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白猫とおばあちゃん、その家族の話

タイトル「あなたが残した雪の足跡」

「あらヤダよ。踏んじまうところだった」


昏々と雪が降る寒い日だった。その声は雪と共に空から降って来たのだ。

私は重い瞼を開けようとしたけれど、微かに瞼は上がるだけで、それ以上は力が入らず叶わなかった。


「何さ、あんた寝てんの?こんな寒いのに」


少し訛りの入った優しい言葉。あなたはかがんで私に手を伸ばしてくれた。


「あらら、こんな冷たくなっちまって」


温かい手。止めてください。触れられたら、私はきっと溶けてしまう。


「親と逸れちまったのか?お腹空いてんだろう?ん?」


かさついた手が、私の背中を撫でた。ゆっくり、ゆっくり。

背中から伝わるあなたの思い。ちっぽけな私の命を繋ぎとめようとしてくれた、あたたかな灯火。

懐かしい。母の毛づくろいを思い出した。恥ずかしいからと嫌がる私に、母はしつこく舐めてきて…。

おかあさん。…おかあさん。


「…みゃぁ…」

「おお、そうかいそうかい。お腹空いたかい。ばばあのご飯で良かったら、ご馳走してやるど」


お母さんの代わりに、わたしには優しいお婆ちゃんが出来た。


***


温かいミルクを飲んで眠った次の日。体を起き上がらせた私にあなたは嬉しそうに見つめて言った。


「名前は何が良いかね?タマかね?」


昨日の残りのお魚を食べやすく小さくしてくれたあなたは、私の顔を覗きながらそう言った。

おいしい。なんておいしいんだろう。でも、タマはお母さんの名前だからイヤ。

視線を上げずに食べ続ける私に、あなたは不満そうに言葉を漏らす。


「じゃあ何にしよう。ポチは犬の名前だしね」

「……」

「ああ、そうだ。雪!」


雪!なんて可愛い名前!


「雪の中見つけた、白い丸まった猫。で、白丸はどうだい?」


しろまる…?


「白丸だ。今日からあんたは白丸だよ!」


お婆ちゃん、私、女の子…。


「よろしくねぇ、白丸」

「…みゃう」


本当はね、白丸ってね、ちょっと嫌だった。だって男の子の名前じゃない!

でもあなたの笑顔を見てたら何だかどうでも良くなって、ああ、私は今日から白丸なんだって、少し誇らしくなったんだ。


「あたしの名前はお春だよ」


あたたかなあなたは、私の胸に一足先に春を呼んだ。


***


「ああ、寒い。早く春が来ないかねぇ」


あなたはコタツに入りながらそう言った。膝に私を乗せたまま、器用に蜜柑を剥いて。

石油ストーブの上には古びたヤカン。小さな仏間には、少し恐い顔した男の人の写真が置いてあった。

小さな民家。私とあなただけの静かなお城。


私の体半分は、コタツの掛け布団の中だ。けれど私の体は小さいから、少し動いただけで顔まで埋もれてしまう。

でもそうするとあなたは面白そうに笑うから、私は時々、わざと全身埋もれてみたりする。

ああ、ほら、あなたのしわしわの目尻に、また皺が。


「白丸、雪に埋もれなくなったと思ったら、今度は布団に埋もれちまうね」

「…」

「でも暖かいから、そっちの方が良いかもね」


おばちゃん、一番暖かいのはあなたの近くだよ。


***


まだ雪の解けない寒い朝。お散歩に行くと言ったあなたに着いて行くことにした。

前に比べてどこか日に暖かさがあって、春はもう少しで来ることを私に教えた。


あなたの家の近くに川が流れていて、光を反射してキラキラと輝いている。

ゆっくりと歩くあなたの足に時折じゃれつきながら、川の近くを歩くあなたは私に言った。


「この川はね、おいしい魚が釣れるんだ。そのうち食わせてやっからね」


楽しみ!いったいどんなお魚なの?


「大きくて脂がのったやつだど」


わぁ。早く食べたい!


「でも食べごろは夏場だからねぇ。それにもし今川に入ったら死んじまう」


しぬ!?いや、いや!そんなの絶対だめ!


「おうおう、どうした白丸。ほれほれ、ばあちゃん転んじまう」

「みゃう、みゃう」

「ふふふ」


じゃれつく私の背中を撫でて、あなたはまたゆっくりと歩き出した。


***


「おーい、白丸やーい」


雪が少しだけ溶け始めてきたとある日。あなたが私を呼ぶ声がした。

ドアが少し開いていて、興味に負けた私はつい家を飛び出してしまったんだ。


「白丸ー、どこ行ったんだ~い」


ここだよ、おばあちゃん!勝手にうろちょろしてごめんなさい。


「おっ、そこに居たのかい。周りも白いから気付かなかったよ」

「みゃあー」

「ほれ、女は体を冷やしちゃいかんど」


うん。分かった。


「もう昼だで。早く帰ろな」


うん。そうだね。早く帰ろう。

あなたは私を抱き上げて、もう片手で私の顎を指先で撫でる。


「白丸はお転婆すぎるど。目を離すとすぐどこかに行っちまう」


あなたは寂しそうに言う。ああ。私はきっととても悪いことをしてしまったんだ。

ごめんね。もう勝手に居なくなったりしないから。ごめんね。


「鈴でもつけようか。その前に首輪だね」


えー、首輪?首輪ってあれでしょ?よくうちに来る吉村さんちのゴンが、首に付けてるあの窮屈そうな輪っか!

