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ヨーロッパの青春(後編)

作者: 岡崎哲夫

哲夫の高校生から大学生までの生活を書きました。

次の日の朝、哲夫はユースホステルに荷物を預けたまま、街に出た。イン川沿いを南に下ると大聖堂に出て、中に入ると、祭壇上にルーカス・クラーナハ作の「救いの聖母」が有り、哲夫は礼拝をした。すぐ南に王宮が有り、その横にインスブルックの象徴である「黄金の小屋根」が有った。張り出した出窓の上に黄金色に輝く小屋根は、皇帝マクシミリアン一世が広場で行われる行事を見学する為に造らせた物で、屋根は金箔を施した二六五七枚の銅板瓦で覆われ、バルコニーの手すりの部分には六枚の精緻なレリーフがはめ込まれていて、このレリーフの三番目にはマクシミリアン皇帝と二番目の妻マリア・ビアンカ・スフォルツァ、最初の妻マリア・フオン・ブルグンドの姿が刻まれていた。その斜め横に宮廷教会が有り、マクシミリアン皇帝の墓石が安置され、その墓石の周りを等身大以上の二十八体の黒いブロンズ像が取り囲んでいた。それから市の塔の横を通って南に下り、アンナ記念柱を左に見て凱旋門の所に出た。凱旋門を左に曲がって、中央駅に行き、駅のカフェで昼食を取った。駅からバスに乗って白いアンブラス城に行き、チロル太公フェルディナント二世が収集した奇妙な絵画や珍品コレクションとハプスブルク家の肖像画が並ぶギャラリーを見学した。その後、バスに乗ってロープウェイ乗り場のフィンガーブルグに行った。ここは、インスブルックから最も近い山が街の北にそびえるノルトケッテ連峰の、その展望台になっているのが標高二三三四メートルのハーフェレカーという所で、そこへ上るためのロープウェイ乗り場なのだ。哲夫はゴンドラに乗ると、ゴンドラは一気に雲の上に上昇して行った。展望台からは眼下にインスブルックの街を望み、三百六十度のアルプスのパノラマを楽しみ、遠くにイタリアの国境のブレンナ峠が見えた。ロープウェイを降りバスに乗って、夕闇迫る街一番の繫華街ヘルツォーク・フリードリヒ通りに戻ると、カフェテリアに入って夕食を取った。メニューはビーナーシュニッツェルというワラジみたいに大きな仔牛のカツレツとシーザーサラダとゲミューゼズッペという野菜スープと赤ワインだった。

明くる朝、哲夫はユースホステルを出ると中央駅に行き、電車に乗ってザルツブルクに向かった。ザルツブルク中央駅の案内所で地図を貰うと、ユースホステルは駅から南に少し歩いた新市街の入口に有った。哲夫はチェックインして部屋に入ると、二階の二段ベッドの六人部屋だった。長期滞在者が多く、他のベットは埋まっていた。哲夫は荷物をロッカーに入れると街に出た。新市街に入ると、直ぐにザンクト・アンドレー教会が建つミラベル広場が有った。ミラベル広場の右側はミラベル宮殿でその前にミラベル庭園が広がっていた。ミラベルとは「美しい眺め」という意味で、ホーエンザルツブルク城塞を望むミラベル庭園の眺めはまさに絶景で、色とりどりの花々が模様を描く花壇や噴水、ギリシャ神話をモチーフにした彫像、バラ園やアーチ型の植木のトンネル、生垣を利用した小さな劇場などが有った。宮殿の西側には、映画「サウンド・オブ・ミュージック」に登場したペガサスの泉が有り、哲夫は思わず「ドレミの歌」を歌いたく成った。そして少し歩くとマカルト広場に出て、隣接してモーツァルトの住居が有った。その後、ザルツアッハ川に掛かるマカルト橋を渡ってバス通りを横断し、建物のトンネルを通り抜けると、旧市街で最も賑わう通りゲトライデガッセに出た。狭い通りの両側にはすき間なく商店が並び、その九番地にモーツァルトの生家が有り、しばらく東に進むとモーツァルト像が建つモーツァルト広場に出た。この広場の南西に続くのが、中央に大きな噴水が有る広大なレジデンツ広場で、その前に壮大な大聖堂が有った。中に入ると、身廊は百一メートル有り、祭壇上の巨大な丸天井の光を浴びて、哲夫は拝礼した。その先にザンクト・ペーター教会と墓地が有り、墓地の奥には岩壁に食い込んだカタコンベが有った。そしてそこから少し上った所は、ホーエンザルツブルク城塞に行くケーブルカー乗場だ。哲夫はケーブルカーに乗ってホーエンザルツブルク城塞に行った。

ケーブルカーを降りると、直ぐに城塞の見張り台が有った。そこに上ると、ザルツブルク市内が一望でき、遠くにアルプスの山々が見えた。古い城塞の内部は大砲や武器が集められた部屋や拷問具の部屋などが有り、大司教の豪華な居室があった館は博物館に成っていた。東の外れには、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の主人公マリアのいたノンベルク修道院が有った。哲夫はケーブルカーで旧市街に下ると、ドーム広場に有る大司教の宮殿レジデンツに行った。馬車が待機しているレジデンツ広場から建物の中庭に入り、中庭の奥の左側の階段を上った所がレジデンツの居間で、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の王座が置かれた王座の間、若き日のモーツァルトも演奏を披露した騎士の間などを見学した。それから東に歩いて、ザルツブルク音楽祭の会場祝祭劇場を通って、馬洗池に行き、ゲトライデガッセ通りに戻った。中庭のあるビアレストランに入ると、ビールとウイーン風ハンバーグを注文して遅い昼食を取った。

次の日の朝、哲夫はユースホステルを出て、ザルツブルク中央駅から電車に乗って、ウイーンに行った。ウイーン中央駅に着くと、ウイーンは雨だった。案内所で地図を貰うと、ユースホステルは駅から北西に行った王宮の西側だった。路面電車でカールスプラッツ駅に行き、乗り換えてリンクのフォルクステアター駅で降りた。そこから雨の中、リックを背負い歩いてユースホステルに向かった。チェックインすると、部屋は三階の二段ベッドの六人部屋で合唱コンクールでもあるのか館内は制服の学生で混雑していていた。同室の学生に聞くと、近くのフォルクス劇場で合唱コンクールが開かれているという事だった。哲夫はユースホステルに荷物を預けると、傘をさしてリンクに向かった。まず王宮に行き、ミヒャエル広場の南側のドームの入口を入ると、銀器のコレクションがズラリと並んだ廊下が有り、皇帝の階段を三階まで上って、ハプスブルク家最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の妃エリザベートの、愛称シシイと呼ばれるシシイ博物館に行った。哲夫は、シシイが身に付けた華麗なドレスや愛用の小物などがある部屋や彼女がプロポーションを保つための運動器具が取り付けられた化粧室兼体操室を見て、皇帝の部屋に行き、執務室や居間や愛する家族の肖像画が飾られている部屋などを見た。王宮の中庭にスイスの宮が有り、鮮やかな赤と黒に彩られたスイス門をくぐると、王宮礼拝堂が有り、日曜日などはここでウイーン少年合唱団が演奏をするという話だった。礼拝堂を出て、ミヒャエル教会、スペイン乗馬学校、国立図書館を廻って、新王宮に行き、エフェンソス博物館、オーストリア歴史館、世界博物館などを見た。哲夫はそこから、ヨーゼフ二世の騎馬像が建つヨーゼフ広場に行き、その先に建つ細長いアウグスティーナー教会はハプスブルク家の人々の心臓を安置するので有名だが、その教会を通って、アルベルティーナ宮殿に行った。その後北に向かって、ノイアー・マルクト広場に有る皇帝納骨所というカプチーナー教会に向かった。この教会地下に広がる納骨所にはハプスブルク家の十二人の歴代皇帝を含む百五十体の柩が安置され、ひときわ巨大で豪華な柩には、マリア・テレジアとその夫フランツ一世が眠っていた。そして哲夫は「ウイーンの象徴」と言われるシュテファン寺院に向かった。天を突くようにそびえる高さ百三十七メートルの南塔は寺院のシンボルで、北塔にはプンメリンという巨大な鐘がつるされていた。哲夫は中に入ると、石造りの説教壇に跪いて拝礼をした。それから、モーツァルトハウスに行って、モーツァルトの楽曲や手紙を閲覧して、売店で小さなモーツァルトのブロンズの顔の楯を買った。そしてそこのカフェテリアに行って、ポテトフライの上にチキンローストがのったグリルフーンとビールで昼食を取った。食事が終わると、哲夫はホーエルマルクト広場の北東の二つの建物を繋ぐ通路に取り付けられた華麗な仕掛け時計アンカー時計に行き、午後二時を待った。午後二時になると音楽が鳴り、からくりが回り「カール大帝の人形」が現れた。実は、毎正時に一人ずつウイーンゆかりの歴史的人物が次々と音楽にのって現れて、ちょうど午後二時は「カール大帝の人形」だった。それからウイーン最古のルプレヒト教会に行き、「岸辺のマリア」という名のマリア・アム・ゲシュターデ教会に行った。そこから西に歩いて、ウイーン大学に行き、市庁舎、国会議事堂、市自然史博物館を通って、マリア・テレジア像の前の美術史博物館に行った。その後、ブルク公園のモーツァルト像の前を通って、国立オペラ座に行き、東に歩いて、市立公園のベートーヴェン像に行った。そして、市立公園に有るヨハンシュトラウス、ブルックナー、シューベルトの像を順番に見て歩き、ウイーン・ミッテ駅のカフェテリアで、グーラシュという牛肉のシチューとビールで夕食を取った。

次の日も雨だった。哲夫は路面電車に乗って、シェーンブルン宮殿に行った。テレジアン・イエローと呼ばれる黄色の外観のシェーンブルン宮殿の名は、皇帝マティアスが狩猟用の館の近くの森で、美味しい水が湧き出す「美しい泉シェーナーブルンネン」を発見した事から、名が付いたそうだ。哲夫は正門の左の入口から宮殿の中に入ると、まずマリア・テレジアが大のお気に入りだった日本や中国の漆器が並ぶ丸い中国の小部屋が有り、そこを通ると宮殿最大の広間長さ四十メートル、幅十メートルの舞踏会や晩餐会の会場に成った大ギャラリーで、東側に行くと、ローザの間、マリーアントワネットの部屋、フランツ・ヨーゼフ一世の寝室が有り、西側に行くと、漆の間、ナポレオンの部屋、ソフィー大公妃の部屋、フランツ・カール大公の寝室が有った。哲夫が宮殿を出る頃には雨もやみ、外に出ると、南側に広大な庭園が有り、色とりどりの花で描かれた幾何学模様の花壇やアーチ型に狩り揃えられた生垣や縦横に走る並木道が鮮やかに拡がっていた。庭園の真ん中にネプチューンの泉が有り、ギリシア神話の海神ネプチューンに祈る女神テティスを中心にした力強い彫像から時間に応じて噴水が吹き出していた。そして小高い丘の上にはグロリエッテという記念碑の建物が聳えていた。グロリエッテの展望テラスからは、宮殿と庭園の眺めが素晴らしく、遠くにウイーン市内やウイーンの森も眺められた。

哲夫はシェーンブルン宮殿を後にして、路面電車で次の訪問先のベルベエデーレ宮殿に向かった。ベルベエデーレ宮殿は、プリンツ・オイゲン公の夏の離宮で、上宮から緩やかな斜面の庭園と下宮越しに見えるウイーン市内の眺望は、まさに「美しい眺めベルベエデーレ」だった。哲夫は宮殿上宮に入ると、そこはオーストリア絵画を展示した美術館に成っていて、クリムト、シーレ、ココシュカ、マカルトなどウイーン世紀末の画家の作品からカスパー・ダビッド・フリードリヒの風景画などのロマン主義、古典主義の絵画まで展示していた。特にクリムトの「接吻」やシーレの「母と二人の子供」は魅力的だった。ベルベエデーレ宮殿の上宮から庭園の緩やかな坂を歩いて下って行くと、途中に白いスフィンクス像が配されていて、このスフィンクスの胸に触れると幸せになれるという言い伝えが有り、哲夫も何回もスフィンクスの胸を撫でた。そして茶色の屋根の下宮に行くと、ブリンツ・オイゲン公の豪華な居室やギャラリーが有った。哲夫は下宮のそばのカフェで、ブラートブルスト・ミット・ポンムフリッツというソーセージの盛り合わせとポテトフライと、ビールの昼食を取った。その後、哲夫は路面電車に載ってプラターに行った。プラターはもともとドナウ川沿いの草地と森が広がるハプスブルク家の狩猟場だった場所で、明治に日本も参加した万国博覧会の会場に成った所だ。プラターの森の入口の所にプラター遊園地が有り、映画「第三の男」に登場して世界的に有名に成った大観覧車が有って、そのそばに蠟人形で有名なマダム・タッソーの館が有った。哲夫は大観覧車の十二人乗れるワゴンに一人で乗り込み、ワゴンがゆっくり上昇し頂点に達すると、ウイーン市内はもとよりウイーンの森やシェーンブルン宮殿まで見渡せた。そこから哲夫は、路面電車に乗ってウイーンの森の入口のグリンツィングに向かった。哲夫はグリンツィングで路面電車を降りると、そのまま北に向かってウイーンの森を上って行った。しばらく森の中を歩くと、山の上にある展望台カーレンベルクに着いた。展望台からは、気持ち良い風が吹く中、ウイーン市内やシェーンブルン宮殿やドナウ川などが見渡せた。ウイーンの森を出て、ハイリゲンシュッタット地区のベートーヴェンの家に向かった。途中、ベートーヴェンが「田園」の構想を練ったと言われる小川沿いのベートーヴェンの散歩道を通って、ベートーヴェン・ルーエという広場に出ると、そこにはベートーヴェンの胸像が有った。そして、哲夫はベートーヴェンの家に行って、遺書やデスマスクなどを閲覧し、売店で小さなベートーヴェンのブロンズの顔の楯を買った。それから、哲夫はベートーヴェンの家を出ると、夕闇迫る中、グリンツイング地区のホイリゲ酒場に向かった。ホイリゲとは「今年の」という意味で、今年出来た新しいワインを指し、それを飲ませる店をホイリゲ酒場と呼んだ。哲夫はアコーディオン、ギター、バイオリンなどの生演奏をしている酒場に入り、ホイリゲワインとソーセージとハムとサラミの盛り合わせを頼んだ。そしてワインを飲みながら、周りの人たちと一緒に合唱して、グリンツイングの夜を楽しんだ。

