司令官と北海道庁長官がソ連側と交渉し、函館守備隊の大半も戦闘をやめたという報告が入った。


「函館は落ちたのですか」


「違います。大部分が交渉に応じました。一部の砲台だけが戦闘を続けています」


「では、海峡を渡ってくる日本兵は捕虜ではないのか」


「日本人民軍と名乗っています。帝国陸軍出身の将校が、ソ連軍と一緒に来るそうです」


 会議室の空気が変わった。


 弘前師管区司令部は、名前だけを見れば大きな部隊を抱えているように見える。しかし、師管区そのものは補充と動員を担う組織で、弘前の町に完全装備の野戦師団が待っているわけではなかった。


 もともと弘前師管区からは、満州や南方へ送る部隊の補充要員を長く出している。1945年になって青森県内で第157師団、第308師団など本土決戦用の師団も急造されたが、装備は揃わない。この世界ではさらに台湾戦と九州防衛へ人員、砲、車両、弾薬の転用が続き、9月の弘前周辺で直ちに戦闘へ出せる兵力は、書類上の定数の2割にも届かなかった。


 砲兵はもっと苦しい。


 残った野砲は少なく、牽引車も足りない。対空火器は飛行場や重要施設へ回され、歩兵部隊へ十分には配れない。兵がいても、小銃だけで道路沿いへ集めるしかない部隊まである。


 しかも、彼らが準備してきた相手は米軍の上陸だった。


 海峡の向こうからソ連軍が来るだけでも想定外なのに、同じ帝国陸軍の制服を着ていた者まで同行してくる。


「札幌の樋口閣下が本当に認めたのなら、こちらだけで抗戦を続ける根拠は何ですか」


 若い参謀がそう口にすると、会議室はしばらく静かになった。ところが、その日の午後には議論を続ける時間そのものがなくなる。


 北海道側へ進出したIl-2「シュトルモビク」が編隊で津軽海峡を越え、弘前市街を避けながら鉄道操車場、軍用道路、車両集積地、砲兵陣地、飛行場へ向かった。低空から機関砲とロケット弾が入り、貨車と燃料車が燃える。道路へ出ようとした車列は林へ逃げ込む前に撃たれ、数の少ない野砲も牽引途中で放棄するしかない。


 第一波が去るころには次の編隊が見え、その上にはYak戦闘機がいる。地上の兵から見れば、灰緑色の地上攻撃機が本当に蠅のように続いてくる。


 弘前周辺にはまだ人員が残るものの、防御線を作る前に移動手段と通信から失われていった。砲を集められず、弾薬を運べず、部隊単位の増援も出せないため、兵員数より先に組織的な反撃能力が崩れていく。


 しかも、残っている兵の質も揃っていない。長い戦争で熟練した下士官や技術兵は何度も前線へ抜かれ、急造部隊には十分な訓練を受けていない兵が多かった。分隊や小隊を実際に動かせる下士官が少なく、砲兵、通信、工兵、車両整備などの技能を持つ者はさらに限られる。


「この状態で青森へ増援を送れますか」


「歩兵だけなら歩かせられます。しかし、砲も車両もありません」


「では、着くころには何が残っています」


 参謀は答えない。その沈黙が、そのまま増援案への答えになる。


 やがて弘前周辺で武装解除が始まると、日本人民軍側は部隊を隊列のまま受け取らない。兵は武器を置いたあと、氏名と階級、所属、実戦経験、扱える機材を一人ずつ聞かれる。


「通信はできますか」


「有線です。無線も扱えます」


「こちらへ」


 実戦経験のある下士官、通信兵、工兵、砲兵、衛生兵、鉄道・自動車・整備の技能を持つ者が、そこで別の列へ移されていく。新しい部隊の骨格になれる者を先に拾い上げ、残る兵は武器を返納したあと復員させる。


「人数だけ集めても軍にはなりません」


 日本人民軍の将校がソ連側顧問へ言った。


「分隊をまとめられる伍長や軍曹、無線機を扱える通信兵、砲を動かせる兵を先にください。ほとんど訓練を受けていない兵まで抱えれば、食料と宿舎だけ必要になります」


「残りはどうします」


「武器を返納させて解散です。必要なら後で改めて召集し、今度は訓練してから使います」


 ソ連側にも異論はない。必要な技能だけを新軍へ残せば、占領地で抱える食料と宿舎も減らせる。


 弘前周辺では、帝国陸軍・帝国海軍の部隊番号がそこで途切れる。熟練者や技能者は日本人民軍の各部隊へ散り、残る兵は復員の列へ回っていく。


 一方、青森港と海岸陣地の一部では上陸阻止の射撃が始まるものの、弘前から大きな増援が来る気配はない。


 海峡を越える最初の船団が動くのは夜だった。沿岸砲の砲弾が輸送船の近くへ落ち、1隻が損傷する。すぐにソ連側の艦砲と航空機が火点を叩き、先頭部隊が海岸へ取りつくころには、射撃は断続的なものへ変わっている。


 その上陸部隊の前へ、日本人民軍の将校が出た。


「札幌と函館で使った条件を、そのまま説明します。武装解除後に全員を国外へ送ることはありません。鉄道、通信、医療、警備に残る者も必要です」


 弘前側では、この説明を待つまでもなく、組織的な反撃が難しいことを多くの将校が理解している。撃つ部隊は残っていても、それだけで戦線を作れる状態ではない。


 赤軍にとって、日本語で降伏条件を説明する日本人部隊が一緒に海峡を渡る効果は大きい。航空攻撃で軍事的な選択肢を削り、そのあとを日本人民軍が交渉で埋めていく。


 札幌で生まれた日本人民軍は、ここで北海道だけの警備組織を離れ、本州の帝国陸軍を内側から崩していく政治的な力へ変わっていく。


第十九章 東北本線


1945年9月18日 東北地方



 本州へ渡ったソ連軍は、太平洋側と日本海側の両方へ兵力を広げた。


 東北本線の駅には石炭煙がこもり、蒸気機関車の排気音と貨車を連結する金属音が夜中まで続く。壊れた枕木には焦げた木の匂いが残り、仮復旧した橋を列車が渡ると、鉄骨が低く鳴る。兵員列車の窓から見える田畑はもう秋色で、前線の砲声が聞こえない区間では、戦争が遠のいたようにさえ見える。


 青森から南へ下るには鉄道が重要になる。


 道路だけで数十万規模の軍を動かすのは難しい。


 日本側が橋梁を破壊した区間では工兵が入り、線路が使える区間では日本人の鉄道員を戻した。


 ある駅で、ソ連軍の輸送担当将校が日本人駅長と時刻表を見ていた。


「この区間は、何本まで通せますか」


「機関車の状態を考えると、昼夜合わせてこのくらいです。ただ、次の橋が仮復旧なので速度を落とす必要があります」


「戦車を載せた列車は?」


「重量制限を確認しないと危険です。貨車を分ければ通せると思います」


「Хорошо(ハラショー、よろしい)。では、工兵にも見てもらいましょう。無理に通して橋ごと落とすより、その方が早い」


 こういうやり取りが各地で積み重なった。


 村落協力も増えた。


 ソ連軍が来る前に、日本人民軍の日本人将校が町へ入り、降伏条件や食料徴発の方法を説明することもあった。


「食料は必要量を記録して受け取ります。勝手に民家へ入って持ち出すことは認めません。違反があれば、この役場へ申し出てください」


 村長は疑わしそうに聞いた。


「申し出たら、本当に処分されますか」


「少なくとも、こちらの日本人部隊からソ連側へ報告します。何も言わなければ、なかったことになります」


 東北へ入ってからも、ソ連兵による暴力や略奪は起きた。


 そのたびに政治将校や憲兵が呼ばれる。北海道で村人への重大な犯罪を犯した兵が公開処分されたことも、酒保の勘定をごまかした兵が48時間の歩哨勤務になったことも、部隊の中ではすでに知られている。


 軍紀違反を放置して住民を敵に回せば、道路案内も鉄道復旧も後方警備も難しくなる。


 処分が実際に行われるという話は、住民の側にも広がっていた。


第二十章 台湾戦の終わり


1945年9月20日 台湾北部



 東北でソ連軍が鉄道沿いに南下していたころ、台湾北部では、ソ連から流れていた帝国陸軍規格の弾薬が急に減った。


 日本本土への侵攻が始まり、スターリンにとって台湾戦をさらに延ばす価値は下がった。


 安藤利吉の司令部では、その変化がすぐ分かった。


「7月、8月に入ってきた出所不明の弾薬が、今月に入ってほとんど来なくなりました」


「日本本土の状況と時期が合いすぎますね」


 安藤は地図を見たまま言った。


「誰が送っていたかは、もう想像がつきます。ただ、それを証明する仕事は戦後の人に任せましょう。こちらは、残っている兵をどこまで戦わせるかを考える必要があります」


 米軍と中国軍は、新竹から桃園、台北方面へ圧力を強めた。


 台湾の飛行場はほぼ継続的に攻撃され、日本側航空部隊がまとまって動くことは難しい。


 海上からの補給も期待できなかった。


 日本本土ではソ連軍が北海道から本州へ入り、米軍も次の上陸地点を選び直している。


 安藤は部下と長い会議をした。


「本土から有効な命令は来ません。台湾だけ戦い続けることに、軍事的な意味は残っているでしょうか」


 参謀長は答えた。


「米軍を拘束する意味はあります。ただ、本土の戦況はもう台湾だけで変えられる段階ではありません」


「私も同じ考えです。中国側を含めて、降伏条件を確認しましょう」


 台湾の帝国陸軍は、米第10軍と中国側代表へ降伏した。


 高雄上陸から、すでに何か月もたっている。


 中国側は降伏式に自国軍の部隊旗を並べた。


 自分たちで海を渡り、帝国陸軍と戦い、台湾を奪還したという政治的な目的は達成された。


 その間にソ連軍は北海道を越え、本州へ入っていた。


 台湾で空いた米軍部隊の一部は、すでに実施が決まっていた南九州上陸の補充と、その後に必要になる西日本本州への上陸戦力へ回されることになった。


第二十一章 地主の蔵


1945年9月20日 岩手県北部



 同じ9月20日、台湾で長い戦闘が終わる一方、岩手県北部では土地の問題が前面へ出始めていた。北海道から東北へ入ったソ連軍が村で受ける反応は少し変わり、兵隊の数より土地の話が出るようになった。


 駅前の古い掲示板には、戦前から貼り替えられてきた紙の跡が何層も残っている。村の老人は、かつてこのあたりには「娘を買います」と書かれた紙まで貼られていたとタチアナに話す。タチアナは掲示板を見直した。剥がし残された糊と紙の重なりだけでも、この土地で何が起きていたのかは十分に伝わる。


 ある村では、日本人民軍の将校が食料の買い付けについて役場と話している途中で、小作農の老人が口を挟んだ。


「軍隊へ出す米の話なら、その前に地主の蔵を見てもらえませんか」


 村長が止めようとしたが、老人は引かなかった。


「今年も小作料は取られます。うちには冬まで食う米が残りません。でも地主は村に住んでいません」


 ソ連軍に同行していた情報将校のタチアナ大佐が、老人へ日本語で尋ねた。


 タチアナは前線部隊の指揮官ではない。占領地で何が住民に伝わり、何が反発を生むのかを調べ、軍政と政治部へ報告する役目だった。


 タチアナは、若くて美しいロシア人将校として村でもすぐ目につく。前線に出ているにもかかわらず、軍服も髪も崩れず、革帯や長靴まできちんと手入れされている。


 日本語はほとんど母語話者と変わらない。村人への説明も聴取も自分で行い、必要な決定だけを隣にいる政治将校へロシア語で説明した。


「地主さんは、どちらにいらっしゃるの?」


「東京です。ここには代理人がいます」


「蔵にはお米がありますの?」


「あります」


 タチアナは立ち上がった。


「では、見に行きましょう」


 地主本人は、もう村にいなかった。


 大規模地主の家族は、ソ連軍が東北へ入るという知らせが広がると、現金や証書を持って東京へ逃げた。村に残っているのは代理人と帳簿だけである。


 タチアナは、蔵の前に立つ代理人へ尋ねた。


「地主本人は、どちらにいらっしゃるの?」


「東京です」


「いつお戻りになるの?」


「分かりません」


 タチアナは代理人の顔を見た。


「本人から事情を聞くこともできませんのね。不在地主ですわね」


 代理人は帳簿を抱え直した。


「これは地主家の所有です。小作料として納められた米で、勝手に配ることはできません」


 タチアナは帳簿を受け取り、日本語の数字を自分で追った。


「この村で、食べるお米が足りない家は何戸くらいありますの?」


 村長が答えた。


「正確には調べ直しますが、かなりあります」


「では先に戸数を確認してくださいな。土地の所有権を今日ここで決めるつもりはありません。正式な農地改革は、行政ができてからですわ」


 タチアナは続けた。


「しかし、本人は東京へ逃げ、村には来ない。その間も代理人だけが農民からお米を取り上げる。しかも農民は冬まで食べられない。それは認めませんわ」


「契約で決まっている小作料です」


「Нельзя(ニェリジャー、許されない)」


 タチアナは短く言った。


 タチアナは帳簿の数字と村の食料事情をロシア語で整理し、政治将校へ報告した。政治将校はいくつか確認すると、軍政命令として小作料の徴収停止と蔵の封印を決める。タチアナはその命令を代理人へ日本語で伝えた。


「今年の取り立ては停止します。蔵を封印して米の量を確認し、村の食料を確保した残りは、行政上の扱いが決まるまで動かさないでください」


「そんな権限がどこにあるのです」


「いまこの地域を占領している軍にあります」


 日本人民軍の将校が間へ入った。


「土地を今日から小作人のものにする、という話ではありません。餓死者が出るような取り立てを止め、食料を確保するという命令です。地主本人が不在ですから、代理人だけで従来どおり徴収を続けることも認めません。帳簿は残します」


 代理人が蔵の鍵を渡さず抵抗すると、タチアナは憲兵を呼んだ。


 男はその場で拘束された。


 蔵は村長、日本人民軍、ソ連軍の3者立会いで開けられた。


 中には米俵が積まれている。


 古い藁と米糠の匂いが暗い蔵の中にこもり、入口から入った光の中で埃が舞った。


 政治将校は、役場の台帳で各戸の家族人数と手持ち食料を確認したうえで、必要量を配給するよう命じた。


「土地はあとで決めますわ。今は冬まで生きてもらいます」


 村の空気が変わった。



          ◇ ◇ ◇



 同じような話は、南へ進むほど何度も出てきた。


 ソ連軍の政治部は、東北で何を先に行い、何を後へ回すかをかなり明確に分けていた。


 その運用を現場で調整するのも、タチアナの仕事の一つである。日本人とは日本語で話し、決定権を持つ政治将校にはロシア語で事情を整理して伝える。


「集団農場を今つくるのですか」


 日本人民軍の将校が尋ねると、タチアナは首を振った。


「今ではありませんわ。収穫を止めてしまって、どうするのです」


「では地主だけを処分する」


「それも違いますわ。自分で田へ入って耕している農民は、そのまま作らせます。先に見るのは、大きな土地を持ったまま東京へ逃げた者と、農民が食べられなくなるほど取り立てる者です」


 タチアナは机の上の報告書を指で叩いた。


「東京へ逃げた不在地主のために、ここからお米を運び出すことは認めませんわ」


 土地制度を一度に作り替えるのではなく、農村で反発を生みやすい部分を先に切り離す。


 正式な農地改革も、農地台帳の整理も、その後だった。


 大規模地主ほど先に東京へ逃げた。


 その結果、ソ連軍が村へ入った時点では、最も大きな地主ほど本人が現地にいない。政治将校が話を聞こうとしても、いるのは番頭や代理人だけだった。


 そういう村では、まず帳簿と蔵を調べた。


 小作農が食べていける範囲を超えて米を取り上げていると判断すれば、その年の徴収を止める。


 すでに集めた米は封印し、村の食料へ回す。


 地主本人が不在なら、代理人の徴収権を停止する。


 暴力を使って取り立てを続けたり、米を隠して持ち出そうとした者は拘束した。


 ここでは、まだ土地そのものを分配しない。


 農地台帳も所有権の整理も、地方行政も十分にできていない。


 それでも、「東京へ逃げた地主のために、現地で耕している農民を餓えさせない」という方針だけは、正式な農地改革に先立って軍政段階で決められた。


 政治将校の一人は、集まった小作農へロシア語で言った。


「Земля — крестьянам(ゼムリャー・クリスチャーナム、土地は農民へ)」


 タチアナは日本語で補った。


「土地をどうするかは、これから政府が決めますわ。ただ、耕している人が食べられない仕組みは、ここで止めます」


 北海道では、占領軍が鉄道や港を動かし、捕虜をシベリアへ送らないことが住民の態度を変えた。


 東北では、それに土地と小作料の問題が加わった。


 地主家の代理人や、東京へ逃げた地主の親族には、次は土地そのものを失うのではないかという恐れが広がった。


 一方、自分の土地を自分で耕している農民への扱いは、村人が想像していたものと少し違った。


 別の村では、タチアナが田を見て、村長へ日本語で収量を尋ねた。


「この田は、どなたが耕していらっしゃるの」


「この家です。自作農です」


 タチアナは本人の手と服を見た。指には土が入り、脚絆にも泥が付いている。


「まあ、ご自分で耕していらっしゃるのね」


 農民はうなずいた。


「はい」


「収量は」


 数字を聞くと、タチアナはにっこりした。


「Очень хорошо(オーチン・ハラショー、とても良い)」


 農民はロシア語を理解できず、きょとんとした。


 タチアナは日本語に戻す。


「とても良い、という意味ですわ。ご家族が食べる分を残して、決められた供出分を出してくださいな。来年もたくさん作ってください」


 何を怒られるのかと思っていた農民は、しばらく返事ができなかった。


 不在地主と、実際に田へ入って耕す自作農は、同じ「土地を持つ者」でも扱いが違う。


 ノルマを課す社会だからこそ、安定して多く収穫する農民はむしろ歓迎された。


 食べる米まで取られていた小作農には、ソ連軍と日本人民軍の到来がまったく別の意味を持った。


 道を教える者が増え、橋の状態を知らせる者も増えていく。


 帝国陸軍・帝国海軍の隠した倉庫や燃料の場所まで、村人の方から話す例が出てくる。


 鉄道復旧、道路案内、倉庫や燃料の情報まで住民から得られるようになり、ソ連軍の南下は住民協力によっても加速した。



          ◇ ◇ ◇



 軍隊が南へ進むより先に、話の方が進んだ。


 鉄道員、行商人、避難してきた家族、復員を許された兵、役場へ出入りする者。誰かが隣村へ行けば、そこで聞いた話を持っていく。


「地主の蔵を開けたらしい」


「小作料を止めたそうだ」


「自分で耕している家の田は取られなかった」


「むしろ、たくさんの収穫があると褒められたらしい」


「捕虜になってもシベリアへ送られず、鉄道の仕事へ戻った者がいる」


 その話は、師団命令より速く広がった。


 帝国陸軍の将校には、それが赤化工作であることは分かる。だが、宣伝文句だけを配っているのではない。小作料が実際に止まり、蔵が実際に開き、復員した兵が実際に村へ戻っている。否定しようとしても、村人自身が見た出来事が次の村へ伝わっていく。