嫌だよ、ぜーったい、いやっ!


「あっ、これ白丸ぅ~」


あなたの暖かな腕から逃げだして数メートル進むけれど、雪の冷たさに負けた私はまたあなたの暖かな腕に戻る。

抱きかかえられて戻った民家。あなたは赤いリボンを私に付けた。


「あらら。似合うじゃないか。白丸は別嬪さんだね」


お歳暮に着いてたリボンなんだよ、って何故だか誇らしげに言っていて、すこし可笑しかった。

私べっぴんさん?そうでしょ、ふふ。もっと褒めて。


「でも丁度良い鈴が無くて。あ、あれがあった」


あなたは重い腰を上げて棚を漁った後、手に何かを持ってやって来た。

チリン。小さな鈴の音が部屋に響く。


「子年のすとらっぷ~いうやつ。ほれ、ここに鈴が付いとるんよ」


…本当だ。鈴と一緒に金色のネズミもついてるね。


「これでええか」


よくないよ!何で私の嫌いなネズミまでついてくるのっ!

はずしてよー。


あなたは老眼鏡を持ってきてとても難しい顔をしながら、私の首から外したリボンに小さなストラップを通した。

ハサミで紺色のストラップを切って、リボンには小さな鈴と金色のネズミ、そして中途半端に切られた紺色のストラップが揺れる。


「似合うど」

「……」

「ほ、ほんまよう似合う」

「……」

「あたしゃ嘘つかんど…。ぷっ」


あーーっ!笑った!やっぱりおかしいんじゃん!


「にゃーっ、うにゃーっ」

「あーほれほれ、暴れるな」


だって、だってぇ。


「その内立派な首輪付けたるからなぁ」

「……」


いらない。そんなのいらない。


「ゴロゴロ」

「どうしたん、白丸。お腹空いたんか。急に態度変えよって。ふふっ」


違うよ、おばあちゃん。立派な首輪なんていらない。そんなの付けられるなら、このおばあちゃんが作ってくれた変てこな首輪で良い。


あなたは台所に向かう。その背中は曲がっていて、私よりも断然大きいはずなのに、なぜだか同じくらい小さく見えた。


***


「白丸、ほれ。この山菜がうまいど」

「にゃー」

「こっちのはお浸しにしようかね。よっこい」


そう言いながら腰をあげたあなたは、辛そうにため息をつく。

少し傾斜のある山のふもと。あなたは慣れた足取りで、けれどぎこちない足付きで山を登る。

自分のことを良く分かっているあなたは無理せず高い場所には行かないけれど、私は不安で仕方がなかった。

私は所詮猫の身で、もしあなたが倒れたら支えられないし、助けを呼ぶこともできない。


私がゴンみたいに体が大きかったら、おばあちゃんが持つ籠を代わりに持ってあげられた。

私がおばあちゃんと同じ人間だったら、手を引いて山を登ってあげられた。

でも私は猫だから、何も出来ない。


もの影にはまだ雪が残っていて、風が冷たい空気を運んだ。それは日が落ちれば尚更凍てつき、時折冬の名残を感じさせる。

私があなたと出会って、季節が一つ過ぎようとしていた。


「こうやってねぇ、山菜摘むたび春だ~って思うんよ」

「……」

「これから忙しくなるど」


おばあちゃん。無理しないでね。


「さーて、帰ろっかね」

「にゃー」

「その前に吉村さんちに寄ろうか」

「ふしゃーっ」

「白丸はゴンが嫌いだったっけか」


あなたは笑う。

嫌いよ、あんな犬。いっつも私の顔見て小言を言うの。年長者を敬えですって。アイツ以外の年長者は敬ってますよーだ。

あなたは斜面を確かめるように一歩一歩下って行く。


私、猫の自分が好き。あなたに抱きしめてもらえるから。あなたの膝で眠れるから。

でも、ありがとうも、大好きも言えない猫の自分が凄く嫌い。

あなたにこの気持ちを伝えられたら良いのに。


***


春が訪れた柔らかな陽気の中、電話のベルが鳴る。


「………しつこい。行かん言うとるじゃろ」


滅多に聞かない声音で呟くあなた。けれど時々鳴る電話に、あなたは必ずと言って良い程同じ低い声で話す時があった。

私は不安になって、曲がったあなたの背中を見つめる。


「そんなに世間体が大事か。…。もう切るど」


受話器を置いたあなたはその場から動かずにいた。何かを考え込むように、色あせた壁にずっと体を向けていた。

何故だかうすら寒く感じる空気の中、あなたはまるで何もなかったかのように笑顔でこちらに振り向いた。


「白丸、お散歩行くど」

「にゃあ」


いつもと違う時間帯、いつもと違うあなたの堅い笑顔、いつもと違うあなたの態度。何もかも違うけれど、私にはどうすることも出来ない。

だから黙って、あなたの隣を歩く。


「菜の花ももう直ぐ咲くねぇ。綺麗なんよ、ここ一面黄色で…」


へぇ。見てみたいなぁ。


「あの子も好きだったんよ…」

「……」

「男の子なんにね」


おばあちゃん?


