11 誘い
三日ほど二人は日中を共に過ごす。エレーナはアンドレイに探りを入れ、バレエ団の仲間に誘うためであり、アンドレイはエレーナの吸血鬼化の様子を見るためだった。
日常的に人の血を欲することはないが、流れている血を見るとうっかり啜ってしまう。喫煙者が、人がパイプをふかすのを見て自分のポケットを探り、口にいつの間にか葉巻を咥えているのと同じだ。
血を啜るとその人物の肉体のデータが少しとれる。エレーナは若く生娘で健康的だった。
「ごちそうさまでした。でも、なぜかもうお肉はお腹いっぱい」
ここ三日ほど好んで生肉を食べていたが、まるで好みが変わったようにエレーナはもう食べたいという欲求がなくなっている。
「ならいいんだ」
アンドレイは彼女の状態が通常に戻ったことに安堵する。エレーナが指を切った時にアンドレイは血を啜り、その時アンドレイのエキスがわずかに入ったのだろう。少しの間だけ、エレーナはその影響を受け飢えていた。放っておいても治ったが、責任を感じたアンドレイは彼女が渇きを覚えさせないように面倒を見ていた。おかげですっかり身体は戻ったが、今度はエレーナの心が変化してしまっている。
「ねえ、アンドレイ。旅が好きなら、あたしたちと一緒に来ない?」
「ん?」
「あの、団長があなたのこと気に入ったみたいで、その、言葉が達者でしょう? マネージャーなんかやってくれないだろうかって」
エレーナの言葉を聞きながら、アンドレイはいろいろ推測した。団長のニコライが自分を警戒していることがわかった。彼自身が各国の情報を得て活動をしているので、アンドレイが敵か味方か探っているのだろう。
「別に旅が好きだというわけじゃないんだが」
「あの、もしかしてあなたって……」
怪訝そうな表情をするエレーナに「心配しなくてもいい。君たちの活動とは違うから」と笑んで見せた。
「えっ!」
驚いたのはエレーナだった。何も話していないのに何かアンドレイは自分たちのバレエ団の秘密を知っているかのようだ。
「ただの想像だよ。本当に心配しなくていい。私はしばらくここで暮らすつもりだし、君たちには全く関わることはないだろう。どの国がどうなろうとも、ね」
「残念だわ」
「北国は今大変なんだろうね。ニコライがどっちにどう関係してるのかわからないけど」
「あたしも、よく知らないの」
北国に政変もしくは革命がおこるかもしれないことをエレーナや他の団員は何も知らなかった。ニコライが皇太子派であることすら知らない。バレエ団の中だけで生きてきた彼女たちにとって、ニコライが親であり、親の言うとおりにして安住を得ているだけだった。その点でいえば、各国の情勢はアンドレイのほうがより詳しく知っている。
「とにかくもうみんなのところへ戻るといい。心配なら彼に手紙を書くよ」
「ん。あの、団長じゃなくて。あたしもあなたと一緒に居られたらと思ったの」
「ありがとう」
アンドレイの言葉を聞くと、エレーナは初めての恋がすぐに終わってしまったのだと感じた。そしてバレエ団に戻れば、二度とアンドレイに会うことはないだろう。
「なんだか辛いわ……」
「君はまだ若い。これからだよ」
「あなただって若いのに、年寄みたいなことを言うのね」
黙って笑んでいるだけのアンドレイにエレーナは思い切って尋ねる。
「アンドレイは恋人はいないの? 誰かを愛してる?」
「誰もいないよ」
「そう。ここにもずっといないんでしょ?」
「何年かはいるけど、永遠にはいないだろうね」
「ねえ、北にはもう住まない? 住んだことあるんでしょ?」
「そうだな」
一世紀以上前に暮らしていたとは告げずにあいまいに返事をする。
「今度は北に住んでよ。きっとあたしも何年かしたら旅は終わって北に戻っていると思うの」
エレーナは我ながらいい提案をしていると思った。
「そうだな。特に次を決めているわけではないから君の提案に乗るとするか」
アンドレイの言葉にエレーナは飛び上がる。
「あたしがたぶん居るところは北の国でも西国に近いの」
エレーナはアンドレイに紙とペンを借りて簡単に地図を描き、町の名前を記した。小さな町のようだが比較的中央に近く、政権交代を援助するニコライにとって都合の良さそうな町だ。
アンドレイが数年後そこに行ったとき、北国がどうなっているかわからない。アンドレイにとって国や人にどんな変化がもたらされようともあまり関係がなかった。ただエレーナが巻き込まれていないといいと願うくらいだ。
「きっときて!」
「ああ」
守られるかどうかわからない約束だが、エレーナは悲しい別れにならなくてすんだと喜んだ。最後にまたアンドレイを抱擁し、左右の頬に以前よりしっかりとキスをして去っていった。