9 渇き
初めて自由な時間を持ったエレーナは、雑多な蚤の市を嬉しそうに見て回る。アンドレイはそんな彼女の姿のほうが古美術よりも価値があるように思えた。しばらくするとエレーナが荒い息をし始めた。
「大丈夫か」
「え、ええ。なんだか喉が渇いて……」
エレーナは喉元を押さえながら大きく深呼吸をする。
「そこで何か飲もう」
果汁を絞ったフレッシュなジュースを売っている出店があったのでアンドレイはオレンジジュースを一つ注文した。アルミのカップに入ったジュースをエレーナは受け取り一気に飲み干す。
「ありがとう。美味しかったわ。でも、どうしてかしら、喉はもう渇いていないのに、なんだか渇く気がするの」
困惑し、不安そうな目をするエレーナに、アンドレイはしまったと思った。
「帰ろう」
「え? もう?」
「まだ蚤の市は終わらないから。ちょっとついておいで」
エレーナを伴い、いつもの食料品店にアンドレイは立ち寄った。店内はまばらに客がいたが、店員のポールがアンドレイを見つけ手を振る。
「今日は早いんですね」
愛想のよい青年のポールは親切で、アンドレイに今日は上等な子牛のレバーがあると教えてくれる。
「じゃあそれを。後はいつもので」
「わかりました。お包みします」
ポールは店の奥に行きいそいそと肉を包み、ワインとパンを紙袋に入れた。
「いつもありがとう」
「いえ。また」
ポールは目を伏せて恥ずかしそうに金を受け取り、アンドレイを見送った。外で待っていたエレーナに「食事にしよう」とアパートへ連れ帰る。エレーナはなんだかぼんやりしていて、アンドレイの言うとおりに何も考えずに付いて行った。
まだ昼間だが部屋は薄暗い。アンドレイは二重にしているカーテンの一枚だけをすこしひき、部屋を明るくさせた。
「そこで座って少し待って」
「ええ……」
エレーナはハアハアと息をしながら腰掛けてじっと待つ。ぼんやりとしていた視界にコトリと白い皿が置かれた。その上には真っ赤なレバーがスライスされて乗っている。
「こ、これは……」
「食べていいよ。少しずつ、ゆっくりね」
エレーナはごくりと喉を鳴らす。いつもはこんな生のレバーなど食べたいと思ったことはなかった。以前、アンドレイに生肉をごちそうになり、美味しかったが、また食べたいとまではいかなかった。
エレーナはぶるぶる震える手でフォークを持ち、レバーに突き立てた。ジワリと肉から赤い汁が染み出てくる。それを見るとなぜかまた美味しそうだと感じた。そっと塊を口の放り込むと、甘くて心地よい味が口の中一杯に広がった。ゆっくり咀嚼すると、甘くて芳醇な香りがますますエレーナを包む気がする。時間をかけて3切ほど食べるとエレーナは落ち着いた。
「ワイン飲むかい?」
「ええ」
ワインを飲むとなんだか夢からさめたような心持になる。
「もう渇いていない?」
「そうね。なんだったのかしら? それにしても、生のレバーがこんなにおいしいものだったなんて初めて知ったわ」
「疲れたんだろう。興奮していたようだし」
「とても楽しかったわ! あんなに綺麗なものがいっぱいあるなんて初めて見たの」
「ふふ。バレエの舞台もとても美しいのに」
「自分では見れないもの」
宝石以上に輝きを放ちながら踊るバレリーナたちを物と一緒にしてはいけないが、舞台は最高の芸術作品だとアンドレイは話す。
「そんな風に思ってもらえるとなんだかやりがいがあるわね」
エレーナは孤児で拾われてバレエを踊っているだけなので、人からどんな風に思われているかなど気にしたことがなかった。
「もちろん、ちゃんと団長の言うように踊ってるんだけどね」
「ああ、ほんとうにミルタは幻想的で透明感があって美しかった」
「ありがと」
ぱっと白い肌に紅がさすエレーナは生き生きとして健康的だ。
「さて、落ち着いたようだし送るよ」
「まだ日が随分高いし、一人で平気だわ。アンドレイも疲れたの? なんだか元気がないわ」
「シェスタが必要な質でね。少し眠いだけだよ」
「あら、そうなのね。じゃあなおさらいいわ。宿は近いの」
「そうか」
「あの、明日も一緒に蚤の市に行かない?」
「いいよ。また同じ時間でいいかな」
「いいわ!」
エレーナは嬉しそうに立ち上がり、胸元のペンダントを優しく撫でる。暗めの部屋の中にぼんやりと佇むアンドレイこそ、美しい彫刻のように見えた。
「今日はほんとうにありがとう。最高の一日だったわ」
感謝と親しみをこめて、エレーナはアンドレイの頬に左右かわるがわるキスをする。アンドレイはキスを受け取りながら、エレーナの左右の首筋を見つめた。