「あんなに好きやったのに…」


少しおいて、


「大人になんて、なるもんでないど」


と言った。


***


『年長者は敬うべきだ』

『こんなにも敬ってるじゃない』

『上から見下ろしてるくせに何を言うか、この小娘』

『泥だらけだから上げないだけでしょ!』


ゴンは低く唸り声を上げた。私も負けじと毛を逆立てて威嚇する。

体格の差から勝敗の差は歴然だけど、ゴンは喧嘩する気なんて更々ない。

いつもこうやって威嚇し合う私たちに最初は戸惑ったあなたは、今ではそれを見て見ぬふりして安心したように吉村さんとお茶を飲む。


縁側でお茶を飲むあなたと吉村さんから少し離れた場所で日向ぼっこする私。そして地面にふてくされる様に寝転がるゴン。

女学生時代同級生だったという二人は、時折こうやってお茶を共にする。

場所はどちらかの家だったり、偶然会った川辺や、畑だったりとまちまちだった。

吉村さんは元気の良いおばあちゃん。時折圧されるあなただけれど、二人は本当に仲が良かった。


「やだよぉ!それで、康夫くん来るんかい!?」


吉村さんは声を荒げた。ゴンは反応して顔を上げるけれど、つまらなそうに再び寝転がる。


「多分夏前には来るんでないかい」

「人様の子を悪く言うようで悪いけどよぉ、あんなに言い捨てて出てったくせによ」


あなたは困ったように笑う。

ちょっと、いくら吉村さんでもおばあちゃんを困らせるなら容赦しないわよ!


「わたしゃ康夫くんより、あんたの方が大切だからよぉ…」


いつも煩い吉村さんが静かに言った。


「ありがとねぇ…」


沈黙が降りる。

そのやすおとか言う人間は、おばあちゃんの何?

私に出来ないことをやすやすとやってのけるくせに、それに甘んじておばあちゃんを傷付けたの?

許せない。やすお、許さないんだからっ!


『…ほどほどにな』

「ふしゃーっ!」


許すまじ、やすおー!


***


少女から淑女になった夏、私は一人川にやって来ていた。あなたは私の姿を見て「気を付けてな」と笑って言った。

うん、直ぐ帰って来るからね。

少しだけ離れた川辺に大きな岩が幾つか並んでいる。その上は日が当たると暖かくて、私のお昼寝スポットとなっている。

その岩に乗っかり川に泳ぐ魚を見ている私の視界に、ひょっこりと誰かが飛び込んだ。


「…ねこ」


そこには一人の少年がいた。

始めてみる顔だった。ここの村には子供どころか人自体が少ないので、村人は全員顔見知りだった。

こんな場所では見かけない洋服と革靴。

黒い髪はさっぱりと切られ、少し太い眉が子供特有でかわいらしい。

子供は丸い瞳を少し細めた。


「おいで」


嫌よ。

顔を逸らし、再び川を見つめた私の横に並ぶ子供は「わあ!」と声を上げる。


「魚だ!凄い!」


当たり前でしょ。魚は川に泳いでるものよ。


「ぼく水族館と海でしか見たことない」


すいぞくかん?うみ?


「川きれいだね」


そうよ、ここは綺麗なの。村も、畑も、山も、人も、何もかも。

子供は私に顔を向けて、その小さな手をゆっくりと伸ばす。

爪で引っ掻いてやろうかと思ったけれど、もしあなたにバレたら悲しむと思って止めといた。


「ぼくね、今日はおばあちゃんに会いに来たんだ」


子供は私の背中を撫でた。「ふわふわ」そう言いながら撫でる手付きがあなたに似ていて…。


「こういう場所も初めてだし、おばあちゃんに会うのも初めてなんだ」


子供の顔を見た。丸い瞳。ああ、少し色素の薄い瞳は、あなたと一緒――――。


「だから緊張して…、ってねこ?」


さっと岩から飛び降りてかけ出す私に、子供は慌てた様に声を上げた。

走るたび、チリンチリンと鈴が激しく揺れる。嫌な予感がする。おばあちゃん、おばあちゃん!

家のそばに黒い車が一台停まっていた。私は縁側に回り居間に伸び込んだ。


「…どの面下げてここに来たんだ」

「この面かな」

「阿呆が…」

「…」


小さな居間に座るあなたと男の人。体が大きくて、あの子供と同様、ここらでは見かけない服を着ていた。

背を伸ばし畳に座る男と、背の丸まったあなた。二人を比べるとなんてあなたが小さいことか。

私とあなたの城に知らない誰かが居る不快感。けれど異質なはずの男から発せられるその空気は、どこか落ち着き馴染んでいる。

私は一歩下がって障子から顔をのぞかせた。


「あたしゃ何度言われてもここを離れんぞ」

「強情だ」

「お前の母親だからね、康夫」


…やすお…。お前か、やすお!


「俺はこんな小さな村だけじゃなく、広い世界を見てもらいたいんだ」

「己の価値観を他人になすり付けるもんでない」

「…」

「お前とあたしの世界は違うんだ。分かったら帰ぇれ」

「…息子を連れて来たんだ。母さんの孫だよ」

「…」

「会ってやって、くれないか」


あなたは黙ったまま湯呑を持って一口飲んだ。

男もまるで真似るように置かれていた湯呑を手にして一口飲む。けれど私には口を付けた様にしか見えなかった。


「あー、こんな所に居た、ねこ!」

「ふぎゃっ」


あんた空気読みなさいよ、ばかっ!