今日も朝から雨だった。昨日は途中から雨も止んで晴れ間も見えていたのに、夜遅く成って降り出していた。哲夫はお昼過ぎまでユースホステルにいた。夜は近くのフォルクス劇場での合唱コンクールの最後の演奏に同室の学生から誘われていた。哲夫は雨の中を路面電車でシューベルトの生家に向かった。今回、ウイーンに来た目的の一つは死んだ母親が出来なかったシューベルトの墓参りだった。シューベルトの生家はフランツ・ヨーゼフ駅のそばに有った。哲夫は中に入って、楽曲や手紙や遺品の数々を閲覧した。そして売店で「冬の旅」の楽曲のレプリカと小さなシューベルトのブロンズの顔の楯を買った。それから、べェーリンガー墓地に行って、シューベルトの墓に花をあげて祈った。夜はフォルクス劇場で同室の学生の合唱を聞いた。澄んだ歌声は哲夫の耳に懐かしい郷愁を帯びて響き渡った。演奏終了後、近くの酒場に誘われて、ビールで何回も乾杯しながら合唱してウイーンの宴は何処までも続いた。

明くる朝、哲夫はユースホステルを出ると、ウイーン中央駅に行き、列車でイタリアのべネチアに向かった。列車は午後イタリアの国境を超えると、夕暮れに、長いリベルタ橋を渡って、ベネチアのトレニタニア・サンタ・ルチア駅に着いた。駅の案内所で地図を貰うと、ユースホステルは駅から運河が沿いに東に行ったカレルジ宮のそばにあった。ユースホステルは修道院を改装した建物で、哲夫が案内された部屋は大部屋で幾つものベットが並んでいて、軍隊の宿舎という感じだった。夕食は運河のそばのイタリアでは立見席の居酒屋をバカリというが、その店に入って、チッケッティと呼ばれるおつまみセットとワインを取って食べた。

次の日の朝、哲夫は荷物をユースホステルに預けると、ベネチアの街の観光に出掛けた。まずカ・ドーロというベネチアゴシックの最高建築の「黄金の宮殿」を見て、ベネチアで一番有名なリアルト橋を渡り、運河沿いに北に上がって魚市場に行き、カ・ペーザロという飾り柱をたようした優雅なバロック様式の館を通り、左に曲がってサンタマリア・グロリオーサ・ディ・フラーリ教会に行った。ここには祭壇画で有名なティチィアーノ作「聖母被昇天」と「ペーザロ家の祭壇画」が二つの祭壇に並んで置かれていた。哲夫は礼拝すると、教会を出てスクオーラ・グランデ・デイ・サン・ロッコという十六世紀に建てられたルネッサンス様式の建物に行って、「受胎告知」、「嬰児虐殺」、「ブロンズ蛇の奇跡」、「キリストの磔刑」などの絵画を見た。それから南に下り、カ・レッツォーニコ博物館に行った。博物館には十八世紀のゴンドラが飾られていた。その後、アカデミア美術館に行き、ティチィアーノの「ピエタ」、ベロネーゼの「レビィ家の饗宴」、ティントレットの「聖マルコの奇跡」、ジョルジョーネの「嵐」、ジェンティーレ・バリーニの「サン・マルコ広場の祝祭行列」などを見た。そして、哲夫は大運河の貴婦人と呼ばれる美しい八角刑のサンタマリア・デッラ・サルーテ教会を見て、アカデミア橋を渡ってサン・マルコ広場に向かった。サン・マルコ広場の入口にコッレール博物館、その右側に新政庁、左側に旧政庁と時計台、この広大な広場の正面がサン・マルコ寺院、その右にドゥカーレ宮殿、その前の運河に面してある翼を持つライオン像と聖デオドロスの像、そのサン・マルコ広場にそびえる高さ九十六・八メートルの、赤いレンガ造りでシンプルなフォルムの鐘桜が有った。哲夫はサン・マルコ寺院の中に入ると、入口上部にある四頭の青銅馬像を見て、見上げると最初の丸天井のベンテコステのクーポラ、二番目がキリスト昇天のクーポラ、その左が聖ヨハネのクーポラ、右側に洗礼堂のモザイク画が有り、中央祭壇の後ろにあるパラ・ドーロに祈りを捧げた。そしてドゥカーレ宮殿の前のカフェテラスでカプチーノを飲んだ。そして、時計台の横から迷路のように成っている路地を通って、ユースホステルに帰った。

明くる日は一日中、哲夫は島巡りをした。まずサン・マルコ広場の対岸のサン・ジョルジョ・マッジョーレ島に渡り、同名の教会を見た。内部にはティントレットの「最後の晩餐」、「マナの収拾」、「キリストの降架」などが有り、鐘桜に上がるとサン・マルコ広場、ラダーナ、点在する島々などが一望できた。それから映画「ベニスに死す」の舞台のリド島に渡った。リド島はベネチアの東南に横たわる長さ十二キロの細長い島で、島の砂浜には映画に登場するような着替えや休息用の小屋が建ち並び、歴史を感じさせるリゾートの面影が十分感じられた。その後哲夫は、ベネチアガラスで有名なムラーノ島に渡った。十三世紀からこの島に閉じ込められた職人たちによって作られたガラスは、ヨーロッパの人々の憧れの品であり、ベネチアの東方貿易の貴重な輸出品となり、ここパラッツォ・ジェスティアーニ館に展示されている十五世紀の最高のガラス製品は、中世ベネチア共和国に莫大な富を齎した。そして次は素朴なレース編みをしているブラーノ島に行った。ピンクや淡いグリーンのペンキで塗られた家並みが運河の両側に建ち、家の中では黙々とレース編みをしている姿が有り、その周りに所狭しとレース編みが積まれていた。最後に哲夫は、ベネチア発祥の地トルチェッロ島に行った。ここのサンタ・マリア・アッスンタ聖堂はベネチアで最も古い教会で、ビザンチン様式とロマネスク様式の混ざった建物は、床と教会の壁面を飾るモザイクと教会を取り巻く桂廊の八角形が珍しく、そして美しかった。哲夫は、魚市場に戻って、近くの居酒屋バカリで魚介類のミックスフライのチッケッティとベネチアの白ワインで夕食を取った。

次の日の朝、哲夫は、ユースホステルを出ると、サンタ・ルチア駅に向かい、ボローニャ行きの列車に乗った。ボローニャ中央駅に着くと、荷物を駅に預けて、ボローニャ大学に行った。哲夫は、スイスのツェルマットで会った大学生と会うつもりだった。ボローニャ大学は中央駅から南東に行った国立絵画館のそばに有った。校内で三人の大学生の所在を聞くと、みんな夏休みで故郷に帰っているという事だった。哲夫は仕方なく、三人の故郷のリミニを目指す事にした。哲夫は大急ぎで街の中心のマッジョーレ広場に行き、市庁舎のコムナーレ宮やポデスタ館やサン・ペトロニオ聖堂や旧大学のアルキジンナージオ宮などを見て回った。哲夫は中央駅に戻ると、荷物を出して列車でリミニに向かった。リミニ駅の案内所で地図を貰って三人の住所を捜すと、ポート・ポテント・ピィツァ・モンクローアという海に面した小さな寒村だった。哲夫はリミニ駅からバスに乗って南に下り、しばらく行くと、村が見える小高い丘の上でバスを降りた。村の入口で、三人のリーダーのアントニオの住居を聞くと、アントニオの家は村の長らしく直ぐに解った。白い平屋の立派な家で、哲夫が訪ねるとアントニオは家にいて、熱烈の歓迎を受けた。奇しくも、明日は姉の結婚式で家の中は親戚の者で賑わっていた。そして哲夫は、村の風習で結婚式の日に訪れた旅行者は村に幸運をもたらすキューピットだと明日の結婚式の主賓に招かれた。

結婚式当日の正午、哲夫は黒いスーツに縞のネクタイをすると、アントニオと一緒に村の教会に向かった。教会は昨日バスを降りた小高い丘の上に有った。白いタキシードをきた新郎と純白のウェディングドレスを身にまとった新婦が神父の前で指輪を交わすと少年隊の歌声に送られてバージンロードを歩いた。哲夫はその二人の先導役を仰せつかった。哲夫は慎重な面差しで、金の蠟燭立てを持って先導した。披露宴は村のレストランだった。哲夫は新郎新婦のすぐそばに座らせられて、新郎新婦と同じように祝福の拝を受けた。そして楽器の演奏が始まり、披露宴はいつの間にか飲めや歌えのどんちゃん騒ぎの宴に成っていった。

明くる朝、他の二人の大学生が近くの村からやって来て、四人でサン・マリノに出掛けた。

サン・マリノは世界五番目の小さい国家であり、最も古い共和国で、城塞に囲まれた町は標高七百五十メートルのティターノ山の麓に拡がっていた。哲夫は税関でスタンプを押してもらうと、山門をくぐってボルゴ・マッジョーレという町に入った。すぐ右側の絵画館の前の駐車場に車を止めて、四人は少し坂を上って町の中心のリベルタ広場に向かった。見晴らしのよい美しい広場の正面には政庁が有り、その門の所に衛兵が立っており、一時間おきに衛兵の交代が行われていた。四人で広場のカフェに入ると、そのうちの一人が切手収集のアルバムを出して我々に見せた。実は、サン・マリノは切手の発行数では世界一で色々な種類の切手を発行していた。彼は時々、サン・マリノに切手の買い出しに来ていたのだ。今日もその予定で、哲夫の来伊をきっかけにして三人をサン・マリノに誘ったのだ。彼の案内で幾つかの切手屋を回って、哲夫も何種類かのカラフルな切手を購入した。それから哲夫は親父から来ている何通かの手紙の切手を剝がして、それと一緒にロシアや北欧で手紙を出そうと思って、買って出さなかった切手を彼に差し出した。彼は大喜びで、何度も繰り返して哲夫の肩を叩いた。それから、四人で切り立った崖上にあるロッカ・グアイタという要塞に上った。要塞の上から見下ろすと、平原の先に青いアドリア海、背後にはアペニン山脈の大パノラマが広がっていた。

次の日もその次の日も、哲夫はこの浜で遊んだ。昼間は子供たちと青く澄んだアドリア海で泳ぎ、心地良い風が抜ける砂浜で遊び、夜は村人たちと飲んで、歌って、踊って過ごした。

哲夫は素朴で楽しいこの村が一辺で好きになってしまった。それに、アントニオの妹で十六才のマリアが変え替えしく哲夫の世話を焼くのが本当に可愛いかった。哲夫は結局、一週間この村に滞在した。そして、村で哲夫がマリアの婿になるという噂が冗談にもあがる頃、哲夫は村を後にした。

哲夫はリミニから列車に乗り、アドリア海沿いを南に下って、フォッジアで西に向かい、八月の中旬にナポリに入った。実は、哲夫にはナポリに対してある思いが有った。死んだ母親への思い出だった。トレニタリアナポリ中央駅の案内所で地図を貰うと、ユースホステルはヌオーヴォ城のそばに有った。哲夫はリックを背負って、ウンベルト一世大通りを南西に進んだ。ユースホステルにチェックインすると、部屋は三階の二段ベッドの四人部屋で、窓からはナポリ湾が一望出来た。哲夫は荷物をロッカーに入れると、ユースホステルを出て、ヌオーヴォ城を越えて、王宮を通って、カステロデローバォ卵城を目指した。そして、カステロデローバォ卵城が見えた時、その下に広がるサンタ・ルチア港を見て、哲夫は涙ぐんだ。どこからか「天架けて君も来たるやサンタ・ルチア」と哲夫の耳元で子守唄代わりに歌っていた亡き母親の声が聞こえて来た。それからゆっくりとサンタ・ルチア海岸を西に歩いて、ふと振り向くとカステロデローバォ卵城がサンタ・ルチアの海に浮かび上がっていた。その後、王宮に行った。金色の音楽の女神などが飾られた「宮廷劇場」やブルボン家のカルロの王妃を擬人化したフレスコ画が有る「「外交の間」やひときわ豪華で金色に輝く「王座の間」や「王の書斎」などを見た。そして、ヌオーヴォ城に向かった。アンジュー家のやぐらと言われる五つの円筒状の塔を持つ城塞で囲まれ、正面右二つの塔の間は大理石のレリーフを施した凱旋門で、一階奥にはパラティーノ礼拝堂が有った。それから、カプリ島行きのフェリー乗り場の前のカフェテリアに入って、スパゲティカルボナーラと仔羊の骨付きグリルのアバッキオと赤ワインで夕食を取った。

明くる朝、哲夫はリックを背負ってユースホステルを出て、サン・マルティーヌ教会に行った。教会は十七世紀のナポリ・バロック様式の最高傑作の一つで、天井は金や銀に装飾され、壁面には輝くばかりのフレスコ画が描かれ、裏手からは十七世紀のキオストロ回廊へ続き、これを出た左にプレゼーピオクリスマスの飾り物の大コレクションが展示され、圧巻は「クチニエッロのプレゼーピオ」の大絵画だった。その隣に建っている十六世紀の要塞のサンテルモ城の、ひときわ高い城塞の上からはナポリ湾と旧市街の眺望が素晴らしかった。それから、スパッカ・ナポリという古い街並みを通って、ドゥオーモに行った。ナポリの守護聖人サン・ジェンナーロを祀った教会で、礼拝堂には聖人の血が保存されていて、哲夫は祭壇の前で拝礼した。そして、ナポリ中央駅からソレントへ向かった。実は、哲夫はソレントにも亡き母への想い出があった。電車はナポリ湾を大きく円を描くようにソレント半島を進んだ。「帰れソレントへ、哀れ君は行き、我はただひとり、懐かしの地にぞ、君を待つのみ、帰れよ、我を捨てつるな、帰れソレントへ、帰れよ」哲夫は車窓からソレント海岸を眺めながら、耳元で母が囁く歌声をいつまでも偲んでいた。ソレント駅を出て、タッソ広場の周りを歩き、小さなカメオ店に入った。そして、「来たよ、貴方の歌の国へ」と心で歌いながら、歌姫の母親そっくりのカメオを買った。ユースホステルは海に面した高台に有り、眼下には色とりどりのパラソルの並ぶ海水浴場、湾の右側にはベスービオス火山、左側遠くにはプローチダの島影見える素晴らしい見晴らしだった。

