6 思惑
公演が終ったあと、アンドレイは舞台裏に回る。舞台は成功をおさめたが、有名なバレエ団ではないので終ると人はさっと引いて閑散としている。アンドレイのように花束をもってバレリーナに贈るものなどいなかった。大都会になるとプリマは花束で埋もれるくらいになるし、舞台の余韻や熱気もすぐに冷めたりしない。寂しい廊下を通り、舞台裏の楽屋前にたどり着くと初老の痩せた男が立っている。
「失礼。関係者の方ですか?」
アンドレイの丁寧な態度に男は態度を緩和させる。
「団長のニコライです」
「そうでしたか。この花をミルタ役の方に」
アンドレイはあえて、エレーナと呼ばず役名を言った。真っ白い百合の花束に白い封筒が添えられている。ニコライは目を見張って「ほう! 美しい。うちのような小さなバレエ団に花を贈ってくださる方がいるとはなあ」と頷きながら受け取る。
「今着替えているので、待っていただけますかな? 呼んできますから」
「あ、いや。素晴らしい演技に花を贈りたかっただけなので。もちろん他の方々も素晴らしかったですが」
「ミルタに目をつけるとは」
ニコライは自分の演出や配役はやはり成功だったと安堵している。実際に今回の配役はエレーナにとって特にはまり役のようだった。
「では、これで」
エレーナが落としていったメモを返すだけだったので、アンドレイは踵を返す。コツコツと暗い廊下に足音が響きやがて消えていった。
しばらくするとぞろぞろと衣装を着替えたバレリーナたちが出てきた。ニコライは後方にエレーナを見つけ呼び止める。エレーナは白百合の花束を受け取り嬉しそうに目を細める。
「一体誰から?」
「背の高い紳士だったよ」
白い封筒を見つけ開くと落としたメモが入っていた。
「あ、アンドレイだわ」
「知り合いか?」
「ええ。二回も助けてもらったの。もう帰ったのかしら」
「すぐに帰ったよ。良い客だな」
「そうなの。とてもいい人よ」
「しかし……」
「どうかした?」
「あ、いや。言葉がな」
「そういえばそうね」
アンドレイの言葉はエレーナやニコライと同じ北国の言葉だった。どう見ても北国の出身者ではないのに流暢でネイティブのようだ。
「不思議な人なの。色々なところで生活したことがあるって言ってたわ。古美術商をやってるようなことも言ってたし、手紙の代筆もするとか」
アンドレイのアパートでお互い少しだけ話をした。エレーナも自分は捨て子でニコライに拾ってもらってバレリーナになったと話した。捨て子だと聞くと同情したまなざしを向けられることが多い。バレエ団として発足はしたが技術が未熟な時代には、先に孤児のバレエ団ということを触れ込んでおくと、客が増えていた。
アンドレイはエレーナが孤児だと言っても静かにそうかと頷いただけだった。ぼんやりアンドレイのノーブルな顔立ちを思い出しているとニコライが難しい表情で考え事をしている。
「さっきのアンドレイという男は最近まで前に公演を行った町に住んでいたんだよな?」
「ええ、たぶん。助けてもらったときに町のことをちょっと教えてくれたし」
「どうして彼は一か所にとどまらないんだろうか?」
「さあ、わからないわ」
ニコライ自身が皇太子のために各国を探り歩いているので、アンドレイにも疑惑の目を向け始めた。まさか反対勢力ではないだろうかと懸念する。
「エレーナ。しばらくこの町にとどまってくれるか?」
「え? なぜ?」
「さっきの彼がどんな人物なのか探って欲しいのだ」
「アンドレイを? どうして?」
「いや、なに、彼は独り身だろう。旅をするにあたって彼はうちにとって便利ではないかと思ってね。それに一か所にとどまらないときたら放浪癖があるのかもしれない。良さそうな人物ならうちに来てもらえないかと思ってね。交渉ごとにも長けていそうだし」
「ふーん」
エレーナは毎日アンドレイがそばにいるとどんな気分だろうかと考えた。少し胸がドキドキする。
「一週間ばかりでいい。足を痛めたと言って宿に宿泊するんだ」
時々バレリーナたちの中でしばらくいなくなるものがいる。きっと町や特定の人物を探るためなのだろう。エレーナは軽いお使いばかりだったが、初めて大役が来たのだ。
「やってみるわ」
「うん。我々は次の町にいる。少しばかり顔を合わせながら誘ってみておくれ」
「でも期待しないで。彼引っ越してきたばかりだし」
「ああ、わかっている。それならそれでいいのだ」
アンドレイが反対勢力の者でなければそれでいいし、それでいて外国語に達者な彼がバレエ団に居ても良い。敵であれば、程度によっては彼の始末を考えなければならない。
素直なエレーナはニコライの思惑を何も察することはなかった。しばらくアンナと離れることが寂しかったがアンドレイのことを思うと軽く高揚感があった。