4 役
こじんまりとした簡素な部屋にエレーナは目を細める。
「いい部屋ね」
「ありがとう。腹が減っているならほら」
アンドレイは紙袋からワインとパン、肉をとりだす。
「あ、いえ」
エレーナは手を振って遠慮したが、腹がキュゥっと鳴った。
「や、やだ」
白い頬が紅色に染まり、青い瞳が一層青く見える。
「今更遠慮しなくていいよ」
ワインの栓を抜いて、銀のカップを二つ置いた。また揃いの銀のプレートに丸いパンをのせ、白い陶器製のプレートに肉をのせる。繊細な模様が施されたナイフでアンドレイは肉をスライスし切り分け、白い皿に乗せエレーナに差し出す。
「あの、焼かないの?」
「新鮮な肉は生のほうが美味いし栄養がある。あいにく調理器具はないんだ」
真っ赤な肉は赤いワインと同じくルビーのように輝いているように見えた。エレーナは小さく切って口に入れる。薄い桃色の小さな唇が肉の血で紅色に染まった。
「ほんとう。なんだか甘くて柔らかいわ」
小さく咀嚼する姿をアンドレイは優しく笑んでワインを注ぐ。
「こんな素晴らしいカップを見るの初めてだわ。使っていいのかしら」
「食器は使うためにある。気にしなくていい」
実際にこの銀食器は、今は滅びた西国の王家の所持していた物だった。何度使用しても価値の高いもので、カップ一つで一年は余裕で暮らせるだろう。
アンドレイは長く長く生きてきたので、言語と鑑識に長けていた。あらゆる場所で生活し言葉を覚え、また蚤の市などで一万点あるうちの本物の一品を見つけることが出来る。何も持っていなくても、言葉と審美眼で生活ができるのだ。
日が傾いてきたのでエレーナは窓の外から町の様子を眺めた。
「もう、大丈夫だと思う」
「そうか」
「あの、何も聞かないのね」
「聞いてほしいのか」
「そうではいないけど……。あ、そうだ」
ベージュの薄いコートのポケットからエレーナはまた紙きれをとりだす。バレエのチケットだった。
「こんなものしかないのだけど」
「ああ。そういえば前の舞台よかったよ」
「え? 見に来てくれたの?」
頷くアンドレイに、エレーナはとても嬉しそうに歯がこぼれるような笑顔を見せ目を大きく開いた。
「いつも端役だけど今度は重要な役をもらえたの」
「へえ、どんな?」
「妖精の女王なの。ミルタって名前の。ちょっと怖いのよ。生きてないんだから」
「ジゼルか」
「よく知ってるのね! 団長があたしが一番適役だって言ってたわ」
「ジゼルでもいいと思うけどね」
アンドレイはエレーナの可憐な踊りを思い出して率直に言った。
「ううん。あたしにジゼルは無理だわ。あんな風に男の人を好きだと思ったことがないんだもの」
「なるほどね」
恋をしたことがないエレーナにジゼルの情感を出すのが難しいが、生きた人間ではない透明感や冷たさなら抜群に表現できると団長は判断したのだろう。
「また、見てくれる?」
「そうだな」
「よかった! 明日が最終公演なの。それが終ったらまた次の町へ行くわ」
「一人で帰れるか?」
「ええ」
エレーナはコートから薄いスカーフをとりだして頭からかぶり首に巻いた。
「ごちそうさま。とても美味しかった」
するりとした身のこなしで風のようにエレーナは立ち去った。
「同じ人間に別の場所で会うのは初めてかもしれないな」
二百年間、大陸を移動し続け、各地で生活してきたが住まいを変えると、知り合いは一新される。凪のような感情のアンドレイにエレーナは少しだけさざ波を与える。
「おや?」
テーブルの下に紙片が落ちていた。拾いあげてみると、図形のような地形のようなものと時間がかかれていた。おそらくエレーナが落としていったメモだろう。
「やはり、そうか」
バレリーナとして各地を旅しながら、情報を得ているようだ。誰のために、もしくはどの国のために働いているかは、分からない。エレーナ自身も何をさせられているのか分かっていないかもしれない。
とりあえず明日、花とこのメモをエレーナに渡してやろうと、アンドレイはメモを綺麗な白い封筒に入れた。