音のない隣人
音に関するホラーを書こうとして考えたら
こんな話になりました。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
川のせせらぎと風に揺れる草木の音だけが山に響いている。男は木々に囲まれた川で、1人静かに釣り糸を垂らしていた。草木がそよぐ音に耳を傾けつつ水面を眺めていると、目の端で何かが動いた気がした。男が顔を上げ、対岸を見つめていると、確かに白いものが横切った。
(何だ?)
そちらを凝視していると、木の影から白いワンピースを着た女が音もなく現れた。男は驚き、思わず一歩踏み出した。踏み出した足が砂利を鳴らし、静かな川に乾いた音が辺りに響く。女がこちらに気付き、目を向けた。男と目が合った。すると女は会釈し、来た道を戻って行った。男は呆然と立ちすくんでいた。男の耳には川のせせらぎも、風に揺れる草木の音も、鳥のさえずりも届いてる。それなのにーー。女が現れ、去っていく音だけは、少しも聞こえなかった。
山々に囲まれた田畑の中に、築年数を感じさせる四部屋だけの木造アパートがポツンと建っていた。この小さなアパートには、今や男が1人しか住んでいない。辺りには人の気配はほとんどない。日中には草木のそよぐ音と、遠くを走る自動車の音が時折聞こえるだけ。日が沈むと辺りは街灯もなく真っ暗になり、聞こえてくるのは野生動物の気配と虫の声だけ。この地域を走るバスは学生が使う朝と夕方にあり、昼間は2時間に1回しか来ない。最寄りの駅までは車で30分以上かかる。自動車が必須。そんな田舎に男は自ら進んで移り住んだ。男がこの場所に住んで数年、少しの不便さは感じていたが、概ね満足していた。人が近くにいない静けさ。これが男にとって重要だった。
川原で女と出会ってから数日後、買い出しのためきしむ扉を開けると、隣の部屋の扉も同時に開いた。そこから若い女が出てきた。女は男に気づき、会釈してごみ袋を下げて歩き出した。隣は空室だったはず。ごみ袋を持っていることからあの女は数日間はここで暮らしていたのだろう。しかし、男の耳でも隣人の存在に全く気が付かなかった。今まで隣から生活音は全く聞こえてこなかったからだ。そして気づいた。女が扉を開けた時、古びた扉は音を立てていなかったことに。女が持つごみ袋のかすれる音も、サンダルが地面を踏む音もしなかったことに。そして男は突如、思い出した。あの女は川で出会った音のない女だと。
男は耳がよかった。同じ部屋ならどんな小声だろうと内容まで聞き取ることができた。そのせいで学生時代は聞きたくないものまで聞こえ、学校に行けなくなった。しかし家にいても親の声が聞こえてくる。心配する声も多かったがそうじゃない言葉も。男は山の麓にある誰も使っていない小屋に入り込んで時間をつぶしていた。その時間だけが男にとって、唯一の落ち着ける時間だった。薄暗くなってから家に戻るとすぐに自室に引っ込んだ。壁一つ隔てた居間からテレビの笑い声、親や兄弟の何気ない会話が聞こえてくる。男には自室にいても、すぐそばで話しているように聞こえていた。ベッドに潜り、音量を最小にしたヘッドフォンで耳をふさいだ。
蝉の声が振り注ぐ炎天下の夏の日。男は買い出しのため、部屋を出た。アパートを出て駐車場に出ると、少し先の道を女が歩いている。男の目的地も同じ方向だったため、暑さを我慢して歩いて行くことにした。女は今日も白いワンピースを着て、白い帽子を被っている。年齢は20歳前後だろうか。額から汗が噴き出す暑さの中、女は車も使わず歩いていた。やはり近づいても微かな足音さえ聞こえてこない。
やがて女は老夫婦が営む小さな本屋に行き着いた。エアコンの冷風が炎天下の道を歩いて、火照った体に染みわたる。ここは静かで男のお気に入りの場所の一つ。小説を買いによく通っていた。そして今日の目的地はこの場所だった。レジの前に座って顔をうちわであおぐ主人と軽く挨拶を交わし、目的の小説を探した。女は別の棚の前で少しの間立ち読みしている。しばらくするといくつか小説を購入して本屋を出た。男も目的の小説を購入し、間をおいて本屋を出た。帰り道も女と同じ方向だった。
男は蝉の大合唱にイライラしながら道を歩いていると、前を歩く女が小石につまづき、つんのめるように転んだ。
「大丈夫ですか?」
と駆け寄り、声をかけた。女は持っていた袋を落としており、袋から小説がはみ出していた。飛び出た小説が目に入り、男は思わずそれを手に取って、