 電話線が切れていても、軍用無線がなくても、人は歩く。貨物列車が1本動けば、駅員が話を持っていく。村から兵営へ米を運ぶ荷車にも話が乗った。


 弘前周辺の兵営でも、兵はその噂を聞いた。


 東北の部隊には農家出身者が多い。


 赤紙で召集された者もいれば、若いうちに志願して軍へ入った者もいる。志願兵の中では、農家の次男以下が大きな割合を占めた。継ぐ田畑がなく、軍隊の給料と食事を生活の道として選んだ者たちだ。


 そういう兵にとって、「不在地主の小作料を止めた」「自分で耕す農民には田をそのまま耕させている」という話は、政治宣伝としてではなく、自分の家の話として聞こえた。


「うちも小作だ」


 兵舎で誰かが言った。


「親父と兄貴だけで田をやっている。地主は盛岡に住んでる」


「うちは弟まで軍に取られた。母親だけ残ってる」


「本当に家に米が残るなら、ソ連軍と戦って死ぬ必要があるのか」


 下士官が注意しても、話は止まらなかった。


 しかも、熟練した下士官そのものが少ない。


 古参兵や技能を持つ者は南方や九州へ抜かれ、残っているのは短い訓練しか受けていない召集兵が多い。分隊や小隊を指揮できる下士官、通信兵、工兵、整備兵も不足しており、そこへ家族の暮らしに直接触れる噂が入った。


 命令が届けば整列はする。


 小銃も持つ。


 しかし、ソ連軍と日本人民軍が近づいたというだけで、死ぬまで戦おうとする空気は薄くなった。


 兵の中には、敵が来る前から自分の村のことを考え始める者が出た。


「武器を置けば帰れるのか」


「鉄道や工兵の経験があれば人民軍へ回されるらしい」


「何もできなければ復員だそうだ」


 噂には間違いも混じった。


 それでも、「戦えば死ぬ。武器を置けば家へ戻れるかもしれない」という部分だけは、何度も繰り返された。


 ソ連軍が実際に来るころには、戦意を崩す仕事の一部を、すでに噂が終えていた。


第二十二章 仙台


1945年9月25日 仙台周辺



 仙台周辺では、帝国陸軍のまとまった抵抗が起きた。


 仙台郊外では秋の乾いた空気の中に砲煙が漂い、落葉した林の向こうから重砲の音が響く。砲弾が着弾すると土の匂いが強く立ち、しばらくしてから細かな土砂が屋根や道路へぱらぱらと落ちる。市街から外れればまだ家々の炊煙が見え、それが戦場の煙と同じ空へ混じる。


 本土決戦用に集められた部隊の一部が、ソ連軍の南下を止めようとした。決号作戦ではもともと九州方面への兵力集中が進められており、この世界では台湾戦への対応まで重なったため、東北に残る部隊の装備はさらに薄い。


 それでも日本軍は仙台市街での消耗戦を避け、郊外の高地と河川沿いに防御陣地を構築した。ソ連軍は偵察と観測で陣地位置を割り出し、砲兵火力を集中した直後に戦車と歩兵を前進させ、一つずつ陣地を潰していく。


 戦況を見た帝国陸軍側の師団長が参謀へ言った。


「ここで全員が倒れるまで戦っても、仙台を守ったことにはならないでしょう。撤退路を残しながら抵抗する方がよいと思います」


「南へ下がりますか」


「まだ使える鉄道と道路を確認してください。負傷者を先に動かしましょう。戦闘部隊は、そのあと順次下げます」


 このような判断をする部隊が増えた。


 米英を「鬼畜」とまで呼び、捕虜になることも避けるよう求めてきた戦時宣伝は強く残っている。しかし、その敵像はソ連に同じ形では当てはまらない。しかも、ソ連軍へ降伏した部隊が日本国内に残され、負傷者も治療されているという情報が広がるにつれ、北から来る軍への抵抗を続ける理由は地域ごとに急速に弱くなる。


 仙台の戦闘は数日続いたが、帝国陸軍の主力は包囲される前に南へ後退した。一方、退路を失って降伏した部隊では、武装解除後の審査を経て、下士官や通信兵、工兵などの技能者が日本人民軍へ登録されていった。


第二十三章 OLYMPIC


1945年9月25日 米軍太平洋方面司令部



 同じ9月25日、仙台で戦闘が続く一方、太平洋の向こうでは次の米軍上陸作戦が動いていた。台湾戦が終わった時点で、米軍の上陸戦力はすでに一度大きく使われていた。


 上陸用舟艇、輸送船、工兵、補給部隊、海軍の護衛部隊、航空支援、病院船、港湾部隊。上陸作戦は、歩兵師団だけを数えても規模を測れない。


 それでも米軍はOperation OLYMPICを実施することにした。


 北海道にはソ連軍が入り、日本人民軍という日本人部隊まで生まれている。関東方面でもソ連軍の南下が始まる以上、米国側が日本本土へ地上軍を置かないまま待つ選択は取りにくかった。


 米陸軍第6軍司令官ウォルター・クルーガー大将は、南九州の地図を前に幕僚の説明を聞いた。


「宮崎、有明湾、串木野の三正面は、当初計画どおり使えます。ただし、台湾で使った輸送船と上陸用舟艇の整備が終わっていない部隊があります」


 クルーガーは地図から顔を上げた。


「全部を同時に完全な状態へ戻す時間はありませんね。使える部隊から組み直してください。九州で必要なのは、島全体を短期間で占領することではありません」


 幕僚は橋頭堡の確保を優先する案を出した。


「はい。飛行場と港を確保し、日本軍を西側に拘束します。近畿へ兵力を戻させないことにも意味があります」


 宮崎方面には第1軍団、有明湾方面には第11軍団、薩摩半島の串木野方面には第5水陸両用軍団を向ける。


 台湾で戦った第10軍を、そのまま全部九州へ持ってくる余裕はない。台湾側の占領と中国側との調整を残しながら、使える部隊と輸送力だけを次の作戦へ回す。


 沖縄には結局上陸しなかった。


 台湾、フィリピン、マリアナの基地を使い、南九州へ直接入る。


 この時点では、九州を取ったあとに関東へ向かうという当初のDOWNFALLの構想も書類上には残っていた。


 しかし、関東ではソ連軍が先に動いている。


 九州上陸の意味は、すでに少しずつ変わり始めていた。


第二十四章 東京と松代


1945年9月末~10月1日 関東・甲信



 ソ連軍と日本人民軍が関東へ近づくと、日本側の行政幹部は東京に残るか、退くかを迫られた。


 退路は大きく二つに分かれた。


 東海道を使って関西へ向かう者と、中央本線、あるいは自動車で松代へ入る者である。


 東京が落ちることを見越して離れる行政幹部は、米軍が来る西へ向かう組と、天皇と大本営がいる松代へ向かう組に分かれた。


 家族を残したまま移動する官僚も多かった。


 列車は軍用輸送と避難で混み、中央本線も寸断寸前だ。車には燃料がなく、途中で乗り捨てられるものが増えている。


 松代へ向かう軍人と官僚がいる一方、外務、財政、司法、内務関係の一部は西へ向かった。


 東京が占領される前から、日本の行政機構は物理的に二つへ裂け始めた。


 仙台が持ちこたえられず、北関東まで後退してくる部隊が増えるころ、井上成美(いのうえ・しげよし)は東京に残る人間を静かに確かめ始める。大本営や政府の中心にいた者ほど松代へ移り、西側との連絡を優先する官僚は関西へ向かう。東京に残るのは、命令を出すだけの人間より、警察、消防、鉄道、電力、水道、病院、通信、港湾を実際に動かす人間の方が多いという奇妙な状態になっていく。


 井上は海軍の残留将校を通じて、そうした実務担当者へ個別に連絡を取った。会議の名目は避難計画、施設保全、非常時の連絡確認などに分け、同じ人間を一度に集めない。


「東京で戦闘になった場合、消防は動かせますか」


「命令系統が残っていれば動かせます。ただ、道路が軍用車両で塞がれれば難しくなります」


「鉄道は」


「変電所と信号が生きていれば、区間ごとには動かせます」


 井上は、誰がどの施設を止められ、誰なら止めずに維持できるのかを確認していった。


 陸軍側にも、東京で最後まで戦うことに疑問を持つ将校がいる。井上は彼らにも接触し、市街戦になった場合の配置と損害を具体的に聞いた。皇室と大本営を守る主力は松代へ寄り、九州には米軍を待つ兵力が固定されている。東京で残っている部隊だけで北から来るソ連軍と日本人民軍を止めるのは難しいという答えは、陸軍側からも出てきた。


「なら、市街戦の部隊配置を検討するより、降伏した場合の武装解除と都市機能の引き継ぎを先に決めるべきです」


 井上は地図をたたんだ。


「各部隊をどこで武装解除するか。警察はどこを警備するか。水道と電力を誰が引き継ぐか。そこまで決めておきましょう」


 正式な降伏交渉を始める権限は、まだ井上にはない。それでも、東京に残った組織を個別に結び、命令系統が崩れた瞬間に都市機能をまとめて止めないための準備は進められた。


 名目は避難と施設保全の打ち合わせだったが、実際には松代の指示系統を迂回し、東京側だけで降伏と無血開城を実行できる連絡網がこの段階で作られ始めていた。



          ◇ ◇ ◇



 九十九里側からも東京へ部隊が入り始めた。


 九十九里浜には、日本人民軍を先頭にした小規模なソ連軍部隊が上陸した。


 この浜は、帝国陸海軍が長く米軍上陸を待っていた場所でもある。


 震洋や伏龍も、米軍艦艇を狙うための準備を続けていた。


 実際に九十九里へ現れたのは、日本人民軍と小規模なソ連軍だった。


 日本人民軍の日本人将校が先に入り、周辺の住民組織と連絡を取りながら浜の確保を進めた。


 それでも震洋と伏龍には、米軍上陸部隊を攻撃するという命令が残っていた。目の前に現れたのは日本人民軍とソ連軍であり、攻撃対象ではない。ここで兵器と人員を消耗すれば、本来待っている米軍が来たときに使えなくなる。


 そのため、震洋は浜に伏せたまま、伏龍も配置を解かずに待機を続けた。


 日本人民軍とソ連軍が九十九里へ入ってきても、彼らは米軍を待っていた。


 九十九里側から入った部隊は小規模だった。


 それでも東京側にとっては、南東側にも敵が現れたことになる。


 北関東から下る主力と合わせると、東京を一方向だけで守ることはできなくなった。



          ◇ ◇ ◇



 ソ連側は、松代へ向かう兵力を関東側の内陸進撃にまとめた。


 松代へは関東側から内陸へ進む。


 鉄道が使える区間は使い、道路が切れれば工兵が直す。大兵力を一度に山へ押し込まず、交通結節点を順番に押さえて松代を孤立させる。


 日本海側では別の目的があった。


 新潟を橋頭堡として北陸へ進む場合、問題になるのは新潟と富山の県境にある親不知周辺だった。山地が海岸まで迫り、道路と鉄道は狭い通路へ集中する。鉄道も単線区間が続き、断面の小さいトンネルが多いため、戦車や重装備を大量に鉄道輸送するには向かない。道路へ戦車と補給車列を集中させれば、橋梁やトンネルを破壊されたときに後続まで止まる。


 一方、日本海側には部隊と物資を揚陸できる港湾設備がある。そこで北陸方面の戦車、重砲、補給物資は新潟から船で送り、親不知の陸路へ大規模な車列を押し込まない方針とした。


 タチアナは地図を見ながら、北陸と松代を別の作戦として整理した。


「松代は関東側から内陸へ進めます。北陸は新潟から海上輸送で金沢へ。親不知へ戦車と補給車列を押し込むより、その方が早いですわ」


 松代攻略は関東側からの内陸進撃、北陸方面は新潟を起点とする海上輸送と、二つの作戦に分けられた。


第二十五章 海軍大将井上成美は東京を無血開城します


1945年10月1日~10日 北関東・東京



 東京側の動きを日付で追うと、準備は10月初めから急速に具体化した。ソ連軍が東北から関東平野へ出たとき、東京北方には大都市圏を守るだけのまとまった野戦軍が残っていなかった。


 九州には米軍上陸を待つ兵力と火砲が集められ、松代には皇室、政府、大本営を守る兵力が寄せられている。北関東は人口、鉄道、工場、倉庫の規模に比べ、正面戦闘を続けられる部隊が薄かった。


 しかも、軍隊より先に噂が南へ来た。


 群馬の織物工場では、夜勤明けの女工が東北から来た貨車の鉄道員に話を聞いた。


 常磐の炭鉱では、坑口の詰所と共同浴場で同じ話が繰り返された。


「鉄道員はそのまま働かされている」


「捕虜船でシベリアへ送られていない」


「工場は壊すより動かすと言っている」


「東北では地主の蔵を封印した」


 ソ連軍と日本人民軍が実際に到着したとき、駅員、鉱山技師、工場の職長はすでに、何を聞けばよいかを知っていた。


 タチアナ大佐の小さな部隊は、駅、鉱山、工場を回った。


「坑道を水没させないでください。ポンプを止めないでください」


「工場の機械を壊さないでください」


「経営者が逃げても、職長と技師が残っているなら、軍政側と相談して動かします」


 所有権の最終判断は後へ送った。


 軍政側は、炭鉱の排水、鉄道運行、電力供給、工場設備の維持を優先した。後方地域の住民と技術者がこれらを動かせば、治安維持に残すソ連兵を減らし、その分を前線へ送れる。


 北関東には短期間でソ連軍と日本人民軍を合わせて約10万人規模の地上兵力が集まり、Il-2を中心とする地上攻撃航空部隊も前進基地へ入った。


 東京の外側には、敵の大軍がいる。


 東京の内側には、空襲で疲れた住民と、まとまった反撃兵力を欠いた行政都市がある。


 その状況で井上成美が前へ出る。これは包囲を見て突然思いついた行動ではなかった。


 仙台陥落後から続けてきた非公式の打ち合わせによって、東京に残る海軍将校、警察、消防、鉄道、電力、水道、通信、病院、それに一部の陸軍将校との連絡経路はすでにできている。井上より強い政治的・軍事的影響力を持つ人物の多くは松代か関西へ移っており、東京残留組の中では井上の発言を無視しにくくなっていた。


 外には約10万人規模のソ連軍と日本人民軍が集まり、上空にはIl-2を中心とする地上攻撃航空部隊が前進している。東京側に残された野戦兵力では押し返せず、市街戦へ移れば水道、鉄道、病院、官庁、発電設備、通信施設、さらに横須賀の工廠まで巻き込まれる。


1945年10月4日~5日 東京・海軍省ほか



 仙台陥落後から続けてきた非公式の連絡を、井上成美はこの二日間で本格的な準備へ切り替えた。


 海軍省を中心に、東京へ残った海軍将校、一部の陸軍将校、警察、消防、鉄道、電力、水道、通信、病院の実務担当者へ個別に連絡を取る。避難計画、施設保全、非常時の連絡確認という名目を使い、誰がどの施設を動かせるのか、命令系統が切れた場合に誰が判断できるのかを確かめていった。


 電話が通じるところには電話を使い、回線が不安定な場所には伝令を走らせる。書類は手書き、和文タイプ、英文タイプで作り、必要なものはカーボン紙や謄写版で増やす。各部署から上がってくる紙には、部隊配置、施設の所在地、勤務人数、非常電源、予備資材、車両の残数まで書き込まれていく。


 幸い、この期間の東京はよく晴れて、朝から秋の青空が広がり、海軍省の庭や道路沿いには赤とんぼもたくさん飛んでいた。空襲警報と避難で天候を気にしていた人々にとって、連絡と移動が途切れずに済む晴天は、それだけで大きな助けだった。




1945年10月6日 海軍省・第一回調整会合



 井上が海軍省へ呼び集めたのは、すでに個別に話を通してきた実務担当者だった。この会合にソ連側は入っていない。まず東京側だけで、市街戦を避ける場合に何を守り、どこまでを自分たちで決めるのかを整理する。


「東京を守る、という言い方は簡単です。しかし市街戦にすれば、東京そのものを壊します」


 井上は、武装解除を受け入れる場合の集合場所、警察と消防の勤務継続、鉄道と電力の運転、浄水場と病院の保全、通信施設の扱いを順に確認した。陸軍側には部隊を勝手に市街へ入れないこと、海軍側には横須賀の艦艇や工廠設備を自壊させないことを求める。


「江戸を戦火にさらさず明け渡した勝海舟の話を、いまさら芝居にするつもりはありません。ただ、結果として同じことを求めています。東京を戦場にしないことです」


 異論が出れば、その場で実務担当者に確認する。鉄道を止めれば何が動かなくなるか、変電所が焼失すればどこまで停電するか、消防車を軍用道路へ入れられるか。抽象的な降伏論ではなく、東京を翌日も都市として動かすための条件へ話を絞る。


 基本方針を決めると、各部署へ持ち帰る宿題が一気に増えた。




1945年10月7日~8日 東京各所



 この二日間は、会議より書類を作る時間になった。


 部隊ごとの武装解除地点、集合時刻、携行を認める物、警察署と消防署の勤務継続、病院へ搬送する負傷者、鉄道の運転区間、電力と水道の保全設備、破壊を禁止する施設、横須賀の艦艇と工廠設備の扱いを、それぞれの担当者が紙に落としていく。


 書類は手書きと和文・英文タイプで作り、訂正が出れば原稿から直して打ち直す。必要部数はカーボン紙や謄写版でそろえ、電話が通じない部署へは自転車や車で伝令を走らせる。燃料が少ないため、近距離は徒歩で書類を届ける者もいる。