次の日の朝、哲夫はポンペイ遺跡に向かった。千九百年前のベスービオス火山の大噴火により一瞬にして死の灰に閉ざされた町だ。道には、水を運んだ鉛管や轍、道路標識などが当時のまま残っていた。アポロ神殿、ジュピター神殿、スタビアーネ浴場、オデオン座、円形闘技場の跡などが残り、「ポンペイの赤」で描かれた秘儀荘の壁画がそのまま残っていた。

哲夫はナポリ中央駅に戻ると、そのまま列車に乗ってローマに向かった。トレニタリア・ローマ・テルミニ駅には夜に着いた。テルミニ駅でピッツァを食べて、案内所で地図を貰うと、ユースホステルに向かった。ユースホステルは駅のすぐ南に有り、チェックインすると、部屋は三階の二段ベッドの四人部屋だった。

次の日、哲夫は荷物をユースホステルのロッカーに入れると、街に出た。まず目の前にある聖母マリアに捧げられたというサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に行った。内部の三十六本の柱と中央祭壇の後ろを飾るモザイクは五世紀の物で、後陣の金色に輝く天井には「マリアの戴冠」のモザイク絵が有った。テルミニ駅前の共和国広場に行くと、中央には優美な四人の妖精が飾る「ナイアディの噴水」が水を噴き、周囲は回廊のある建物で囲まれた。その右側に、ローマ時代の巨大なディオクレティアヌスの浴場跡が有り、左横にマッシモ宮が有った。中には「リビィアの家のフレスコ画」や「ファルネジーナ荘の壁画」が飾られ、彫像では「アンツィオの乙女」や「ランチェロティの円盤投げ」や「眠れるヘルメス・アフロディーテ」などが置かれていた。そして哲夫はメルラーナ通りを南に下り、突き当たりのサン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂に行った。この大聖堂は、ローマでそして世界で最も重要で由緒ある教会で、初めてキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝が三百十四年に建設し法王に寄進した物だった。正面の上部には高さ六メートルもある「キリストと聖人の像」が並び、内部左側にはコンスタンティヌス大帝の像が有り、格天井には法王の紋章が描かれ、天蓋の棚の中にある「ペテロとパウロの像」の頭の中には、それぞれの頭骨が収められていた。それから、哲夫は西へ歩いて、コロッセオに行った。コロッセオはバスパシアヌス帝の命により八十年に完成した円形闘技場で、外観は四階建て、下の層からドーリス、イオニア、コリント式の柱で飾られ、高さ五十七メートル、長径百八十八メートル、短径百五十六メートル、周囲五百二十七メートルと文字通り巨大な建物だ。哲夫はコロッセオの中を通り抜けると、左側のローマ最大のコンスタンティヌス帝の凱旋門をくぐって、フォロ・ロマーノに入っていった。入ってすぐ左側のパラティーノの丘に上った。「アウグストゥス宮殿」や妻の「リビィアの家」が有り、下りた所はファルネーゼ庭園でティトゥス帝の凱旋門を通って、サン・フランチェスコ・ロマーナ教会の前に出た。ここからフォロ中央部を抜ける道が、かつて宗教的な行列や凱旋の行進が通った聖なる道で有り、その右側に今は廃虚と化している「マクセンティウス帝のバジリカ」、「ロムルスの神殿」、「アントニヌスとファウスティーナの神殿」、「エミリアのバジリカ」と続き、左側は「バスタの巫女の家」「バスタの神殿」「ユリウスのバジリカ」と続いて、その先は八本の円柱のローマの農業の神「サトゥルヌスの神殿」、右側に有る四階建てのレンガ造りの建物は「元老院」、その脇が「ゼバルス帝の凱旋門」その奥が「タブラリウム」が建っていた。フォロ・ロマーノを出ると、すぐ前がカンピドーリオ広場で、正面がローマ市役所、左右が世界最古のカピトリーニ美術館だ。新宮とコンセルヴァトーリ館に別れていて、館の二階には「トゲを抜く少年」、「カピトリーノの雌狼」、「マルクス・アウレリウス帝の騎馬像」、「ブロンズ製のコンスタンティヌス帝の頭部」などのブロンズ像が並び、三階の絵画館にはルーベンスの「ロムルスとレムス」が有り、新宮の二階には「鳩のモザイク」や「ケンタウロス」などの胸像が並んでいた。それから、哲夫はベネチア広場に行って、ビットリオ・エマヌエーレ二世記念堂の長い大理石の階段を上った。記念堂はイタリア統一記念を祝して作られた物で、ビットリアーノとも呼ばれ、ネオ・クラシック様式で、十六の円柱が弧を描くコロナーデは圧巻で、階段下両脇の噴水は右側が「ティレニア海」、左側が「アドリア海」を表し、中央の騎馬像はイタリア統一を成し遂げたビットリオ・エマヌエーレ二世だった。頂上部に着くと、ここからはローマの街並みが一望でき、コロッセオやパラティーノの丘、色とりどりの花が咲くベネチア広場から続くコルソ通りまで眺められた。哲夫はベネチア広場のカフェテリアに入ってスパゲッティ・ボンゴレと白ワインで遅い昼食を取った。食事が終わると、まず映画「ローマの休日」でオードリーヘップバーンが最後の記者会見をする場所のコロンナ美術館に行った。コロンナ家のコレクションが展示されていて、代表的な作品はカラッチの「豆を食べる男」だった。それから、ドーリア・パンフィーリ美術館に行って、カラバッジョの「エジプトへの逃亡途中の休息」やベラスケスの「イノケンティウス十世の肖像」を見て、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に行き、フィリッピーノ・リッピの「カラファの礼拝堂」やミケランジェロの「あがないの主イエスキリスト」などを見た。そして、今に残る完全なローマ建築のパンテオンに行き、哲夫が中に入ると、円形の内部は直径、高さとも四十三・三メートルという大きなクーポラで覆われていて、クーポラの頂上には直径九メートルの天窓が開き、差し込む光がモザイクの床を照らし荘厳な雰囲気だった。その後、ナボーナ広場に行き、南から「ムーア人の噴水」、中央が世界の四大河川ナイル、ガンジス、ドナウ、ラプラタを擬人化した彫刻が有る「四大河の噴水」、北側が「ネプチューンの噴水」と順番に見て回った。それから哲夫は、リベッタ通りを北に歩いて、ポポロ広場に行った。ポポロの門をくぐって中に入ると、広場中央に高さ二十四メートルのオベリスクが建っていて、ライオンの噴水が四方を守っていた。そして、広場の東側に双子教会と呼ばれるサンタ・マリア・デル・ポポロ教会が有り、右側のロベーレ礼拝堂の祭壇には「幼な子キリストの礼拝」、左側のチェラージ礼拝堂の左右の側壁にはカラバッジョの「聖パオロの改宗」と「聖ピエトロの逆さ磔」の絵画が有った。哲夫は教会の後ろの階段を上るとピンチョの丘に行き、ポポロ広場に張り出した展望台から、遠くにサン・ピエトロ大聖堂の大ドーム、サンタンジェロ城、ジャニコロの丘、ビットリアーノとローマの街並みを一望することが出来た。哲夫はそのまま続いているボルゲーゼ公園の中を北に歩いて、ビッッラ・ジュリア・エトルスコ博物館に行き、「ヘラクレスと戦うアポロ」、子供を抱く女神像」、夫婦の寝棺」などを見て、隣のボルゲーゼ美術館に行き、カノーバァの「バオリーナ・ボルゲーゼ像」、ベルニーニの「アポロとタフネ」と「プルートとプロセルピーナ」、カラバッジョの「果物籠と青年」、ラファエロの「キリスト降架」、ティツィアーノの「聖愛と俗愛」を見た。階段を南東に進むと、トリニタ・ディ・モンティ広場に出た。広場には同名の教会が有り、正面にオベリスクが建っていた。その前に広がるスペイン階段は映画「ローマの休日」の舞台としてはあまりにも有名だ。哲夫はスペイン階段を下りて、階段前の「舟の噴水」で一休みすると、海神トリトーネの噴水があるバルベリーニ広場に行き、その南東にある同名の宮殿の中でコルトーナの天井画「神の摂理の勝利」とラファエロの粉屋の娘「ラ・フォルナリーナ」を見た。そして、海神ネプチューンとトリトンがダイナミックに躍動するトレビの泉に行って、コインを投げた。

明くる朝、哲夫はユースホステルを出ると、バァティカン市国に向かった。まず映画「ローマの休日」でお馴染みの真実の口広場に行った。広場にはバラ色の鐘桜が目を引くサンタ・マリア・イン・コスメディン教会が有り、その入口の柱廊左側にあるのが「真実の口」で、「噓を言った者がこの口の中に手を入れると手を食べられてしまう」という中世からの言い伝えが有る場所だ。哲夫はみんながする様に、口の中に手を入れて直撮りをした。そして、テベレ川に掛かるパラティーノ橋を渡って、メルカンティ広場に有るサンタ・チェチーリア・イン・トラストバェレ教会に行った。殉教したサンタ・チェチーリアは音楽の守護聖人で、内部の主祭壇下にはマデルノ作の横たわる聖チェチーリアの像が有った。それから、黄金に輝くサンタ・マリア・イン・トラステベェレ聖堂に行った。紀元前三十八年、ここに一日中油が湧き出る奇跡が起こり、キリストの恩寵を意味したと言われ、この教会はその場に建てられた物で、ローマで最古の教会と言われている。正面の高見には「王座の聖母」と呼ばれる聖母マリアを中心に左右に明かりを手にした乙女が並ぶガバッリーニ作の美しいモザイク画が輝いていた。その後哲夫は、ルンガーラ通りを歩いて、バアチカン市国に向かった。サン・ピエトロ広場に着くと、広場をグルっと取り囲む半円型の回廊には四列にドーリス式円柱二百八十四本が並び、その上部は百四十人の聖人像で飾られていて、中央には四十年にエジプトから運ばれた高さ二十五・五メートルの巨大なオベリスクが建っていた。

サン・ピエトロ大聖堂に入ると、すぐ右側にミケランジェロ作の「ピエタ」、左側の壁面にはポッライウォーロ作のブロンズの「イノケンティウス八世の墓」、その先の中央左側には「聖ピエトロのブロンズ像」が有り、金色に輝いていた。中央の大クーポラは二重に成っておりとても明るく、クーポラ下に法王の祭壇が有り、ベルニーニのブロンズの天蓋で覆われていた。その先の礼拝堂にサン・ピエトロの墓が有り、奥上部に鳩のステンドグラス、その下にベルニーニ作の巨大な「聖ピエトロの椅子」が飾られていた。大聖堂を出てバアチカン宮殿に行くと、すぐ左側にラファエロの間が有り、中に入ると、部屋は四部屋に別れていて、哲夫は順繰りに見て回った。一つ目のコンスタンティヌスの間にはジュリオ・ロマーノ作の「ミラビオ橋の戦い」、ヘリオドロスの間には「法王レオとアッティラの王の対面」、「ボルセーナのミサの奇跡」、「神殿から追放されるヘリオドロス」、「聖ピエトロの解放」、署名の間にはラファエロ作の「聖体の論議」、「アテネの学堂」、「パルナッソス」、火災の間にはジュリオ・ロマーノ作の「ボルゴの火災」が有った。宮殿の奥はシスティーナ礼拝堂で、ここは法王の公的礼拝堂で法王選挙の会場でもある。礼拝堂の中は、前後左右にキリストの十二人の使徒を配して、天井画はミケランジェロが天地創造から人類再生までを描き、特に「アダムの創造」、「楽園追放」、「ノアの箱舟」は見事だ。そして、祭壇の奥の壁面に絵画史上の大傑作、ミケランジェロの「最後の審判」が置かれていた。哲夫は祭壇に跪いて、静かに拝礼をした。それから、中庭を通ってピオ・クレメンティ―ノ美術館に行き、「聖ヘレナの石棺」、「コスタンティアの石棺」、「ベルベエデーレのトルソ」などを見て、その後絵画館に行き、ラファエロの傑作「聖母の戴冠」、「フォリーニョの聖母」、「キリストの変容」、レオナルドダバィンチの未完の「聖ヒエロニムス」などを見た。哲夫はバアチカン市国を出て、コンチリアッティオーネ通りのカフェテリアに入って、ソーセージとハムとサラミの盛り合わせと赤ワインで、遅い昼食を取った。食事が終わると、哲夫はサンタンジェロ城に行った。

別名聖天使城の名は、五百九十年のペスト禍の際、この城の上に剣で悪疫を打ち払う天使が現れると、間もなくペストは消え平穏が訪れたという伝説によるものだ。中に入ると、歴代皇帝の墓や牢獄の跡や様々な武具などが展示されており、ここのテラスから眺めるローマ市街の風景は絶景だった。城の前に掛かるサンタンジェロ橋には十体の天使が置かれていて、哲夫は橋を渡り切った所で振り向くと天使とお城がマッチして素晴らしい眺めだった。