「この本!あなたもこの作家の作品がお好きなんですか⁉」
と女に尋ねていた。女は目を丸くして、小さくうなずいた。
「あ、失礼しました…。俺、あなたの隣の部屋に住んでる者です。たまにお会いしてますよね。」
と言い、改めて女に手を差し出した。女は少しためらいつつ男の手を取り、立ち上がった。頭を下げて口をパクパクさせている。口の動きで
『ありがとうございます。』
と言っているのがわかった。女は膝についた土をはらい、少し頭を下げてから歩き出した。帰る方向は同じだったため、男は少し距離を空けて歩き出した。蝉の声だけが響く道は、いつもより長く感じられた。
男は買ってきた小説を机に置き、女のことを考えていた。女の手は温かかった。買い物もしている。道で転ぶ。思わずつぶやいていた。
「彼女は幽霊じゃない。…なら、何でこんなにも静かなんだ?」
今も女が入ったはずの隣の部屋からは何の音もしていなかった。
隣の部屋には女はいるはずなのに、やはり何の音も聞こえてこない。そのおかげで男は、エアコンの効いた部屋でじっくり小説を読んだり、在宅の仕事に集中できていた。
ある日、男は車で買い物しに外に出ていた。買い物が終わったその帰り道、急に辺りは暗くなり、突然激しい雨が降ってきた。遠くでゴロゴロと雷が鳴っているのも聞こえてくる。男は車に乗っている時でよかったと胸をなで下ろしながら運転していた。車が小さなバス停の前を通った時、そこに白い服の人物が座っているのが見えた気がした。この先にはあのアパートしかない。車を少しバックさせると、そこにはやはり隣人の女がいた。ベンチに座って雨宿りをしているようだ。道の途中で降られたのだろう、髪が少し濡れている。座っている女の膝を見ると、あの本屋の名前が書いてある紙袋があった。女は車が戻ってきて少し驚いているようだ。男は窓を開け、
「これ、使ってください。」
と言って傘を差し出した。
(よく知らない男の車に女性を乗せるのは駄目だろ。)
女は首を振って断っていたが
「小説が濡れちゃいますよ。」
と紙袋に目線をやりながら言うと、女は少し考えてから頭を下げて、傘を受け取った。
「扉の前に置いておいてくれたらいいですから。」
男はそう言って窓を閉め、走り去っていく。男が帰宅する頃には雨は止み、窓の外から涼しい風が入り込んできた。
翌日、玄関チャイムが鳴ったので出てみると女が立っていた。その手には傘とスマホが握られている。女は傘を男に差し出した。それを
「ありがとう。」
と言って受け取ると、女はスマホを差し出し画面を指でトントンと叩いた。男が目を向けると、そこには
『傘、ありがとうございます。助かりました。』
と書いてある。女の顔を見ると、女は微笑んで頭を下げた。顔を上げ、もう一度タップすると新しい文章が表示された。
『ご挨拶が遅れましたが、隣人としてよろしくお願いします。』
とあった。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
女はほっとしたように笑い、小さく頭を下げた。男もつられて笑みを浮かべ、頭を下げた。
ある日、珍しく玄関のチャイムが鳴り、出てみると女がいた。女はスマホの画面を男に見せてきた。
『突然ごめんなさい。この小説が面白くてつい、誰かにお伝えしたくて…』
と書かれており、小説の写真を見せた。
「これ、おれも読んだことあるよ。面白かった。」
女は嬉しそうな顔で、この本の感想を見せてくれた。男も感想を言って、一緒に笑った。
また別の日、男は趣味の川釣りに出かけていた。山の静けさに癒やされながら釣りをしていると、いつの間にか辺りは薄暗くなっていた。バケツを見ると、思ったよりも魚がたくさん釣れていた。1人で食べるにしても、すぐに痛むし、料理は正直面倒くさい。どうしようかと考えていると、今はお隣さんがいることを思い出した。男はアパートに帰ってきて、女の部屋の玄関チャイムを鳴らした。女が出てくると釣れた魚を渡した。
「これ、釣りすぎちゃったんで、よければ食べてください。」
女はびっくりしつつ、魚を受け取った。スマホを持っていなかったようで手を合わせて何度もお辞儀していた。
それ以来、どちらからともなく玄関のチャイムを鳴らし、本を貸し借りするようになった。
『これ、私のオススメです!』
