第三話(最終話)
◇
翌朝、眠りこけてる龍一を置いて麗華は枝打ちに出かけた。テーブルにはメモを置いてきたし、滅多にしない鍵もかけておいた。後はレポーターが起こさないのを祈るばかりだ。
枝打ちは秋の彼岸から春の彼岸の間に行う。
外国では作業のしやすい夏に行うところもあるというが、日本では一般的に冬に行う。春になる前に終わらせてしまうのだ。
早くしなければすぐに春はやって来てしまう。
作業のしやすい、春や夏、秋の始めに行うのは木のためによくない。
もし雨が続けば切り口から水が入り木が腐ってしまうのだ。それに五月から八月は木が一番成長する時期で、森を育てる林業家が子供である木の成長を邪魔する訳にはいかない。
枝打ちはただ枝を切ればいい訳ではない。
枝は葉が集めた養分を幹に送るパイプの役目をしている。
しかし木に茂る葉のすべてが光合成をしている訳ではない。虫に食べられるのを計算しているかのように余力を残しているのだ。
杉なら三分の二、檜なら二分の一程度、そのあたりにある力枝と呼ばれる一番張っている枝の下なら切っても成長にほとんど影響はない。
ただ、この力枝を切ってしまうと木の成長は極端に悪くなる。
だから年輪を緻密に、密度のある木を作りたいならこの力枝を切ってしまえば良いのだ。
麗華は使いなれたナタを手に、するすると木を登っていく。
長さ二十メートル近い縄の両端には棒が結びつけてある、このブリ縄と呼ばれる縄を上手に使い登っていくのだ。
すねには藤ハバキと呼ばれる山藤を編んだものが結ばれている。この藤ハバキは枝打ちの名人が使用していたものを真似て作ったものだった。身につけているとすねを傷めない。
そして履いているのは足袋。普段森を歩く時は革の作業靴だが枝打ちをする時には足袋が欠かせない。
いま登っている木はまだ七年目の、初めて枝打ちをする木だから力枝は切り落とさない。
木は植えてから小学生になる頃に初めて枝打ちする。
その木をどんな木にしたいのか、真剣に考えて枝打ちをしなければならない。
他のことを考えながら枝打ちをすれば、大怪我をしてしまうだろう。
まず下から七十%ほど切る。
木は上に向かって成長していく。その自然の流れを無視してナタを入れると切り口が汚くなるのだ。入れ終ったら今度は上から残り三十%を入れる。最後にチボと呼ばれる刃先にある、刃のない部分でちょんちょんと叩き枝を落とす。
枝の根元を残してしまうとそこからまた枝が生えてしまうし、かといって深く切ると木全体を痛めてしまう。
この枝打ちで木の価値や値段がほぼ決まってしまうのだ。
麗華は始めてまだ八年。
近ごろやっと思い通りに枝打ちできるようになったが慎重に作業をしないとすぐ深く切ってしまう。
麗華は同じ要領で次々に枝打ちしていく。
枝打ちをし終ったら、体を逆さにし、スーっと一気に降りてくる。
三秒もかからない。
これをやりたくて麗華は幼い頃から練習を重ねたのだ。
名人と競争してみたい。
小さな頃の夢をいつか叶えるため、麗華は先祖が大事にしてきた硝子の森の枝打ちは必ず自分で行う。
無心に何本も枝打ちを続ける麗華だが、ふと周りを見渡した時に妙なものを見つけてしまった。
それは二人の男だった。
隣の市来山を足早に登る男達。格好からして登山客でもないし、林業を営む者でもない。殺された赤木昭吾と似たようなジャケット姿。遠く小さな豆粒のようにしか見えないが麗華の目は二・五以上(もっと詳しく測れば三・五はあるだろう)ある、あの男達は赤木の仲間に違いない。
麗華は体勢を逆さにし一気に地面に降りる。
「うわ!」
「わ!」
突然現れた人影に麗華はびっくりして声を上げた。
相手も同じように声を上げていた。
「なんだ、龍一か」
「なんだはないでしょう? せっかくお弁当持ってきたのに」
唇を尖らせた龍一は大きな包みを持っていた。この中にお弁当が入っているのだろう。
「お弁当より、見つけたんだ偽札偽造団!」
「え?」
「隣の市来山に隠れ家があるらしい。取っ捕まえにいこう!!」
「な、なに言ってるんですか。警察ですよ警察。警察呼ばなくちゃ」
龍一は慌てて、おろおろしている。