会話に気を取られていた私は子供の気配に気づけず、逃げることはかなわないまま思い切り抱き上げられた。その衝撃で、私はなんともみっともない声を上げてしまう。

あなたは「白丸?」と私の名前を呼んだ。そして。


「あ…」

「…!」


子供はあなたを見つめ、足を止めた。

あなたもそんな子供を見つめ目を見開いた。


「母さん、俺の息子の康雪」


その息を飲むあなた。子供は私を抱く腕に微かに力を入れた。


「は…、はじめまして…、おばあちゃん…」


子供の声は震えていた。

あなたはしわくちゃの笑顔で、優しく言う。


「…康雪、康雪。よう来たねぇ。さ、ばぁばの所においで」


子供の力がふっと抜けた。子供の頭を撫でるあなた。あなたの後ろで男の人が優しい笑顔をしていることなんて、あなたは気付かない。

大嫌いだった康夫。でもいまは、少し嫌い。


***


「またこんな所に居た、白玉」


白玉じゃない、白丸だよ、ばか康雪!


初めて会ったあの春の日からいくつも季節は巡って、康雪は大きくなった。かわいらしかった子供も、今では随分と小生意気になったものだ。

そして相変わらず何年経ってもあなたは男を見ると嫌そうな顔をする。でもその奥に戸惑いや悲しみが滲んでいて、それは嫌悪からくる顔じゃないことを私は知ってる。


子供は春、夏、冬と一年に三回ここへ来る。

その度にどんどん大きくなって、まるで違う人間みたい。顔や部分的には変わらないのに、どこか男らしく成長して声も低くなった。

会うたびにあなたが驚く気持ちが私にもよく分かるよ。

それに対してどんどん小さくなるあなた。私は子供があなたの生気を奪ってるんじゃないかって、一時期本気で悩んだの。


「ばあちゃんに魚釣って来いって言われたんだ。白玉も手伝って」


私が泳げないの知ってるくせに。


「ああ、お前泳げなかったな。ごめん」


ばか康雪!だいきらいっ!

そもそも誰のせいだと思ってるの?私が泳げないのはアンタが私を川に放り込んでからよ。それ以来トラウマなの!

ムカつくから噛んでやる。


「いてっ。…何だ白玉。噛むならちゃんと噛め」

「……!」

「ほれほれ」

「ふにゃっ」


だって思い切り噛むとあなたが悲しそうな顔するから。だから思い切り噛まないのよ。あんたのためじゃないんだから。


「俺さぁ」


ヒュっと浮きを川に投げる子供は、秘密を打ち明けるように囁いた。


「ずっとここに居たいんだ。父さんには言えないけど」

「……」

「でもそんなこと出来ないのは分かってんだ。来年は高校受験だし、多分、もう…」


子供の黒い髪が風で揺れる。

どんなに体が大きくなっても、子供はまだ子供のままだった。


「おーい、白丸ぅ、康雪ぃ、昼飯にすんどー」

「はーい!行くぞ白玉」


白丸だ、ガキンチョ康雪!

子供は竿を引いて手に持つと、釣れたアユ二匹をバケツに入れる。


「ほら早く!」

「にゃっ」


私たちは競争するように駆けだした。


***


テレビから煩い声が溢れ出る。私は無視を決め込んで、あなたが動かすブラシの感触に集中した。

そこ、もっとそこ梳いて。ああ、気持ちいい!


「さっきよぉ、電話で康雪が猫は一生のうち一回だけ話すんだって言ってたど。ほんまか?」

「にゃあ」

「白丸が話すとしたら何を話すんだろうね」


尻尾を一回ゆらりと動かした。

そうだねぇ、話したいことなんていっぱいあるのに、たった一言だけなんて。何を言おうか迷っちゃう。


「お腹空いたーとかかね」


もう!そんなこと言う訳ないでしょ!そんな事言うなら、食べたいお魚の種類までちゃんと言うよ。


「なんだろうね、ばあちゃん聞けるかね…」

「……」

「聞けたらええなぁ」


一生に一度、そんな大切なこと、あなた以外の誰にするって言うの。



***


「最近膝が痛くてねぇ。季節の変わり目だからかねぇ」


あなたは膝をさする。二人だけの居間、テレビの音がするのにその声が妙に響いた。


「その前にもう良い歳だったわ」


そうやってあなたは自分の歳を笑って言うけれど、言われる私の気持ち、考えたことあった?

置いていかれる不安、おいて行く不安、いつも私は感じているの。


「白丸は良いね。ひょいひょい飛べてよぉ」


私の足が欲しいなら喜んであげる。あげるから、私を置いていかないで。


「今日は冷えるね…」


もうすぐ冬が来る。


***


ガタっ!大きな物音がして、私はコタツから飛び出した。

物音の先には――――。


「つ…ぅ…っ」

「にゃーっ!」

「しろ…、…」


中庭に倒れ込むあなた。縁側に雑巾の入ったバケツが転がり、足元は靴下のまま額から血を流しうずくまる。

どうしよう、どうしよう、どうしよう!!

何も出来ない、私は、何も…!

――――誰か助けて!


『ゴンー!』

『ど、どうした、小娘』

『はぁはぁ、おばあちゃんが…おばあちゃんが…!』


田んぼ道をひたすら走った先にある吉村さんち。

混乱する私が真っ先に思い浮かんだのはゴンだった。


『何かあったのか!?』

『助けて、ゴン!』


ゴンは腹の底から声を出した。


「ワンワンワンッ」

「ど、どうしたゴン!ん?お前は…」

「ふしゃーっ」

「ワン、ワン!」


吉村さんちのおじいさんが顔を出す。私の顔を見て、首を傾げた。


「これこれ喧嘩はいかんど」

「ヤダよ、父ちゃん。ゴンと白丸は喧嘩せんのよ」

「ほなら何で喧嘩しとるんじゃ」

「…何ででしょ」


助けて、吉村さん。助けて!