 それでも空は二日とも晴れ、雨で道路が悪くなることも、書類を抱えた伝令が濡れることもない。皇居外苑や官庁街の上には赤とんぼが舞い、忙しく動く人々の中には、あとになって「あの一週間だけは天候が味方してくれた」と話す者もいた。




1945年10月9日 海軍省・最終方針会合



 各部署から集まった資料を海軍省で一本にまとめた。


 事前に作っていた連絡網を井上が表へ出すと、ばらばらだった東京側の窓口は短時間でまとまった。ここでソ連側へ提示する条件、武装解除後の都市機能維持、横須賀の扱い、警察・消防の勤務継続を最終確認する。


 この段階でも天皇側との会議は行われていない。昭和天皇は松代におり、東京側が一週間かけて積み上げた実務調整に加わる位置にはいない。東京に残った者たちは、松代からの指示を待つのではなく、東京を戦火にさらさず引き渡すための条件を自分たちで整える。




1945年10月10日 午前 帝国議会議事堂・小会議室



 翌朝、場所は海軍省から帝国議会議事堂へ移る。小会議室の一方に井上と東京側の代表が座り、向かい側にはソ連軍の政治将校と日本人民軍側の代表が入る。タチアナもここで初めて会談に加わった。


 前日までの海軍省での会合は東京側だけの方針調整だったが、この場では武装解除と市街への攻撃停止を相手側と取り決める。


 井上が尋ねる。


「武装解除を受け入れれば、東京市街への攻撃を止めますか」


 政治将校が答え、タチアナが日本語にする。


「抵抗する部隊とは戦います。沿岸砲台が上陸部隊を撃てば、艦砲射撃もします。飛行場、砲兵陣地、司令部、鉄道の軍事輸送も攻撃します。しかし、住民のいる東京市街を四発重爆撃機で焼き払えという命令は受けていません」


 井上は続けて航空攻撃の扱いを確かめる。


「軍事目標への攻撃は続くのですね」


「続きます。こちらの主力はIl-2です。戦車、砲兵、車列、陣地を叩いて地上軍の前を開ける飛行機です。ドイツで鹵獲して赤い星を描いたJu 87、シュトゥーカも少数ですが使っています。米軍とは違いますよ」


 ソ連側の条件は明確だ。軍事施設が使われれば攻撃し、抵抗する部隊には砲兵と地上攻撃機を投入する。その一方、東京市街への無差別な焼夷攻撃は行わず、道路、鉄道、電力、水道を稼働状態で接収する。都市機能を残したまま占領する方が、その後の進軍と軍政にも有利になる。


 3月の焼夷弾攻撃を経験している東京側の出席者は、その条件が何を意味するのかすぐ理解した。


 会談では、帝国陸軍部隊を指定場所で武装解除し、帝国海軍施設も抵抗をやめること、警察、消防、水道、電力、鉄道、病院は勤務を継続すること、横須賀では艦艇と工廠設備を破壊しないことを確認した。


 海軍省で一週間かけて作成した武装解除手順と都市機能維持計画を、そのまま実施条件として提示できたため、正式会談は長引かなかった。


 この日も空は晴れていた。


 昼前、議事堂の外へ出た者の一人が、石段の上を横切る赤とんぼを見て言った。


「天気だけは、ずっとこちらの味方でしたね」


 誰も否定しなかった。


 東京は無血開城された。


第二十六章 九州沖


1945年10月10日 南九州沖



 東京で無血開城の合意がまとまった同じ10月10日、南九州沖には、台湾戦で消耗した部隊を組み直した上陸艦隊が集まった。


 秋の海は台湾沖より暗く、朝の風に短い波が立った。空母から発艦する機体の音が海上へ響き、その後ろで輸送船と揚陸艦が長い列を作る。


 日本側は、米軍が南九州へ来ることを一年以上前から有力視していた。


 決号作戦の準備で兵力と火砲が集められ、海岸だけでなく少し内陸の高地や谷にも陣地が作られている。台湾戦が長引いたため、「その次は九州」という判断はむしろ強まっていた。


 ただし、1945年10月の日本軍には、計画時点と同じだけの燃料も輸送力も残っていない。


 大型艦艇を海へ出して上陸船団へ向かわせる燃料はなかった。潜水艦や特殊艇をまとめて運用する能力も崩れている。海軍基地には対米上陸戦用の兵器が残っていても、港から動かせないものが増えていた。


 航空隊にも同じ問題があった。


 米軍は上陸数日前から九州の飛行場、鉄道、道路、燃料施設、兵舎を繰り返し攻撃した。日本側は飛べる機体を分散し、燃料を残せる部隊へ優先して回したが、まとまった航空反撃を何度も行える状態ではない。


 米艦隊の作戦会議では、海軍将校が静かに説明した。


「海上から大きな日本艦隊が出る可能性は低いと見ています。ただ、沿岸砲と残存航空機は別です。輸送船とLSTを岸へ近づける時間が最も危険になります」


 陸軍側の参謀は、艦砲射撃をどこまで継続できるか確認した。


「海岸正面なら続けられます。ただ、上陸後に内陸へ入れば海軍砲だけでは届かない場所が増えます。そこからは工兵と道路の問題になります」


 上陸作戦の前から、米軍は九州の地形と補給の重さを意識していた。


第二十七章 串木野、宮崎、有明


1945年10月11日 南九州



 夜明け前から艦砲射撃が始まり、串木野、宮崎、有明湾の三正面へ上陸用舟艇が向かった。舟艇の中には排気と海水の匂いがこもり、海岸線は着弾のたび土煙に隠れる。


 串木野には第5水陸両用軍団、宮崎には第1軍団、有明湾には第11軍団が入った。


 日本側の現地指揮官は、海岸線へ全兵力を貼り付けなかった。


「浜では艦砲射撃にさらされます。部隊は道路の屈曲部と山裾へ下げます」


「上陸を許すのですか」


「上陸した部隊が車両と砲を動かす場所で止めます。工兵が前へ出るところを狙ってください」


 米軍が障害物を除き、戦車と砲兵を前へ出すと、日本側は迫撃砲、小火器、残った野砲を短時間だけ使い、反撃が集中する前に別の陣地へ移る。橋が落ちれば米軍工兵が仮橋を架け、道路が崩されればブルドーザーが入るため、日本側はその作業地点へ射撃を集めた。


「橋の向こうから撃たれています」


「観測機へ位置を送ってください。工兵を止められる前に砲を止めます」


 米軍は火力で道路を開き、日本側は地形を使って時間を買う。上陸初日だけで南九州全体が落ちることはないが、上陸部隊を三正面すべてで海へ押し戻すだけの力も日本側には残っていない。


 数日後、三つの橋頭堡はつながり始めた。米軍は南九州全体を一気に北上するより、飛行場、港、鉄道結節点、日本軍基地を順番に無力化する方へ比重を移す。


 第6軍の幕僚からは、さらに北へ追撃する案も出る。指揮官は地図を見る。


「九州の日本軍をここへ縛っておけば目的は達します。基地を使えなくし、近畿へ部隊を戻させないことにも意味があります」


 九州に残った日本軍は、その場で米第6軍を相手にし続けなければならない。近畿へ回せる増援が減るだけでも、OLYMPICには戦略上の意味があった。


第二十八章 井上成美と日本人民軍海軍


1945年10月11日~中旬 東京・横須賀


1945年10月11日 東京



 南九州で米軍が上陸を始めた同じ10月11日、東京では武装解除と引き渡しが始まった。確保されていた皇太子は皇居内の従来の住居へ戻された。


 東側では皇位継承権を認めない方針がすでに固まっているが、身柄を軍施設や臨時収容場所へ置き続ける必要はない。生活場所は従来どおり皇居内とし、警備と外部との連絡だけを占領側が管理する。なお、裕仁が帝国陸海軍の統帥権を持っている問題は、松代の処理と皇位継承を決めるまで別に残るため、皇太子の身分処理とは切り分けて扱う。


 昭和天皇は松代にいるため、東京側との会議には加わらない。東京の引き渡し、皇太子の扱い、都市機能の継続は、東京で成立した占領側と残留実務者の取り決めによって進められた。



1945年10月11日 第一生命館



 東京の占領事務をまとめるため、ソ連側は皇居前の第一生命館を接収し、占領事務本部を置いた。東京の軍政、交通、電力、食料、警察との連絡はここへ集約され、日本人民軍側の連絡要員も入る。


 井上ら東京側の実務担当者が前日に取り決めた都市機能の維持は、以後この本部との連絡で処理されていった。


 住民の多くは、それを「戦争が完全に終わった」とまでは受け取らなかった。


 松代には天皇、政府、大本営が残っている。


 ただ、東京を押さえた東側は、政治制度について待たなかった。


 東京側で組織された新しい行政機構は、天皇制と華族制度を廃止する方針を早く打ち出した。松代にいる裕仁を東側の行政機構の元首とは認めず、皇太子にも継承権を認めない。


 東側の新しい行政制度では、裕仁は天皇としての地位を認められず、皇族制度も廃止された。


 ただし、帝国陸海軍そのものはまだ降伏も解体も終えていない。東側の行政が天皇制を認めなくても、旧来の軍令系統では裕仁の統帥権を無視できない。


 本人が松代にいる以上、この問題は松代の降伏と皇位継承を処理するまで残ることになった。


 東京から逃れた行政幹部は、東海道で関西へ入る者と、中央本線や自動車で松代へ向かった者に分かれた。


 京都側では、その知らせを受けて別の天皇を立てる準備が始まる。


 井上は東京に残り、帝国陸海軍の高級将校の査定にも関わった。


 査定対象は佐官以上とし、現在の継戦姿勢だけでなく、開戦後に出した命令と部隊運用の記録まで調べる。


 開戦後にどんな命令を出したか、撤退できる状況で部下を無意味に残さなかったか、面子のために兵を使い潰さなかったかを記録で見る。


「有能な敵より、無能な味方の方が怖い」


 井上はそう言った。


 なお武力継続を主張し、東京で部隊を勝手に動かそうとする高級将校には、井上は静かに伝えた。


「それほど確信がおありなら、あちらで主張してください」


「あちらとは」


「モスクワです。スターリン同志に直接説明していただきます」


 東京を占領したことより、東京を戦火にさらさず行政と交通を動かし始めたことが、その後のソ連軍の進撃を速くした。


 東海道側では愛知の軍需産業と航空機産業を確保するため、西への大きな移動が始まった。


 日本海側では、新潟から金沢へ海上輸送を使う準備が進んだ。


 松代が残っている間に、東京の外では戦後の占領線を先に作る競争が始まっていた。


東京の占領事務が動き始めると、井上成美は横須賀に残る帝国海軍の人員、工廠、ドック、通信施設、倉庫、艦艇の扱いにも取りかかった。


 呉、舞鶴、長崎は西側の占領地域に入っていた。


 東側で海軍を再編する拠点は、横須賀と大湊に限られた。


 1945年7月18日の横須賀は、史実とは違う姿で残っていた。


 史実では、米海軍機動部隊が1945年7月18日に横須賀を空襲し、戦艦「長門」は500ポンド爆弾の直撃を受け、艦長の大塚幹少将らが戦死した。米海軍歴史遺産司令部の『H-053-1: The End of the Imperial Japanese Navy』にも、その攻撃と艦橋付近の被害が記録されている。


 この戦況では、その時期の米機動部隊が台湾戦と周辺作戦へ投入されていたため、7月18日の横須賀空襲は起きなかった。長門は艦橋への直撃を受けず、大塚艦長も生存していた。


 帝国海軍の艦艇は燃料不足で出撃や長距離航行がほぼ不能となり、長門も港内で主砲塔を作動させる程度しかできなかった。それでも戦争が終わってソ連側から燃料と補給を受けられれば、船体、主砲、機関、乗員、工廠を生かして再就役させる余地が残っていた。


 史実では長門は戦後、米国側に接収され、1946年のOperation Crossroadsでビキニ環礁の原爆実験標的艦になった。1946年5月13日付の米海軍の標的艦配置図にもNAGATOの名がある。


 しかし、横須賀を先に占領したのはソ連軍と日本人民軍だった。


 長門はビキニ環礁の原爆実験標的艦にはならず、潜水艦の扱いも史実とは変わった。


 史実では米海軍は1945年8月27日、I-400とI-14へ拿捕班を送り、両艦を接収した。米海軍歴史遺産司令部の『Souvenir Cards for Japanese Surrender』には、その日付と2隻の接収が残っている。


 日本本土の占領が東西に分かれたため、米軍は日本全体の降伏処理を独占できなかった。


 I-400系列をすべて米軍が接収することはできなかった。


 横須賀で日本人民軍側が接収した大型潜水艦は、帝国海軍の潜水艦乗員と整備員を残し、ソ連海軍の専門家も加えて状態を調べることになった。


 1947年4月25日に第二復員局がまとめた『JAPANESE NAVAL VESSELS AT THE END OF WAR』には、終戦時の残存艦艇、建造中艦艇、小艦艇まで広く記録されている。後年、その一覧は横須賀と大湊から日本人民軍海軍が引き継いだ艦艇を検討する基準にもなった。


 横須賀で残存艦艇を実際に調べ始めると、井上は書類から受けていた印象より状態がよいことに気づいた。


 掃海艇、駆潜艇、哨戒艇、輸送艇、曳船などの小型艦艇には、燃料不足や部品不足のため係留されたままのものが多かった。書類には「行動不能」「要修理」とあっても、現物を調べると船体や主機に致命的な損傷がなく、補機、配線、ポンプ、通信機などを直せば短期間で復帰できる艇がかなり残っていた。


 逆に、書類上では軽微に見えても、機関内部や軸系、浸水箇所に大きな損傷を抱えた艇もあった。井上は現物を確認し、機関員や工廠技師から直接説明を受けながら、一隻ずつ実際の状態を把握していった。


 井上は、そこで海軍再建の見通しを立てた。


「先に復帰できる艦艇をそろえましょう。掃海艇、駆潜艇、輸送艇、曳船です。掃海と港内警備、沿岸輸送を再開してから、大きな艦を考えればいい」


 横須賀工廠では、修理量の少ない艇から順に入渠させ、機関、電気、通信、ポンプを点検した。使える部品は倉庫から集め、必要に応じて同型艇からも転用した。大湊の残存艦艇についても同じ基準で調査し、修理日数、人員、必要部品を一覧化した。


 こうして最初に再建されるのは、戦艦を中心にした海軍ではなく、掃海、港内警備、沿岸哨戒、輸送、曳航、救助を実際にこなせる小型艦艇中心の海軍だった。


 長門は東側海軍の象徴となり、大型潜水艦は研究や訓練にも使える。しかし、新しい海軍が最初の日から必要とする仕事を担うのは、短期間で修理できる小型艦艇と、それを直せる工廠、機関員、電気員、通信員だった。


 大湊に残る艦艇と人員も登録され、航海、機関、通信、砲術、電気、造船、整備などの技能を持つ者を優先して新しい海軍へ配置した。軍服が足りない間は帝国海軍の被服を流用し、階級章と所属章だけを交換した。


 井上は日本人民軍全体の軍事責任者となり、海軍部門もその下へ置いた。


「海に囲まれた国です。航路を掃海し、港湾機能と沿岸輸送を維持する海軍はすぐに必要になります」


 ソ連側顧問が聞いた。


「長門を旗艦にするのか」


 井上は少し笑った。


「動けるようになってから考えましょう。まず掃海と港湾機能の復旧です」


 西側の呉にも大型艦の残骸や港湾設備は残ったが、戦争末期には燃料がなく、帝国海軍としてまとまって航行する艦隊は存在しなかった。西側でどの艦艇を再就役させられるかは、占領後の燃料と修理能力次第だった。