「証拠がないんだから警察が来る訳ないじゃないか。だからあたし達で取っ捕まえるのさ」
「麗華さんそんな楽しそうに言わないで下さい」
龍一は顔を覆い、深く、深く溜め息をついた。
「ふーん。あんたがいかないんなら、一人で行ってくるよ」
ちょっと買い物に出かけるかのように麗華は手を振ると足早に隣の市来山に向かう。
「待って下さい! 麗華さん! 相手が拳銃とか持ってたらどうする気ですかっ」
「大丈夫、大丈夫」
麗華の返答は気楽な感じだった。
「麗華さんの大丈夫が一番信用できません」
ブツブツと言いながらも龍一は麗華のあとを追う。より多く惚れている身のがこういう時に弱いものなのだ。
「ほら、早く!」
「はーい」
返事をしたあと龍一は盛大に溜め息をついた。
市来山の東側約半分は麗華の所有する土地ではない。
元々は地元の名士が所有していたらしいが今は東京に住む政治家が所有しているらしい。
らしいというのは麗華はそのお隣さんに会ったことがないからだ。
いつも思うのだが、どうして山を所有する人物はその土地の者に山の管理を任せないのだろう。
地元に住む人間が管理すれば、山は有益になるように管理される。
せっかくの山をその土地に住む者が荒らすということはそれほど考えられないのだから。
岐阜県の産業廃棄物が不法投棄されている山は所有者は都会の人間なのだろう。
もし土地の者ならあんな森を汚すような真似はしないはずだ。
山の管理を地元に関係のない林業業者に任せれば利益だけを追求する山の管理がなされる。
麗華はお隣の山に住む動物に申し訳なくてたまらなかった。
豊かだった木々が瞬く間に伐採され植えられるのは杉だけ。
しかもほったらかしにされている期間が長いから、その杉もまっすぐに育たない割合が高い。
まっすぐではない杉は売れない。
売れないから二度目の枝打ちの頃には間伐されてしまう。
植えられた木々の約三十%はきちんと育たないから間伐されてしまうのだ。
なんて無駄な土地利用なのだろう。
ゴルフ場にならないだけましだと考えなければならないのだろうが、失われていく動物達の住まいを見ている間は、とてもそんな風には考えられなかった。
そんな市来山に偽札の偽造団が住んでいるのかもしれない。
単純に考えれば所有者である政治家も絡んでいるはずだ。ならば取っ捕まえることができれば政治家は失脚。
そのうち市来山は売りに出されるだろう。
今より良い買い手がつくかはまだわからないが今の所有者よりは良くなるかもしれない。
もし自分が買えるような値段だったら買い取ってもいい。
麗華はそんなことを考えながら歩いていたのだが、ふと笑みを浮かべた。
こういう考えを表すのに最もぴったりくる諺が脳裏に浮かんだのだ。
――― 取らぬ狸の皮算用。
◇
市来山の中腹に、トタンで作ったような納屋が建っていた。
中から微かにカシャン、カシャンという一定間隔で動く機械の音が聞こえる。
納屋には扉しかなく、他に窓とかは見当たらなかった。
「どうします?」
龍一の問いに麗華は顎に手を当て考えた。微かに枝を踏む音が聞こえる。麗華は目だけでなく、耳も異様に良かった。
「隠れて」
麗華は龍一に覆い被さるように隠れた。今は目立つ作業着は着ていない。来る時に脱いで来たのだ。下のトレーナーは薄緑だ。
人が近付いてくるようだった。
「あ」
声を上げそうになる龍一の口を慌てて麗華が押さえた。しかし龍一が声を上げても仕方がないだろう。山を登ってきた男の一人は硝子の森の殺人事件の捜査を指揮していた刑事だったのだから。
確か名前は山下。
「おい、開けろ」
乱暴な口調で扉をどんどん叩く。
中の機械音が止まった。
「山下さん。なんですか?」
「広瀬先生からの指示だ。今日でこの小屋は閉鎖する。次は青森の山中だ」
「またですか? 今年でもう三度目ですよ。最近サイクルが短くないですか?」
「しょうがないだろ。赤木があんな目に、あっちまったんだ。次はもう少し長くいられるさ」
山下は鼻で笑い、中の作業員に言った。
「まだ十五年しか経ってないんだ。おまえらだって取っ捕まりたくないんだろ? なら先生の言うことを聞くしかないさ」
