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日米蜜月 二次創作集

日本陸軍の小火器 小銃編

作者: 究極無敵銀河最強女狐

第二次世界大戦における日本軍の活躍では、戦車・航空機・空母などの重兵器に人気が集まりがちである。しかし実際の戦場では、九九式小銃といった小火器が兵士を名実ともに支え続けた事も事実である。

本稿では、第二次世界大戦中に使われた日本陸軍の小火器の開発推移などを語っていこうと思う。

なお自動小銃、機関銃、短機関銃、擲弾筒、拳銃などの他の小火器は後日、解説予定である。

・日本陸軍と第一次世界大戦

日本陸軍の小火器開発の推移を語る上で外せないのが、第一次世界大戦である。この戦争にて日本陸軍は総数にして50万もの兵をヨーロッパへ派遣した。書類上は1個方面軍・9個師団の派兵であったが、大消耗戦に耐え抜くための支援・後方支援部隊、前線の師団との交代要員が合わさり、大所帯となった。そして彼ら遠征軍の主力小銃だったのが、三八式歩兵銃と三八式騎銃と四四式騎銃である。


三八式歩兵銃は明治38年(1905年)に採用された小銃であり、当時としては最新鋭の銃である。ダストカバーの設置など、日露戦争での教訓を活かした堅牢な作りが特徴の銃だった。

三八式騎銃はそれのバリエーションであり、全長が300mmも短くなった。派遣当時は後述する44式騎銃への更新が完了しつつあり、主に工兵・砲兵などの支援兵科にて用いられた。

四四式騎銃は三八式騎銃の発展・改良型にあたり、銃身先端部に折りたたみ式の銃剣が付いてるのが特徴だった。

欧州派遣軍はこれら3種類の銃を用いて、ヨーロッパでの塹壕を戦い抜く事になる。



・戦場における評価

それでは、三八式歩兵銃、三八式騎銃、四四式騎銃の評価はどうだったのか見ていこう。


三八式歩兵銃は塹壕内という劣悪な環境でも確実に動作し、その信頼性を遺憾なく発揮した。特にダストカバーの存在は大きく、多少泥を被っても発砲できた事は、イギリス軍の主力小銃であるリー・エンフィールド小銃とは対照的であった。

さらに6.5mmx50SRの小口径弾である三八式実包を用いていたため、長銃身と合わさり反動をほぼ吸収してくれた。おかげで遠距離からでの高い命中精度を誇り、防御戦闘や狙撃では猛威を振るったという。

ただし全長1276mm、着剣時1663mmという長さは塹壕内での取り回しが悪く、一部の歩兵部隊では三八式騎銃へ更新が行われた。


前線では多くの歩兵部隊が三八式騎銃への更新を望んでいたとされる。何故この要求が通らなかったというと、元々体格が小さい日本兵が騎銃を用いた場合、着剣時の格闘戦で負けるという考えから、軍上層部は三八式歩兵銃の使用継続を命じたという説が一般的であった。だが近年では、三八式歩兵銃の生産ラインを簡単に変更できなかったためという説が有力視されている。

当時の小銃は最終仕上げに職人によるすり合わせが必要で、加工機械は全て外国からの輸入品であるなど、非常に前近代的なものであった。そのため生産ラインを増やしたり切り替えるのが困難であり、ましてや第一次世界大戦という消耗戦で兵器需要が高騰してる中では不可能な話であった。事実、三八式歩兵銃・騎銃ともに職人の数は増えたものの、加工機械の数はほぼ変わらなかった。

そのため、10年前に大々的に導入した三八式歩兵銃の生産ラインをそのまま使い続けるしか選択肢がない状態であった。


他二種類の銃の評価は概ね良く、特に全長が短くて命中精度も三八式歩兵銃と変わらない三八式騎銃が好まれた。

このため第一次世界大戦の戦訓も相まって、戦後の軍縮期には歩兵にも三八式騎銃を主力として配備することとなった。


・戦場の中で見えた問題点

こうして第一次世界大戦にて使われた小銃達であったが、当然問題点も浮上した。その中でも一番の問題とされたのは威力不足であった。後世で言われるような部品の互換性の無さは当時の小銃では当たり前の事であって、さほど問題視はされなかった。