次の日の朝、哲夫はアッピア街道に向かった。まずアッピア街道の入口のカラカラ浴場跡に行くと、幾つもある浴場跡や更衣室跡や体育施設の跡などスケールの大きさに驚き、各所に置かれたモザイクの断片や案内板から古代ローマ人を魅了した素晴らしいリラックスの場であった事を実感させてくれた。サン・セバスティアーノ門をくぐってアッピア街道を行くと、サレジオ教会が有り、その先にサン・カッリストのカタコンベが有った。カタコンベとは地下墓地の事で、このあたりにはやく三十ものカタコンベが有り、哲夫が中に入ると、頭蓋骨が所狭しと積み重ねられていて、決して気持ちのいいものではなかった。それでも周りの壁画や装飾は初期のキリスト教美術を見るのには欠かせないものだった。それから少し行くと、サン・セバスティアーノ聖堂が有り、やはりその地下にカタコンベが有った。その先にマクセンティウス帝の競技場が有り、チェチーリア・メテッラの墓を通るとクインティーリ荘という広大な古代遺跡が広がっていた。

明くる朝、哲夫はユースホステルを出ると、ローマ・テルミニ駅から列車に乗ってフィレンツェに向かった。トレニタニア・フィレンツェ・サンタ・マリア・ノベッラ中央駅に着き、案内所で地図を貰うと、ユースホステルはフィレンツェ中央駅のすぐ東だった。チェックインすると、部屋は三階の二段ベッドの六人部屋だった。哲夫は荷物をロッカーに入れると、街に出た。まず中央市場を通って、サン・ロレンツォ教会に行った。ここはメディチ家代々の菩提寺で有り、三つの異なる墓地からなリ、旧聖具室は古文書一万冊が収められているラウレンツィアーナ図書館が有り、君主の礼拝堂は歴代トスカーナ大公家の墓所で、壁面にはトスカーナ地方十六の都市の紋章も象嵌細工で刻まれており、新聖具室にはミケランジェロによるあまりにも有名な「曙」「黄昏」「昼」「夜」の四体の像が置かれていた。その隣のメディチ・リッカルディ宮にはベノッツォ・ゴッツォリのフレスコ画「東方三賢王の礼拝」や華やかな「鏡の間」の天井にはルカ・ジョルダーノの「メディチ族の寓話」有り、小さなソンニーノ間にはフィリッポ・リッヒの「聖母子」が有った。それから、フィレンツェの象徴である花の聖母教会ドーモに行った。かつてのフィレンツェ共和国の宗教の中心で、白、ピンク、グリーンの大理石の幾何学模様で飾られた美しい大聖堂は、天井は「丘のようだ」と形容される大クーポラだった。中に入ると、ベネデット・マイアーノの十字架、アンドレア・デル・カスターニョとパオロ・ウッチェロによる二つの大規模な騎馬肖像画や、ロッビアの彩色陶板による美しいレリーフが飾られていて、クーポラの内側にはバザーリのフレスコ画「最後の審判」が有った。ドーモの前の美しい色大理石の八角形の建物は洗礼堂で、「天国の扉」と呼ばれる三つのブロンズの扉が出入口に成っていて、クーポラの内部は「最後の晩餐などの金色に輝くビザンチン風のモザイクで飾られていた。その隣の鐘桜は高さ八十五メートル有り、ジョットの設計で「過去の芸術よりも完全のものである」と言われた繊細なレリーフで飾られていた。ドーモ附属美術館には、カンビオの「ガラスの瞳の聖母」、ギベルティのオリジナルの「天国の扉」、ドナテッロの「マグダラのマリア」、ミケランジェロの「ピエタ」、ドナテッロの「預言者ハバクク」と「聖歌隊席」、ポッライオーロの「サン・ジョバンニの壁飾り」が有った。哲夫はその後南に下り、バルジェッロ博物館に行き、ミケランジェロの「バッカス」と「聖母子」、ドナテッロの「ダビデ像」と「聖ゲオルギウス像」を見て、シニョリーナ広場に行った。広場はベッキオ宮とたくさんの彫刻の並ぶ彫刻廊下ロッジア・デイ・ランツィからなり、広場の中心にはダビデの像やネプチューンの噴水が有った。ベッキオ宮の入口には町の紋章を持つフィレンツェの獅子像が飾られ、中庭中央にはベロッキオのイルカを抱くキューピットの噴水が有り、二階の「五百人広間」にはミケランジェロの彫刻「勝利」が飾られており、彫刻廊にはチェッリーニの「ペルセウスの像」やジャンボローニャの「ザビーネの女達の強奪」が置かれていた。そしてその隣には珠玉のコレクションが展示されているウッフィツィ美術館が有り、ボッティチェリの「春」と「ビーナスの誕生」、ラファエロの「ひわ聖母」、ジョットの「王座の聖母子」、モーネ・マルティーニの「受胎告知」、パオロ・ウッチェロの「サン・ロマーノの戦い」、ダ・ビィンチの「マギの礼拝」と「受胎告知」、ミケランジェロの「聖家族」、ティツィアーノの「ウルビーノのビーナス」、カラバッジョの「イサクの犠牲」と「メドゥーサ」と「バッカス」が展示されていた。哲夫は美術館のカフェテリアに入って、手打ちパスタと仔牛の煮込みと赤ワインで遅い昼食を取った。食事が終わると、哲夫はベッキオ橋に向かった。ベロッキオ橋はアルノ川に架かるフィレンツェ最古の橋で、彫金細工店や宝石店が橋の両側にギッシリと並んでいた。橋を渡るとそこにピッティ広場に面したピッティ宮が有り、その中にパラティーノ美術館が有った。ここにはラファエロの作品十一点が収められており、「布貼り窓の聖母子」、「大公の聖母」、「小椅子の聖母」、「アニョロ・ドーニの肖像」、「ベールの女」、「眠るキューピット」、「若者の肖像」、「マグダラのマリア」、「美しき女」、「コンチェルト」などが有った。哲夫はピッティ宮の中庭から上に上ると、ボーボリ庭園が有り、そこが「円形劇場」に成っており、続く高台に「ネプチューンの噴水」さらに上部に「陶磁器博物館」が有り、その西側に「ベルベエデーレの要塞」が有り、ここからはフィレンツェの街並みが一望出来た。哲夫はその先のバルティーニ庭園を下りて、再びアルノ川に掛かるグラツィエ橋を渡って、フィレンツェの街に戻り、町を代表する人々や多くの文化人を祀るサンタ・クローチェ教会に行った。広い教会の内部には、ダンテの記念廟からミケランジェロ、マキャヴェリ、ロッシーニ、ガリレオ・ガリレイなど二百七十六の墓が収められ、右側廊のドナテッロの金色のレリーフ「受胎告知」、左側廊の同じ「十字架」、内陣にあるバルディ礼拝堂のジョットのフレスコ画「聖フランチェスコ伝」が有った。それから哲夫はしばらく北に歩いて、ヨーロッパの最古の捨て子養老院の脇を通って、サンティッシマ・アンヌンツィアータ広場に行った。優美の広場に面して同名の教会とミケランジェロのアカデミア美術館が建ち、教会の入ってすぐの柱廊玄関は「誓いの回廊」でポントルモやサルトらのフレスコ画が描かれ、入口左の受胎告知礼拝堂の「聖母像」は天使が描いたと伝えられていて、アカデミア美術館にはミケランジェロの彫刻「奴隷」、「ダビデ像」、「サン・マッテオ像」、「パレストリーナのピエタ」などが置かれていた。そしてその隣のサン・マルコ広場に建つサン・マルコ美術館にはフラ・アンジェリコの有名なフレスコ画「受胎告知」が飾って有った。哲夫は中央市場に戻ると、市場のカフェテリアに入って、フィレンツェ風ステーキとキャンティの赤ワインで遅い夕食を取った。

次の日の朝、哲夫はユースホステルを出ると、フィレンツェ中央駅からピサ行きの電車に乗った。荷物をピサ中央駅のロッカーに入れると、ドーモ広場に歩きで向かった。市役所の横を通り、アルノ川に掛かるメッツォ橋を渡って、サント・ステーファノ騎士教会を通り、ドーモ広場に着いた。ドーモ広場の正面が白く輝く壮大の聖堂ドーモ、左側には美しい宝石箱の洗礼堂バッティステロ、右側がピサのシンボル斜塔だった。白大理石の美しい柱列に囲まれた斜塔は、高さが北側で五十五・二二メートル、南側で五十四・五二メートル、傾いた差は七十センチメートルで、哲夫は手摺りのない傾いた塔の二百五十一段の階段を屋上まで上ると、スリルの後に素晴らしいピサの風景が見渡せた。哲夫はピサ中央駅に戻ると、ロッカーから荷物を出して、列車でジェノバに向かった。ジェノバプリンチペ駅に着き、案内所で地図を貰うと、ユースホステルは駅のそばの海の見える高台に有った。チェックインすると、部屋は二階の二段ベッドの大部屋で、古い修道院の跡らしく壁に十字架が掛かっていた。哲夫がベットに行くと、すぐそばに一人の日本人がいた。哲夫が声をかけると、日本の船員らしく「スエズ運河が戦争で通おれなくて、南アフリカ廻りで二月も掛かってジェノバにたどり着いた」と言った。哲夫は「自分は明大の学生で日本を出て五か月以上過つが、何か変わった事はないか」と聞くと、船員は「相変わらず学生運動は盛んで、東大の安田講堂は陥落したが激しいデモは続いていて、お宅の大学も閉鎖中だ。ところでアメリカの宇宙船が月に到着した事は知っているのか」と聞いた。哲夫はパリを出てから新聞もテレビも見ていないので、そんな事は少しも知らなかった。それから二人は駅のそばのカフェテリアに行って、食事を取りながらワインを飲んだ。哲夫が「これからスペインに行く」と言うと船員は「アフリカに行かないのか」と聞いた。哲夫はアフリカに行く事などつゆとも考えていなかったので「アフリカってどんなところだ」と聞くと、「モロッコのカサブランカ港に入港した時に、日本人の学生と一緒になって、彼は今からアトラス山脈を越えてサハラ砂漠を横断すると熱く語っていた。それからジブラルタル海峡を通って、アルジェリアのオランの港に寄って、ジェノバに来たが、ジブラルタル海峡を通過する時は日本の津軽海峡よりも狭かった」と船員が言った。哲夫は津軽海峡をソ連に行く時に通過したし、オランという地名はカミュの小説「異邦人」に出てくるので知っていた。でもこの時、哲夫はアフリカに行く事など、少しも考えていなかった。

明くる朝、哲夫は一人で街に出て、王宮に向かった。イタリア国王サルディーニャの住まいで有り、「鏡の間」が有名で、王座が置かれた「謁見の間」にはバン・ダイクの「カテリーナ・バルビ・ドゥラッツォの肖像」と「王の寝室」の「磔刑」が有った。そこから東に歩いて、ストラーデ・ヌオーヴォという場所のガリバルディ通りには左側に「白の宮殿」、「ドーリア・トゥルシ宮、右側に「赤の宮殿」、「ドーリア宮」が並んでいた。「赤の宮殿」にはグエルキーノの「クレオパトラの死」、デューラーの「若者の肖像」が有り、「白の宮殿」にはハンス・メムリンクの「祝福を受けるキリスト」とルーベンスの「ビーナスとマルス」が有り、ドーリア・トゥルシ宮にはバカニーニが愛用したバイオリンの「グァルネリ」と「カノン」などが展示されていた。それからスピノーラ宮殿を通ってフェラーリ広場に行き、ドゥカーレ宮殿やサン・ロレンツォ教会を見て、コロンブスの家に行った。ここはコロンブスが少年時代を過ごした場所で、コロンブスの遺品が展示されていた。