その口調はどことなく彼らを小馬鹿にしているようであった。
「明日の朝には青森に向かう。準備を怠るな」
「そう旨くいく訳ないだろ?」
龍一が止める間もなく麗華は飛び出していた。そして山下の顔面に回し蹴りを入れる。ゴッという鈍い音と共に山下が倒れる。状況を把握できてないもう一人の男のみぞうちに強烈なパンチをおくる。男は麗華に抱きつくようにして意識を失った。麗華は男の体を横に寄せ、山下の懐から拳銃を取り出し空中に向けて発射した。
森の中に発射音が木霊して広がる。
麗華はすべての弾を発射させた。計五回。耳を突き刺すような轟音が響き渡った。
「いや〜、気持ちいいもんだね」
麗華は呑気に言いながらトレーナーで拳銃についた指紋を拭うと山下の側に放り投げた。
そしてトタンの納屋の扉を開けて言う。
「あんた達、十五年前の少年誘拐事件に荷担してたんでしょ? もう時効も過ぎたんだからさっさと逃げな」
「ええ?」
声を上げたのは龍一だった。納屋の中には三人の男と一人の女性。みんな疲れた顔をしている。
「しかし‥‥‥」
麗華の言葉を信じられないのか女性が口を開いた。
「十年前に法が改正されて誘拐犯の時効が三十年になったって」
「んなわけないって。そのおっさんがそう言ってあんた達を騙して利用してただけさ。ほら、早く逃げないと今の銃声を聞きつけて警察がやって来るよ」
「でも‥‥‥」
「ほら、龍一も言ってやりな。誘拐された本人が言えばあの人達も安心するよ」
「え」
女性が息を飲む。
「生きてたんだねえ。ああ、良かった」
龍一はあまりのことで頭が混乱していたが、女性は涙を瞳に溜めて口を押さえていた。
「‥‥‥本当に十五年前の? 平沢龍一を、僕を誘拐した人達なんですか?」
「中には違う人も交じってると思うけど、どれも軽い罪の人達なんじゃないか」
麗華の言葉に女性が答えた。
「いいえ、全員龍一君を誘拐したのに加担した者です」
「てめえ」
ようやく事態を把握した男が女性に殴りかかろうとするが麗華が睨みつけたため、男の動きはそこで止まった。
「喧嘩しないで下さい。僕はあなた達が誘拐してくれたお陰でとても大切なものを手にすることができたんです。返って感謝しているくらいだ。だから早く逃げて下さい。この男は僕たちが警察に引き渡しますから」
龍一の柔らかな微笑みに誘拐犯達は互いの顔を見返し合った。
「あたしは残るよ。一人は残って証言しないと、下手したらまた有耶無耶にされちまうからね」
女性が毅然と胸を張って言う。
「あんた達は逃げな」
「莫迦、おめえだけ残して逃げれる訳ないだろ」
「俺も残るよ」
「一人だけ逃げたら、ものすごく格好悪いじゃねえか。しょうがねえな、俺も付き合ってやらあ」
「あんた達‥‥‥」
麗華はズカズカ納屋に入り込むと、ソフトテープをどこからか持ってきた。
「ほらこれであのおっさん達を縛りつけな。で、警察が来たらもうこんな悪事には耐えられない。俺たちを捕まえてくれって泣き叫ぶんだ」
麗華は軽くウィンクする。
「誘拐に関してはもう時効だから、どんな風にこの男に脅されたか、ちゃんと釈明すれば偽札作りに関してはかなり罪が軽くなると思いますよ」
「あたしが優秀な弁護士つけてやるよ。龍一を殺さなかったお礼としてね」
その時、後ろから呻き声が上がった。
「そ、そうはうまくいかせるものか。おまえら、これを見ろ」
山下はふらつく体で立ち上がり拾った拳銃を構えた。
「おまえら、全員皆殺しだ。俺に逆らえばどうなるか思い知らせてやる」
麗華が構える前に男達が飛び出していた。山下は引き金を引くがカチカチと軽い音がするだけで弾丸は発射されない。
「もうてめえなんて怖くねえ」
「この野郎」
十五年間の憂さを晴らすように三人の男達は山下に殴る蹴るの暴行を加えた。
麗華と龍一に女性は呆れたようにそんな男達を見つめていた。
「触らぬ神に祟りなし。今は止めないほうが良いみたいだね」
「反対に僕らがボコボコにされちゃいますよ」
龍一は苦笑する。
「この十五年の鬱屈した気を晴らしているんですからね。そのほうが良いですよ」
穏やかな女性の言葉に麗華は苦笑した。
「あなたは良いんですか?」