 東西の海軍は、最初から違う遺産を受け継ぐことになった。


第二十九章 九州に残る戦力


1945年10月中旬 九州・中国・四国



 東京で占領事務と海軍再編が始まる一方、九州へ上陸した米軍にとって、目標は東京まで陸路を進むことではなくなっていた。


 関東ではソ連軍の進撃が続いている。


 米軍が九州から本州を横断して関東へ着くより先に、ソ連軍が東京へ達する可能性が高い。


 そこで第6軍の役割は明確になった。


 近畿地方より西に残る帝国陸海軍を、その地域から動かさない。


 飛行場、海軍基地、弾薬庫、通信拠点、鉄道結節点を順番に破壊し、近畿へ増援として使えるまとまった戦力を作らせない。


 九州には、本土決戦用として集めた対米専用兵器が大量に残っていた。


 その多くは移動できないまま反復空襲を受けた。地上に置かれた兵器の大半が破壊され、残ったものも燃料、牽引車、鉄道、船舶を失って別の戦線へ持ち出せない。


 中国地方と四国でも、基地を動けなくする攻撃が続いた。


 松山の第304海軍航空隊には、搭乗員も整備員も機体も残っていた。


 しかし、航空ガソリンがなかった。


 飛べる機体があっても、離陸できない。


 無線は連合軍に読まれているものとして扱われ、関西側から届く指示も必要最小限になった。


「松山に残って、機体と人員を保全してください」


 松山側の指揮官は、落ち着いて答えた。


「承知しました。燃料がない以上、こちらでも動かせません。擬装と整備は続けます」


 部隊員は食料生産にも回った。


 海軍航空隊の形を残しながら、畑を耕し、機体を隠し、整備を続ける。


 西日本には兵が残っていた。


 しかし、その兵を近畿へ集める輸送力と燃料がなかった。


 九州上陸部隊は、前進すること以上に、その状態を固定する役目を果たした。


第三十章 松代


1945年10月下旬 長野・松代



 10月下旬、東側では東京に続いて松代の処理が始まった。ソ連軍と日本人民軍は松代へ通じる交通線を順番に切った。


 関東側から内陸へ入り、鉄道、道路、通信、発電、燃料集積所を押さえる。


 松代の地下宮城と大本営には昭和天皇、政府首脳、大本営関係者が残っていたが、東京を失い、外へ出す命令を運ぶ経路も細くなっていた。


 タチアナ大佐は、松代側との交渉で声を荒らげなかった。


「東京では市街戦を避けました。こちらでも地下施設を封鎖し、公文書と施設を保全したまま武装解除へ入ってください」


 松代側の高官も静かに条件を確認した。


「天皇陛下と宮中関係者の身柄は、どのように扱われますか」


「東側の新しい行政では天皇制を残しません。ただし、身柄を害する必要もありません。生活と安全は確保します。西側との皇室関係の処理は、別に協議します」


 松代守備隊は、まとまった反撃を続けず武装解除に入った。


 昭和天皇は、東京が市街戦にならなかったこと、西日本では米軍との戦闘が続いていることを確認した。


「西の軍隊を止めるには、誰かが命令を出さなければならないのですね」


 日本側の宮内関係者が答えた。


「はい。現在のままでは、殿下方や各軍司令部がそれぞれ判断することになります」


 タチアナは、ソ連軍幹部と日本人民軍側に一つの案を出していた。


 東側では天皇制を廃止する。


 その一方、西側では天皇制を残す動きがある。


 ならば、東側が昭和天皇を抱えたまま皇位を宙に浮かせるより、本人の意思で退位し、高松宮宣仁親王へ皇位を譲る方が、西日本の軍を一つの命令で止めやすい。


 昭和天皇は、退位する文書と、高松宮へ皇位を譲ることを明記した文書を作成した。


 署名があり、御璽が押された。


 文書はすぐには公表されなかった。


 正式な文書が西側へ届く前に情報が漏れれば、徹底抗戦を主張する部隊が高松宮周辺を動けなくする可能性がある。


 タチアナ、ソ連軍幹部、日本人民軍上層部は、先にごく限られた範囲だけへ知らせることにした。


 使者に選ばれたのは、日本人民軍に加わっていた元公家の将校だった。


 宮中の作法と旧公家社会の人間関係を知り、相手側が身元を確認しやすい。


 その将校は前線の連絡経路を使って西日本側へ入り、高松宮周辺の限られた者と接触した。


「松代で手続きが進んでいます。陛下は退位され、高松宮殿下へ皇位を譲る文書を作成されました。正式な書類は別便で届きます」


 高松宮は、すぐには答えなかった。


「兄上ご自身の意思なのですね」


「はい。署名も御璽も確認されています」


「分かりました。公表はまだしません。まず、戦闘を止める方法を考えます」


 これで高松宮は、自分が近く西日本側の軍を正式に止められる立場になることを知った。


 大阪湾で米軍と停戦を交渉する前に、その見通しができていたことは大きかった。


 侍従をはじめ松代にいた皇室関係者は、その場では東側の保護下に残った。


 人と皇室関係物品をどちら側へ移すかは、後の会議でまとめて処理することになった。


第三十一章 日本海側は金沢まで


1945年10月下旬 新潟・金沢・小松



 日本海側では、新潟を橋頭堡にした。


 そこから富山方面へ、戦車と重砲を伴う東側の大部隊を陸路で送り込む案は採らなかった。


 親不知周辺では山が海へ落ち、道路と鉄道が狭い海岸線へ押し込められる。橋やトンネルをいくつか壊されれば、戦車・重砲を伴う東側部隊と、燃料・弾薬を運ぶ補給車列は止まる。


 タチアナは海軍側の地図を重ねた。


「新潟から兵員と重装備を海上輸送し、金沢へ進出しますわ」


 新潟で兵員と物資を船へ積み、日本海を西へ輸送した。


 富山は主要な上陸地点から外し、先に金沢へ上陸してから降伏勧告を送る方針とした。


 金沢にはかなりの帝国陸軍部隊が残っていた。


 金沢上陸後は、まず残存日本軍の降伏受理と武装解除に入った。部隊ごとに武器を回収し、弾薬庫を封印し、負傷者と病院を整理したうえで、鉄道、港、飛行場の警備を引き継いだ。この処理に兵力と時間を取られ、福井方面へ回せる部隊はほとんど残らなかった。


 金沢・小松での武装解除と占領業務が終わるころ、名古屋地区ではさらに兵員が必要になっていた。


 日本海側に占領部隊を厚く残すより、愛知の工場と交通網を確保する方が重要だった。


「金沢で武装解除任務を終えた東側部隊から、名古屋へ転用してください」


 タチアナの指示で、武装解除任務を終えた部隊の主力はすぐ南東へ転用された。


 富山には東側の大兵力を進出させず、降伏勧告を送った。


 福井方面へ東側部隊を進出させる案も出た。


 タチアナは止めた。


「福井方面へ進出すれば、西側に残る日本軍との距離が縮みます。いま撃ち合う理由はありませんわ」


「九頭竜川までを境界にするなら、先に入った方が確実ではありませんか」


「中京地区を確保することが第一ですわ。その目的はもう達成できています。占領地域を京都や大阪まで西へ広げるほど、あとで中京地区まで交換材料にされる危険が増えます。北陸側の軍事境界線は会議で調整する方がよいと思いますわ」


 金沢・小松で東側部隊の大規模な西進は止まった。


 福井方面への進撃は見送られ、北陸側の軍事境界線は会議へ持ち越された。


第三十二章 愛知の工場


1945年10月下旬 名古屋・豊川・岐阜方面



 金沢・小松で武装解除が進むのと並行して、太平洋側では東海道方面への前進が続いた。東京が無血開城すると、ソ連軍と日本人民軍は東京周辺の治安維持に大兵力を固定せず、東海道方面へ部隊を転用できた。


 ソ連軍は占領地域を西へ広げることより、愛知の軍需産業と交通網の確保を優先した。航空機工場、発動機工場、工作機械、車両工場、豊川の海軍工廠など、接収すべき施設が集中していた。


 建屋を失っていても、設備と人員が残った工場には復旧の余地があった。


 名古屋の工場地帯には、空襲で焼けた建物の煤と機械油の匂いが残っていた。割れた窓から秋の風が入り、床では細かな金属粉が光った。


 ここでもソ連軍・日本人民軍の先頭部隊より先に、東北や東京での占領政策が伝わっていた。工場、駅、寄宿舎、配給所が情報の結節点となり、一枚の布告やビラは休憩時間に別の班へ回された。内容を書き写した紙を鉄道員が岐阜へ運び、夜勤明けの職工は家へ持ち帰った。


「鉄道員は仕事へ戻された」


「捕虜を全部シベリアへ送ってはいない」


「工場は壊さず使うらしい」


「東京は市街戦をせず無血開城した」


 最後の話が特に大きかった。工場労働者の多くは、B-29の空襲警報で家族を防空壕へ入れ、焼けた住宅や工場を自分の目で見ていた。それに対して東から来るソ連軍の航空隊は、飛行場、鉄道、砲兵陣地、軍用車列を主に攻撃していた。危険であることに変わりはなくても、東京や名古屋の市街を焼き尽くしたB-29部隊と同じものには見えなかった。


 住民の多くは、松代に政府と大本営が残っていることも知っていた。それでも東京が大規模な市街戦にならず、霞ヶ関まで占領軍が入ったという知らせは、戦争の続きより体制の終わりを感じさせた。


「もう変わるんだろうな」


 工場の休憩所で誰かが言った。何がどう変わるのかは分からなくても、これまでどおりには戻らないと考える人は多かった。


 タチアナ大佐は、焼け残った工場の講堂へ入った。


 油と煤で汚れた作業服の中に、手入れされた軍服と長靴が目立った。


 彼女は日本語で、工場と機械を止めず、技師、職長、熟練工は職場へ戻るよう求めた。


 質問もそのまま日本語で受けた。


「工場を労働者へ渡すのですか」


「所有権の話は後ですわ。まず旋盤を動かし、発電機を直し、鉄道車両を修理してください。それが先です」


「賃金は」


「払います。食料配給も、働いている方を優先しますわ」


「経営者が戻ってきたら」


「そのとき行政が決めますわ。機械を持って逃げることだけは認めません」


 政治将校が正式な接収命令と設備保全命令へ署名した。


 タチアナは工場の図面を見ながら、技師へ尋ねた。


「空襲で建屋がなくても、この工作機械は動きますの?」


「電源が戻り、主軸を調整すれば使えます」


「測定器は」


「一部を疎開させています」


「では探してくださいな。建物より先に、機械と測定器と図面を集めますわ」


 帝国陸軍側にも、名古屋市街で大規模な市街戦を続けられる兵力は残っていなかった。


 名古屋郊外で抵抗した帝国陸軍部隊の一部は西へ撤退し、一部は日本人民軍に降伏して武装解除された。


 小牧、各務原、名古屋周辺の航空関係施設では、残った機体よりも技師、治具、工作機械、図面の方が重要になった。


 豊川海軍工廠でも、残存設備と技術者の確保が優先された。


 軍需工場は生産品目を切り替え、精密加工、火薬、電気、工作機械の設備を民需と復旧用の生産へ転用する方針になった。


 金沢で日本軍の武装解除任務を終えたソ連軍・日本人民軍部隊からも、人員が名古屋地区へ転用された。


 ソ連軍と日本人民軍には日本海側へ大兵力を置き続ける余裕がなく、名古屋、豊川、岐阜の工場、鉄道、行政の確保が優先された。


 ソ連軍の先頭は岐阜方面へ進んだ。


 占領した工場では、翌日から電源を戻す作業が始まっていた。


 東北の農村で小作料を止めることが人を動かしたように、愛知では、焼け残った旋盤へ油が差されることの方が長い演説より早かった。


第三十三章 飢餓作戦の後始末


1945年10月下旬 関門海峡・瀬戸内海・紀伊水道



 同じ10月、西側の海上作戦には別の問題が残っていた。日本の内航海運は、すでにほぼ消えていた。


 その海を、今度は米軍船舶が使うことになった。


 待っていたのは、米軍自身が敷設した機雷だった。


 1945年3月以降、B-29は西日本の海峡、水道、港湾へ大量の航空機雷を投下している。日本の海上交通を止めるOperation Starvation、飢餓作戦である。


 主力は海底へ沈む感応機雷だった。


 鉄の船体による磁気の変化、機関とスクリューの音、水圧の変化を利用するものがあり、投下直後には作動しない遅延式も使われた。さらに、設定した隻数の船舶を通過させてから起爆する回数式もある。


 掃海艇が一度通れば安全になる種類の兵器ではない。


 米軍は敷設記録を持っている。


 しかし、記録があることと、海底に残った一個一個の状態が分かることは同じではなかった。


 海底で位置がずれたものがある。遅延作動の時間を過ぎて初めて危険になるものがある。先頭船と掃海艇を通し、後続の輸送船で初めて作動するものもある。


 由良の紀伊防備隊は戦時中からこの海域の監視と掃海を続けていた。米軍航空機が敷設した感応機雷への対策として、1945年4月5日には磁気掃海隊の設置が命じられ、5月4日の時点で母艇三隻、側艇九隻、掃海艇十隻が数えられている。それでも回数式や遅延式を含む感応機雷を短期間で完全に処理することはできなかった。


 関門海峡では、掃海後の水路を通った輸送船が突然持ち上がるように爆発した。


 軽巡洋艦級の艦でも、船底近くで大型炸薬が爆発すれば、そのまま沈むことがあった。


 一方、大型戦艦は同じ一発で簡単には沈まない。


 浸水区画を隔離して速力を落とし、浸水が止められなければ浅瀬へ乗り上げて着底させ、船体の喪失を防ぐこともできる。ただし発電系統や配電盤まで浸水すれば、主砲が無傷でも射撃指揮や給弾を含む戦闘能力は大きく低下する。


 米軍が西へ進むほど、海上交通の最大の敵は日本海軍ではなくなった。


 日本側は新たな機雷を敷設していなかった。


 海底に残っているのは、半年前に米軍が日本船を止めるため置いた機雷だった。


 掃海艇は休めなかった。


 米軍自身が作った海上封鎖を、米軍自身が一つずつ開けながら進むことになった。


第三十四章 紀伊水道


1945年10月下旬 紀伊水道



 南九州でOLYMPICを開始したあと、米軍には、もう一度史実のCORONET級上陸をそのまま組めるだけの即応余力が残っていなかった。


 作戦会議では、兵員数だけでなく、輸送船、揚陸艦、上陸用舟艇、工兵、補給部隊、海軍護衛、航空支援まで含めた上陸作戦全体の規模を比べるため、便宜的な尺度が使われた。


「沖縄上陸に必要な戦力を1と置きます。九州と関東は、それぞれ4です」


 参謀は黒板へ数字を書いた。


「当初の想定では、沖縄に1、九州に4、関東に4を順番に回します。今回は台湾上陸に4を投入し、続いて南九州にも4を投入しました。損耗した舟艇や輸送船の修理と部隊の再編を急いでも、いま次の上陸作戦へ回せるのは1程度です」


「関東へ上陸するには4必要ですね」


「はい。足りません。それに、その関東へはソ連軍が先に入ります」


 東京をめぐって米軍が海上から競争しても、上陸準備が整うころには政治的な意味が薄くなる。そこで地図上の視線は西へ移った。


「京都と奈良は大規模な焼夷弾攻撃を受けずに残っています。大阪も西日本の政治、交通、工業の中心です。こちらが地上軍を置かないまま東側だけが先へ進めば、連合国軍の占領地域と軍事境界線まで相手の進出位置で決まりかねません」


 別の参謀が紀伊半島西岸を指した。


「残っている1を使うなら、ここです。南九州方面から船団を回しやすく、和歌山へ出れば大阪方面と奈良方面へ進撃軸を分けられます」


 海軍側は紀伊水道と紀淡海峡を色鉛筆でなぞった。


「ただし、こちらが敷設した機雷があります。紀伊半島西岸へ船団を通す掃海航路は何とか確保できても、紀淡海峡を抜けて大阪湾へ大艦隊を入れるには、さらに時間が要ります。こちらが敷設した機雷には回数式や遅延式もあるので、掃海済みの航路でも残存機雷を前提に船団を通します」


「紀淡海峡の掃海も並行して進め、大阪湾へ入る掃海航路を確保する案があります」


「先に紀伊半島へ入れる船団だけを通します。大阪湾は掃海を続けます」


 それでも待つ選択は採られない。米軍は残った上陸戦力を紀伊半島西岸へ先に投入し、大阪湾への進入はその後に回す。


 掃海艇が先行し、輸送船と護衛艦は掃海された狭い航路を外れないよう速度を落とす。先頭が通れた場所でも後続船が安全とは限らず、実際に輸送船が触雷して沈み、駆逐艦も大破した。


 最初に使える上陸地は、紀伊半島西岸、和歌山県日高郡の御坊近くに長く延びる煙樹ヶ浜だった。そこから北へ進んだ湯浅湾南側には、有田郡の西広海岸がある。西広海岸へ船団を入れるには、日ノ御碕から有田川河口までの水路をさらに掃海しなければならない。感応機雷の危険を確認しながら掃海航路を北へ伸ばす必要があるため、西広の使用開始は煙樹ヶ浜より遅れた。


 西広までの掃海航路が確保され、湯浅を確保すると、その北側の天洲ヶ浜も荷揚げに使えるようになる。ただし有田川河口以北は、初島、加茂郷、下津の製油所地帯沖から和歌山方面にかけて飢餓作戦の感応機雷が重なっている。そこから紀ノ川河口まで輸送船を一気に進める案は採らず、掃海と陸上進撃を並行して進めることになる。


 大阪湾へ直行するための掃海は、さらに遅れていた。


第三十五章 日高郡・煙樹ヶ浜と有田郡・西広海岸


1945年10月下旬 和歌山県日高郡松原村・和田村/有田郡南広村



 紀伊半島へ回せる即応上陸能力は、大作戦一回分には遠く及ばなかった。しかも二つの海岸を同時に使える状態ではなかった。日ノ御碕より南の煙樹ヶ浜は先に使えたが、西広海岸へは、そこから有田川河口まで掃海した水路を延ばす必要があった。


 煙樹ヶ浜は、こぶし大の小石が続き、波打ち際が約30度の急斜面で深くなる海岸だった。上陸用舟艇が船首を小石浜へ乗り上げてランプを下ろせば、兵は海水へ入らず、靴さえ濡らさずに上陸できる。ところがランプ脇から海へ落ちれば状況は一変する。武器と弾薬、装具を身につけたまま大きな波と急深の水際に入るため、立ち直れなければ水死する危険が極めて高い。カッターや一般の小型船を、上陸用舟艇と同じように浜へ突っ込ませることもできなかった。


 海岸から数km先には山地が迫っていた。日本軍が海岸を直接射撃できる山腹や尾根へ出れば、沖の艦艇と航空機から狙われる。駆逐艦の5インチ砲でも上陸地点から数km先を射撃でき、接近できた艦艇は40ミリ機関砲も海岸側斜面へ向けられた。戦艦が射撃位置へ入れば主砲と副砲まで加わる。F4Uは山腹や尾根の陣地へロケット弾を発射し、爆弾投下と機銃掃射を繰り返した。上陸部隊の火砲がまだ浜へ揚がっていない時間は、沖の艦艇が事実上の砲兵になった。


 そのため、海岸へ直接射撃できる日本軍陣地は上陸中ほぼ沈黙した。ただし尾根の反対側や谷、掩蔽された陣地まで消えたわけではない。米軍が浜を離れて内陸へ進み始めれば、そこに残った部隊は再び抵抗できた。


 西広海岸は正反対だった。数百m沖まで進んでも水深が1mに達しにくいほど遠浅で、舟艇ごとに進める位置が違う。兵は広い浅瀬へ降りて海岸へ歩き、上陸部隊は一本の波打ち際に線として並ぶのではなく、浅海全体へ奥行きを持った面として展開した。


 上陸前の打ち合わせで、工兵将校は最初に使える海岸を確認する。作戦参謀は海図の掃海済み水路を指でなぞる。


「主力は煙樹ヶ浜へ上陸します。日ノ御碕から北の掃海が進んだら、西広海岸でも上陸を始めます。別々の作戦にはせず、北側の荷揚げ地点を増やして一つの進撃路へつなぎます」


 実際、煙樹ヶ浜で橋頭堡を築いたあと、掃海艇が日ノ御碕の北へ水路を伸ばし、西広沖へ輸送船が入り、舟艇による上陸と荷揚げが始まった。さらに湯浅を押さえると天洲ヶ浜も使えるようになり、海岸補給の距離を少しずつ縮めていった。


 その先の有田川河口以北には、初島、加茂郷、下津の製油所地帯沖から和歌山方面まで感応機雷の危険が残る。輸送船は紀ノ川河口まで進めず、使える海岸を掃海の進捗に合わせて北へ移しながら、陸上部隊を和歌山と紀ノ川へ進めることになった。