この威力不足というのは、対人のみならず、トーチカや装甲車、戦車といった硬目標に対するものでもあった。


対人戦では7.92×57モーゼル弾を使用するGew98に撃ち負けることが多発した。これは些細な理由等により偶発的に発生する、塹壕を挟んだ小銃同士での撃ち合いで発覚した問題だった。この偶発的戦闘では、機関銃は位置バレによる狙撃や報復砲撃を恐れて参加できず、必然的に小銃だけの撃ち合いとなった。

すると、モーゼル弾は塹壕に積まれた土嚢を貫通してくるのに対し、三八式実包は土嚢も木板も中々貫通しなかったので、必然的に日本兵の損害が増して撃ち負ける事態が多発した。


硬目標については少々事情が異なる。

ドイツ軍は野戦築城を得意としており、戦場において簡易的なトーチカを多数構築していた。

連合軍の攻勢時にはこれらトーチカを歩兵銃のみで対処する事例が度々発生していた。威力の乏しい三八式実包では徹甲弾を用いても薄いコンクリートを貫通できず、撃ち負ける事例が多発していたのである。

さらに戦争末期のドイツ軍の春季攻勢では装甲車とともに、鹵獲されたイギリスの戦車まで相手する事になる。結果、三八式実包では戦車の装甲を貫通できず、部隊が大損害を被る事態まで発生した。


他にも小口径弾を用いた弊害として焼夷弾や曳光弾などの特殊弾が使えない問題もあった。

これは機関銃では問題とされ、九二式重機関銃の開発につながることとなる。

威力不足や特殊弾の使用不可は小口径の三八式実包に起因するものであり、こればかりは銃そのものの更新でしか解決法が無かった。




・停滞する新小銃の開発

第一次世界大戦にて砲火の洗礼を受け、現小銃の欠点を洗い直した日本陸軍であったが、戦後は思うように小銃の開発が進むことはなかった。

これには戦後の予算削減や戦車や航空機などの重兵器の導入による予算の圧迫などもあるが、一番の大きな理由は、前述した欠点の数々がある程度解決できる目処がついたためである。

威力不足は機関銃や擲弾筒、歩兵砲などの重火器の配備などで補えば良いし、特殊弾も小銃ではあまり使用されないため問題にならず、全長が長い事も三八式騎銃の配備という形で解決できた。

そのため戦後は三八式騎銃が歩兵部隊の主力小銃になっただけで、さしたる変化も無かった。

また小銃開発で暇になったメーカーも、7.7mm弾を用いる機関銃の開発や生産などに注力する事ができ、むしろ日本陸軍全体の火力強化につながったとも言われる。


もっとも自動小銃の開発などの努力は行われた。

だが本稿の趣旨から外れるため、その詳細は別紙にて記載することとする。



・陸軍の方針転換

こうして既存の小銃を使い続けることで軍の近代化を達成していた陸軍であるが、その方針を変えねばならない時が来た。

きっかけは1937年の陸軍大増強であった。


この大増強によって陸軍は多数の小火器の追加配備が必要となった。そうなると小火器の生産ラインをなるべく単純化する必要があるのだが、当時は口径も弾の種類も使用する小火器によって違っていた。

例えば三八式騎銃と九六式軽機関銃は三八式実包、九二式重機関銃は専用の九二式実包、九七式車載軽機関銃は九二式実包をリムレス化した九七式実包、十一年式軽機関銃は三八式実包の弱装弾といった具合である。