「白丸。お春さんはどしたんじゃ?」

「あら本当。いつも一緒なんに」

「ふにゃーっ!」

「ま、まさか」


二人は顔を見合わせた。


「お前、い、急いで車の鍵持ってこい!」

「は、はいはい!」

『小娘』

「……」

『もう安心だ』


おばあちゃん…。


***


「もう!もう春ちゃん!心配させんといて!」

「ごめんねぇ」

「ほんまに猫って助け呼びに来るんか。新聞に載るんでないかい」

「父ちゃんは黙ってて!」

「す、すまん」


あなたと吉村さんは、まるで昔に戻ったかのように抱き合った。

足の骨にひびが入ったというあなたは小さな子供のように布団に入っている。

村のお医者さんはあなたと同じくらい歳とったおじいさん。よぼよぼで頼りない割に切った額をひょいひょいと縫うその姿は、さながら大病院の院長のようだった。


「一週間は出来るだけ濡らすんでないど。また明日来っから」


そう言って医者は帰って行った。


「足、痛いかい?」

「ちょびっとだけ。そない心配するもんでないど」

「でもねぇ。春ちゃん一人暮らしなのによぉ」

「にゃあ」

「白丸がおるど」

「…白丸は家族でも、猫だで」

「…」


私とあなたは口をつぐむ。

ああやっぱり。守られるばかりの私は、あなたを守ることも、あまつさえ助けることも出来なかった。


『悔しいなぁ』


そんな言葉も、口から出るのは猫の言葉。


「白丸、あんたはあたしの家族だ」

「…にゃぁ」

「そんな、なくんでない」

「…にゃー…」


あなたの手は変わらず優しいのに、私を抱きしめる腕は少し弱々しい。

手のひらにある傷を労わるように私はそっと身を寄せた。


***


あれからあなたは少しずつ弱っていく。

頭の包帯は取れても布団から上がらず、一日に二回来る吉村さんがあなたを慰めた。


「ごめんねぇ。迷惑かけて」

「嫌だよ、私と春ちゃんの仲でないかい」


その言葉は心が込められていて、それを感じたあなたは嬉しそうに笑った。

二日前に降った雪で、一面が白く染まっていた。

雪道の散歩が好きなあなたは布団から外を眺めるだけで、時々ふと思い出したように私の名前を呼んだ。


「白丸」


なぁに、おばあちゃん。


「こっちにおいで」


うん。今行くよ。ねえ。寒いから私もお布団に入りたい。


「あらあら、白丸はぬくいねぇ」


横たわるあなたの腕の中。温かくて優しくて、畳みの匂いとあなたの匂いに包まれることは、なんて幸せなことか。


「お前がうちに来てどれくらい経ったか」


何年だろう。もう随分と昔に感じるよ。


「白丸が来てから、うちは随分と変わったんだ」


あなたは天井を見つめながら呟いた。


あんたが来てから本当に変わった。本当だよ。

あの子はね…、康夫はこんな田舎嫌だって言って、昔この村を飛び出したんだ。

あの人がすっごく怒って。ほら、あの仏壇の。あたしの旦那だ。恐い顔してるけど、本当は優しい人なんだ。

でもそんな人があの時ばかりは怒鳴って…、どうなることかと思ったど。それからあたしたち二人がこの家に残ったんだ。


あの子は二十年以上も音沙汰なくてね、安否さえも分からなかった。

そんな中あの人が倒れて、死んじまった。雪が降ってる日だった。あっ気なかったよ。

あの人は最期まであの子の名前を口に出さなかった。でも本当は凄く心配してんの、わたしゃ知ってたんだで。

あの人が死んで三年経って、一人の生活に慣れたころ、あんたを見つけた。

白い雪の中に、まるで埋もれるように丸まったちっさい猫がおってねぇ。雪から産まれたみたいだった。もしかしてあの人が置いてったんじゃないか、なんて思ったど。

ほんまに小さかったんだ。かわいくて、かわいくてねぇ。抱っこしたら何か無性に悲しさが溢れてきて……。


「寂しかったんだって、そん時やっと気付いたんだ…」


私は体を持ち上げて、あなたの胸に顎を置いた。ゆっくりと上下に動く胸。あなたは私の頭を撫でる。


「嫌がっても連れてったろ、なんて、思ってたんよ…」


嫌がるなんて、そんなことしないよ。


「ほんに連れてきて正解だったわ」


ふふっとあなたは小さく笑う。私の頭を撫でていた手は離れ、布団の中に戻って行く。


「ちょいと、寝るど……」


瞳を閉じたあなたから、静かな寝息が聞こえ始める。私も再びあなたの腕の仲に潜りこむ。

――――ずっとこのまま、時が止まればいいのに。


***


「ほら母さん、言った通りじゃないか!」

「煩いど康夫。さっさと帰ぇれ」

「ばあちゃん大丈夫?凄く心配したんだよ」

「ありがとうねぇ康雪。ゆっくりしてき」


男は眉をしかめ、子供は嬉しそうに笑う。なんて対照的な光景か。

あなたは布団に入ったまま顔だけ動かしてそう言った。その横顔は覇気が無く、少し痩せたようだった。


「俺は明日帰らなきゃだけど、康雪は当分いられるから」

「何言うとるか康夫!康雪に学校休ませる気か!」

「嫌だな、ばあちゃん。あと三日で冬休みだよ」

「その三日休むんか。ばあちゃんは許さん!休むと"ナイシン"に響く聞いたど!」

「うっ、何故そんな言葉を…」

「田舎は情報社会だで。ばあちゃんは何でも知ってるど」


本当はテレビで見ただけのくせに。それどころか村のお爺ちゃんお婆ちゃん達は"内申"なんて言葉知らないんじゃない?