「海岸を確保したあとが長いですね」


「そこが問題です。舟艇で浜へ運べることと、砲弾、燃料、車両を毎日北へ送り続けられることは別です」


 南九州ほど一年以上かけて火砲と兵力を集中された正面ではなかったこともあり、艦砲射撃のあとに始まった上陸そのものは成功した。


          ◇ ◇ ◇


 一方、日本側の沿岸守備隊は、海岸線で大口径砲弾を受け続けるより、道路の屈曲部や山地へ下がって待つ方を選んでいた。


「浜で止めるな。艦砲の届くところに兵を並べても消耗するだけだ」


 日本側の指揮官が示すのは、道路と谷である。


「工兵が前へ出る場所を狙う。橋を落とし、切り通しを塞ぎ、直しに来たところへ撃て」


 米軍が北へ進むにつれて、その指示が効き始めた。橋が落とされるたび工兵が前へ出て、切り通しが崩されればブルドーザーと爆薬が必要になる。台湾と九州を続けて戦った工兵部隊には損耗と疲労がたまり、使える重機にも故障が増えている。


 日本側には、野砲を大量に並べて正面から砲戦を続ける力はない。代わりに迫撃砲、小火器、航空爆弾を転用した噴進弾を短時間だけ撃ち、反撃が来る前に別の谷へ移る。九九式襲撃機などの少数機も、残った航空ガソリンを割り当てられたときだけ擬装離着陸地から出撃した。農地の直線区間などを使った簡易滑走路は短く、250kg爆弾を搭載すると離陸に必要な距離を確保できない。そのため60kg爆弾を搭載し、機関砲と合わせて車列や集積所を狙った。


 機数が少ないため戦況を変えるほどの攻撃にはならない。それでも、後方の道路や燃料集積地まで対空警戒を置かせる効果は残る。


 米軍の前線が和歌山へ近づくほど、海岸からの補給路は長くなる。海岸で薄く見えた日本軍の抵抗も、道路と山地の中へ入るにつれて重くなる。


 道路だけでこの量の砲弾、燃料、車両を運び続けるのは苦しい。そこで鉄道も調べられた。南海本線は紀ノ川を下路トラスの橋梁で渡り、孝子峠側にもトンネルがある。この線路には、貨車重量と孝子峠側のトンネル断面という制約がある。


 南海本線で継続して扱える貨車はトム、トラ、ワム級までとされ、トキ級の大型貨車や戦車を載せた重量列車をそのまま通す前提にはできなかった。孝子峠側のトンネルも断面に余裕がなく、重装備を大量に大阪側へ送る幹線としては制約が大きい。


 重量輸送で頼れるのは国鉄阪和線だった。D51形蒸気機関車とテンダーが入れる断面を持ち、阪和線紀ノ川橋梁を渡れれば、南海本線より重い列車を組める。だが日本軍は、大阪府南部と和歌山県北部の境を東西に走る和泉山脈にまだ残っており、大阪側へ後退するときには橋梁を落とす。南海、阪和のどちらも、線路が残っている区間だけなら使えても、和歌山から大阪まで連続して列車を走らせることはできなかった。


 鉄道を使っても、紀ノ川と和泉山脈を越える兵站問題は残った。


 そして正面に紀ノ川がある。


「川幅があります。橋も全部が残っているとは考えないでください」


 工兵将校が地図を見ながら続ける。


「渡れば、その先は和泉山脈です」


「だから山の向こう側を先に押さえます」


 その判断が、次の作戦へつながる。


第三十六章 和泉山脈の向こう


1945年10月末 紀ノ川・和泉山脈



 米軍が考えたのは、和泉山脈の北側へ空挺部隊を降ろし、峠の出口と道路結節点を先に押さえる方法だった。紀ノ川側から進む地上軍があとから合流すれば、日本軍は山地の出口を使って後退することも、そこで米軍を止めることも難しくなる。


 ヨーロッパで失敗したMarket Gardenの記憶は、当然参謀たちにも残っている。


「また橋と道路を空挺部隊に先取りさせることになります」


「承知しています。ただし、オランダより距離は短い。こちらは制空権もあります」


 慎重な参謀が紀ノ川を指す。


「距離だけなら短いでしょう。しかし、この川を越えなければ地上軍は山へ入りません」


「工兵が渡します」


「渡せれば、ですね」


 それでも作戦実施の決定は変わらなかった。


 北側へ降下した米空挺部隊は、最初の数時間で道路、通信線、いくつかの交差点を押さえた。だが、その後に紀ノ川の橋梁が破壊され、渡河点へ日本軍が集まったため、紀ノ川側から進む地上軍との合流は予定より遅れた。


 和泉山脈には複数の峠道がある。しかし、空挺部隊が負傷者と装備を伴って移動できる経路は限られていた。


 孝子峠方面は和歌山に近いが、峠では米空挺部隊と日本軍が近接戦闘に入り、艦砲射撃を行えば友軍を巻き込む危険があった。峠を抜けても紀ノ川は広く、南岸へ渡れる橋がなければ、海岸から北上している米地上軍と合流できない。


 雄ノ山峠は迂回が長い。風吹峠と二瀬川、蔵王峠、千早峠は徒歩の小部隊なら抜けられても、ジープと負傷者、無線機、弾薬をまとめて通す道ではなかった。鍋谷峠はジープを通せるが遠回りになる。


 残った中で、部隊の形を保ちながら南へ抜ける現実的な道は紀見峠になる。


 空挺部隊を西側の孝子峠方面へ移動させる案も出たが、通信将校は孝子峠方面と大阪湾側の状況を並べて説明した。


「孝子側では、空挺部隊と日本軍が近接戦闘に入っています。艦砲射撃を行えば味方まで巻き込みます。大阪湾もまだ掃海中で、二色浜には上陸部隊がいません」


 北側に別の米軍橋頭堡があれば、降下した空挺部隊をそこへ収容できる。しかし、この時点では大阪湾への海上上陸そのものがまだ始まっておらず、北側に友軍の橋頭堡はない。


「では、空挺部隊を東へ移動させます。紀見峠を越えて橋本へ。紀ノ川を渡って南岸へ出れば、海岸から北上している地上軍と合流できる可能性があります」


 西寄りに取り残された空挺部隊の一部は孝子峠周辺で包囲され、弾薬が尽きると降伏した。山中の細い道へ分散した空挺兵も、負傷者と装備を抱えたままでは長く動けず、捕虜になる者が増えていった。


 一方、東へ移動した空挺部隊は紀見峠へ向かった。この経路ではジープを通せるため、負傷者、無線機、弾薬を車両へ載せたまま、部隊としてまとまって移動できた。


 日本側の歩兵は、自動車道路だけを使わない。尾根道、山仕事の道、牛馬で荷を運んだ道、高野豆腐の冬場の作業小屋を結ぶ細い経路まで使って回り込む。米軍車列が道路の屈曲部で止まると、別の尾根から小火器と迫撃砲が飛んでくる。


 北側の平地では、日本軍の旧式戦車も孤立した米空挺部隊への攻撃に投入された。九五式軽戦車、九七式中戦車、少数の三式中戦車は、米軍の戦車部隊を正面から相手にすれば長く持たない。それでも、重火器の少ない孤立空挺部隊に対しては、道路を塞ぎながら数時間の戦闘を続けることができる。


 米軍機に発見されれば不利になるため、日本軍戦車は射撃すると位置を変えた。戦車の燃料と空挺部隊の弾薬のどちらが先に尽きるかという局地戦が続いた。


 海岸から北上する米地上軍と孤立した空挺部隊の距離は、地図上では短かった。それでも紀ノ川の渡河、峠道、日本軍の抵抗に進撃を阻まれ、空挺部隊との合流にはさらに時間が必要になった。


第三十七章 紀見峠から五條、十津川へ


1945年11月初旬 橋本・五條・十津川・熊野



 紀見峠を越えた米空挺部隊がまず目指すのは橋本である。


「橋本で紀ノ川を渡れれば、南岸へ出られます」


 米空挺部隊の将校が地図を示すと、別の兵士は西を指す。


「そこから紀ノ川南岸を西へ進んで、海岸から北上している地上軍と合流するんですね」


「合流できれば、です」


 橋本まで来ても、問題は終わらない。紀ノ川を渡れる橋は限られ、日本側も残っている渡河点を当然押さえている。橋本では損傷した橋と南詰からの射撃が重なり、残ったジープを含む隊列を安全に渡すことができなかった。


「ここでは無理です」


「次に渡れそうなのは」


「五條です」


 五條は奈良県南西部、紀ノ川上流の吉野川沿いにある町で、そこから南へ進めば紀伊山地と十津川へ入る。空挺部隊はさらに東へ進み、五條を目指した。市街地へ逃げ込んでも住民と日本軍の中へ入り込むだけで、隠れる場所にはならない。北へ戻っても友軍はいないため、紀ノ川沿いを進むしかなかった。


 五條では、ようやく残ったジープを通せる橋を見つけた。米空挺部隊の先行小隊が南詰を確保し、負傷者と無線機を載せた車両から順に南岸へ渡す。


 ところが、そのころには和歌山側の地上軍が撤収を始めたという断片的な情報も入っていた。川を渡ることには成功しても、空挺装備のまま南岸を何十kmも西へ下り、後退中の友軍を追う力はもうない。


「紀ノ川南岸を西へ下れば、撤収中の地上軍にまだ合流できますか」


 若い下士官の問いに、指揮官は地図を見たまま答える。


「分かりません。道路も橋も壊されています。こちらには重い輸送車も工兵もありません」


「では、どこへ」


 指揮官は、紀伊半島南東部、熊野川河口の港町・新宮を地図で指した。


「南です。新宮まで出れば、米海軍の艦艇が回収できます」


 五條から南へ入る道は天辻峠を越える。天辻峠そのものはジープで通れるため、最初のうちは負傷者と無線機、弾薬を車両へ載せられた。


 次の問題がガソリンである。


 紀見峠から橋本、五條まで余計な距離を走り、友軍の補給線から完全に切り離されている。日本の民間車両を見つけても、車にはガソリンが入っていない。木炭車や代用燃料車を奪っても、その燃料をジープへ移すことはできなかった。


「この車はここまでです」


 運転兵がタンクを叩く。


「抜けるだけ抜いてください。負傷者を載せた車と無線機の車へ回します」


 道路脇へ残されるジープが一台ずつ増えた。燃料を集めても全車両を維持できないため、荷物を選び、車両を減らし、最後には歩いて運べないものを捨てるしかなくなる。


「無線機を一台残します。予備の弾薬箱は置いていきます」


「工具は」


「ジープがなくなれば全部は要りません。持てる分だけです」


 天辻峠を越え、奈良県最南部の紀伊山地を南北に刻む十津川へ下るころには、まだ小さな隊列だったものが細かな集団へ崩れ始めていた。


 日本側は山中を一人ずつ追い回さなかった。十津川方面の警察、日本軍の小部隊、地元の猟師や山仕事をする者を集め、米兵が必ず必要とする場所を押さえる。


「山狩りは山全体をやらなくても、集落周辺で良いでしょう」


 地元を知る警察官が地図を指す。


「食べるなら村へ出ます。川を下るなら渡し場か舟が要ります。そこへ人を置きましょう」


「舟は」


「川岸から上げます。動かせるものは隠します。見知らぬ兵が来たら、下流の村へ先に知らせます」


 日本軍の正規部隊は主要な集落と道路の出口を押さえ、警察と住民が情報をつなぐ。山道を知る者は、米兵がどの谷から次の集落へ出そうかを教える役になる。


 米空挺部隊では食料が先に尽きる。最初は金を見せ、通じなければ物々交換を試みる。それでも食料が得られなくなると、銃を持ったまま納屋や家へ入る者が出る。


「金はあります。食べ物をください」


 兵が紙幣を見せても、住民は首を振った。前の村から、米兵が来るという知らせが届いている。


「舟もない」


「隠されたんだ」


 規律は少しずつ崩れた。住民側から見れば、軍服を着ていても食料と舟を奪う武装集団であり、盗賊と変わらない。


 熊野本宮へ達した一部の米兵も、食料を求めて集落へ入る。家や納屋から食料を持ち出し、撤収するときには熊野本宮大社と周囲の建物へ火を放つ。


 社殿が燃えているという知らせの方が、米兵より先に熊野川沿いを下る。


「本宮大社まで焼失したそうです」


 下流の村でその話を聞いた者たちは、残っていた食料を山へ隠し、舟を川岸から上げた。


「来る前に下の村へ知らせよう」


「舟は出すな。夜でも川へ置かないでくれ」


 米軍側は孤立部隊への支援も続けた。位置を確認できた集団には航空機から食料と弾薬を落とし、十津川や熊野川の広い河原には折り畳み式の舟も投下した。


 ただし、新宮まで連続して舟で下れる川ではない。急流では舟を担いで歩き、使えなくなれば捨て、下流で別の舟を探す。住民の舟を奪う米空挺部隊もあり、そのたびに下流へ警戒情報が送られた。


「新宮まで出れば、米海軍の艦艇がいます」


 疲れた兵へ、将校は何度も同じ言葉を繰り返す。


「海まで出れば終わりです。南へ行きます」


 距離だけなら飛行機ではすぐの場所でも、徒歩になった米空挺部隊にはひどく長い。


第三十八章 新宮沖


1945年11月初旬 熊野川・新宮



 最初に新宮へ達した米兵は少数だった。川沿いを歩き、舟を使えるところだけ舟に乗り、また歩いて海へ出る。


 米海軍は新宮沖へ回収用の艦艇を派遣した。大きな輸送船を河口へ入れるのではなく、沖合の艦から小型艇を出し、海岸や河口へ出てきた米兵を収容する。


「河口へ出た兵を確認しました」


「小艇を出してください。岸へ寄せすぎないように」


 初期の回収は比較的うまくいった。日本側も、どの谷から米兵が出てくるのかまでは把握していなかったからである。


 しかし、同じことが何度か続けば経路が見える。


 熊野川沿いの村から報告が届き、河原への物資投下も確認されると、日本側は下流の集落、渡し場、河口へ兵を置くようになる。


「山中を一人ずつ追わず、新宮へ出る地点を押さえます。最後はここへ出ます」


 別の日本軍将校は、河口だけでなく周辺集落にも兵を置くよう求めた。


「集落も押さえます。食料と舟を取りに来る場所です」


 米艦艇は海岸近くの日本軍射撃陣地を砲撃し、米軍機も回収地点の周囲を掃射した。その間に米海軍の小艇が岸へ入り、たどり着いた孤立部隊の兵を少しずつ収容する。


 紀伊半島上陸作戦の米軍主力は、すでに和歌浦方面から海上撤収を進めていた。山中に残っている米兵は、作戦主力から切り離され、何日も前から南へ退避している小部隊である。


 そのため、後になって大阪湾で新しい上陸作戦が始まっても、彼らが北へ向きを変えることはない。二色浜の橋頭堡ができたころには、無線機を失った米空挺部隊や電池が切れた米空挺部隊が十津川と熊野川の深い谷へ散らばり、どこに友軍がいるかさえ分からない者もいる。


 紀伊半島の作戦は終わっているのに、山中の銃声だけは次の戦いまで残る。


第三十九章 美濃で杉原千畝を拾う


1945年11月初旬 岐阜・美濃



 同じ11月初旬、東側では愛知の軍需産業を確保したソ連軍と日本人民軍が岐阜へ入った。


 東側の作戦目標は、愛知と岐阜の航空機、工作機械、車両、電機、軍需産業を占領地域へ組み込むことだった。その西端は関ヶ原付近で足りた。


 その進撃の途中で、タチアナ大佐にはもう一つの用事があった。


 東京の外務省を接収したとき、人事記録の中に一人だけ妙に目立つ名前を見つけていた。


 杉原千畝(すぎはら・ちうね)。岐阜県出身でロシア語に堪能、ハルビン学院で学び、満州で対ソ交渉に携わり、北満鉄道譲渡交渉にも関わっていた。


 リトアニア、ドイツ、東欧で勤務。


 日本がソ連軍政下で外交機能を作り直すうえで必要な経歴が、ほとんど一人の中へ集まっていた。


 それなのに本人は東京にいなかった。


 本人は美濃へ戻り、寺の離れを少し増築して、半分隠居のように暮らしていると分かった。


 タチアナは記録を読んだとき、周囲に聞いた。


「なぜ、この人が東京にいないのですか」


 明快な答えは返ってこなかった。


 ソ連軍の進出地域が美濃まで来ると、タチアナはいつもの護衛部隊と寺へ向かった。


 杉原は、突然現れたソ連軍の大佐を見ても騒がなかった。


「杉原千畝さんですね」


「はい」


「東京へ来ていただきます」


「逮捕ですか」


「いいえ」


 タチアナは日本語で答えたあと、ロシア語へ切り替えた。


「Ваш русский язык всё ещё хорош?(ロシア語は、まだお上手ですか)」


 杉原もロシア語で返した。


「Проверим.(試してみましょう)」


 そこから先の会話を、護衛の兵と寺の人たちはほとんど理解できなかった。


 タチアナが東京の状況を説明し、杉原は外務省の状態を尋ねた。声を荒らげることもなく、二人は長くロシア語で話し続けた。周囲から見れば、ソ連軍情報部の大佐と、美濃へ戻っていた元外交官が密談しているようにも映った。


 周囲には何を決めているのか分からず、それだけで十分に憶測を呼んだ。杉原は最低限の荷物だけを持った。


「残りは、落ち着いたら取りに戻ります」


「その方がよろしいでしょう」


 東京へ戻ると、さらに霞ヶ関がざわついた。


 追い出したはずの杉原千畝が、今度はソ連軍情報部の大佐と一緒に正面から戻ってきた。


 しかも、二人は廊下でも執務室でもロシア語で普通に話していた。大半の官僚には内容が分からず、それだけで新しい憶測が生まれた。


「誰の名前が出た」


「人事の話ではないのか」


「モスクワへ何を報告するんだ」


 実際には、書類の決裁経路や、誰がロシア語を読めるかを話しているだけのことも多かった。


 杉原は外務次官になった。


 復職ではなく、外務省の実務トップとして戻った。


 タチアナが省内へ伝えたのは短かった。


「杉原さんには、今日から外務次官として仕事をしていただきます」


 それまでの外務省には、ソ連に敗戦処理の仲介を期待する発想が長く残っていた。


 杉原が戻ると仕事の向きが変わった。


 外務省の仕事は、モスクワへ期待することから、モスクワと交渉することへ変わった。捕虜、帰還、占領地域の境界、通商、在外邦人、鉄道、港、食料、文書引継ぎを並べ、政治案件、軍政案件、外務省で処理できる案件、モスクワ判断が必要な案件へ仕分けていく。