次の日の朝、哲夫は、ユースホステルを出るとブリンチペ駅に行き、列車でフランスの国境に向かった。列車はサンレモを過ぎて国境を超えると、フランスのニース駅に着いた。哲夫は荷物を駅のロッカーに入れると、案内所で地図を貰い、駅前のパイヨン川を渡ってマティス美術館に行った。十七世紀に建てられた赤レンガの建物で主にニースで描かれたマティスの絵画が展示されていた。その後、哲夫はシミエ通りを南に歩いて、シャガール美術館に行った。シャガール美術館はマティス美術館とは正反対で真っ白い三階建ての建物で、シャガールの絵画や他の色々な作品が展示されていた。それから哲夫は、リボリ通りを南に歩いて、海岸通りとの角にある映画で有名なネグレスコホテルに行った。哲夫は、そこのカフェテラスでシャンパンを飲みながら、ニースの海岸をいつまでも眺めていた。ニース駅に戻ると、哲夫はロッカーから荷物を出して、夜行列車でスペインに向かった。途中、マルセイユで乗り換えて、国境の町セルベールからスペイン側のポル・ボウに入る時に車輌の交換をした。実は、フランスのレールとスペインのレールの幅が違い、スペインのレールの方は幅が狭く、その理由で車輌を交換しなければならなかった。そして、列車は朝焼けの中、バルセロナ・フランサ中央駅に着いた。哲夫は案内所で地図を貰うと、ユースホステルはサグラダ・ファミリア聖堂のそばだった。哲夫はリックを背負って、サン・ジュアン通りを北上し、途中テトゥアン広場を通り抜け、ユースホステルに着いた。古い四階建ての建物で、チェックインすると、部屋は三階の二段ベッドの四人部屋だった。哲夫はロッカーに荷物を入れて、サグラダ・ファミリア聖堂に向かった。聖堂の前に立つと、その大きさに驚いたが、上の部分はほとんど未完成だった。哲夫はガウディが自ら指揮を執って完成した部分を見学した。正面の左側から「エジプトへの逃避」、「東方三博士の礼拝」、「羊飼いの礼拝」の彫刻が並び、真上には「天使の合唱隊」その上に「受胎告知」さらに上に「聖母マリアの戴冠」の彫刻が有り、その上に「生命の泉」が鎮座し、その上に完成すれば計十八本になるという鐘桜が聳え建っていた。哲夫は只々そのスケールの大きさに圧倒されるばかりだった。それから北上してグエル公園に行った。ガウディが作った公園で、正門にある守衛小屋は童話「ヘンゼルとグレーテル」に出て来るお菓子の家をイメージした物で、正門から市場へと通じる長さ二十メートルの大階段は、途中に有名な「トカゲの噴水」が有り、上った所の市場の上の中央広場は「ギリシア劇場」と名づけられ、人体から断面の形が決められたという有名な波形のベンチは、機能性と美術性を兼ね備えていた。市場はギリシア神殿をイメージしたドーリア様式の柱が上の中央広場を支え、天井飾りは太陽と月を表していた。それから、哲夫は展望台の上に三本の十字架が立つゴルゴダの丘に上った。公園の最も高い場所に有り、バルセロナの街や地中海が見渡せた。ゴルゴダとはキリストが磔にされたエルサレムの丘の事である。そして哲夫はガウディの家に行き、バルセロナの街に戻った。グラシア通りを南に歩くと、ガウディが初めて手掛けたアルハンブラ様式のカサ・ビセンスを通って、カサ・ミラに出た。これもガウディの作品で、石を積み上げた様な独特の形状から石切り場を意味する「ラ・ベトレラ」と呼ばれ、徹底的に直線を排除し歪んだ曲線を主調とするこの建物は山の尾根がテーマで、屋上の煙突は山の尾根から突き出た峰々を表していた。哲夫はその後南に下って、カサ・パトリョ、カサ・アマトリエール、カサ・リェオ・イ・モレラ、カサ・カルベを見た。そして、ライエタナ通りを下ってカテドラル大聖堂に行った。カタルーニャ・ゴシック様式の聖堂には、バルセロナの守護聖女サンタ・エウラリアが眠っていた。大聖堂の横に元王宮のカタルーニャ人彫刻家フレデリック・マレー美術館が有り、王の広場を挟んでバルセロナ歴史博物館が有り、コロンブスがカトリック両王に謁見したテイネルの間を見学した。そこから東に歩いて、ピカソ美術館に行き、「初聖体拝受」、「科学と慈愛」、「ラス・メニーナス」、「鳩」などを見て、かつてはここが海と陸の境で、危険な航海へと旅たつ人々の安全を海のマリアに祈ったというサンタ・マリア・ダル・マル教会に行った。それから、コロン通りを西に歩いて、海洋博物館に行き、ここは元々旧王立造船所だったのでレパントの戦いで活躍したレアール号が展示されているのを見て、地中海に面したコロンブスの塔に行った。塔は高さ六十メートル有り、頂ではコロンブス像が海に向かって右手を上げ、左手にはアメリカみやげのパイプが握られていた。哲夫は展望台まで上ると、バルセロナ港やランプラス通りが見渡せた。そして、レイアール広場に行って、魚介類のパエリヤとカタルーニャの白ワインで夕食を取った。哲夫はユースホステルのベットで何故か行った事のないアフリカの夢を見た。

明くる朝、哲夫はユースホステルを出ると、バルセロナ・フランサ駅から列車に乗ってマドリードに向かった。列車は途中サラゴサ駅で乗り換えて、夕方マドリード・アトーチャ駅に着き、案内所で地図を貰うと、哲夫は地下鉄に乗ってユースホステルに行った。実は哲夫はパリに居る時に、体育館でスペインから上がって来た旅行者に「マドリードに日本人ばかりがたむろしているユースホステルがある」というのを聞いていた。哲夫はヨーロッパではそんな話は聞いたこともなく、パリでも一人か二人、グループでも三、四人は見た事はあるが、十人以上がそれも長い人では一ヶ月以上滞在しているユースホステルなどいままで無だった。それで哲夫は興味を持って、マドリードに行ったら訪ねてみようと思った。地下鉄ラーゴ駅で降りるとカサ・デ・カンポという森の中で、駅前の売店でユースホステルの場所を聞くと、「左手のオリーブの並木道を真っすぐ歩いていけ」と言われた。正面に小さな池が有り、しばらく並木道を歩くと、遊園地に出た。ユースホステルはこの遊園地と同じ森の中で、軍隊兵舎の跡に建てたにしては洒落た平屋建てのコの字の建物だった。中庭がだだっ広く、正面が事務所兼食堂で、我々旅行者が泊まる建物は右側の建物だった。玄関の横の所に、薄汚い洗濯物が干してあり、入口の段の所に一人の日本人が座っていた。哲夫が「やあ、」と声を掛けると、彼は黙って中に入れと手招きをした。中に入ると、教室みたいに部屋が続いていて中に、二段ベッドが四つずつ並んでいた。夕方のせいか所々空いているが、それぞれのベットに日本人が十人程いた。そして、入口の一角に黒いカーテンで仕切られた部屋が有り、哲夫が中に入ると、正面に荷物の入った大きな括り付けのロッカーが有り、左右に二段ベッドが置いてあり、その真ん中にテーブルと椅子が有り、三人の日本人が座っていた。後からさっき入口に座っていた日本人が来て、四人に成った所で、哲夫と挨拶を交わした。どうやらこの四人でこのユースホステルに来る日本人を仕切っているらしく、それぞれに役名が附いていた。ベッドも決まっているらしく、向かって右の下が番長、左の下が副番長、右の上が事務長、左の上が通訳と決まっていた。番長、正式にはマドリードユースホステル日本人学校番長と言い、大抵一番このユースホステルで古く滞在している人がなり、なかには三ヶ月も滞在している者もいた。番長は世襲制で、この番長がユースホステルを出る時は一昼夜パーティーをやり、副番長とビノの盃を交わして番長の座を譲る。副番長は番長が街に酒飲みや女を買いに行っている時などに番長を代行する。すなわちこの部屋には、常時必ず番長か副番長が居るのである。事務長はこのユースホステルの世話役で、新入生、初めてユースホステルを訪ねた人のベットの手配や食事の方法、その他ここでの生活の全てを教える。通訳はこのユースホステルで一番スペイン語の達者な人がなり、他の外人とのトラブルやこのユースホステルの管理人に日本人の待遇改善、もしくは食事の改善などを要求する時に活躍する。この番長室は、我々日本人貧乏旅行者にとっては大変便利なものである。街に出掛けている時やスペイン、ポルトガル、ちょっとジブラルタル海峡を渡ってモロッコなどを短期旅行する時などは、ここに大きな荷物を預けて於ける。要するにただのロッカーがあるみたいなもので、スペインの駅のロッカーは預けて於いても中の荷物が抜き取られる事が有るのでずっと安全度も高いという訳だ。それにお金が盗まれたり、無く成ったりした旅行者にはしばらくお金が出来るまで無料で泊まる事が出来た。哲夫はなるほどと思った。これはヨーロッパ番の互助会、いや救世軍かもしれない。困った人の人助け、いやルーズな人の人助けか、実際助けられてここを出て、アルバイトをしてたくさんのお金を援助していく人もいるらしい。哲夫はとにかく厄介になる事にして、事務長にベッドを案内して貰った。

次の日の朝、哲夫は番長室に荷物を預けたまま、街に出た。まずマルマス広場の王宮に行き、中に入ると、天井画が美しい大階段を上って見た「護衛の間」、「列柱の間」、「ガスパリーの間」、「磁気の間」、「黄色の間」、「饗宴の間」などの豪華さにため息が出た。哲夫は向かい側のアルムデナ大聖堂に行き、フェリベ三世の騎馬像が立つマヨール広場に行った。北面中央にある建物にはスペイン王家の紋章が刻まれ、その下にあるバルコニーは華やかな王家の儀式、闘牛、種々の祭りを見学する為の観覧席だった。それから哲夫は「太陽の門」という街の中心のプエルタ・デル・ソルに行き、デスカルサス・レアレス修道院と王立サン・フェルナンド美術アカデミーを廻って、スルバランの「白衣の修道士」やゴヤの「鰯の埋葬」や「自画像」などを見た。その後、シベーレス宮殿に行き、海事博物館、国立装飾美術館、ディセン・ボルネミッサ美術館を見て、プラド美術館に行った。哲夫はベラスケスの像が迎える美術館正面から中に入ると、ボッシュの「快楽の園」、フラ・アンジェリコの「受胎告知」、エル・グレコの「羊飼いの礼拝」、ベラスケスの「ラス・メニーナス」、ルーベンスの三美神」、ゴヤの「着衣のマハ」と「裸のマハ」などを鑑賞した。そしてレディーロ公園に行き、ガラスの宮殿、ヘラスケスの宮殿と歩いて、アルッフォンソ十二世の記念像の前の池で腰を降ろして休息を取った。それから、ソフィア王妃芸術センターに行き、ピカソの「ゲルニカ」を見て、そばのカフェテリアに入り、生ハムとエビとムール貝のパエリヤとマドリードの赤ワインで夕食を取った。

明くる朝、哲夫がユースホステルの食堂で朝食を食べていると事務長がやって来て、「明日は日曜日なので蚤の市が開催されるから、手伝ってほしい。それと今晩、新入生の歓迎会をするのでよろしく頼む」と言った。それから事務長と色々と話をすると、横浜国大の学生で一年前に学生運動に嫌気がさして日本を飛び出し、ヨーロッパを放浪した挙句物価の安いマドリードに住み着いたと言う。「ここはホステル代も朝晩パンとコーヒー付きで日本円で百円ぐらいと安く、気候も温暖で暮らし易く、貧乏旅行者にとっては天国のようなところなので、ついつい長居をしてしまう」と言った。実はこの施設は、ここカサ・デ・カンポにある国のスポーツ施設の一部で、ユースホステルの反対側の建物は国のスポーツ施設の合宿所に成っていて、この食堂もそもそもは合宿所の食堂なのだ。それで我々旅行者もそのおこぼれに預かっているのだった。哲夫は「解った」と言って、ユースホステルを出た。カサ・デ・カンポを出ると、すぐ川の畔にゴヤのパンテオンが有り、正式名はサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ聖堂と言い、ゴヤによって描かれた天井画「サン・アントニオの奇跡」が有った。それからセルバンテスを記念して造られたスペイン広場に行くと、中央にドン・キホーテとサンチョ・パンサの像が立っていた。そばにセラルボ美術館が有り、東に歩くとロマン主義美術館が有った。その後、コロンブスの像が立つコロン広場に行って、北上してソローリヤ美術館に行き、ラサロ・カルディアーノ美術館に行った。そして東に歩いて、ラス・ベンダス闘牛場に行った。哲夫が中に入ると、ちょうど始まったばかりで、トランペットとタンバリンが鳴り、誰もいないアレーナに牛が登場し、助手たちがカポーテを振り、牛を誘う。ピカドールが登場して牛とぶつかる寸前に牛の首根を槍でつく。パンテリーリョが短剣を牛の背に打ち、槍傷でダメージを受けた牛に活を入れる。マタドールが登場して牛を仕留めるまで、赤いムレータと剣を使って牛を翻弄する。闘牛士のリードで牛が舞い、二者のリズムが一つになると、観客は「オレー」の掛け声を発する。楽隊がパソトブレを奏で、闘牛場全体が興奮に包まれる。そしてマタドールが牛の肩甲骨の間のわずか五センチの急所に剣を突き刺して留めをさす。牛が見事に倒れると観客は白いハンカチを振って喝采を送る。哲夫は一連の闘牛場の動きに興奮していた。ユースホステルに帰ると、ちょうど中庭で宴会が始まる所だった。真ん中にカンテラを置き、その周りに町の酒屋で買ってきた一本十二ペセタ日本円にして六十円の赤ワインのビノが何本も並べられ、十人ばかりが車座に成って座っていた。ちょうど自己紹介が始まったので、哲夫が「半年ばかりヨーロッパを旅行している明大の学生だ」と言うと、他の人も次々と自己紹介をした。ヨーロッパを自転車で旅行しようとして事故に会い仕方なくマドリードに滞在している奴、ヨーロッパを急いで一ヶ月ぐらいで旅行をして、くたびれてこのユースホステルに来て住み着いた奴、北欧で働いて金が出来たので、マドリードで半年ぐらいのんびり暮らすという奴、日本から船でフランスのマルセイユに来て、すぐスペインに入り、このユースホステルが気に入って三ヶ月、船の中から食べては寝ての運動不足で日本にいる時より十キロ太ったという奴、中近東をバスで来た奴、アフリカ大陸をヒッチハイクして来た奴、日本を出て三年目の奴などなかなかの猛者連中だった。酒が入って来ると色々かくし芸の披露が始まった。アフリカに空手の布教行くと言って、空手の形を披露する奴、手品の上手い奴もいる、マドリードでフラメンコギターを習っていてその成果を披露する奴、花柳流の名取りだと言って浴衣と扇子を出して踊ったりする奴、哲夫も仕方なしにフラメンコギターを借りて、ビートルズの曲を演奏した。