男は慣れた手付きで急須に茶葉とお湯を注ぎ、三つの湯呑にそれぞれ注いだ。


「母さんもう寝て。治るものも治らない」


男に支えられ、しぶしぶといった表情であなたは布団に身を横たわる。そして小さく呟いた。


「はよう帰ぇれ…」

「……」


長い沈黙の後、子供が「…俺、晩御飯作るから」と席を離れた。

あなたは嫌だったんだね。慣れ親しんだ静かな空気が、賑やかに変わることが恐いんだ。

諦めたはずだったのに、諦めた後に変化が訪れた。そのまま、静かに終わりたかったのに。


「雨戸、修理してくるど」


男は初めて訛った言葉を口にした。あなたは男に背を向けたまま布団にうずくまって、無言を貫き通した。

私はその光景を瞼に焼き付ける。この時から少しずつ、あなたと男の関係は変わり始めていた。


***


男が帰る際、あなたの枕元で「また来るど。安静にしとってな」と言った。子供が少し目を見開いて、自分の父の姿を見つめていた。

そしてあなたの「……分かったから。はよ行け」という遠回しな肯定を聞いた子供は俯く。その嬉しそうな表情は、猫の私だから気付けたのだ。


「絶対やぞ、約束じゃから。康雪、ばあちゃん頼んだど」

「うん、分かってる。大丈夫だよ。ね、白玉」


まだ言うか、白丸だ!


結局子供は三日学校を休み、そのまま冬休みをこの民家で過ごすことになった。

男手が一つあるだけでなんて生活が楽になることか。そのことはあなたも気付いていたはず。


「俺この一週間で料理が上手くなった気がする」


なんて子供は自信満々に言うけど、私からしたらまだまだ!

卵は焦げるしお味噌汁だって味が濃い。ねこまんまにするなら薄味にしてよね。


「康雪はほんに料理がうまいの」

「本当?」

「孫のうまい手料理を食えたんだ。もうばあちゃんは死んでもええど」

「そんなことっ!…冗談でも言わないでよ」


予想外の子供の声。大きな声はテレビの音さえもかき消して、家じゅうに響き渡った。


「俺、俺…。このままここに居たい。学校に行かないでばあちゃんと白丸とか、皆のために働きたい」

「康雪」

「力仕事したり、畑仕事したり。俺さ、野菜作り好きなんだ。向こうの家でもやってんだよ。中庭の小さい畑だけどさ。でも父さんに褒められたんだ」

「…」

「冬場は雪かきだって手伝える。ほら、今だって随分楽でしょ?俺が居たらそれが毎日だよ。だから……」

「……」

「だから、さ…」


こどもは言葉を飲みこんだ。


「なんてね…」


そして自嘲気味に笑う子供。いつか子供が言った自分の願い。きっと誰かに打ち明けるのは初めてだったんだろう。

震えた声は弱々しく、私の胸に響いた。

とても簡単なはずの願いは、子供にとっては最も難しいものだった。


「冗談だよ。ゆくゆくは父さんの会社継がなきゃいけないんだって、分かってるから」

「康雪、泣いてええんよ」

「…ばあちゃん…」

「お前はまだ、子供なんやから」


まだ子供の康雪には、進むべき道がすでに決められている。歩く道を選べないことは、なんて酷く悲しいことなんだろう。


「この卵焼き…、少ししょっぱかったね」

「…ちょいとだけだ。うまいど」


子供は泣きながら笑った。


***


あなたが布団から起き上がれない日々が続く。私の背を撫でる手つきも弱々しく、どうしようもない不安が私の気持ちを急きたてる。

子供が口元におかゆを運ぶものの、三口ほど食べて「もうええ」と一言言って眠りにつく。


「白玉…。ばあちゃん大丈夫かな…」

「……」


眠るあなたの腕に潜りこんだ。相変わらずこんなに温かいのに。なぜそんなにも顔が青白いの?

ふと眼を覚ましたあなたは私を見て笑うのに、どうしてそんなにもその笑顔はぎこちないの?


「にゃあ…」

「しろまる…」


あなたの上下に動く胸元だけが、私に安堵を運ぶ。


不安を拭いきれない子供が村医者を呼んだ。あなたの額を縫ったあの医者だよ。

医者はあなたの胸に聴診器を当てたりと一通りの診察をして、ひとつため息をついてから言った。


「容体は良くないど」

「…」

「年寄りは一度伏せると長いってのもあっしよぉ、季節もなぁ…」


医者は窓の外の雪を眺め言う。


「旦那さんが死んだのも、今くれぇだったでな」

「じいちゃんが…」

「精神的なものもあると思うど」


一度伏せって弱くなった精神は、あなたの大切なあの人を、丁度今くらいに死んでしまったあなたの方割れを、思い出させているのだろうか。

だから最近のあなたは夜になると静かに涙を流してる時があるの?


『おいて、いかないでよ…』


あなたをこんなに思っても、私の声は届かない。


***


とても寒い日だった。積雪量が30センチを上回り、子供が朝から雪かきをしていた日だった。


「……康文さん……」


え?