 杉原はロシア語でタチアナと直接、外交文書の引き継ぎや占領後の外務行政を協議できたため、何段もの通訳を挟まずに済んだ。


 霞ヶ関では、二人がロシア語で話すたびにまた憶測が生まれた。


 杉原に聞いても、答えはだいたい同じだった。


「仕事の話ですよ」


第四十章 大阪湾


1945年11月上旬 紀淡海峡・二色浜



 そのころ西側では、紀伊半島上陸が崩れたあとも、米軍はすぐには大阪湾へ入れなかった。


 紀淡海峡から湾内へ続く水路では掃海が続き、先行する掃海艇が通った場所で後続艦が触雷する事故も止まらなかった。回数式、遅延式、磁気・音響・水圧式の感応機雷が混在する海では、「昨日通れた」という事実だけで大船団を入れることはできなかった。


 その数日が、和泉山脈北側の空挺部隊には間に合わなかった時間である。


 空挺部隊が紀見峠から橋本、五條へ逃れ、さらに十津川へ下り始めたあとになって、ようやく大阪湾へ上陸船団を通す水路が作られた。


 東京はすでに無血開城して東側の占領下に入り、松代もソ連軍と日本人民軍が占領している。このまま待てば、西日本の政治的な処理まで東側が先に進める可能性がある。


「京都と奈良、それに大阪を確保します」


 米軍の作戦会議で参謀が切り出した。


「紀伊半島から北上する案は失敗しました。今度は大阪湾から直接入ります」


 大阪湾北部へ深く入るほど機雷と港湾障害の危険が増えるため、上陸地点には大阪湾南東岸、現在の大阪府貝塚市付近にある二色浜が選ばれた。現在は周囲の埋め立てによって砂浜の一部が残る形になっているが、1945年当時は現在より連続した海岸線だった。海岸のすぐ後ろに、日本軍部隊が隠れて海岸線を攻撃しやすい急な山地がなく、南側から確保した掃海航路を使いやすかった。


 上陸初日、米軍は二色浜に橋頭堡を築いた。


 その船団には戦艦ミズーリも加わっていた。


 紀淡海峡を抜ける途中、水中で機雷が爆発した。アイオワ級の大きな船体は一発の触雷で折損しなかったが、複数区画へ入った水を排水能力だけで抑え続けることはできない。


「浸水が増えています。このまま深い海域へ進めば、いずれ沈みます」


 機関長の報告を受け、艦長は海図を見た。


「加太沖の浅海へ移して着底させる案は」


「船体を残すだけならできます。しかし、あそこで艦底を着ければ大阪側への射撃に不利です。上陸支援を続けるなら二色浜沖まで航行させる方がよいでしょう」


 艦長は少し考えてから答えた。


「二色浜沖まで航行します。深い海域で沈めるより、砲を使える状態で着底させてください」


 浸水したミズーリは速度を落としながら大阪湾へ入り、二色浜沖の浅海を目指した。浮かせたまま固定砲台にするだけの余裕はなかった。沈下を止めるには、まだ動けるうちに艦底を海底へ着けるしかなかった。


 上陸用舟艇が何度も往復する浅い海では、海底の砂と泥が絶えず巻き上がっていた。通常の海水取入口をそのまま使えば、ストレーナーが短時間で詰まることも分かっていた。


「主機は捨てます」


 機関長は艦内配置図を広げた。


「推進用の大流量海水系統を切り離します。生かすのは発電、消防、砲塔、射撃指揮です。使える取入口を切り替え、仮設配管とポンプを組みます。泥をそのまま熱交換器へ回さないよう、艦内で受けて沈砂させる系統も作ります」


「砲戦能力の維持を最優先にしてください。推進系と居住区画の本格修理は後回しで構いません」


「了解しました」


 ミズーリは浅海へ進み、艦底が海底へ触れたところで沈下を止めた。船体の傾斜と正確な位置を測り直し、射撃指揮装置へ補正値を入れる。


 航走する自由は失ったが、砲台としての足場は安定した。横揺れ、縦揺れ、自艦の速力変化を射撃のたびに追い続ける必要がほとんどなくなった。


「主砲、使用できます」


「5インチも使用可能です。40ミリも生きています」


 本来二十門ある5インチ両用砲と八十門の40ミリ機関砲も、電源と必要系統を確認できたものから戦闘配置へ戻していった。


 ミズーリの最初の地上目標は、大阪側に残る大口径火砲だった。大阪には陸軍造兵廠があり、15cm級を含む重砲を整備できる人員と部品も残っている。数門でも二色浜の橋頭堡へ継続射撃できれば、上陸部隊にとっては無視できない。


 日本側の重砲が発砲すると、前線観測、航空観測、音響や着弾方向の情報が集められた。


「砲兵陣地、位置修正入りました」


「主砲で対砲兵射撃。米上陸部隊前面の重砲陣地を沈黙させてください」


 16インチ砲弾が大阪側の重砲陣地へ飛んだ。日本側は撃てるだけ撃って陣地を変えようとしたが、重砲は迫撃砲のようには動かせない。固定陣地や移動に時間のかかる砲から順に沈黙していった。


 射程だけなら大阪市街だけでなく、和泉山脈中央部も主砲の射程内に入った。


 数日前にこの火力が使えていれば、山の北側へ降ろした空挺部隊を支援できた場所だった。しかし、そのときミズーリはまだ二色浜におらず、大阪湾への水路も開いていなかった。


「今なら和泉山脈中央部まで主砲で射撃できます」


 砲術長の報告に、艦長は地図を見た。


「空挺部隊には間に合いませんでした。いまいる上陸部隊のために使ってください」


 日本側に、この固定砲台を正面から破壊できる火力はほとんどなかった。少数の航空機を集めて飽和攻撃を行う案も出たが、そのための航空ガソリンがない。


 残存機を一斉出撃させる案も検討された。


「何機かを対空砲火の内側へ通すには数が要ります。その燃料がありません。二機、三機なら、近づく前に撃墜されます」


「雨なら」


「こちらから戦艦は見えません。向こうはレーダーでこちらの位置を特定します」


「山沿いに低く入れば」


「二色浜です。最後は平地と海岸へ出ます。山影のまま艦の横まで行くことはできません」


 ミズーリを狙うより、少ない燃料を車列、工兵、弾薬集積へ使う方がまだ効果があるという結論になった。


 それでも、特攻兵器を使えという声は残っていた。


 九州戦から退避してきた宇垣纏中将は、日本海軍の残存特攻部隊の指揮官を集め、回天、震洋、カタパルト発射型の桜花による特攻隊の編成と出撃を命じた。


「敵戦艦をそのまま砲撃させておくわけにはいかない。出せる回天、震洋、桜花を集めなさい。攻撃隊を編成して出撃させなさい。私もあとから行く」


 若い士官は少し間を置く。


「長官は操縦できませんよね」


 部屋が静かになる。


「乗せてもらえばよいでしょう」


「それでは、操縦員を一人余計に使うだけです」


 宇垣は答えなかった。


 震洋隊の小隊長も命令書に目を通しただけで、出撃準備へ移る気配はない。


「ミズーリまで到達して攻撃できたとして、戦局は変わりますか」


「敵戦艦の砲を止める命令だ」


「着底しています。あれを撃破しても形勢は戻りません。大阪湾の米軍も消えません」


 小隊長は首を振る。


「この命令には従えません」


 特攻兵器は残っていたが、それを使えば戦争が逆転する段階は過ぎていた。命令系統そのものが消えたわけではなくても、死ぬことだけを目的にした命令へ現場が従わなくなり始めていた。


 日本側は、着底したミズーリへの攻撃より、上陸部隊の進撃遅滞へ戦力を振り向けた。


 捕虜の所持書類と尋問から、米軍が京都と奈良を重要目標としていることも判明していた。海岸で兵力を使い切らず、道路、鉄道、河川、工場地帯、町の縁に防御拠点を置き、米軍の進撃路を限定して時間を稼いだ。


「正規歩兵は前線に残します。航空要員と海軍要員は後方警備、弾薬運搬、固定陣地の守備へ回してください」


「輸送船を失って行き先のなくなった日本軍部隊もいます」


「予備隊に編入します。人はいます。足りないのは燃料と車両と重装備です」


 二日目、米軍は橋頭堡を拡張したものの、京都にも奈良にも達しなかった。日本側も最後の万歳突撃に全兵力を投じることは避け、道路や河川を利用して米軍の進撃を遅らせながら時間を稼いだ。


「一度の突撃で兵を使い切らず、今日一日を持たせてください。政治の話が動いています」


 三日目の朝、前線には、高松宮側から停戦について直接話し合いたいとの申し入れが届いた。


第四十一章 高松宮


1945年11月上旬 大阪湾上陸三日目



 米軍側へ連絡を入れる前、高松宮は側近を集めて短く打ち合わせた。


 松代から昭和天皇の退位・譲位文書はまだ届いていなかった。しかし、元公家の日本人民軍将校を通じ、昭和天皇本人が必要な手続きを済ませたとの連絡は受けていた。


 正式文書が届けば、西日本側の帝国陸海軍へ戦闘停止を命じる責任を引き受けることになる。高松宮はそう理解していたが、大阪湾では文書の到着を待つ間にも戦闘が続いていた。


「正式な手続きは文書が届いてから整えます。まず大阪湾正面の戦闘を止めたいと思います」


 側近の一人が尋ねた。


「米軍側へは、どこまでお伝えしますか」


「兄上の文書が届くまでは、細部の公表を控えます。西日本側の軍に命令を出せる体制を作る準備があることは伝えてください」


 連絡は無線と前線の使者を重ねて行われた。


 米軍側も、高松宮本人が停戦協議に出ると分かると、会談場所と、その周辺で射撃を控える時間帯を前線部隊へ通知した。


 会談の第一目的は、正式な降伏条件より先に双方の戦闘停止時刻を決めることだった。


 米軍側の指揮官は穏やかに確認した。


「殿下のお話は、西日本側の各軍へ伝わると考えてよろしいでしょうか」


 高松宮は穏やかに答えた。


「現在の私だけで、西日本側のすべての部隊が従うと申し上げることはできません。ただ、その権限を一つにまとめる手続きを進めています。まず大阪湾正面の戦闘を止めていただければ、こちらも同じ時刻に戦闘を停止させます」


「大阪湾正面の米陸軍部隊なら、私の権限で戦闘停止を命じられます。艦砲射撃と航空攻撃は、海軍と航空部隊の上級司令部との調整が必要です」


「承知しました。必要な時間を決めてください」


 会談内容はすぐに無線で米軍上級司令部へ送られた。陸上部隊の前進と射撃、海軍の艦砲射撃、航空部隊の攻撃を同じ時刻に止める必要があり、午前中に始まった調整は午後まで続いた。


 夕方、停戦時刻が決まった。米軍はその時刻に前進を停止し、日本軍も反撃を止めた。艦砲射撃と航空攻撃も同時刻に中止し、停戦違反や事故に備えて双方の前線を結ぶ連絡手段だけは維持した。正式な降伏条件は、戦闘停止後に改めて協議することになった。


 日が傾くにつれて、二色浜から内陸へ続く戦線の砲声は減っていった。最後まで射撃を続けていた日本軍陣地にも命令が届き、大阪湾正面は夕方までに静まった。


 米軍は二色浜の橋頭堡を確保し、日本軍も内陸に多数の武装部隊を残した状態で停戦に入った。戦場で一方が壊滅する前に、政治交渉が大阪湾正面の戦闘を止めた。


第四十二章 停戦のあとも沈む


1945年11月上旬 紀伊水道・由良沖・紀伊半島



 大阪湾正面で停戦時刻が決まっても、海底の機雷に命令は届かなかった。


 停戦翌日、空母エンタープライズが移動中に触雷した。太平洋戦争の最初から戦い続け、多くの損傷を受けながら生き残ってきた艦は、台湾戦と本土戦が長引いたため、修理を終えて前線へ復帰していた。


 掃海済みとされた水路で船底近くの機雷が作動し、浸水は止め切れなかった。


「日本側からの攻撃ではありません」


 報告を受けた米海軍司令部で、海軍士官が確認した。


「分かっています。こちらが敷設したものです」


 エンタープライズは停戦の翌日に沈んだ。


 さらに翌日、由良沖で兵員を乗せたリバティー船二隻が相次いで触雷した。大阪湾や紀伊半島へ送る予定だった米軍部隊を載せていたものの、停戦のため上陸を保留され、船内に兵を残したまま待機していた船である。


 一隻目が船団整理のために動いたところで水中爆発を受け、救助と回避で航路が乱れたあと、別の一隻でも機雷が作動した。


 由良沖に残っていたのは、1945年の飢餓作戦で米軍が敷設した海底感応機雷だった。磁気・音響・水圧式が混在し、数隻を通過させてから作動する回数設定や遅延設定もある。爆発後の現場から、どの作動方式の機雷がリバティー船を沈めたのかまでは断定できなかった。


 この事故で、海上に兵員を乗せたまま待機させる方が危険だという判断が固まった。


「数千人を船に残したまま南へ抜かせる方が危険です」


「停戦後に上陸させれば、日本側が増援と受け取ります」


「前進させなければよい。安全のための陸揚げだと先に合意を取ります」


 米軍側は高松宮周辺へ緊急の申し入れを送った。


「停戦条件は維持します。北上もしません。ただ、兵員を船から降ろすことを認めていただきたいのです。このまま海上に置けば、一隻の触雷で数千人が失われます」


 高松宮は事情を確認した。


「上陸した米軍部隊は、指定地域から前進しないのですね」


「はい。安全のための陸揚げです」


「分かりました。それなら認めます。日本側部隊にも攻撃しないよう命じます」


 停戦時点ですでに日ノ御碕以北の紀伊水道へ入っていた輸送船は、兵員を湯浅で陸揚げした。湯浅は日ノ御碕より北にあり、危険海域へ入り込んでいた船から兵員だけを先に陸へ移す場所として使われた。


 数千人を載せたまま再び日ノ御碕を越えて南へ出す必要はない。船は必要最小限の乗員だけを残し、掃海艇が確保した水路を使って順次南へ抜ける。


 以前に煙樹ヶ浜へ上陸していた部隊は御坊周辺へ集結した。湯浅に陸揚げされた米兵も、御坊周辺へ集結した部隊も北進を止め、指定地域で次の命令を待った。


 掃海任務はむしろ増えた。兵員輸送船を安全な海域へ退避させ、大阪湾内に残る艦艇の出港順序と航路を整理しなければならない。それでも短期間で機雷をすべて除去することはできず、軽巡洋艦以下の艦艇や輸送船には散発的な触雷損失が続いた。


 そのため、日ノ御碕より南から紀伊水道北部へ新たな艦船を入れることは原則として禁止された。紀伊水道北部と大阪湾内にいる米軍艦船は掃海航路を使って南へ出し、一度安全海域へ退避した大型艦と輸送船は紀伊水道北部へ戻さない方針とした。


 陸上の戦闘は止まっても、海では米軍自身が敷設した機雷原から艦艇を安全海域へ撤収させる作業が続いた。



          ◇ ◇ ◇



 十津川と熊野川では、停戦の知らせがすぐには届かなかった。


 無線機を途中で捨てた部隊、電池が切れた部隊、深い谷で通信できない部隊が残っていた。彼らは大阪湾に新しい米軍橋頭堡ができたことを知らず、何日も前に決めた新宮への進路をそのまま進んでいた。


 日本側の小部隊も、村の食料や舟を奪う武装集団がまだ動いている以上、噂だけで警戒を解けなかった。


「停戦したそうです」


「この谷の米兵が知っているのか」


「分かりません」


「なら、村と舟はまだ守ります。撃ってこなければこちらも撃ちません」


 米軍はF4Uを使い、孤立部隊へ通信筒に入れた命令書を投下した。内容は、戦闘を停止すること、日本側部隊を避けること、住民から食料や舟を強制的に取り上げないこと、新宮の回収地点へ向かうことだった。


 一度の投下では、命令書が全ての部隊へ届かなかった。停戦翌日にも山中で銃声が聞こえる場所があり、何度か投下が繰り返され、日本側にも正式な戦闘停止命令が回るにつれて、紀伊半島の戦闘はようやく消えていった。



          ◇ ◇ ◇



 そのころ、松代から正式な文書が西側へ届いた。


 昭和天皇の退位文書と、高松宮宣仁親王へ皇位を譲る文書である。本人の署名と御璽を京都側の宮内関係者、政府高官、陸海軍の高位者が確認し、高松宮は即位した。


 新しい天皇の名で、西日本側の帝国陸軍・帝国海軍へ戦闘停止と降伏準備の命令が出された。これ以後、西日本側へ届く戦闘停止命令は、新天皇の統帥命令として扱われた。


 西日本各地の帝国陸海軍部隊には、武器を保持したまま現位置で待機し、連合国側との取り決めに従って順次武装解除へ入るよう命じられた。これによって、停戦命令を拒んで独自に戦闘を続ける部隊が続発する可能性は大きく下がった。


 正式な降伏文書への署名はまだ先であり、連合国側の代表がそろい、占領、武装解除、捕虜、艦船、航空機、行政の扱いを一つの文書へまとめるには時間が必要だった。


第四十三章 関ヶ原で止まる


1945年11月上旬 岐阜・関ヶ原



 大阪湾で停戦が成立したころ、太平洋側のソ連軍と日本人民軍は関ヶ原付近まで来ていた。


 そこで西進を止めた。


 東側の第一目標だった中京地区は、すでに確保していた。


 名古屋、豊川、岐阜の工場、航空機産業、工作機械、鉄道結節点が東側の占領地域へ入った。


 東側には、ここから京都や大阪へ進出できるだけの軍事力も残っていた。


 問題は、進むことに利益があるかだった。


 京都や大阪へ入れば、米軍が近畿を確保しようとしている正面へ接近し、偶発的な交戦から米ソの衝突へ発展しかねない。さらに、後の占領地域調整では、過度に前進して確保した地域そのものが交換材料になり得た。


 タチアナは地図を見ながら、ソ連軍幹部へ説明した。


「中京地区が第一目標でした。そこは確保できています。京都と大阪まで進出すれば、近畿へ占領地域を広げた代わりに中京地区から後退しろと言われる材料を、自分で増やすことになりますわ」