と差し出された小説はグロいことで有名な作家の作品だった。顔に似合わず、ホラーやグロい描写がお好みらしい。男が差し出した小説も喜んで受け取ってくれ、返すときは長文の感想を送ってくれた。男もこのやり取りを楽しんでいた。ある時、隣の部屋に他人がいるのに、気にせず生活している自分に気が付いた。
ある日、女が
『この小説が映画化したんです。良かったら一緒に見に行きませんか?』
と尋ねてきた。
「あー、ごめん。行けない。」
男は眉を下げて謝った。女は
『わかりました。』
と打ち、
『理由、聞いていいですか?』
と首を傾げて尋ねた。
「…いいよ。ここは暑いから散歩がてら、あの時の川原に行かない?」
2人は初めて出会った川原にやってきた。木々に囲まれていて蝉の声が一層やかましいが、川の近くを吹く爽やかな風は気持ちいい。2人は川原の石の上に並んで座った。男は自分が耳が良すぎて困っていることを話した。女は黙って聞いていた。
「ーーだから、人の多い所は苦手だし、映画館は音がでかすぎていけないんだ。せっかく誘ってくれたのに、ごめん。」
男が話し終わると、女はスマホに手をやり、画面を男に見せた。
『そうだったんですね。』
「聞いてくれてありがとう。実はこれ、誰にも話したことないんだ。気持ち悪いと思われるから。」
男は眉を下げながら言った。女は何か考え込むようにスマホを両手で握りしめていた。しばらく川のせせらぎが辺りに響く。ようやく女は顔を上げ、文字を打ち始めた。
『あなたになら話してもいい気がします。』
再び文字を打った。いつもよりずいぶん時間をかけて、打っては消してを繰り返しているようだった。男に差し出された画面には
『私は、子どもの頃から「うるさい」と言われ続けてきました。喋るのはもちろん、僅かな音でも音を立てたら物が飛んできました。そうして、私はいつの間にか喋れなくなりました。それから、私の行動から発生する音は消えてしまうんです。』
と表示されていた。
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女は狭いアパートで母親と暮らしていた。父親は女が幼い時に外に女を作って出て行った。母親は女手一つで女を育てながら仕事に出ていた。日々の仕事で疲れとストレスがたまっていたのだろう。ある日の夜、母親が仕事から帰ってきた。女は今回のテストで良い点数が取れたことを母親に報告しようと声をかけた。
「お母さん、」
「うるさい!!!」
母親はカバンを玄関口に叩きつけるように置き、叫んだ。女は体を大きくビクつかせ、小さく
「ごめんなさい…。」
と言った。その日は部屋の隅に体を寄せ、小さくなっていた。
その日から母親は女の声や行動にうるさい、黙れと声を荒げるようになった。女は母親に声をかけることはなくなり、怒鳴られないように息をひそめて暮らした。ある時、女がお皿を落として割ってしまった。母親は
「やかましい!!!」
と叫び、机に置いてあったコップを女に向かって投げつけた。幸い、コップは女に当たらず、後ろの柱に当たって割れた。声を出したらさらに母親を怒らせることになるため、涙を流して額を床にこすりつけた。翌日、学校で声を出そうとしても出せないことに気が付いた。
女の声が出なくなって、母親は学校に呼ばれたようだ。帰ってきた母親はいつもよりさらに荒れていた。女をにらみつけて言った。
「お前のせいで。」
その日から母親は女がいないものとして生活し始めた。
(私って、なんでここにいるんだろう。)
気づけば女は声だけでなく、行動で発生する音も消えた。
女は高校卒業と同時に母親と暮らすアパートを飛び出してきた。それから数カ月はネットカフェに泊まって、2ヶ月程前にこの場所に引っ越してきた。母親には置手紙だけ残してきたが、今も母親からの連絡はない。
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さらに女は続けて文字を打ち、
『家では音を立てないように、息をひそめて暮らしていました。…そのうち、私の音は本当に消えてしまいました。』
と画面を見せた。男は黙っていた。そして大きく息を吸って女に言った。
「誰かが隣の部屋にいるのに、ゆっくり本が読めたのなんて初めてなんだ。…君の隣は心地良い。だから、そのままでいい。」
女は目を大きく見開き、かすれた小さな声で
「…ありがとう。」
と言った。その声は男にしか聞こえないくらい小さな声だったが、確かに彼女の口から発せられていた。