次の日の朝、哲夫が目を覚ますと何時も静かなユースホステルがざわついていた。蚤の市に行くための準備をしていたのだ。蚤の市は出店する場所が決まっていないので、早い者は夜明け前から場所取りに奔走する。哲夫たちのグループも先発隊はもう出発していた。哲夫たちも前の晩に番長室に集められた荷物を持つと、すぐに出発した。場所はマヨール広場から南に下りたカスコロ広場で起伏の多い場所だった。七時半、まだ人通りの少ない坂道にもう市が出来ていて、我々八人は坂を下りてまた少し上りになった一番賑やかになりそうな所に品物を並べた。もう使わなくなった品物や荷物、リックが重いから少しでも軽くしようと処分される品物やもうこれから暑い国に行くから要らなくなった衣料などとにかく要らなくなった品物を処分する為の場所だった。とにかく、この蚤の市は何でも売れるわけだ。針のない時計、自転車の車輪だけ、足の一本足らない椅子、穴の空いたギター、フレームが折り曲がったガラスのない眼鏡など、もちろんまともな物もあるがこんな物を買っていってどうすると思うようなガラクタがどういう訳か次々に売れていくのだ。八時過ぎるとそろそろ人がやって来て、九時になると我々の前は人垣でいっぱいになった。哲夫は売るものが無かったので、綺麗なラッピングペーパーで折り鶴を折って実演して見せた。副番長が蚤の市の経験が豊富なのか香具師の口調で「さあいらっしゃい、いらっしゃい。ご用とお急ぎでない方はよーく見てちょうだい。取りいだしましたるこの品物、そんじゃそこらの品物とはわけが違う。遠くは東洋の彼方日本から船や汽車を乗り継いで、たどり着いたがスペインのマドリード、本当は日本の高級品ばかりだが、我々は今旅行中の身、背に腹は代えられぬ。今日は日本の正価の三分の一の価格でお分けしたい。さあ、買わないかい、買わないかい、こんなお買い得品、もう二度とお目にかかれないよ」と口上した。それを通訳が巧みなスペイン語で通訳していった。こんな調子で時計、トランジスターラジオ、カメラ衣服などが次々に売られていき、十一時を少し廻った頃には、広げた大風呂敷の中の品物はほとんど売られてしまった。ちょうどその頃、哲夫の前に一人の女の子がしゃがみ込んで哲夫が折り鶴を折るのをジッと見つめていた。哲夫は最初折り鶴を綺麗な箱に入れて売るつもりだったが他の品物が順調に売れているのを見て、カメラや時計など少し高額な品物が売れるとサービスでただで付けていた。彼女が折り鶴を指差して欲しいというしぐさをしたので、通訳が何か買ったらプレゼントとすると言ったが、風呂敷の中にはもうろくなものしか残って無くて、結局、その折り鶴はプレゼントした。するとその女の子はもの凄く喜んで「ぜひ私の家に来てこの折り鶴の折り方を教えてほしい」と言った。女の子は両親と妹の四人で来ているらしく、両親も頷いて紙に住所と名前を書いてくれた。彼女の名前アンナ・バロールと言い、歳は十六才、住所はカサ・デ・カンポから西に行った高台でオリーブ農家だった。蚤の市の方はもうお昼過ぎには大方品物を売り尽くして、酒屋でビノ数本買うとユースホステルに凱旋した。それから昨日と同じような宴会が始まった。

明くる日は、みんな昼まで寝ていて、哲夫も昼ごろ起き出すと中庭のベンチでくつろいでいた。そこに昨日蚤の市で一緒に販売をした男がやって来て色々話をし始めた。実は、彼は哲夫と同じ明大で、歳は哲夫より二つ上で名前が慎ちゃんと言い、明大の探検部に所属していた。慎ちゃんは哲夫と同じ頃、日本を出発してシベリア鉄道でモスクワまで来て、そこからポーランド、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ルーマニア、ブルガリアと陸路で東欧の国を廻ってトルコのイスタンブールに行き、シリア、レバノン、イスラエルと地中海沿岸をヒッチハイクして、エジプトに入ろうと思ったら戦争で入れず、やむを得ずイスラエルのテルアビブからリビアのトリポリまで船で渡り、アルジェリア、モロッコを通ってスペインのマドリードに来たと言った。慎ちゃんはヨーロッパにぜんぜん興味がないらしく、これからアフリカ大陸を縦断して、南アフリカのケープタウンまで行くという事だった。「これからお前はどうするのか」と慎ちゃんが聞くので、哲夫は「イギリスのロンドンからアメリカに行く」と言うと、「つまらん奴だな、若いうちはもっと冒険をしろ」と言ってこの会話を打ち切った。哲夫は慎ちゃんが立ち去った後もしばらくアフリカ大陸の事を考えていた。

次の日、哲夫は蚤の市で会ったバロール家の農場を訪ねた。カサ・デ・カンポの中を西に向かい、動物園や水族館を通り越してしばらく行くと高台に出た。それを上ったり下ったりして畑の中を行くとバロール家の農場に着いた。農場はけっこう広く門を入ったすぐ左側に母屋が有った。居間に通されると、壁に日本の浮世絵が飾って有った。バロール家の人々は哲夫が訪ねてくれた事に大歓迎だと言って「我々は日本に対して非常に興味が有る」とたどたどしい英語でそう言った。話をすると、実はバロール家は日本と遠い親戚に当たり、親戚に今でも「ハポン」と言う姓の家が有ると言った。哲夫が詳しく話を聞くと、十六世紀始めに日本からスペインに視察団が来て、そのうちの何人かがスペインに残り、スペインのセビリアの近郊に住み着いた者の子孫の一人がバロール家の子孫だという事だった。だから日本の物を見ると何故か懐かしく、蚤の市で折り鶴を見た時に思わず立ち止まってしまった。哲夫は仙台藩の支倉常長の慶長遣欧使節団の事は知っていたが、使節団の何人かがスペインに残った事は知らなかった。それから哲夫はアンナの部屋に行って、折り鶴の折り方を丁寧に教えた。そして、夕食に招かれて楽しい宴を過ごした。哲夫はビノをしたたか飲んで、フラメンコギターを借りると日本の歌を歌った。結局、哲夫はその晩、バロール家に泊まる事に成った。すると夜遅くなって、大胆にもアンナが哲夫のベットに潜り込んで来た。それから哲夫は毎日のようにバロール家通いが始まった。アンナの部屋で色々な折り紙をしたり、オリーブ畑を手伝ったりして、シアッタという昼寝の時間にはアンナと愛を確かめたりして時を過ごした。そして瞬く間に一週間が過ぎた。哲夫はこのまま旅を続けるのか、まだここにとどまるのか迷っていた。南に下ってアフリカ大陸に行くというのも気になっていた。そんな時、アンナの両親から出来るだけ早く婿になってくれという話が有った。どうやら両親は最初からその気で、娘とのことは黙認していたらしい。哲夫は多少後ろめたさが有ったが、婿になる気持ちなど全く無かったので、その日は「スペイン国内を旅行したら必ず戻る」と約束してバロール家を出た。こうなっては一刻足りとマドリードにはいられない。哲夫はユースホステルに戻ると、リックを背負ってリスボン特急に飛び乗った。

そして明くる朝、ポルトガルのリスボン中央駅に降りた。駅の案内所で地図を貰うと、ユースホステル駅のそばのネセシダーデス公園の脇に有った。哲夫は荷物をロッカーに入れると、リスボンの街に出た。まずリスボンの中心的存在のサン・ジョルジェ城を目指した。丘の上にある十一世紀に建造されたムーア様式の城で哲夫は急な階段を上った。城壁の上から見えるリスボンの街並みは絶景で、近くにテージョ川がよく見えた。城塞を下りて、アジュダ宮殿を通って、ジェローニモス修道院に行った。十五世紀に活躍したエンリケ航海王子やバスコ・ダ・ガマの功績を称えて建立した修道院で日本の天正少年使節団が訪ねた事でも有名で、マヌエル様式の過剰なまでの装飾にはため息が漏れた。それから哲夫は、その先のテージョ川に突き出たベレンの塔に行った。おなじマヌエル様式の美しい姿から、テージョ川の貴婦人と称えられるベレン塔は船の出入を監視する要塞として建てられたもので、その名残をとどめる砲台や潮が満ちると水浸しになる牢獄の跡が残っており、王家の居室に接する三階のテラスからは、高さ二十八メートルのキリスト像やクリストレイなどの展望を楽しむ事が出来た。そのそばの川岸に「発見のモニュメント」が有り、船の上にエンリケ航海王子を先頭にしてバスコ・ダ・ガマ、マゼラン、フランシスコ・ザビエルなど三十名の大航海時代の偉人たちの像が並んでいた。そして哲夫は東に歩いて、サンタ・ジェスタのリフトに行った。リフトは「カルモのリフト」とも呼ばれ、カルモ広場の登り坂に有り、高さ四十五メートルの鉄製でどの階もゴシック・リバイバル建築様式で装飾されていた。最上階のテラスからはサン・ジョルジェ城、ロシオ広場、隣のバイシャ・ポンバリーナ地区の素晴らしい眺めが見えた。その後、テージョ川に面したコメルシオ広場に行き、勝利の門やドン・ジョゼ一世の銅像を見て、広場のカフェテリアでポルトガル名物の魚やエビ、イカ、タコのフライとポルトガルワインで遅い昼食を取った。そして哲夫は夜、旧市街のアルファマ地区に行って、酒場でファドの調べに酔いしれた。

次の日の朝、哲夫はユースホステルを出ると、テージョ川をフェリーで渡り、向かい岸のバレイロ駅から列車に乗ってポルトガルの南の街ファロに向かった。ビラ・レアル駅でバスに乗り換え、国境の橋を渡ってスペインのウエルバに行き、そこからまた列車に乗って、セビリア、コルドバを通って、グラナダに行った。哲夫はグラナダ駅で地図を貰うと、ユースホステルは街の中心に有った。チェックインすると、建物は古いが中は清潔で部屋は三階の二段ベッドの四人部屋だった。まだ日が明るいので哲夫はロッカーに荷物を入れると、アルハンブラ宮殿に向かった。長い坂道を上って障壁に囲まれた城に入ると、広いバルタル庭園が有り、その奥に訪れる者を千夜一夜の世界に誘う幻想的なナスル宮殿が有った。小さな扉を入るとまずメスアール宮が有り、宮殿の現存する最も古い部分で、続いてメスアールの中庭、北側にはアルバイシンの丘を望む黄金の間が有り、南側には白大理石ファサードが聳えていて、それをくぐればコマレス宮だった。アラヤネスの中庭いっぱいに造られた青い池が目に涼しく、哲夫は砂漠の民による水の芸術に感動しながら大使の間に行った。ここを過ぎると、十ニ頭のライオンの噴水があるライオンの中庭で、これに面して「アベンセラッヘスの間」、「諸王の間」、「ニ姉妹の間」が有り、奥はリンダラハのバルコニーだった。そこを出ると、カルロス五世宮殿で、左に行くとアルカサバ要塞で見張り台からはアルバイシンの丘が一望出来た。パルタル庭園に戻って左に行くと、ヘネラリフェ離宮で「水の宮殿」とも呼ばれ、アセキアの中庭が美しかった。

次の日、哲夫はユースホステルの近くの王室礼拝堂に行った。礼拝堂はゴシックの流れをくむトルダノ様式で、中央に二つの大理石の墓が置かれていて、右側が両王のイザベルとフェルナンド、左側が娘フワナと夫フェリペだった。それから、カテドラル大聖堂に行き、ステンドグラスと黄金に彩られた主祭壇で、哲夫は拝礼をした。そして哲夫は、北に歩いてアルバイシンの丘に向かった。グラナダ最古の街並みが残る地区で、敵の進入を防ぐ城郭都市として造られた為に道は迷路のように入り組み、街の中心のラルガ広場に出るのに苦労した。周辺は今でもこの丘に住む人々の商店街として活気に満ち、高台にあるサン・ニコラス展望台からは、シエラ・ネバダ山脈を背景にしたアルハンブラ宮殿が美しかった。アルバイシンの北にあるサルバドール広場の東側一帯がサクロモンテの丘と言い、古くからロマ族と呼ばれる人たちが丘の斜面に穴をうがち、暮らしてきた。クエバと呼ばれるサクロモンテ洞窟住居は、冬暖かく、夏は涼しく、哲夫は実際に中に入って実感した。その洞窟住居を利用したレストランが有り、哲夫は迫力のあるロマ族の歌と踊りを見た。そして夜も老けた頃、哲夫は闘牛場の一角にあるタブラオで本場のフラメンコを楽しんだ。

明くる朝、哲夫はユースホステルを出ると、グラナダ駅から列車に乗ってアルジェシラスを目指した。哲夫はまだアフリカ大陸に行くのに迷っていた。昨日の晩も夢の中にアフリカの砂漠が出て来て哲夫を砂漠に誘っていた。とにかく哲夫はアルジェシラスへ行って、ジブラルタル海峡の向こうのアフリカ大陸を見てこようと思った。アルジェシラス駅に着くと、目の前に英国領のジブラルタルの「ロック」が目の前に聳えて、改札を出ると、人の波に乗って目の前のフェリー乗場に流れて行った。哲夫はフェリーに乗ってもまだアフリカのモロッコに行く決心が付かなかった。なぜなら、このフェリーの行き先のセウタはアフリカ大陸でありながらスペイン領だった。哲夫はとりあえずアフリカ大陸に足を乗せて、すぐに引き返せばいいと思っていた。ジブラルタル海峡は潮の流れが早いのにもかかわらず、フェリーに乗った時に微かに見えていたアフリカ大陸が、あっという間に目の前に大きく現れたと思うと、セウタの港に着いた。フェリーを下りると、すぐ前にモロッコの国境行きのバスが横付けにされていて、流石に哲夫もここで決心してバスに乗り込んだ。バスはしばらくスペインの白い家並みが続いていたと思うといきなり砂漠の中の道に変わり、やがてモロッコとの国境に着いた。簡単な検査でパスポートにスタンプを押すとモロッコ側に入国して、待っていたバスに乗り込んで、タンジールに向かった。旧市街、メジナに着くと、海岸のそばのカフェ・ハファに向かった。実は、マドリードのユースホステルにいた時に明大の先輩の慎ちゃんから、もしモロッコに行くのならその店で情報を仕入れたらいい。ヒッピーの溜まり場だから良いに付け悪いに付け色々な情報が集まっていると哲夫は聞いていた。カフェ・ハファはタンジール湾に面した「フェニキア人の墓」のそばに有った。店内に入ると甘い香りが充満していた。イスラムの国はお酒が禁酒だがタバコは自由だ。しかもその材料はほとんどマリファナの原料と同じだった。哲夫がアフリカ大陸に行く懸念も、少しはこれが有った。哲夫はヒッピーの一人に「サハラ砂漠に行くには何処へ行ったらいいのか」と聞くと、「マラケシュからピレネー山脈を越えてザゴラという町に行けばサハラ砂漠の入口になっているはずだ」と答えた。哲夫はその夜、タンジール駅からカサブランカ特急に乗って、マラケシュに向かった。