これでは生産ラインの煩雑化は免れず、非効率的であった。


そこで陸軍は国産銃の使用弾薬を、九七式実包を基に開発する7.7mm×58弾、後の九九式実包に統一する事とした。

これにより弾の生産ラインを統一するのみならず、第一次世界大戦時から言われ続けた三八式実包の威力不足問題を解決しようとした。


もっともこの試みは第二次世界大戦中に大量のアメリカ製銃火器や新型国産銃専用弾薬の採用により失敗し、弾の統一がある程度達成されるのは、戦後のNATO規格採用を待たねばならなかった。




・九九式小銃の誕生

九九式実包を使用する新小銃は三八式歩兵銃の機構を踏襲したボルトアクション式を採用することとした。

これは自動小銃の開発失敗により、新小銃は革新性よりも保守性を重んじたためである。


開発は1938年4月に開始し、10月には名古屋工廠と小倉工廠の2社が試作銃を提示。陸軍はこの2種類の折衷案を採用し、数度の試験を経て1939年7月に「九九式小銃」として仮制式採用され後に、1940年に「九九式短小銃」と名前を変えて制式採用された。


世間一般では九九式小銃という名前が普通である。これは一応合ってるのだが、制式名称では「短」の字が入っている。

これは派生型として「九九式小銃」が後に開発された際に名前が変更されたためである。

この九九式小銃は第二次世界大戦の勃発により極小数が作られただけに終わったため、知名度が低いまま忘れ去られた。(ただし反動が小さく弾道特性も良好だったため、九九式狙撃銃の母体に流用された)

本稿では分かりやすさを重視し、以後「九九式短小銃」を「九九式小銃」として、「九九式小銃」を「九九式長小銃」記載し続ける。




・九九式小銃のスペック

九九式小銃は全長1,118mmと、当時の主力であった三八式騎銃の全長976mmと比べ、約150mmも長くなった。これは九九式実包の反動を少しでも抑えようとした結果である。それでも反動が大きく、前述した九九式長小銃の開発につながった。


技術面での特徴としては、銃身にクロームメッキ加工を採用した事が挙げられる。

これにより銃身の寿命を延伸するだけでなく、手入れも比較的楽に行えるようになった。

このクロームメッキ加工は十一年式軽機関銃の銃身寿命の短さに苦しんだ経験から、九六式軽機関銃より採用されたものだった。

この加工法は銃の値段や製造の手間が増えるものの、陸軍は第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦訓から、ライセンス生産品含む全ての国内生産銃に採用していき、戦後にも受け継がれることとなる。


また珍装備として対空用照準器と一脚の採用が挙げられる。

対空用照準器は中隊単位での対空射撃を、一脚は少しでも反動を軽減しようとした考えた結果、導入されたものだった。

特に対空用照準器については、一丁の機関銃よりも複数の小銃での射撃が飛行機に当たり易いという最新の研究結果を反映したものであり、後のインドネシア戦争ではこの理論が実証されることになる。だが、主力小銃として使うには壊れやすく使いづらい装備であったため、新兵以外からの苦情が相次いだ。

この2つの珍装備はある意味、新時代の戦いに備えようとした当時の陸軍の前向きな姿勢を示している。





・量産と初実戦

本来、九九式小銃の量産開始は1941年を予定していた。

しかし、第二次世界大戦の勃発により、この予定はかなり前倒しで進むことになる。


1939年度は生産ラインの増設に励み、量産開始は1940年2月からになった。ただしこれは生産ラインの不具合を見つけるためのものであり、生産数も数十丁程度であった。

本格的な量産は同年5月から始まり、以後1940年度は月産500丁のペースで生産される事になる。



1940年9月5日より支那戦役が発生し、日本が本格的に世界大戦へ参入すると、九九式小銃は早速実戦を経験することになる。

九九式小銃が実戦に就いたのは、10月頃の上海戦役からであった。この頃の上海は中国軍による攻撃が激しさを増し、陥落も時間の問題であった。そのため使えるものは何でも送るという風潮があり、本銃も支援物資として上海を守る海軍陸戦隊に送られたのだった。

