逆トリップ 異世界の男×24歳の一般OL
タイトル SALVIA
「あーーー!!」
星の瞬く夜の九時半。私の声は閑静な住宅街に響き渡った。
残業をし酷使された若くない自分の体。
いや、まだまだ若いぞ二十代!
むくんだ足とパソコンの見過ぎて疲れた瞳。
あっついお湯の半身浴をして、冷たくしたアイピローで極楽体験をするのだ!
そう息巻いて自宅のアパートの扉を開ければ、ダイニングに繋がる短い廊下に転々と残る足跡。
土が落ちたそれは干からびているため、床に付着してから時間が経過していることを教える。
くっそー、くそくそっ!
「ちょっとサルビア!サルビア!…おいこんのぅ、猿!」
「どうしたリリーベル」
カチャリとダイニングの扉が開く。
そこから現れたのは背の高い目鼻立ちの整った外人。
白い肌、ダークグレーの瞳、そして少しだけくすんだ赤い髪。
…私はその赤い髪が、太陽の下に出ると炎のように燃えるルビーに変わることを知っている。
その男、サルビアは私を見つめ首をかしげた。
「リリーベルじゃないっつの!蘭よ!私の名前は!ってそうじゃなくて!」
サルビアは頷く。
聞いているから、落ち着いて話しなさい。
そう表情が語る。年齢も差ほど変わらないはずなのに、何だろうこの余裕の違い。
器の違いか。
「見てよこの床っ」
「え?…あ」
参ったな、そんな顔をして頭を掻く。
サルビアは床を見て、そして己の足元を見た。
室内なのにスリッパではなく、外靴を履いている。
「いかん。どうも慣れない」
そう呟きながら靴を脱いだ。
そして私が未だに立ち尽くす玄関へと歩み寄り、靴を置く。
く、せまい!そして何より近かった。
しゃがんだサルビアの髪から、私と同じシャンプーの香りが漂う。
「今すぐ掃除する」
「…私も手伝う」
今度から気をつけてよね。
そう言って洗面所にあるバケツと雑巾を持ちだした。
ダイニングを覗くと、ひどくはないがやはり足跡が残っている。
私がはぁとため息をつくと、慌てた口調でサルビアは再度謝罪の言葉を口にする。
ここまで謝られると怒る気が失せるというか、胸が締め付けられるというか何と言うか。
「大丈夫だから。ほら、ちゃっちゃとやって、ドラマ見よ」
そう言えばサルビアは嬉しそうにはにかんだ。
大人の男なのに、どうしてここまで可愛いのだろうか。
「ああ、そうだな」と言って、サルビアは廊下をせっせと掃除しだす。
十時からサルビアの好きな恋愛ドラマが始まるのだ。
大恋愛の中にある苦難や挫折がどうも病みつきになるらしい。
朝になると熱心にドラマの解説と感想を語るから、こっちはたまったもんじゃない。
私も一緒に見てるっちゅうの。
明日の光景を想像して苦笑すると、私はダイニングの床を綺麗にし始めた。
一人暮らしには丁度いい八畳の1DK。
バストイレ付で、日当たりのいいセキュリティーもそこそこな南向き。
ダイニングから見える景色は隅田川と青々とした河川敷。
よくジョギングや散歩をする人を見かけるその河川敷は、夜になれば遠くに光るネオンに消える。
決して安くはない物件だが、社会人六年目の私にはまぁまぁ許せる値段だった。
奮発して買ったクイーンサイズのベッドと、無駄にかさばる映りの悪くなり始めたブラウン管テレビ。
限界まで使うと決めたテレビは、最近になって急に映像を消したりする悪戯っ子に変わり、よくサルビアにどつかれている。
確かにテレビは叩けば直ると教えたが、この前叩いたときバキッと音がした。
その後すぐに映像を映し出したが、それ以来映像が消える回数が多くなったことは私しか知らない。
全く馬鹿力にもほどがある。
そんな女の一人暮らしの部屋に、突然この男サルビアが現れた。
この部屋に、と言うか隅田川の河川敷にって言うか。
その日は雨が降っていた。
私は仕事が定時より早く上がれて、切れていたビールを買いにコンビニに向かった帰りだった。