あなたは窓の外をじっと見ていた。まるで誰かが居るように、誰かが見えているかのように、ただただじっと。

ふくよかだったあなたの手の甲は今ではやせ細り、まるで枯れ木のようだった。

私をよく撫でてくれた手はもう滅多に上がることはないと言うのに、あの人の名前を呟いたあなたの手は窓に伸びる。

私の毛が逆立った。


『康雪ーっ』

「はぁ…。ん?どうしたんだよ白玉」

『おばあちゃんの様子がなんか変なの!』


にゃあにゃあと煩く鳴く私に一瞬首を傾げた子供だったが、あなたが倒れた時のことを聞いていたらしく直ぐに顔色を変えた。


「ばあちゃん!」


雪かき用の赤いシャベルが投げ捨てられる。厚い雪に足を取られながら子供は庭から縁側に飛び込んだ。


「ばあちゃん、ねぇばあちゃん?どうしたの…」

「…今、康文さんが…」

「じいちゃんが?」

「いた様な、気がして…」

「…」


その夜、子供は男に電話を掛けた。その時から誰もが覚悟をし始めていた。


***


連絡を受けた村医者は簡単な、あまりにも簡単な診察をして一つ子供の頭を撫でた。


「頑張ったね」


何を頑張ったという意味か。あなたの世話を頑張ったという意味か。子供はかぶりを振って拳を握る。


「何時でもええ。何かあったらすぐ電話し」


村医者は豪雪の中帰って行く。民家には私とあなた、そして気持ちを持て余した子供がいた。


「父さん、直ぐには来れないって。明日の夜になるって…」


ガタガタと雨戸が揺れる。風と雪で、この古い民家は今にでも倒れそうだった。

子供は足元に居た私を抱き上げると私の瞳を見つめた。

もう子供は子供ではない。そこには外見も、内面も大人になった子供がいた。


「俺がしっかりしないと」


そう言って子供は私を下ろし、台所へと夕飯を作るため姿を消した。

私はあなたの眠る部屋に戻り、そばに座る。

少しして、あなたは私の気配に気づいたのか、ふっと眼を開けこちらを見た。


…おばあちゃん。


「…しろまる…」


ねぇ。私といて、楽しかった?