数は1000丁程度であり、これは他の歩兵連隊に配属する予定だったものを流用したのがほとんどだが、中には技術本部に配備された試験用のものまで混じっていたという。これは量産が始まったばかりの九九式小銃は不良品が混じっている可能性があるが再検査する時間は無いため、間違いなく高精度な小銃として試験用のものが選ばれたためだという。

標準規格確認用のものまで送る予定でもあったが、今後の生産に多大な悪影響を与えるとして工場側から猛反発を喰らい、見送られたという逸話も残っている。



九九式小銃は上海防衛戦を経てテストされた結果、三八式騎銃を扱える兵士なら誰でも使える点が評価され、直ちに全軍に普及させるべきという評価が下された。

ただし口径が大きくなったことによる影響で、射撃時の閃光が大きくて目がくらむ、反動が大きすぎるため命中率が悪いという苦情が相次いだ。

そのため陸軍では反動が比較的軽い九九式長小銃を主力とするか検討したものの、三八式騎銃よりも重くなった銃をさらに重くしてもデメリットしか無いと判断され、見送られた。

代わりに徹底した教育を実施し、兵達を九九式小銃に慣れさせる事とした。


こうして実戦デビューを果たした九九式小銃は、1942年より配備が急速に進むこととなった。

というのも、九九式小銃は大量生産が可能な銃であったためである。


第一次世界大戦までは小銃の生産は輸入された工作機械と職人のカンに頼っていた。

しかし1930年代にアメリカの資本・技術力が日本に投資された結果、国内の工業力・技術力が増し、工作機械も自作できるようになった。さらに最終調整もほとんどが工作機械で行えるようになり、今まで必要だった職人芸が必要な場面も著しく減った。

他にも第一次世界大戦時に臨時雇用した機械工経験者、同様に臨時雇用されたが軽機関銃や三八式騎銃生産のため雇用され続けた銃職人が多数存命で、簡単な教育を施すだけで現役に復帰できたことも追い風となった。

もっともアメリカのM1ガーランドのような規格された部品による部品互換性はまだ有しておらず、戦争後期を待たねばならなかった。


それでも1941年度末には月産1万丁を達成し、1942年末には中期型の登場、参戦後に大量増設した生産ラインの稼働によって月産6万丁を記録し、以降は月産5万丁前後のペースで量産されることになる。

生産数が減った原因には、自動小銃や機関銃の需要増により生産リソースをそちらに回したのと、後述する派生型の生産に一部資材や人員を割いたというのが理由である。。




・九九式小銃の進化

九九式小銃の実戦使用が相次ぐと、戦訓も多数手に入るようになった。

特に九九式小銃は主力小銃という事もあり、戦争中に多数の改良型・派生型が誕生することになる。


最初の改良として、対空用照準器をタンジェント・サイトに変更する、一脚の廃止、使用木材の変更などの簡略化が行われた。この改良型は中期型と呼ばれ、1941年末から大量生産に入った。これが最多生産型となり、以後多くの新兵がこの中期型を最初の銃として受領した。


次の改良型では部品規格の採用と部品の互換性の獲得が行われ、1944年半ばに登場した。これは後期型と呼ばれている。この銃の登場により、日本はようやく欧米と肩を並べる事になったと言われる。

ただし一部工作機械はアメリカからの輸入に頼ったこと、既存の生産ラインで稼働する工作機械を置き換える必要から中期型を置き換えることはできず、終戦まで中期型との並列生産を行った。

ちなみに変わったところだと、日本陸軍伝統の菊の御紋が廃止されている。これは専門の機械で菊紋を刻む工程を省略し、生産性を上げるための処置だった。だがこの変更は日本陸軍が戦争を通じて、天皇の軍隊から国家の軍隊へと生まれ変わった証拠として、現代に至るまで語り継がれることとなる。