殴らなくて、というふうに麗華は顎をしゃくって男達を指した。
「法廷でしっかり晴らしますから」
女性の顔は晴れわたっていた。
「じゃ、麗華さん、帰りましょうか」
「そうだね。あたし達がいたことは黙っていたほうが良い。‥‥‥なんかまるで水戸黄門だね」
麗華は自分の言ったことに一人ウケていた。
女性がそっと龍一に近付き囁く。
「大切なものって」
言葉を切り、麗華を見つめる。
龍一は照れたように頬に手を当てるとこくりと頷いた。
「そうか、あんた幸せなんだね。良かった」
女性は心から嬉しそうに笑った。
その微笑みにつられて龍一も笑う。
ふと気付くと麗華がいない。麗華は楽しそうに男達と一緒に山下ともう一人の男をソフトテープでぐるぐる巻きにしていた。どこからかガムテープも持ってきたらしい。口にはガムテープが貼りつけてある。
「麗華さん、もうそろそろ帰りましょう」
「そうだね、帰ろうか。硝子の森に」
空には緑のプリズム。
光の乱舞。
麗華と龍一は四人に手を振ると、足早に駆けていった。
遠くにはパトカーのサイレン。今日は市来山に騒がしい客人が来る。
帰ろう、硝子の森へ。
曾祖父が名付けた故郷の森へ。
龍一はそっと麗華の手を取った。
「戻ったらお弁当にしよう」
麗華の嬉しそうな言葉に龍一は肩を落とした。 ロマンスにはまだ遠いらしい。
「そういえばどうして彼らが誘拐犯だってわかったんです?」
麗華は食後の珈琲を一気飲みしていた。
「うーん、呆れるだろうけど、ほとんど勘だったんだ。地元の警察官が関わっていて十五年前。あの頃起きた事件で犯人がいまだ捕まっていないのはあんたの誘拐事件しかないだろう?」
「山下は彼らを匿っていたんですね」
「匿うって言うより、脅迫して逃げられないようにしてたんだ。赤木はたぶん誘拐には関連してないんじゃないかな。だから偽札を持って逃亡しようとした。でも、あんな大きなボストンバックを持ってちゃ目立ってしょうがない。それで少しの間、あんたの木に埋めといてほとぼりが冷めたら掘り出す気だったんだろ」
「逃げ出した赤木を途中で見つけた山下は埋めた場所まで案内させて、そして殺したんですね」
「でもあの晩、銃声なんて聞こえなかったじゃないか。それにどうして山下だと思うんだい」
「たぶん、サイレンサーをつけてたんじゃないかな。あと麗華さんが撃った時、弾は五発しか残ってなかったでしょ。普通六発撃てるものだから、おかしいなって思ったんだ」
「へえ」
麗華は関心するように呟くとカップを龍一に差し出した。にっこりと笑うと
「おかわり」
龍一は渋々と立ち上がる。
「今度は紅茶が良いな」
相も変わらず龍一のが立場が弱い。
「仕方ないな」
「なんか言った?」
耳聡い麗華が聞き返してくる。
「いーえ、来週の麗華さんのドレス姿が楽しみだなって言っただけです」
麗華の反論はなかった。きっとまた顔を真っ赤にしているのだろう。
そう考えるとくすぐったかった。
ようやく来週には結婚式だ。
枝打ちも済んだことだし、事件も解決したし、しばらくはゆっくり出来る。そうだ名古屋の龍一のマンションに来てもらおうか。ここまで通うのは大変だし、一週間くらいなら麗華さんもうんと言うだろう。
「あ、式が終わったら間伐する木に記しつけなくちゃね。あと下生えの草木を刈り取らないとせっかく植える苗も育たないし」
「‥‥‥手伝いますよ、麗華さん」
「本当かい?助かるよ。林業はこの時期が一番忙しいんだ」
麗華の笑顔に屈託はなかった。
◇
少年が倒れていた、大きなぶなの木が倒れた。
彼女は思い出の木だから残そうと言ってくれたけれど、この森で一人残されるより、柱として、家具として、小物として、誰かと誰かの出会いのきっかけになれば‥‥‥そう思って木を伐った。 大切な木だから伐るのはとても淋しいことだけど、林業を営む者としてこれからこんな淋しさは何度も味わうだろう。
大切な思い出の木‥‥‥
どうか他の人にも大切にされてね。
そんな思いを込めて、青年は倒れたぶなの木を撫でた。
おわり
ご静読ありがとうございました。
すこしでも楽しんで頂けたら嬉しく思います(^o^)