手持ちもそんなになく、給料前なので無駄遣いは自重しよう。
そう思っていた矢先だったから、手に持つ袋にはビールが三本。
それがガサガサと歩くたびに音を立てた。
川を挟んだ向こう側の高層ビルのネオンは、雨にも負けず風にも負けずきらきらと輝いている。
雨のしずくに反射して、余計美しい気がした。
ぼーっと眺めていた自分に気づき、ああビールが温くなると思い再び歩こうとした時だった。
誰かが河川敷の下に立っていた。
私と同じく、ぼーっとネオンを見ていたのだ。傘もささず。
ま、いっか。そう思えたら良かったけど、あいにく目の前で自殺でもされたらどうしよう。
と私は何とも阿呆なことを考えた。
あわあわと一人挙動不審な私は、さぞかし他様から見たら滑稽だったに違いない。
見て見ぬふりをするわけにもいかず、私はその人を上からずっと見ていた。
すると五分もしない内にその人は膝から崩れ落ちた。
私にはそれが川に飛び込む動作に見えてしまい、「大丈夫ですかぁぁあ!」と無駄に叫んでしまった。
水しぶきの上がる音を想像していたけれど、ただその人はただガクリと蹲っただけだったあの時の私の気持ちをどうか察してほしい。
しかし私の声に何も反応を見せないその人に不安を抱き、今度はさらに近寄って「どうしたんですか?」と尋ねた。
差していた赤い布地に淡い色の花柄をした傘を目の前の人に傾けるが、すでに服がびしょ濡れになっていた。
しかしそれでも私は傘を傾ける。
遠くから見たときには気づかなかったが、目の前の人は男だった。
蹲っているにしても大きな体は、きっと立ったらもっと大きいんだろうな、そんなことを私に感じさせる。
パタパタと傘に雨が当たる音がした。
そんな微かな音にさえかき消されそうな小さな声が、男から発せられた。
――――ここはどこだ。
男の横に、豪華な装飾の施された剣が落ちていた。
それがサルビアとの出会い。
ダイニングの床が綺麗になったころ、丁度サルビアも終えたらしくダイニングに入って来た。
時計を見たら21時40分。
急いでお風呂に入ればドラマに間に合う、そう判断した私は慌ててお風呂に駆け込んだ。
私の姿を見ていたサルビアはおかしそうに笑い声をあげた。
お風呂からあがり、サルビアが温めてくれた晩御飯を食べ、二人ソファに座ってドラマを見る。
二人掛けの白いソファは、サルビアと二人で座ると少し窮屈だ。
けれど狭いくらいの密着が何だか心地いい。
途中2回ほど画面が消え、そのたびに「今良いところだったのに!」と言って、サルビアはバシンとテレビを叩く。
壊れるからほどほどにしてね!
ドラマではヒロインとヒーローに進展があり、それが嬉しかったらしくサルビアはニコニコとしている。
「やはり真実の愛は何事にも屈しないのだな」
「そうだね。運命は強いね。もう寝たい」
運命か、そう低く呟かれた言葉は、何故だかとても重大なもののように聞こえた。
二人してベッドに入り込む。やはりソファ同様少し狭い。
私が落ちないよう、サルビアは後ろから私を抱きしめる。
「リリーベル、明日は仕事がないのだろう?」
「うん。お休みだよ」
「そうか、なら明日散歩に行こう」
「うん、お弁当でも作ろうか」
くすくす。暗い寝室に小さな笑い声が二つ上がる。
ぎゅうっと抱かれる温かで太い腕。
私はそっと手を添えた。
――――…この出会いも運命なのだろうか?
耳元でサルビアが囁いた。
運命だよ、出会うべくして出会ったんだ、私たち。
そして訪れるであろう別離もその運命の中に含まれているんだ。
サルビアの問いかけに、別れが怖い私は頷けなかった。
鈴木蘭…高卒の社会人六年目、24歳の一般OL。サルビアからリリーベルと呼ばれている。ダークブラウンの髪とこげ茶の瞳。普通の女性。
サルビア…詳しいことはまだ秘密な二十代男性。赤い髪とダークグレーの瞳を持つ。
背が高く細マッチョで器がでかい。異世界から飛ばされた。