なおこれらの改良型は、初期型と同じくらいの高品質を保ち続けた。

これは1930年代にアメリカから導入されたマスプロダクションのおかげで安定した品質の部品を供給し続けることができたのと、日本の職人芸のおかげだという。

中期型までは職人による調整が行われていたため、部品に1つ1つが芸術品のように綺麗だったと言われている。

後期型では職人による加工の工程は激減するも、代わりに高性能の工作機械が生み出す部品の質の高さが後を継いだ。

もっとも品質を維持できた最大の原因は、日本本土がほとんど攻撃を受けなかったことによる心理的余裕であると一部の軍事評論家から指摘されている。


最後の改良は戦後になって行われた。この改良の内容や評判を今書くと時系列の順番が前後し、文が読みにくくなるので、後述の「戦後の九九式小銃」に詳細を記す。




・九九式小銃の派生型

派生型には九九式長小銃、九九式狙撃銃、二式小銃(テラ銃)、九九式自動小銃がある。


九九式長小銃は、九九式小銃試験時に指摘された反動の大きさを解消すべく、開発された小銃である。

その長さは既に退役した三八式歩兵銃に匹敵し、その分銃身長が伸びたおかげで反動も抑えられ、射程や命中率も向上した。だがその分取り回しが悪く、また重量も相応に増えてしまった。何より長過ぎる銃は、第一次世界大戦のような塹壕戦のみならず、日本陸軍のドクトリンである歩兵による機動戦(および追撃戦)とも相性が悪かった。

試験の結果、メリットよりデメリットが大きいと判断され、九九式小銃の配備が適当とされた。



だが満州帝国陸軍が本銃に興味を示した事で風向きが変わる。

満州帝国はソ連と中華民国という二国に挟まれている都合上、どうしても要塞を用いた防戦ドクトリンを採用せざるを得なかった。また満州帝国は平野が多い土地であり、その分長射程の銃が性能を発揮しやすい土地であった。

そのため長射程で命中率も良い本銃は満州帝国陸軍の戦術と相性が良く、時期主力小銃の一つとして候補に上がるほどだった。(銃の長さも、塹壕ではなく整備された要塞で使うため問題ないとされた)


満州帝国陸軍は試験に用いられた試作銃を数丁輸入しテストした後、部隊運用試験用に数十丁を確定で発注。さらに運用試験後に一個師団分の輸入とライセンス契約権の購入を約束した。

これを受けて陸軍は生産ラインの設置を急遽決定、合わせて満州への輸出用に治具と工作機械の用意を小倉工廠に命じた。


しかし、第二次世界大戦勃発とそれに伴う満州帝国陸軍の小火器増産(およびアメリカからの供与)によって満州帝国陸軍の小火器はアメリカ製が大多数を占めるようになり、そうなると日本規格の弾丸と部品を使う本銃は補給に混乱を来すとして、1940年4月頃に導入計画がキャンセルされてしまう。


本来なら生産中止の処置を取るべきだが、第二次世界大戦勃発を機に量産開始を急いだのが仇となり、既に量産体制が整って初期生産すら開始されていた。そのため現場の混乱を抑えるべくそのまま生産ラインを稼働させ、合わせて本銃を「九九式小銃」として急遽準制式採用することとなった。

これにより、本銃の派生元であるオリジナルの九九式小銃は「九九式短小銃」へと書類上の名前を変える事になる。


本銃は数百丁程生産された後、生産ラインがそのまま九九式狙撃銃へ流用される形で生産が終了。

生産既の個体も狙撃銃仕様に改造されたか、教練銃として内地の訓練施設で使い潰されることとなった。オリジナル状態での現存個体は確認されていない。(九九式狙撃銃に改造された個体は現存している)