マラケシュ駅には朝焼けが上る頃に着いた。哲夫はバスに乗ると、マラケシュの中心のジャマ・エル・フナ広場に向かった。そして広場に面した一軒のレストランに入った。ここもタンジールのヒッピーに教えられた所で、二、三人のヒッピーがたむろしていて、やはり甘い香りがした。店のマスターに英語で宿の手配を頼むと、すぐ店の後ろの出口から出て、ホテルに案内した。ホテルはバザールの入口を少し入った所で、絨毯屋の二階だった。ちゃんとしたフロントが有り、部屋はシングルで鍵もキチンと掛かった。哲夫は荷物を部屋に置いて部屋の鍵を掛け、用心のために鍵は持参し、列車を降りてからまだ何も食べてないので、広場に着いた時に入ったレストランに戻って、広場がよく見えるテラスで、クスクスという煮込みチャーハンとケバブという肉の串焼きで食事を取った。食事が終わって、チャーを飲みながら下の広場を見ると、アクロバットやベルベルダンスや蛇使いなどの大道芸人や水売りが賑やかな音を立てて演じていた。それから、哲夫はバザールの中に入って行った。バザールの中は迷路のようになっていて、織物、香辛料、肉や野菜、装身具、スリッパ、家具、革製品、木彫品、銅製品、陶器、カーペットなどあらゆる品物が並んでいた。

次の日の朝、哲夫はリックを背負ってザゴラ行きのボンネットバスに乗った。まずバスはアトラス山脈を越えて、ワルザザートという町を目指した。マラケシュを出たばかりの所は、まだ並木道などが続くが、三十キロ程進むと山道になり、谷間には川が流れ、日干しレンガの家並みのベルベル人の村が山肌に張り付くように現れる。タデルトのティシュカ峠の村を過ぎると、いよいよここからが本格的な山道になる。最高地点はティズ・ン・ティシュカ標高二千二百六十メートルで、こんなところにも休憩所が有った。高山の雄大な景色はアグイムの手前で終わり、そこからは土の色も黄土色に変わり、ワルザザートに近くなればなるほど砂漠に近づいた事がはっきりとわかる風景に成った。ワルザザートに入ると、何もないだだっ広い土漠の中にいきなり明るい町並みが開けた。ワルザザートで昼食を取って出発すると、バスはいきなり岩だらけの険しい山道に突入した。哲夫はグランドキャニオンさながらの大景観に圧倒されているうちに、休憩地のアグデスに着いた。そこから先は風景が一変して、緑豊かなオアシスの連続に変わる。ここからがドラア谷と呼ばれる所で、左側にキラキラと光るドラア川が流れていて、荒涼とした風景の中に現れては消えていく緑の村を幾つも通り抜けてしばらくすると、殺風景な荒野に突然石造りのゲートが現れ、これがザゴラの町の入口だった。ゲートを入ると道が一本だけ真っすぐに伸びていて、両側には土で固めた様な建物が並んでいて、その一つの建物の前でボンネットバスが止まった。そしてここがバスの終点で、この建物がザゴラでたった一軒のホテルだった。哲夫がホテルに入るとフロントに老人がいて、英語で話かけると全く通じずたどたどしいフランス語で話すと辛うじて通じた。実は、この辺りは元々フランスの植民地で、ここにも数年前まではフランスの外人部隊の基地が有ったという。哲夫は「ここはオアシスの町で川も流れていて、緑豊かな所だが、もっと荒涼としたサハラ砂漠は何処に行けば見られるのか」と聞くと、老人は「この町から百キロ程南に行った所にマホメドという町が有り、そこがサハラ砂漠の入口だから、そこまで行けばそんな砂漠が見られるだろう」と言った。「それでは、そこに行くのにはどうしたら行けるのか」と聞くと、「交通機関はラクダぐらいしかない」と言う。哲夫が困った顔をすると、「そのマホメドの近くに外人部隊の基地が有り、一週間に一度、そこに食料や他の必需品を運ぶトラックが行っている」と言う。そして「明日がちょうどそのトラックが来る日だ」と言った。哲夫は喜んで「何とかそのトラックに乗せて貰えないか」と頼むと「荷台だったら誰でもただで乗せてくれる」と言う返事だった。そこまで話して、この老人がこのホテルの主人と気が付いて、哲夫は泊まる手続きをした。

明くる朝、ホテルの前で待っていると、トラックが砂ぼこりを挙げながら哲夫の前に止まった。さっそく荷台に乗り込み、トラックは瞬く間に土漠の中に走り込んで行った。しばらく走ると砂ぼこりと直接照らす太陽の暑さに耐えられず哲夫は荷台のシートを頭から被った。すると、一時間も走るとTシャツから靴の中まで汗でびっしょりになって、思わず靴を脱ぐと靴下を絞って足を荷台に放り出した。そしてまたシートを被って荷台の上でジッと我慢をしていた。どれくらい経ったのだろうか、ついウトウトしていると、トラックはガタンという音を立てて急に止まった。どうやらマホメドの町の入口らしく、哲夫はそこで降ろされた。熱い。とにかく熱い。時間はお昼過ぎぐらいだろうか。風は全くなく、太陽が真上に有って、辺り一面、何にもなく、遠くに微かに城砦が見えるだけで、五、六メートル先は陽炎でボーとしている。足元は赤土で、所どころ石ころが転がっているだけの一目一草ない土漠だった。哲夫はしばらく何もせずにそこに立ち尽くしていた。それでも最初はその暑さが心地良かった。しかしその快感も長くは続かなかった。日本の太陽と比べ物にならないくらいの強い太陽はその暑い快感をすぐに苦痛に変えてしまった。その時哲夫はビーチサンダルを履いていた。さっきトラックの荷台にいる時、熱くて靴を脱ぎ捨て替わりにビーチサンダルを履いていてそのまま降りたためだった。そのビーチサンダルのゴム底がベットリと溶けていくのがよく分かった。汗が熱い。とにかく吹き出した汗が熱いのだ。哲夫は周りをグルっと見回した。辺りは相変わらず何もなく、釈然としていて、時々急に吹く熱風が陽炎を消したかと思うと、今度はそれが砂煙のようになって完全に視界を遮ってしまう。目を開けている事が出来ず、砂が顔に当たって痛い。しかしそれも二、三分の事で、また元のボーと熱い沈黙の土漠に戻ってしまう。そんな中で、薄目を開けながら、斜め前方にあるマホメドの町を見る。小さな町だ。周りが赤土の城砦で囲まれている。とにかく日陰に入らなければ、熱さで殺されてしまう。哲夫はそう思い、ゆっくりとマホメドの町の方へ向かって歩き出した。四、五百メートル程あるだろうか。それが哲夫にはヤケに遠くに思えた。足を引きずるようにして十メートルも歩いただろうか、いままで伸びきっていたビーチサンダルの鼻緒がプツンと切れた。仕方がないのでその場に腰を下ろして、首にぶら下げていたドタ靴の中から、もうとっくに乾いた厚い綿の白い靴下を取り出して、砂ぼこりで真っ白に成ってしまった足を手で叩いて、砂ぼこりを落して足を入れた。心地良い。ふやけてしまった足が真綿でくるむように心地良い。しかしそれも一時の事で、もう、足の指の間からは汗が吹き出して来る。もう五、六分もしたら、さっきと同じ様に靴下はビショビショに成ってしまうだろう・そんな靴下を履いた足をカラカラに乾いた足に入れてみた。このドタ靴は底が登山靴のように厚く、ギザギザに波うっていて足首のところまでヒモで編み上げるように成っているアメリカ兵の軍靴で、日本のアメ横で買った物だが、この半年余りヨーロッパ中を歩いて来たシロ物だ。まず先に左足の靴ひもを結んで、その後だるそうに右足の靴ひもを締めた。哲夫は左ききである。そしてゆっくり立ち上がると、赤土の町目掛けて歩き出した。

町まで半分ぐらいの距離を歩いただろうか、突然左足がグニャと変な感じで何かを踏み付けた。驚いて左の足元を見ると、長さ十センチぐらいの小動物が潰れ掛けながら微かに動いていた。砂ぼこりで白く覆われているが、ところどころに赤いものが見える。

「サソリだ」

哲夫はそう思った瞬間、背中にスーと寒いものが走っていくのがよく分かった。哲夫は慌ててその場を飛びのくと、急ぎ足でマホメドの町に向かった。歩きながら、今踏み潰したサソリの事を考えていた。確かに毒サソリである。刺されでもしたらほとんど助からないとまで言われている猛毒を持った奴だ。もちろん、哲夫は「アフリカの砂漠に行ったら、毒サソリに注意しろ」と何かの本で読んで知ってはいた。しかし、これが現実に起こってみて初めてその恐ろしさに今さらながら驚くのである。もし四、五分前にビーチサンダルから靴に履き替えていなかったらと考えると、思わず身震いがして熱いだるいという感覚など忘れてしまったかのように、哲夫は走り出していた。

マホメドの町は周りを赤土で盛った城砦で囲まれていて、中に入ると、やはり赤土の泥で固めた壁に、同じような泥を重ねた乳房型の屋根をチョコンと載せただけの家が二十軒程ある小さな町だ。哲夫は城砦の門を潜り抜けるやいなや城壁の裏側に成った部分に倒れるようにして座り込んでしまった。

気持ちいい。今までの熱さが噓のように、涼しくて気持ちがいい。ヒンヤリとした風まで感じる。肩から降ろして、両足を投げ出した前方に放り出してあるリックのポケットからタバコとマッチを取り出して火を付けると、空気が乾燥しているからマッチの炎が勢い良く燃えて、硫黄の匂いがヤケに強く鼻につく。そしてタバコの煙を力いっぱい吸い込むと、しばらくの間、息を止めておいて、煙が身体じゅうに染み込んでいくのを確かめるようにして、それから勢い良く吐き出す。

タバコがうまい。こればっかりは専売公社の宣伝に従うざるを得ないくらいタバコがうまい。いつか何かの対談で鳶の親方が「近頃の若え者はくわえタバコで仕事をしやがるが、あれはいけねえよ。タバコって奴は一つの仕事が終った時の区切りに吸うもんだ」などという言葉が急に思い出されて涙ぐんだ。

とにかく涼しい。リックのポケットから携帯用温度計とレモン一個を取り出して、温度計の蓋を開けて目盛りを追うと、何と摂氏四十三度でこの涼しさでは信じられない。壊れているのではないかと日の当たる所に差し出すと、温度計の針が摂氏五十度までしかない目盛りをとうに越してしまい、メーターいっぱいまで行ってしまった。これでは日陰が涼しいはずだと変に納得しながらレモンをかじった。生暖かい酸っぱさが口の中に広がり、それでもカラカラに乾いた口の中には貴重な水分だった。

哲夫は何でこんなところまで来てしまったのか、考えていた。そもそもの始まりは、ジェノバのユースホステルで日本の船員から、モロッコで会った日本の青年がアトラス山脈を越えてサハラ砂漠を横断する話からだ。その青年の話では、砂漠を絶賛していた。「ヨーロッパなんて日本と同じで、何にもないさ。みんな文明という中の噓っぱちさ。アフリカを見ろよ。そこには失われた自然が有る。我々がとうの昔に忘れっちまった自然の誕生が有り、自然のそしてその中の人間の躍動が有り、自然の安らぎがあるんだ。第一太陽が違う。あの砂漠の地平線からゴーゴーと音を立てて昇って来る太陽が有り、そしてあの地平線の彼方に静かに音もなく静かにスーと沈んでいく太陽があるんだぜ。その太陽を見ただけだって、自分が生きて来て良かったという生まれて初めて味わうあの本当の感動に出会うさ。あの太陽に感動しねえ奴なんて人間じゃねえ。そんな奴は旅をしていても生きていてもしょうのねえ奴さ」哲夫はこの話に共感していた。しかしそれだからといって行動に移すとは考えられなかった。そしてマドリードのユースホステルで慎ちゃんに同じような話を聞いた時も、それほど心を躍らせなかった。しかしマドリードで二週間、怠惰な生活を送っているうちに少し自分を変えてみようと思い、迷いながらのアフリカ行きに成った。それがアフリカ大陸に足を入れた瞬間、関を切ったように砂漠へ砂漠へ引きつかれるようにここまで来たのだ。

哲夫はこのマハメドに三日いた。ホテルは無かったけれど、町の集会所のようなところに泊めて貰った。そして砂漠の地平線から日が昇り、砂漠の地平線に日が沈むまで一日中何もしないで眺めていた。三日目にザゴラに帰るトラックが来て、哲夫はザゴラに帰って行った。マハメドに居る間、哲夫は考えていた。日が昇る時も、暗闇の中から少しずつ明るくなって、太陽が半分顔を出すと実に大きく、思わず手を合わせて拝んでしまうほど美しく荘厳で、太陽が全部の姿を表すと哲夫の身体から力がみなぎってきて希望に溢れ、日が沈む時もそれは真っ赤な大きい太陽が徐々に沈んで行き、それを見ていると涙がこぼれてきて思わず感謝の気持ちを表さずにはいられなかった。旅をするという事は何かを造るという事はなく、なにかを吸収して感動する事であれば、その感動の究極がここにあるのかも知れないとその時哲夫はそう思った。

哲夫はトラックでザゴラに戻ると、一晩老人のいるホテルに泊まり、ボンネットバスでマラケシュに帰った。フナ広場のホテルに一泊すると、バスでフェズに向かった。実は、哲夫はモロッコに入った時に、隣のアルジェリアにも行こうと思った。もともと、哲夫の頭の中には、北アフリカというとカミュの「異邦人」と歌で歌われた「カスバの女」の外人部隊しか浮かばなかった。サハラ砂漠に行くと言った時に、当然サハラ砂漠はアルジェリアだと思い、ザゴラに外人部隊の基地が有ると聞いた時には当然アルジェへの道が有ると思っていたので、ザゴラに行った時、そのままアルジェに抜けようと思った。しかしザゴラはモロッコ領で、そこからアルジェリアに行く道はなく、仕方なくマラケシュまで戻って地中海沿いにアルジェリアに行く道しかなかった。夕暮れにバスはフェズの街に入った。バスターミナルがフェズ・エル・バリ旧市街の前だったので、哲夫はすぐにネジャーリン広場に行ってマラケシュのホテルの主人に紹介されたホテルに行った。ホテルはバザールの一番賑やかな所で、哲夫はその迷路のようなバザールの中で、レストランに入ってチキンのタジン煮込みとハリラスープで夕食を取った。