 ソ連軍側の将官も穏やかに答えた。


「占領地域の軍事境界線は会議で決める方がよいでしょう。こちらから米軍の正面へ近づく必要はありません」


「はい。関ヶ原付近で進撃を停止してください。日本海側も、金沢・小松から福井方面へ大兵力を進出させない方が安全ですわ」


 関ヶ原では、東側の前進部隊が陣地を固めた。


 西側の日本軍も、新天皇から戦闘停止命令を受けていた。


 双方の間で大きな戦闘は起きなかった。


 東側は、さらに西へ占領地域を広げることより、すでに確保した中京地区を失わないことを優先した。


 関ヶ原は、決戦場ではなく、次の会議まで待つ場所になった。


第四十四章 西日本の降伏文書


1945年11月中旬 京都



 大阪湾正面の停戦から、およそ半月が過ぎた。


 その間、西日本側では新天皇の命令で各地の戦闘が止まり、帝国陸軍・帝国海軍は部隊ごとに現位置を確認し、武装解除の準備へ入った。


 米軍側も、停戦当日に作った前線だけの取り決めを、正式な降伏文書へ置き換える必要があった。


 史実のように、日本政府がポツダム宣言を受諾し、一つの日本を代表して連合国へ降伏する形にはならない。


 この時点で、東京を中心とする東側と、京都を中心にまとまり始めた西側は、すでに別々の行政機構と軍事命令系統を持っていた。


 カイロ宣言もポツダム宣言も、連合国の対日方針を示した歴史的文書として残っている。だが、実際の終戦手続を行う段階では、一つの中央政府が日本全域の軍と行政へ命令を出すという前提そのものが失われていた。


 そのため、西日本側の降伏条件を史実のように一つの日本政府によるポツダム宣言受諾だけで処理することはできず、西日本側を対象とする降伏文書が改めて作られた。


 対象は、西日本側で新天皇の統帥下に入った帝国陸軍・帝国海軍と、その行政地域である。


 連合国側も、前線指揮官だけで署名を済ませることはしなかった。


 必要な代表者を集め、武装解除、捕虜、航空機、艦船、港湾、通信、行政施設の扱いを確認するのに時間がかかった。


 フランス軍は、日本近海の機雷危険を理由に本土派遣を行っておらず、大阪湾の停戦交渉にも参加していない。


 署名当日も、主導したのは実際に西日本で戦っている米軍側と、西日本側の政府・軍代表だった。


 新天皇は署名式そのものを軍の儀式にはせず、政府と陸海軍の代表へ権限を与えたうえで文書の内容を確認した。


「これで西日本各地の帝国陸海軍部隊に、同じ条件を示せますね」


 西日本側の高官が答えた。


「はい。停戦命令だけでは地域ごとに扱いが違いましたが、これで武装解除の手順まで統一できます」


「では、できるだけ静かに進めてください。戦闘を止めたあとに混乱で人を失う必要はありません」


 正式な降伏文書へ署名が行われた。


 大阪湾で砲声が止んだあと、正式な降伏文書への署名まで約半月を要した。文書は、先に成立していた戦闘停止を制度として確定させた。


第四十五章 大垣会議


1945年11月末 大垣



 大垣へ集まった代表団に、戦争そのものを止める仕事はほとんど残っていなかった。


 東側は東京、関東、中京地区を占領し、日本海側では金沢・小松までを確保していた。


 西側では新天皇の命令で戦闘が止まり、連合国との正式な降伏文書にも署名が終わった。


 残るのは、東西の軍事境界線、人と財産、鉄道、水利、皇室関係、復員の扱いだった。


 会議室には東側と西側の代表が座った。


 杉原外務次官は、最初に地図を広げた。


「戦争が終わったあとまで、前線の位置をそのまま残す必要はありません。道路と鉄道と川を見ながら、双方が管理できる軍事境界線へ整理しましょう」


 太平洋側では、東側が関ヶ原付近まで来ていた。


 しかし、その線をそのまま軍事境界線にすると、山地の道路、鉄道、集落が複雑に入り組む。


 太平洋側の軍事境界線は、揖斐川を基本とすることでまとまった。東側は関ヶ原から揖斐川まで後退する。北陸側の軍事境界線は九頭竜川水系を基準とし、金沢・小松で止まっていた東側部隊も、双方が定めた期限までに合意した配置へ移動することになった。


 ソ連軍幹部は地図を見て確認した。


「こちらは中京地区を確保できています。京都や大阪へ進まない代わりに、その地域を安定させることを優先します」


 西側代表も答えた。


「こちらも、停戦後に東へ新しい部隊を出しません。移動期限と連絡方法を同時に決めましょう」


 軍事境界線を越える新規の部隊進出を禁止し、重砲と戦車を先に後退させ、大規模な弾薬集積所を撤去したあと、歩兵と補給部隊を合意した配置へ移すことになった。


 橋、駅、港、飛行場の引渡しは、双方の連絡将校が立ち会い、時刻まで記録する。


 故障車両、負傷兵、病院列車などは例外通行を認める。


 撤収時に橋、発電所、ダム、鉄道、工場設備を破壊しないことも明記された。


「もう撤退戦ではありません」


 杉原はそう言った。



          ◇ ◇ ◇



 次は水だった。


 木曽川水系では、戦前から関西側の事業主体が持っていた発電用の水利権や設備運営権がある。


 東西の占領地域が分かれれば、東側が管理する川の権利だけを西側企業が持ち続ける形では行政が動かない。


 東側占領地域にある発電用取水権、水利権、施設運営権は、東側の行政機構へ移管することで合意した。資産評価、債務、送電料金は後日の実務会議で精算する。


 軍事境界線をまたぐ送電線は、切断せず暫定的な相互供給契約を結ぶ。


 鉄道と通信も同じ考え方になった。


 切断すれば双方が困る設備は、先に運用を継続させた。所有権と料金は後日の協議へ回す。



          ◇ ◇ ◇



 皇室関係の議題になると、東側代表は別の箱と目録を会議室へ運び込ませた。


 松代で接収していた剣璽、御璽、国璽、そのほか西側の皇室制度で必要になる皇室関係物品は、大垣会議の場へ現物で持ち込まれていた。


 双方の担当者は目録を一項目ずつ確認し、箱を開いて封印番号を照合したうえで、受領書へ記録した。


 確認が終わると、その場で西側へ引き渡された。


 杉原は西側代表へ言った。


「東側では天皇制を採りません。こちらで使わないものを抱えて、争点を増やす理由もありません」


 西側代表は受領書を確認した。


「ありがとうございます。人の方はどうなりますか」


「侍従をはじめ松代に残っている皇室関係者も、西側へ移る希望を確認しています。会議終了後、順次こちらから送り出します。家族と私物の移送も一緒に手配します」


「分かりました。その方が助かります」


 皇室関係物品は大垣会議の場で引き渡された。


 皇室関係者の西側への移送は、会議後に始めることになった。



          ◇ ◇ ◇



 復員と帰還兵の扱いは、さらに人数が大きかった。


 帝国陸軍・帝国海軍の海外部隊から、これから大量の帰還者が日本へ戻る。


 どの港へ着いたかだけで東西の所属を決めれば、船の配船都合で帰還先まで決まってしまう。


 そこで帰還船の中で一度だけ本人に選ばせることになった。


 東側へ戻るか、西側へ戻るかを選び、両側の制度説明を受けたうえで申告書へ署名する。


 入港したあと二年間は原則として変更できない。


 例外は、重病、未成年者の保護、扶養家族の死亡など、合同委員会が認めた場合に限る。


 到着港と所属地域を同じものにはしない。


 朝鮮出身者の帰還も別枠で整理した。


 大陸へ日本人を迎えに行く帰還船の往路を使い、日本国内にいる朝鮮出身者の帰還を進める。


 日本に残る場合は、東西いずれかの地域を選び、その地域の住民として登録する。正式な国籍は、それぞれの国家成立後に確定する。


 朝鮮総督府は、政治統治を続けるためではなく、帰還、戸籍、財産、鉄道、港湾、病院、学校、行政文書を引き渡すための暫定機関として1946年末まで残す。


 細部は次の実務会議へ回した。


「今日全部決めようとすると、決められることまで決まりません」


 杉原がそう言って議題を分けた。


 最終文書には「大垣議定書」という名称が付けられた。


 東側代表と西側代表が署名した。


 外では揖斐川がいつもどおり流れていた。


 川自身は、東西の占領地域を分ける軍事境界線の基準にされたことを知らない。


 会議が終わったあと、松代に残っていた侍従や皇室関係者の西側への移送が始まった。


 そして翌日、モスクワからタチアナへ、大佐から少将への昇進辞令が届いた。


 杉原が辞令を見て言った。


「今度はバナナではないようですね」


 タチアナは少し笑った。


「まあ。大垣議定書で少将になりましたわ」


第四十六章 外務次官の未処理書類


1945年12月 東京・外務省



 大垣会議から東京へ戻ると、杉原外務次官は、華やかな外交より先に古い書庫へ入った。


 探したのは、自分が1940年に発給した通過査証の対象者だった。


 誰が日本まで来たのか。誰がソ連領を通過できたのか。途中で消息を失った者はいるのか。


 外務省には、発給後の追跡が十分にされないまま残った書類があった。杉原はその名簿を一人ずつ照合した。


「この一家はウラジオストクまで来ています」


「こちらは日本への入国記録がありません」


「これは上海へ移った記録があります」


 部下が積んだ書類の山を見て、杉原は言った。


「生きているかどうかだけでも確認しましょう」


 史実では、杉原千畝は1940年、カウナスで日本通過査証を発給した。外務省の『よくある質問集 欧州』は、当時の本省指示が、行き先国の入国許可と旅費・本邦滞在費に相当する携帯金を求めていた一方、杉原がその要件を満たしていない者にも査証を発給したと説明している。


 米国ホロコースト記念博物館のHolocaust Encyclopedia『Polish Jews in Lithuania: Escape to Japan』には、1940年7月から1941年6月までに約2200人のユダヤ系避難民がリトアニアからモスクワへ出てシベリア鉄道を利用したことが記録されている。インツーリストのウラジオストクまでの切符は約200ドルで、American Jewish Joint Distribution Committeeが費用を援助する避難民を選ぶ必要もあった。


 資金不足で列車へ乗れなかった人もいれば、出国許可が遅れた人もいた。戦争の拡大によって、その後の所在が分からなくなった人もいる。


 杉原はタチアナ少将へ名簿を渡した。


「ソ連側で確認できませんか」


 タチアナは紙をめくった。


「鉄道記録、内務機関の登録、極東の居住記録。当たれるところはありますわ」


「資金不足で移動できない人が残っていたら」


「切符を出しましょう。食料と宿泊も付けます」


 杉原は顔を上げた。


「そこまでしていただけますか」


「1940年に、お金が足りないことを理由にあなたが査証を断らなかったのでしょう。今さら、お金が足りないから放っておく理由もありませんわ」


「それに、いいことはできるときにしておく方がいいです」


 タチアナは名簿を机へ置いた。


「避難民本人、その家族、医師、商人、技術者、救援団体、海外の送金網。人を助けた記録は、戦争が終わっても消えません。将来、誰と交渉することになるか分かりませんもの」


 パレスチナのユダヤ社会が将来どのような国家になるかはまだ決まっていない。しかし、その地域とソ連、後に日本人民共和国となる東側地域との間に、最初から悪い記憶だけを置く必要はない。


 杉原にとっては、自分が出した査証の続きを最後まで確認する仕事だった。


 タチアナにとっては、人を救う仕事であると同時に、東側日本をモスクワだけに閉じない細い外交回線を作る仕事でもあった。


第四十七章 モスクワへの産業報告


1945年12月 東京



 タチアナ少将は、日本占領地域の産業報告をモスクワへ送った。


 題名は簡単だった。


 日本東部占領地域における産業基盤、戦災、復旧優先順位。


 報告ではまず、米軍の空襲で失われた設備と、なお利用できる産業基盤を切り分けた。


 工場建屋が焼失し、発電設備が壊れ、鉄道操車場も港湾荷役設備も被害を受けている。工作機械そのものを失った工場もある。


 しかし、建屋がなくても技師が残っている工場があり、疎開させた測定器や治具が残っているところもある。図面を持つ設計者、工程を覚えている職長、機械の癖を知る熟練工もいる。


 タチアナは、焼失した建物の数だけで産業価値を判断しないよう書いた。


 東京・横須賀は、造船、船舶修理、電機、通信、精密機械。


 愛知・岐阜は、航空機、発動機、工作機械、車両、電機、化学。


 北関東は、繊維、機械、鉱山、鉄道修理。


 東北・北海道は、農林水産、鉱業、電力、化学肥料、木材。


 全部を同じように復旧する必要はない。


 ソ連側から鉄鉱石、石炭、石油、木材などを入れ、日本側では工作機械、電気機器、船舶、鉄道車両、精密機器、民生機械を重点的に作る。


 後に1949年1月、史実の東欧ではCouncil for Mutual Economic Assistance、COMECONが成立する。この時点のタチアナはまだその名称を知らないが、報告書の考え方は後のCOMECON的な分業に近い。


 さらに、ドイツから持ってくるものを分けた。


 大量のドイツ人を日本へ移す必要はない。


 工作機械、測定器、化学プラントの機器、それを熟知した少人数の技術者をセットで入れる。


 日本側には、教わる側の技師と熟練工がすでにいる。


 機械分野なら、旋盤、フライス盤、研削盤、歯切盤、精密測定器。


 航空機なら、治具、精密加工、エンジン製造、材料管理、品質管理。


 化学なら、高圧設備、反応容器、計測、プラント運転。


 フォン・ブラウン型の発想で、機械だけでなく、それを知る人間ごと技術を動かす。ただし日本には受け皿が残っているので、各分野に数十人規模の専門家を付けるだけでも、多数の日本人技術者へ知識を広げられる。


 もう一つ、情報部出身のタチアナが特に重視した項目があった。ドイツの技術そのものではなく、ドイツが英米を調べて得た情報である。


 史実の米海軍戦後尋問記録『Interrogations of Japanese Officials, Vol. I & II』(1945年)には、1942年以降、日本海軍の砲術、電波、機雷など各部門の担当者がドイツへ渡ったという証言がある。現地では、ドイツ側が把握していた米軍・英軍の機雷情報まで収集していた。


 尋問を受けた田村海軍大佐は、報告書そのものは焼却されたものの、機雷の詳細をよく覚えており、別の冊子が翻訳待ちで残っていたと証言した。


 さらに米海軍の『Battle of the Atlantic, Volume IV, Technical Intelligence From Allied Communications Intelligence』には、ベルリンの日本海軍武官から東京への通信内容が記録されている。そこにはUボート、航空機、兵器、レーダー、レーダー対策に加え、枢軸側が把握していた連合軍の兵器、装置、運用方法まで含まれていた。


 同資料では、ベルリン―東京通信が、ドイツ海軍自身の通常の行政・作戦通信では得られない独自の情報を連合軍側へ与えたと評価された。


 英米の装備・戦術をドイツが捕獲品や戦場調査から解析し、その内容を日本の駐独武官や技術調査団へ伝えた例もあった。東京へ送られた翻訳報告の一部は、1945年にドイツ本国の原本や担当部署が戦災、文書破棄、占領で散逸したあとも、日本海軍の書庫に日本語版、抜粋、翻訳途中の冊子として残っていた。


 タチアナは、横須賀と東京で接収した海軍資料の中から、こうした文書をモスクワのドイツ接収資料と照合させた。


「ベルリン側にはないのに、東京にはある資料があります」


 報告を読んだソ連側の技術担当者が聞いた。


「日本の技術ではないのか」


「ドイツが英米を調べ、日本へ知らせた情報です。日本語に翻訳されたため、日本側だけに残ったものがあります」


 ドイツの残存設備と少人数のドイツ人専門家、日本人技術者と熟練工、日本側に残った日独技術交換資料、さらにソ連の原料と輸送力を組み合わせれば、日本東部の工業復旧は、焼失した工場を一から建て直すより速い。


 タチアナは報告書の最後に書いた。


 日本を原料だけを受け取る地域にしてはならない。


 残っている技術者と加工能力を使い、経済圏の中で製品を作る側へ置くべきである。


第四十八章 2つの国家


1946年1月 東京・京都



 大垣議定書のあと、東西の行政は別々の国家へ固まっていった。


 東側では天皇制と華族制度を廃止して日本人民共和国が成立し、首都は東京に置かれた。行政の最上部にはソ連軍政の影響が強く残り、軍事の日本側トップには井上成美、外交の実務トップには杉原千畝、軍政と情報の側にはタチアナ少将と政治将校の系統がある。


 日本人民軍は陸軍、海軍、航空部隊を持つ組織へ変わった。


 西側では日本国が成立し、新天皇は京都を皇都として制度を整えた。


 大垣会議の場で東側から剣璽、御璽、国璽などの皇室関係物品が現物で引き渡され、会議後には侍従などの皇室関係者も順次西側へ移った。


 東西は同じ日本語を使いながら、政治制度、軍制、経済圏の異なる二つの国家へ分かれた。


第四十九章 日本軍


1952年 東京



 ソ連軍の直接占領が縮小され、日本人民共和国が自国の軍を正式に管理する段階になると、井上成美は名称について意見を出した。


「占領期に帝国陸海軍と区別するため『日本人民軍』とした意味は理解しています。ただ、独立国家の常設軍として、いつまでも成立期の名前を残す必要はないと思います」


「どの名称がよいとお考えですか」


「日本軍でよいでしょう。日本人民共和国の軍隊なのですから、それ以上の説明は要りません」


「陸軍、海軍、空軍の区別は」


「もちろん残します。総称だけ簡単にすればよいという話です」


 名称変更は採用され、東側は日本軍、西側は自衛隊となり、装備体系も分かれた。


 東側にはソ連製航空機と車両、西側にはアメリカ製装備が入った。


 名古屋・岐阜の航空機産業、横須賀の工廠と海軍技術者は東側の再建を支え、大阪・神戸を中心とする重工業は西側の再建を支える。


第五十章 後年の空


1998年9月26日 日本人民共和国・小牧空軍基地



 格納庫の前にはジェット燃料の匂いが漂い、始動したエンジンの高い音で会話が聞こえなくなった。


 滑走路の向こうは陽炎で揺れ、灰色の機体の主翼と垂直尾翼には日の丸が描かれていた。滑走路脇には古いMiG-21が記念展示され、その向こうにはSu-27とMiG-29が並んでいた。


