5 バレエ団
ポケットを探ってもメモが出てこず、エレーナは焦って覚えているだけの情報を団長のニコライに伝える。
「十分だ。気にすることはない。それよりも公演をしっかりな」
初老の団長はエレーナを責めることも叱ることもしない。しかし白くやせこけた頬と薄いアイスブルーの寂しげな瞳を見ると、エレーナは自分が役立たずであることを恥じた。申し訳なさそうにエレーナが部屋から出ていくとニコライはふうっとため息をつく。
彼は北国のために、といっても今の皇帝ではなく皇太子のためには働いている。北国は厳しい寒さと広大な土地と皇帝の独裁によって国民の大部分は極めて貧しい。皇太子は皇帝の直系でありながら珍しく独裁を望まず、民主化を考えている。ところがなかなか世代交代が行われない。皇太子となって25年にもなる。強欲な皇帝はいつ死ぬのだろう。国を吸い尽くして死ぬつもりだろうか。
ニコライは皇太子の教育係だった。高潔な彼は皇太子の人柄や民主化への希望に賛同している。バレエ団を作り、あちこちの国の情報と協力者を得て、北国に革命を興すつもりなのだ。
皇帝によってうまい汁を吸っている貴族たちの力もなかなか強力だった。抜け目ない貴族たちは各国とも通じている。皇帝が倒れれば、保身のために自分の国を売ることも厭わないだろう。
「殿下、もう少しお待ちください」
ニコライは北国に向かって祈りをささげた。
楽屋兼、宿泊場に戻るとバレリーナたちがひしめき合っていた。エレーナが空いている場所をきょろきょろ探してみているとプリマのアンナが「こっちよ」と手招く。
エレーナはアンナのそばにぴょんぴょん飛びながらたどり着いた。
「どうだった?」
「うん、それが……」
エレーナはニコライから指示されていた倉庫の裏に行き、そこで取引が行われるのを待った。何の取引かどんな人物が何のために行うかは知らされていない。余分な情報は彼女に余計な憶測と混乱を起こさせるからだ。つまり用事を頼まれただけで、スパイ行為を行っているとはつゆとも思っていない。そこで話される次回の日時と場所を覚えてくるのがエレーナのお使いだった。
男たちが何やらがやがや話始めてから集中して聞いた。外国語は得意ではないが、時間や場所、数だけは聞き取れるように普段から訓練させられている。コートに身を包みじっと聞き耳を立て、目当ての情報をメモするまでは良かった。
別れた男のうちの一人が、ちょうど立小便をしようとエレーナの潜んでいた場所にやってきてしまったのだ。物陰にじっとしている女を、取引したての男が不審に思うのは当然だった。掴まれるところをなんとか突き飛ばし、街中に入り、そしてアンドレイに匿ってもらったのだ。
「危ないところだったわね!」
「ええ、これであの人に助けてもらうのは二回目になったわ」
「縁があるのね? どんな人?」
エレーナよりも年上で愛想の良いアンナは好奇心が旺盛だ。
「え、っと」
黒っぽい髪と瞳、どこかクラシカルな風貌、背の高さ、きっと年齢は自分よりも10歳くらいは上だろうと話した。
「で、素敵だったの?」
「素敵、って?」
「やあね。相変わらずなんだから。ほら。いいと思わなかった?」
「確かに他の男の人とアンドレイは違う気がするわ」
アンドレイと過ごした時間が心地よかった気がしている。バレエ団の男以外は、エレーナを含め、バレリーナたちを誰もが卑猥な目つきで見つめてくる。町の外に出ると、華奢な彼女たちを力で何とかしようとする男が時折現れる。以前の町でも、団長のニコライにお使いを頼まれた帰りにエレーナは襲われたのだ。
「また舞台を見に来てくれるって言ってた」
「へえ。あなたに気があるのかもよ」
「そんなんじゃないわ。珍しく芸術を理解してる人なんだと思う」
「それは素敵な人ね」
「さあ、もう寝ましょうよ。明日が最後だし」
「そうね。いいところ見せないとね」
「もう!」
エレーナとアンナは抱き合って眠った。バレエ団のダンサーはすべて捨て子だ。ニコライが北国でモノになりそうな少年少女をかき集めてきた。気が合う合わないはあるだろうが、バレエ団の団員は家族も同然だった。自分よりも成熟しているアンナの柔らかい胸にエレーナは顔を埋めて眠った。誰も何も夢は見ない。