16 修道院
馬を繋ぎ、アンドレイは眠っているシャルロッタをそっと抱き上げた。一カ月以上一緒に過ごしているとシャルロッタはアンドレイにすっかりなつき安心して身を委ねている。
「アンドレイ、ここ、どこ?」
小さな手で目をこすりながら、シャルロッタは周囲を見渡す。淡い色彩の田園風景は水彩画のようだ。風は温かく柔らかい。
「もうすぐ着くよ」
田園を抜け、小さな橋を渡り森の中に入る。やがて白く細長い、屋根の上に十字架が立っている建物が見えた。シャルロッタにもそれが教会だと分かった。
それほど深くない森の中に教会が建ち、裏は宿舎がある。教会の周りで掃き掃除をしていた修道女と、植木を切っていた修道女が、馬車に気付き手を止める。アンドレイは馬を降りて修道女に挨拶をする。まだ若い修道女たちは目を伏せ、相談しあうようにお互いに目を合わせ、手を胸の前に硬く組んでいる。
アンドレイの話が済むと、二人はすぐさま教会に入っていった。
「おいで」
シャルロッタを降ろし、適当な木に馬車を繋いで待った。シャルロッタは興味津々であちこちに目をやるが、アンドレイは馬の身体を撫でている。教会の扉が開き、少し肥えた年老いた修道女がやってきた。息を切らし駆け寄り「おかえりなさいませ!」と手を組み祈るようなそぶりを見せた。しかし十字を切ることはしなかった。
応接室に通され、そこでもシャルロッタはきょろきょろしている。落ち着かない様子に教会の中なら、見てきていいとアンドレイが言うと、シャルロッタは目を輝かせた。
「でも、約束して。走らないことと、扉のある部屋に入らないこと。迷うといけないから外には出ないようにね」
「はーい」
シャルロッタはスカートの裾をつまんで老いた修道女にお辞儀をして出ていった。
「可愛らしいお嬢さんですね。花嫁候補でございますか?」
アンドレイは苦笑しながら顔の前で手を振る。
「そういわれると思ったので、ほかの修道院に預けようとしたのだが、難しくてね」
「違うのでございますか……」
十分な金貨を持ち、毎年送金すると約束をしても住所が不安定なアンドレイはただの子捨てだと思われ上手くいかなかった。金があればあればで、家庭教師を雇い養えるはずだと断られた。修道院に預けて、送金はするがそこでシャルロッタにはもう会わないつもりだった。
「あの子は何も知らないから、出来るだけ何も知らないまま育ててほしいのだが」
「ええ、ええ。できる限りそういたします」
「すまない」
「いいえ、あなた様のお申し出をどうして断ることが出来ましょうか。わたくし共がこうして暮らしていけるのは――」
「それは私ではなく祖父だし、もうそんなに義理立てすることもないよ」
アンドレイはソファーから立ち上がって部屋の中を見渡す。造りは堅牢だがあちこち傷み、修繕が必要そうだ。
「結構な金貨を用意してきたから、教会の修繕と、あの子の養育を頼む。また送金するから」
「もうこちらにはおいでにならないので?」
「そうだな……」
シャルロッタが成人すればどこへでも自由に出ていけばいい。その年数はアンドレイにとってわずかな時間にすぎない。
「気がむいたら来るよ」
「そうですか。せっかくおいでいただいたので今夜はこちらでお休みください」
「いや、もう起つよ。若いシスターを怖がらせるといけないしね」
教会は小さいのでシャルロッタはすぐに見つかる。
「シャル。おいで」
シャルロッタは嬉しそうに駆けよってきた。
「ほら、走ってはいけないって言ったのに」
「ごめんなさい」
アンドレイはひと息ついて、これからのことを話した。笑顔だったシャルロッタの顔が徐々に曇ってくる。
「お別れなの?」
涙声になってきたシャルロッタの言葉にアンドレイは静かに笑むだけだ。
「みんな優しい人たちだから」
ぽろぽろと涙をこぼし、シャルロッタは口をぐっと結んでいる。見かねた修道女が「どうでしょう。幼いうちは一年に一度くらい」とアンドレイとシャルロッタを見比べた。
「いい子にしてるから……」
「わかった。会いに来るよ」
「お手紙ももらえる?」
「うん、私の住まいが決まったら手紙を書くから待っておいで」
シャルロッタは大きく手を広げアンドレイに抱き着いた。しばらく抱きしめて背中を撫でているとすうすう寝息が聞こえ始めた。激しく泣いて疲れたのかもしれない。
身体のしっかりした修道女がシャルロッタを抱き上げた。
「寝ている間に行くよ」
「ええ、またお帰りをお待ちしてます」
いつの間にか数名の修道女全てがアンドレイを見送ろうと揃っている。アンドレイが知っているのは最も年老いた修道女だけだった。
「では、頼む」
静かに馬車を走らせ、アンドレイは教会を後にする。年老いた修道女は生きているうちにお目にかかれたと、神に感謝した。