次の日の朝、哲夫はバスでウジタに向かい、お昼にはアルジェリアの国境に行った。モロッコの税関で簡単にスタンプを押しただけで出国すると、アルジェリアの税関に行った。税関はけっこう人々が並んでいて混雑していたが、哲夫をみたいな旅行者は少なくほとんどがイスラム人の家族だった。しばらく待たされて哲夫の番が回ってきた。哲夫がパスポートを提示すると、審議官はしばらくパスポートを眺めていて、それからパスポートを返すとそばの個室を指差してそこに行けと合図した。哲夫が中に入ると、六畳ぐらいの部屋で真ん中にテーブルと向かいあった椅子が置かれていて、窓は入口のドアに付いているだけだった。その後、一時間ぐらい放っておかれ、時々窓の外に人影が見えるくらいで何もなかった。流石に哲夫も困ってしまい強くドアを叩くと、すぐに制服姿の二人の男が現れて、哲夫のリックや身体に触れてカメラや腕時計を見て何か早口のフランス語で言った。何となくお金の事を言っていることは分かったが哲夫は分からない振りをした。実は、タンジールのヒッピーからアルジェリアは旅行者には簡単に短期ビザを出してくれるはずだし、もしお金を要求されても次々に金額を上乗せしてくるから、絶対に払うなと忠告されていた。哲夫も変な正義感からワイロなど絶対払う気持ちは無かった。二人が部屋を出ていくともう誰も表れる気配はなく夕方になると、二人の警官が現れて哲夫を留置場に連れていった。そして鍵をかけられ、そのまま朝まで放って置かれ、哲夫は不安な夜を過ごした。

明くる朝、九時頃に成って哲夫は突然昨日の取調室に戻された。そして朝食が運ばれ、コーヒーとパンの他にオムレツまで付いていた。しばらくするとここの所長らしいかっぷくのいい男が現れて流暢な英語で、昨日、自分がいなくて留置場に泊め置かれた事をわびた。現在、イスラエルとエジプトの戦争が隣のチュニジアに飛び火して、アルジェリアとチュニジアの国境が閉鎖され、その影響でモロッコの国境にも厳重な警戒が引かれている最中だという訳で、君に詮議が掛かったという訳だ。今朝、ここに来てみると日本人が捕らえられていると聞いてビックリして、日本人がスパイのようなまねをする訳がないと思い、すぐ釈放をするように手続きをした。「私が昨日留守にしていた為に大変な迷惑を掛けて心よりお詫びする」と言って、直ぐにパスポートにビザのスタンプとサインをしてくれた。そして、近くの街のトレムセンまで送るように指示した。それから哲夫はトレムセンのバスターミナルで降ろされると、直ちにオラン行きのバスに乗った。哲夫は考えていた。所長はああ言ったものの、税関の奴らは哲夫が頑固にワイロを渡さないので、所長のいないのをいい事に懲らしめの為に哲夫を一晩留置したのだと思った。カメラや腕時計を指差して何か言っていたのも、今になって思えばお金の代わりとしてよこせという要求だったのだ。哲夫はとんだ国に来てしまったとこの国はさっさと退散した方が良いと思った。といってせっかく苦労して入国したので何も見ないで退散する訳にはいかないので、取り敢えず最初の目的のオランに行く事にした。哲夫はオランのバスターミナルでバスを降りると、オランの港に向かった。実は、オランの事はジェノバであった日本の船員からオランに行ったら港の知り合いのホテルに行けと言われていた。そこは日本の船員のたまり場らしく、哲夫が訪ねるとロビーでニ、三人の日本人が座ってビールを飲んでいた。イスラム圏はアルコールが禁止だが、どうやらここだけは別のようだった。フロントのアルジェリア人も少し日本語が分かるらしく哲夫に簡単な日本語で応対した。哲夫が砂丘の海岸でそばに汽車のレールが引かれているところはないかと聞くと、彼は地図を出して丁寧に場所を教えてくれた。哲夫はチェックインすると、部屋に荷物を置いて、バスに乗って目的地の海岸に向かった。バスは緑の並木道を通って、しばらくすると海岸通りに出て、いつの間にか砂丘の中にいた。哲夫はバスを降りて、海岸の方に歩いて行くと、一本のレールが現れて遠くから汽笛の音が聞こえるので、そこに立ち尽くしていると、やがて貨物列車がやって来た。哲夫はこの長い貨物列車が通り過ぎるまで、ジッとその姿を眺めていた。そして、貨物列車が遠ざかると、哲夫は砂浜の海岸に向かって歩き出した。実は、このレールが引いてある場所は映画「アラビアのロレンス」でロレンスがアラビア人の兵隊を率いて列車に乗ったトルコ軍を襲撃する場面を撮影した所で、それがオランの郊外だと聞いていたので、訪ねてみようと思ったのだ。そして砂丘の海岸に立つと、哲夫は自撮りで海を背景に砂丘の上に立つ自分を撮った。ちょうど、真夏の太陽が哲夫を照りつけ、カミュの「異邦人」の中で、ムルソーが正午の砂丘の上で頭上からジリジリ照らす太陽に、眉毛に溜まった汗が目に流れ、目が見えなくなり、あたりの静か過ぎる沈黙に耐え切れずピストルを引く場面を思った。そしてその晩、日本の船員と酒を飲みながらこの国から先の話を聞くと、チュニジアへもエジプトにも陸路も海路も入れず、ただ一つ入国する方法はヨーロッパの首都からそれぞれの国の首都に空路で入るしか方法はないという事だった。結局、一番いい方法は今来た道をモロッコに引き返すか、ここからスペインのアルメニアの港に行くしかないと言われて、哲夫はアルジェリアの牢屋に入った税関に二度も行くのも嫌だったので、スペインのアルメニアに船で行く事にした。

次の日、哲夫はオランの港から船に乗って、スペインのアルメニアに行った。アルメニア港に着くと、簡単な入国審査をしただけで入国し、列車に乗ってグラナダ経由でマドリードに向かった。そして、マドリードには降りずに北の大西洋に面したサン・セバスチャンを夜行列車に乗って目指した。サン・セバスチャン駅に朝着くと、プラヤ・デ・スリオラ海岸の安ホテルに宿を取った。そして、一日中砂浜の寝椅子に横たわって過ごした。実は、哲夫はアフリカのオランにいる時、ある決心をしたのだ。アフリカに入った時、モロッコでこのままアルジェリア、チュニジア、イスラエル、レバノン、シリア、トルコと慎ちゃんが通った逆コースを行って、トルコのイスタンブールからロンドン経由でアメリカに行く予定だった。しかし、アルジェリアに入った所でその計画は戦争で挫折してしまった。確かにサハラ砂漠の入口で砂漠の感動もあじわったし、オランの海岸でもカミュの北アフリカの無情にも触れることは出来たが、まだ少しもの足りなかった。哲夫はこの六か月ヨーロッパを旅行して、風景、風俗、習慣の違いに触れ、時々触れる人情にも心を動かされ、安らいだにせよ、自分をとことん打ちのめしたり、とことん感動させたりするものには出会わなかった。それをアフリカに求めようとして、途中で終わってしまった。そこでロンドンに行く前に、もう一度働いてみようかと思った。実際、アメリカに行って旅行するには、もうお金は足りなかったし、スペインから出した親父への手紙でも、パリで前と同じ様に取引業者からお金を受け取れる準備の依頼はしていた。しかし、それでは物足りないのでフランスのボルドーで働くことにして、パリにはもうよらないと断りの手紙を出しだ。マドリードのユースホステルにいた時、九月、十月はブドウの収穫時期で人手はいくらあっても足りないと、もうこの時期にはユースホステルからも何人かが働きに出向いているはずだった。サン・セバスチャンの海岸の安ホテルに行けば、どこかのシャトーの募集の案内が掲示板に貼ってあるはずだと教わってきたのだ。案の定、ホテルの掲示板に募集の案内の紙が幾つか貼って有り、哲夫はその中のトラクターの運転手の貼り紙を剝がして来ていた。そういう訳で哲夫は浜辺で寝転んで休息を取っていたのだ。そして、夕食はサン・セバスチャン名物のフォアグラトリュフとほほ肉の赤ワイン煮込みと白ワインチャコリだった。

明くる朝、哲夫はサン・セバスチャン駅から列車に乗って、ボルドーに行った。ボルドー・サン・ジャン駅に下りると、案内所で地図を貰い、バスに乗って哲夫が働くシャトーが有るサンテミリオン地区に向かった。サンテミリオン地区はボルドーの街から東にドルドーニュ川を登った高台の広大なブドウ畑の中に有った。シャトーで哲夫はパスポートと国際運転免許証を提示すると、日本人を雇うのは初めてだが日本の浮世絵は好きだとオーナーが綺麗な英語で言った。その日から哲夫のアルバイトが始まった。午前中、広大なブドウ畑をトラクターで回って収穫し、午後はシャトーの醸造所にブドウを大量に入れる作業をした。哲夫が滞在中の日曜日にサンテミリオンのブドウ祭が開かれ、「ジェラード」と呼ばれるシャトーのオーナーたちの行進があり、赤いローブをまとったオーナーたちが誇らしげに行進していくのを見物し、村の広場では民族衣装を着た数人の若い女の子が、大きな樽の中に入って、裸足で摘んだばかりのブドウを足踏みした。そして夜は、村中でワインを振る舞い飲めや歌への無礼講で一晩中騒いでいた。そんな暮らしが続いて、一ヶ月は全く間に過ぎてしまった。哲夫は過分なアルバイト料を手に入れると、ボルドーを後にして列車に乗って、パリ経由でカレーに行き、ドーバー海峡をフェリーで渡ってイギリスのロンドンに着いた。そして、アメリカのヒッピーや日本人の貧乏旅行者がたくさんたむろしているサウスケンシントンのユースホステルに向かった。ユースホステルにはマドリード程ではなかったが四、五人の日本人がいて、パリの体育館にいた日本人もいた。哲夫が彼に何処にいたのか聞くと、哲夫と同じ様にブルゴーニュでブドウの収穫をしていた。

次の日から、哲夫のロンドン観光が始まった。とにかく一番、最初に大英博物館に行った。本来ならばエジプトに行ってピラミッドを見るはずだったのが、戦争で行けなくなったのでせめてロンドンですこしはそのうっぷんを晴らそうと思った。正面玄関を入って一階の左側にエジプト関係の物が有り、ミイラやオベリスクなどたくさんの物が並んでいた。

次の回廊が中東関係でメソポタミアの宮殿の物やアッシリアのライオン像などが並び、次の回廊はギリシャローマ時代の物でパルテノン神殿の物やローマの遺跡の掘出し物が並んでいた。北側にはアメリカ、メキシコ、その奥にはアジア、中国のたくさんの遺品が有った。

二階の右側にはヨーロッパ関係の物が並び、左側には大英帝國とその植民地の物が並び、北の二階の奥には日本の浮世絵や印籠などが有った。そして、一階の左奥のレストランに戻って、カレーで昼食を取った。それからコベントガーデン、ピカデリーサーカス、トラファルガー広場を通って、バッキンガム宮殿に行き、衛兵交代を見て、ビックベン、国会議事堂と見て、ウエストミンスター寺院に入った。すぐ右側に戴冠式の椅子が有り、身廊はイギリス教会で最も高い三十一メートルの天井のアーチが見事で、哲夫は主祭壇に跪いて拝礼をした。その後、シティを通って、セント・ポール大聖堂に行き、拝礼をして、ロンドン塔に行った。中庭に入って、処刑場跡や甲冑や拷問具の展示室などを見て、自撮りでタワーブリッジを撮ったりした。

明くる日は、ロイヤルアルバートホールからハイドパークを抜け、シャーロックホームズの館を見て、リージェンツパークに行き、ビートルズのレコードジャケットで有名なアビー・ロードに行って自撮りをした。その晩、パリの体育館で一緒だった日本人ともう一人の日本人の三人でサウスケンシントンのパブに行った。そして、ギネスビールを飲みながら話すと彼はインドから中近東をバスで上がって来たと言った。今、イギリスはインドやネパールがブームでヒッピーやビートルズがインドに行ったという話は聞いていたが、実際に中近東を通って来た日本人に会うのは初めてだった。哲夫は俄然興味が湧いてきて、メモを取ったりして詳しく話を聞いた。彼の話だと、確かに日本人はこのルートは少ないがヨーロッパやアメリカ人は結構行ったり来たりしているという話だった。インドのカルカッタからデリー、パキスタンのラホール、ペシャワール、アフガニスタンのカブール、カンダハル、ヘラート、イランのメシェド、テヘラン、トルコのタブリッツ、アンカラ、イスタンブールとその間はバスが通っていて、それぞれの街にもヒッピーの宿や連絡所が有り、期間は一ヶ月も有れば十分だという事だった。パリで一緒だった彼は、シベリア鉄道で帰る予定をしていたが、その話を聞いて俄然中近東経由で帰ると言い出した。おまけに哲夫に「もし日本に帰るなら一緒に中近東経由で帰らないか」と誘った。哲夫は迷い始めていた。ボルドーで働いたお蔭で、航空券は持っているからアメリカを旅行するには十分なお金は有った。それにアメリカは広いからバスや鉄道という訳には行かず、せいぜい飛行機でニューヨーク、ワシントン、シカゴ、ロスアンゼルスぐらいに寄って帰国するだけだった。それでは何故か物足りないし、アメリカだったらいつでも仕事で来られるような気がした。結局、哲夫はロンドンで数日間、シェイクスピアやオペラやミュージカルなどを見て過ごした。そして、ロンドン近郊のウインザー、オックスフォード、ケンブリッジなどを訪ねてから日本にいる親父に手紙を書いた。中近東経由で日本に帰る。完


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