 機体の形は明らかにソ連機、あるいはロシア機の系譜だった。


 整備員は日本語で話し、管制塔からの指示も日本語だった。


 やがて2機編隊のSu-27が滑走を始め、そのまま離陸した。


 青空へ上がった灰色の翼には、はっきりと日の丸が見えた。


 同じころ、西側では自衛隊のF-15が別の空を飛んでいた。


 同じ日本語を使いながら、片方はアメリカ機、片方はソ連機とロシア機の系譜に連なる戦闘機を飛ばした。


 ただ、その半世紀後の空を、1945年のタチアナも杉原もまだ知らない。


 大垣会議が終わった直後、二人にとってもっと身近な用事が残っていた。


終章 美濃橋の鮎


1945年晩秋 美濃


 大垣会議を終えて少しすると、杉原がタチアナへ言った。


「東京へ持っていきたい荷物が、まだ美濃にあります」


「まあ、それなら取りに行きましょう」


 杉原が半分隠居していた寺へ、タチアナ少将といつもの護衛が同行した。


 寺の離れは、杉原が美濃へ戻ってから少し増築してあり、本棚、机、書類箱、衣類、ロシア語の本、古い手紙、欧州勤務時代の資料が収まる、こぢんまりした住まいだった。


 東京へ最初に連れて行かれたとき、杉原は最低限の荷物しか持たなかった。


 今度は本と書類を木箱へ入れ、護衛の兵も手伝って車へ積んだ。


「衣類より本の方が多いですわね」


 タチアナが言うと、杉原は箱を見た。


「東京で必要になると思います」


 荷物を積み終えても、すぐ東京へ戻らなかった。


 杉原が町を歩こうと言った。


 うだつの上がる町並みは道が狭く、軍用車を無理に入れるより歩いた方が早かった。タチアナと杉原、その少し後ろをいつもの護衛が歩いた。


 瓦屋根と格子戸、白い壁が続き、その屋根の間からうだつが上がっていた。


 タチアナは歩きながら建物を見た。


 しばらくして、頭の中で松代の景色と重ねた。


 美濃の町には、焼夷弾で焼き払われた跡が見当たらなかった。松代ではB-29の2000ポンド爆弾が作った穴に水がたまり、集落の周囲が丸いため池だらけになっていたのに、ここでは狭い道も古い家もそのまま残っていた。


 同じ戦争でも、土地によって残した傷跡はまるで違っていた。


 杉原が一軒の店へ入った。


 美濃和紙を扱う店だった。


 薄い紙を光へかざすと、繊維の重なりが見えた。


 タチアナは棚を見ているうちに、和紙を貼った小さな照明のシェードへ目を止めた。


「電気をつけると、紙全体が光るのですか」


「柔らかい光になります」


 店の人が答えた。


 杉原はそのシェードを一つ選び、さらに色と模様の違う千代紙を何枚か選んだ。


 包んでもらうと、タチアナへ差し出した。


「東京へ戻るのに付き合っていただきましたから」


「私にですの」


「美濃のものを一つくらい持っていってください」


 タチアナは千代紙を一枚、光へ透かした。


「これは何に使いますの」


「折ってもいいですし、箱に貼ってもいい。手紙に添える人もいます」


「それなら、モスクワへ送る手紙に入れてみますわ」


「バナナの次は千代紙ですか」


 タチアナは笑った。


 車へ戻り、東京へ向かおうとしたときだった。


 川の方に人がいるのが見えた。


 車を少し止めた。


 鮎の簗漁をしている川漁師だった。


 タチアナは最初、占領している国の暮らしを知るのも仕事のうちだと思って見ていた。


 川の流れを竹や木の仕掛けへ導き、下ってくる鮎を簀の上へ上げる。


 網を投げて追い回すのではない。


 流れそのものを使って、魚が来るのを待つ。


「面白い漁ですわね」


 タチアナは川を見た。


「ヴォルガやドニエプルでは、こんなことはできないでしょうね。川が大きすぎますもの」


 杉原も仕掛けを見ながら答えた。


「エニセイやレナでやったら、魚を捕る前にこちらが凍りますね」


 タチアナは声を出して笑った。


 川漁師の方も、さっきからこちらを見ていた。


 杉原が軽く会釈すると、向こうも手を上げた。


 しばらくして、河原へ降りてくるよう声をかけられた。


 タチアナと杉原、護衛たちは土手を下りた。川漁師は捕れた鮎へ塩を振り、長い竹串に刺して炭火の周りへ立てた。皮が乾くにつれて脂が落ち、小さく火が上がると香りも強くなった。


 護衛の兵も竹串を一本ずつ受け取った。


 川漁師が二人を招いた理由は単純だった。見物していたから、食べていけと声をかけただけで、相手の階級は関係なかった。


 タチアナは熱い鮎を少し冷ましてからかじった。


 川魚なのに泥臭さがなく、香りが先に来た。


 美濃橋の近くを水が流れていた。


 少し前まで、松代では爆弾穴に水がたまり、大垣では地図の上に占領地域を分ける軍事境界線を引いていた。


 いま目の前にある水は、ただ川として流れている。


 タチアナはもう一口、香りのいい鮎を食べた。


 杉原も隣で竹串を持っていた。


 護衛の兵たちは川漁師と身振りを交えながら話していた。


 兵士になる前は、彼らもどこかの川や畑で暮らしていた。網の扱いを見て笑う者もいれば、魚の大きさを手で示して話す者もいた。ウラルの川辺や黒海沿岸の村、遠い農村で暮らしていたころへ、ほんの少し戻ったような顔をしていた。


 タチアナと杉原も、少しだけ通訳を手伝った。川漁師の言葉には岐阜弁が混じり、日本語に不自由しないタチアナでも分かりにくいところは杉原が拾った。


 杉原にとって、任務でも外交交渉でもない通訳は久しぶりだった。


「ちょっと待っとって」


 川漁師がそう言うので、杉原が兵士たちへ伝えた。男は仕掛けを川辺に置くと、堤防の向こうへ消えた。


 数分すると、竹籠いっぱいに熟した柿を入れて戻ってきた。


「食べてくれ」


 杉原が受け取り、兵士たちへ説明した。


「これは甘柿です。そのまま食べられますよ」


 そう言って一つをかじってみせると、護衛の兵たちも手を伸ばした。柿を手にしたまま、また身振りと短い言葉で、通じているような通じていないような会話が始まった。


 杉原は兵士の一人からナイフを借り、川の水で刃を洗った。柿の皮をきれいに剥いて、タチアナへ差し出した。


「どうぞ」


 横では、別の兵士が皮ごと柿にかじりついていた。


「皮ごと食べても大丈夫ですよ」


 杉原がそう伝えると、その兵士は気にせずもう一口かじった。


 美濃橋の下を、秋の水が静かに流れていた。




あとがき


【この作品ができるまで】


 この作品の出発点は、「米軍が沖縄ではなく台湾へ上陸作戦を行ったら、1945年の日本はどうなるだろう」という仮定でした。


 台湾で大規模な地上戦が続けば、日本が史実と同じ1945年8月15日にポツダム宣言を受諾する展開にはなりにくくなります。その一方で、ソ連は8月9日に日本との戦争状態へ入ります。そうなると、ソ連軍には北海道へ上陸し、さらに本州を南下する時間が生まれます。


 米軍側では、台湾攻略に時間と兵力を使った分だけ、本土上陸作戦であるOperation OLYMPICの開始が遅れます。しかも日本側の本土防衛は、米軍の来襲を予想した方向へ兵力や資材が偏っています。


 この条件を重ねると、米軍が西日本へ本格的に進出する前に、ソ連軍が東日本のかなりの範囲を占領する可能性が出てきます。


 まず、この筋で作品を作りました。


 ただ、必要な経過を全部書くと長くなりすぎました。そこで多くの場面を割愛し、短編へ縮めた版を最初に公開しました。現在公開中の最初の作品がこの版です。

「米軍が沖縄戦をせずに台湾戦をしたとき日本はどうなるか 米軍が飛び石作戦で台湾を飛ばさずに沖縄を飛ばした場合」


 その後、もう一度作戦を考え直しました。


 北海道からソ連軍が南下してくる状況で、米軍が予定どおり九州南部へ向かうだろうか。東日本をソ連側に押さえられる危険が目前にあるなら、米軍はOperation OLYMPICを行わず、紀伊半島へ直接上陸して西日本を先に確保しようとするのではないか。


 そこで米軍の上陸地点を紀伊半島へ変更し、短編化するときに割愛した場面も戻しました。戦闘だけでなく、占領行政、鉄道、港湾、工場、食糧、外交などを書き戻すと、今度は一度に公開するには長すぎる作品になりました。


 そのため12回に分割して公開したものが連載版です。


「1945年8月15日を過ぎても戦争は続きます 米軍は紀伊半島へ、ソ連軍は北海道へ」


 ところが、さらに検討を続けると、今度は別の問題が出てきました。


 Operation OLYMPICは、日本本土上陸のために長期間準備されてきた大作戦です。部隊、艦艇、航空機、輸送船、物資がすでに動いている段階で、ソ連軍が南下してきたからといって作戦全体を突然中止し、別の大規模上陸作戦へ切り替えるのも不自然です。


 そこで現在の形では、Operation OLYMPICそのものは実行します。九州では予定されていた本土決戦が始まります。


 同時に、米軍には関西を先に確保する必要もあります。そのため紀伊半島への上陸も行う。


 九州と紀伊半島。

 北海道から南下するソ連軍。

 それぞれの戦線に対応する日本軍。


 ここまで来ると、短くまとめるために設定や経過を削るより、必要なことを全部書いた方がよいと考えるようになりました。


 海岸の地形、道路と鉄道、港湾、掃海、機雷、艦砲射撃、航空支援、補給、燃料、降伏部隊、占領行政、食糧、工場、外交交渉まで、物語の結果を左右すると思ったものを順に加えました。


 短編として始まり、12分割の連載版を経て、「もう長くてもいい」と開き直って作り直した長編一括版が、本作品です。



【1945年は令和の今と日本人の感覚も異なります】


 本作では、ソ連軍の占領地域で軍紀が比較的厳しく維持される場面があります。また、日本人の中からソ連軍や新しい占領行政に協力する人々も現れます。


 この部分だけを見ると、「赤軍の軍紀が良すぎる」「日本人がソ連軍に協力するはずがない」と感じる読者もいると思います。


 ここで意識しているのは、1945年の社会を2020年代の日本人の感覚だけで組み立てないことです。


 戦前から戦後にかけての日本には、地主と小作人、経営者と工場労働者という大きな経済的な差がありました。自分の耕す土地を持たず小作料を納める農民も多く、工場労働者にも賃金や労働条件への強い不満がありました。


 そうした社会では、「土地を所有する側と耕す側」「資本を所有する側と労働力を提供する側」というマルクス・レーニン主義の説明が、自分たちの日常生活と重なって見える人々が実際に存在します。


 戦後の日本で労働争議が相次ぎ、左翼思想が労働運動や学生運動の中で大きな影響力を持ったことも、その社会背景と切り離せません。


 もちろん、日本人全員が同じ反応をする世界にはしていません。


 ソ連軍を敵として拒む人や、

 共産主義を嫌う人がいれば、

 家族と生活を守るため占領者と折り合いをつける人もいる。

 地主や経営者への不満から新しい制度に期待する小作人や労働者もたくさんいて、

 思想とは関係なく、鉄道や工場や町を動かすために仕事を続ける人もいました。

 新しい政治体制に自分から参加する人も当然います。


 同じ1945年の日本人でも、立場によって判断は違います。


 ソ連軍側も一枚岩にはしていません。史実の赤軍で起きた略奪や暴力を消して、理想的な軍隊として描く意図はありません。本作で軍紀の維持が強く求められる地域では、占領後も鉄道、港、工場、農地、行政組織を使い続ける必要があり、政治将校や上級司令部が兵士の行動を統制すること自体が軍事上・政治上の利益になる状況を置いています。


 人物が何を選ぶかを見るとき、「令和の日本人ならどうするか」ではなく、「その立場にいる1945年の人なら、何を見て何を得て何を失うと考えるか」を基準にしました。


 史実そのものを再現する作品ではなく、一つ条件を変えたときに、その後の軍事、政治、社会がどう連鎖していくかを考えた仮想戦記です。


 短編から長編へ何度も作り直したのも、途中で見つかった矛盾や不自然さを、そのままにせずもう一度考え直した結果でした。



さらに調べたい方へ――史料の入口


本作は架空戦記ですが、部隊配置、計画されていた作戦、残存艦艇、機雷戦、1945年当時の社会状況などについては、実在する史料をもとにしています。

興味を持たれた方が調べやすいよう、オンラインで確認できる公的・公式資料を中心に、入口になる資料を挙げておきます。


【日本軍の本土決戦準備】


防衛省防衛研究所

『戦史叢書 第57巻 本土決戦準備〈2〉九州の防衛』


九州にどれだけ本土決戦兵力が集中していたか、決号作戦、南九州の各軍の配置、兵站準備などを確認できます。

https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=057


関東側については、

『戦史叢書 第51巻 本土決戦準備〈1〉関東の防衛』

が参考になります。

https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=051


1945年の大本営全体の動き、対ソ作戦準備、ポツダム宣言、8月9日のソ連軍侵攻、終戦までについては、

『戦史叢書 第82巻 大本営陸軍部〈10〉昭和二十年八月まで』

で確認できます。

https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=082


防衛研究所 戦史史料・戦史叢書検索

https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/



【米軍の日本本土侵攻計画――DOWNFALL、OLYMPIC、CORONET】


U.S. Army Center of Military History

The Medical Department: Medical Service in the War Against Japan


米軍が準備していた日本本土侵攻計画DOWNFALL、その第一段階として1945年11月1日に予定された九州上陸OLYMPIC、続く関東上陸CORONET、終戦後の占領計画BLACKLISTについて確認できます。

https://history.army.mil/portals/143/Images/Publications/catalog/10-24.pdf


あわせて、連合国側の作戦全体を追う資料として、

Reports of General MacArthur

も利用できます。

https://history.army.mil/Publications/Publications-Catalog/Reports-of-General-MacArthur-Collection/



【「台湾を取るか」という米軍内部の議論】


U.S. Naval History and Heritage Command

Operation Iceberg—Background to the Battle for Okinawa


キング海軍作戦部長が台湾攻略を重視していたこと、米軍内部で台湾攻略案とフィリピン進攻案が検討されたこと、その後台湾・中国沿岸を迂回して硫黄島・沖縄へ進む方針に変化した経緯を調べる入口になります。

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/about-us/leadership/director/directors-corner/h-grams/h-gram-044/h-044-1.html



【1945年8月のソ連軍】


David M. Glantz

August Storm: The Soviet 1945 Strategic Offensive in Manchuria


米陸軍Combat Studies Instituteによる研究で、1945年8月の満州侵攻におけるソ連軍の編制、兵站、進撃速度、作戦思想を詳しく扱っています。

Army University Press の Leavenworth Papers から閲覧できます。

https://www.armyupress.army.mil/Books/Browse-Books/Leavenworth-Papers/


ソ連軍は史実でも南樺太・千島へ進出しており、北海道上陸も検討されました。

本作の北海道上陸は史実そのものではなく、「戦争が長引いた場合」という仮想分岐です。



【B-29による機雷敷設――Operation Starvation】


U.S. Naval History and Heritage Command

Operation Starvation


B-29による日本周辺への機雷敷設、敷設数、磁気・音響・水圧式機雷、作動遅延、船舶計数器などについて確認できます。

本作で瀬戸内海、関門海峡、紀伊水道周辺の機雷を扱う際の参考になる資料です。

https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/about-us/leadership/director/directors-corner/h-grams/h-gram-053.html



【終戦時に日本海軍には何が残っていたか】


Japanese Naval Vessels at the End of War

Administrative Division, Second Demobilization Bureau

25 April 1947

Compiled by Shizuo Fukui


終戦時の旧日本海軍艦艇を、図、状態、諸元などとともに整理した資料です。

国立国会図書館では、この資料を含む米国国立公文書館由来の資料群を案内しています。


国立国会図書館

Captured Japanese Ships' Plans and Design Data, 1932–1945

https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/occupation/CPD_1



【1945年前後の海岸線や地形】


国土地理院

「地図・空中写真閲覧サービス」


現在は埋め立てや港湾整備で姿が変わった海岸についても、過去の地形図や戦後の空中写真と比較できます。

二色浜など、現在の海岸線だけでは1945年当時の地形を把握しにくい場所を調べる際に便利です。

https://service.gsi.go.jp/map-photos/app/map



【小作農と農地改革を調べる】


農林水産省の農地制度関係資料では、戦前日本の小作地率や小作農家の割合を確認できます。


農林水産省 農地制度関係資料

https://www.maff.go.jp/j/nousin/noukei/totiriyo/tenyou_kisei/280624/pdf/05_sannkou_1.pdf


1940年当時、日本の農村には広い小作地が存在し、小作農家も多数いました。

本作で、地主と小作人の関係や、農地改革を受け入れる人々を描く際の背景になります。


GHQ/SCAPによる農地改革関係の原資料については、国立国会図書館の案内から辿れます。


国立国会図書館

GHQ/SCAP Records, Natural Resources Section(NRS)など

https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/occupation/NRS



【戦後の労働運動・労働争議】


労働省

『昭和24年 労働経済の分析』


終戦後、戦前に抑圧されていた労働運動が急速に発展したこと、生活困難や物価、賃金、労働争議などを当時の政府資料から確認できます。

現在は厚生労働省のサイトで公開されています。

https://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/roudou/1949/


GHQ/SCAPの労働関係原資料については、国立国会図書館のEconomic and Scientific Section(ESS)文書が入口になります。


国立国会図書館

GHQ/SCAP Records, Economic and Scientific Section(ESS)

https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/occupation/ESS



【占領行政・地方社会】


占領期の各地域について、政治、行政、経済、労働、教育、公衆衛生などを調べる場合は、GHQ/SCAPのCivil Affairs Section(CAS)文書が参考になります。


国立国会図書館

GHQ/SCAP Records, Civil Affairs Section(CAS)

https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/occupation/CAS



【補足】


ここに挙げた資料は、「本作の展開がすべて史実だった」ということを示すものではありません。


本作は、

「史実で実際に存在した作戦計画、部隊配置、社会状況、装備、地理条件を土台にして、一つ条件を変えたら何が起こり得るか」

を組み立てた仮想戦記です。


興味を持たれた方は、ぜひ一次資料や公的研究資料を辿りながら、史実と物語の分岐点を探してみてください。



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