「楽しかった…。あんたは福を呼ぶ招き猫だど…」


あなたはゆっくりと震える手を私に伸ばし「おいで…」と囁く。

私は近づきあなたの手にすり寄った。あなたの細い指が私の耳に触れ、そこから頬、そして首輪へと伸びる。チリンと鈴が鳴った。


「こんな…、こんな変てこな首輪のままで、ごめんねぇ…」


良いの。この金のネズミのおかげで、私はネズミが怖くなくなったんだよ。

リボンだけは何度も取り換えたけれど、鈴と金のネズミ、そして中途半端に切られた紺色のストラップはそのままだった。

あなたが倒れる前、またリボンを取り変えようって言ってたね。それが出来なかった今、リボンは色あせほつれたままだ。


ねぇ、おばあちゃん。私、あなたに伝えたいことがいっぱいあるの――――。


あなたがくれた首輪がするりとほどけた。赤いリボンは畳に落ちて、鈴がリン、と一回鳴った。


「――――おば、あちゃん」

「白丸…?」


ああ、神様…。


「だいすき、だよ」


大好き。大好き。…大好き…。


「しろ、まる…」


あなたの目から、涙が流れる。


「こんなばあちゃんといて、楽しかったかい?」

「うん」

「幸せ、だったかい…?」

「あなたとであった、あのひから…」

「…そうかい…、そうかい…」


布団へ落ちたその腕に抱かれるように、私は体を寄せる。

あなたは笑っていた。いつもと変わらぬ笑顔を携えたまま、ゆっくりと言った。


「あたしもねぇ…、幸せ…だったよ…」


あなたは言葉を一言一言確かめるように言った。


――――あんたはあたしの寂しさを吹き飛ばしてくれた。

それに康夫、康雪まで連れてきてくれたんだ――――。


あなたの目から溢れる涙が枕を濡らす。


「ほんにありがとうねぇ、しろまる…」

「おばあ…にゃ…」


あなたは目を閉じた。眠るように。

置いて逝かないでと言えなかった。あなたを引き止めるすべを私は知らない。


「あり…、が…」


せめて安らかに。大好きなあなたがずっと幸せな夢を見れますよう。

雪が多く降った夜、あなたはあの人に連れられて旅に出た。永い永い、幸せな旅に。


***


葬儀を終えた夜。縁側に座る私の背後に誰かが立った。


「白玉」


子供は喪服を着て、暗い表情をしたまま立ち尽くしていた。

泣くかと思っていた子供はあなたが逝ってしまった夜から一回も泣いていない。

その代わり歯を食いしばり、手が白くなるほど握りこんでいた。それはあなたが焼かれた時も同じだった。


「ばあちゃん、逝っちゃったな…」

「…」

「ああ、あとこれ」


その手にはあの時ほどけた首輪があった。子供は私の横に腰を下ろす。


「部屋の隅に落ちてた。これ、お前のだろ?」

「にゃー」

「こんな首輪、おかしいよな。だって、さ…、ストラップ……」

「…」

「ストラップが……っ」


子供は笑って言おうとしたものの、目からどっと涙が溢れると顔をグシャグシャにし、まるで初めて会った時の子供のように泣き始める。

子供は両手で首輪をグッと握りしめた。


「……っ」


子供にとってあなただけが拠り所だった。本音を晒せる唯一の人。小さな子供は今、一人きり。

ぼたぼたと喪服に涙の跡がつき、微かに嗚咽が聞こえる。両手で首輪を握り俯くその姿は、まるで神に祈るようだった。

救いを求めているのだろか。神か、それともあなたに救いを求めているのだろうか。


私は腰を上げて数歩進み、子供の体にすり寄りそのまま丸まった。

子供は顔をこちらに向けると鼻を一回すすり、私の体を撫でる。


「――――なぁ、白丸」


子供が私の、名前を呼んだ。


「うちに来いよ」

「……」


この民家は売りに出されるという。買い手は未だ見付かっていないが、誰も住む人が居ないため、それも仕方がない。

私の引き取り手は吉村さんだった。以前から可愛がってくれていたし私も嫌じゃない。ゴンだってあれ以来、威嚇せずに迎えてくれる。

子供の手が私の顎に伸びる。


「来いよ…」


子供の瞳は些か腫れて赤かった。けれどあなたと似た茶色い瞳は澄んでいて――――。


お互い同じものを失った私達は、まるでそれを補い合うかのように寄り添いあった。


***


「父さん、お茶淹れたよ」

「おお、康雪。すまんな…」

「ねーねー、おじいちゃま!魚つり行こうよ!」

「まぁ康明。昨日も行ったじゃない!」


――――ねぇ、見てる?

あなたの家が、こんなにも賑やかになったんだよ。


あの日私がこの地を離れて、長い年月が流れた。子供が男の会社を継いで結婚して、あなたの曾孫が生まれたそんなある日、あなたの家がまだ残っていることを皆が知った。

話を切り出したのがね、子供の奥さんだったんだよ。


「私、行ってみたい。康雪が言ってたおばあさまとの思い出の場所」


子供は私を撫でていた手を止めて、


「……うん」


と、そのたった一言だけを言った。

そこからとんとん拍子に話は進み、買い手のなかった家は実は男が手放していなかったのだと子供は知った。


「俺が出来る最後の親孝行だと思ったんだ」


男はしわの深くなった顔でそう言い、子供は昔の笑顔で笑って私を撫でた。


「懐かしいな、白丸。ほら、ここの傷、お前の爪痕だぞ」


本当だ。懐かしいね。この木目が気に入って、よく爪をといでいた。


「これは俺の背比べの傷だ!」


そうだったね。来るたびに大きくなるからと、あなたが柱に子供の背を刻み始めたんだったよね。


子供は自分の子供よりはしゃぎ、懐かしい香りが未だに残る民家を走って回る。

未だ健在の吉村さんが、時々掃除をしてくれていたらしく民家は綺麗だった。


――――ああ、本当に懐かしいね。

まるで昔に、あなたが居た時に戻ったみたい。


子供が釣竿を持って笑っている。私に「釣りしに行くぞ」と声を掛ける。

男がお茶を飲む。私に「ブラシしてやるからおいで」と笑みを隠しきれない無表情で言う。

吉村のおばあさんが縁側に腰を掛ける。私に「煮干しやるど」と美味しそうな煮干しを持って言う。

吉村のおじいさんが縁側に腰を掛ける。私に「はよう春がこんかね」と煮干しを渡しながら言う。

でもゴンが居ない。


――――あなたがいない。


「おい白丸。どこに行くんだ?」

「しろ、おさんぽ行くの?」

「もう暗くなるから、遠くに行っちゃだめよ」


うん、お散歩にいってくるよ。

だいじょうぶ、くらくなっても、あなたがいるからこわくない。


私はゆっくりと、あなたが歩いた雪の旅路を辿った。






置いて逝かれる不安、老いて行く不安。


***


白丸 しろまる

真っ白な猫の女の子。お春に拾われてからどこに行くにでも一緒だった。

赤いリボンに子年のストラップという変な首輪を付け続けた。

17年ほど生きて、康雪たちと民家に再び訪れた際、お春を追って永い旅に出た。


お春 おはる

民家に一人暮らしていた。雪の降る日に旦那の康文を亡くし、三年後の同じく雪の降る日に白丸を拾った。

穏やかで優しく、けれど少し意地っ張りな素敵なお婆ちゃんだった。


康雪 やすゆき

お春の孫。本当はお春の住む村で生きていきたかったけれど、父の手前それは叶わなかった。

お春と白丸の前でだけ子供で居られた。


康夫 やすお

お春の子供。田舎が嫌だと半ば絶縁状態で上京。

その後事業が成功し、大きな会社を築く。妻とは死別した。

一度生家の民家を手放すものの、思いなおし再び買い戻す。


康文 やすふみ

お春の夫。雪の降った日に病気で亡くなった。

少し恐い顔をした、不器用な人。


吉村のおばあさん、おじいさん

おばあさんはお春と女学生時代の同級生。二人は仲良しで、今も尚健在。


ゴン

先輩犬。年長者を敬えと言うからいざ敬うと、まだそんなに歳取ってない!と怒ったりする。

でもなんだかんだで仲が良い。

白丸が去った五年後に旅に出る。


嫁と康明

康雪の嫁と子供。


***


久しぶりに手が止まらなかったお話です。

実はこのお話にはいくつかインスパイア(素人がこんな言葉を使って良いのか分かりませんが)させていただいた作品があります。

手嶌葵「恋するしっぽ」

写真集「みさおとふくまる」

特に後者を見てこのお話が産まれました。

所々似ていますが、あくまで参考という形でよろしくお願いします。

(名前をもっと変えようと思ったのですが、白丸しか思い浮かびませんでした。すみません。)

不快に思う方が居ましたらご連絡ください。速やかに削除いたします。


もし興味のある方は写真集を是非ご覧ください。

とても胸が温かく、優しくなれる作品です。

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