九九式狙撃銃は九九式長小銃の生産ラインを転用したものであり、現在では基となった九九式長小銃よりも高い人気と知名度を誇る。


九九式長小銃は前述の理由で極少数が生産されたにとどまったが、生産ラインを撤去するわけにもいかなかった。

生産ラインの撤去は一週間以上かかる大工事の上、撤去中の事故を防ぐため他の生産ラインの作業を止める必要があった。

それだけに留まらず、満州帝国向けに多くの工作機械や治具が生産既であり、これら機材を死蔵するだけの余裕は戦時下の日本には無かった。


そこで九九式長小銃試験時に行った、スコープ使用による長距離射撃試験の試験結果がにわかに注目される。

この試験結果が良好だったため、1939年11月の時点で長小銃の一部生産ラインを割いて狙撃銃を製作する事が決定されていた。そして1940年4月に後述する九七式狙撃銃での経験を盛り込んだ試作銃が完成。試験後、同年8月に仮制式採用され、同年末に「九九式狙撃銃」として制式採用された。

なお、仮制式採用と制式採用の間が短い、つまり部隊運用試験や量産開始までの準備が極めて短いのは、九七式狙撃銃を使用する部隊に配備するとして運用実験を省略したのと、九九式長小銃の生産ラインを全て流用した事が理由である。(もちろん戦時下だったのが最大の理由である)



九九式狙撃銃は長小銃に四倍率スコープを取り付け、さらに操作性の向上目的でボルトハンドルを向きに曲げるなどの小改造が施された。

九九式小銃中期型以降の簡略化の流れをくまないため、前期型の特徴である一脚も最後まで省略されなかった。(対空用照準器は九九式小銃前期型への装備が優先されたため装備されていない。代わりにタンジェントサイトを装備。)


九九式狙撃銃は量産を急ぎすぎたため、量産初期はスコープが足りないという事態が多発。

そのため工場ではスコープ未装着を理由に出荷できない本銃、通称「目無し狙撃銃」が多数死蔵される事態が発生した。幸い、アメリカ本土で代理生産された本銃のスコープが供与され始めたこで、1942年度中には目無し狙撃銃問題は解決した。


九九式小銃後期型の大量生産開始以降は、余剰となった銃職人や最新の工作機械が使えない熟練工が生産に携わったため、戦争後期になればなるほど質が高まったという珍現象が発生したという。


九九式狙撃銃は、九七式狙撃銃と比べ反動が強い欠点はあるものの高い命中率を誇り、枢軸国兵士から恐れられることとなる。

だが九九式長小銃がベースなため一部工程に専用の工作機械が必要だった。当時の国内メーカーや、アメリカのメーカーは他の汎用工作機械の増産・維持に手一杯だったため、専用工作機械の数は中々増えず、生産は遅れていった。

それどころか部品の規格化が最後まで行われなかったことで効率的な生産が出来なかった。


九九式小銃後期型をベースとした再設計案自体は検討されていたものの、後期型の導入によって狙撃銃へと流れた熟練工達をみすみす失業させることは出来ず、見送られることになる。

他にも九九式小銃をベースとする案も存在したが、需要が非常に高い小銃の生産数を減らすことを陸軍上層部が嫌い、計画のみに終わった。

結果、現場では九七式狙撃銃との併用が終戦まで続くことになる。


総生産数は戦後の再生産品も含め、10万丁程とされる。内、戦時生産数は7万丁ほどである。

これはドイツのGew43狙撃銃仕様が1944年7月から46年6月の2年間で約15万丁作られたことを考えると非常に少ない。

(ただしGew43狙撃銃仕様の生産数は、ヒトラーの勅令による大量生産令と戦時生産による検査の杜撰化により達成した数字であることを留意しなければならない。また同銃は前述の理由で粗悪品も多数混じっており、実際に狙撃銃として使えたのは5~6割ほどではないかという推測もされている)




二式小銃は空挺部隊のパラシュート降下時に携帯できる小銃という要望に答える形で作られた。


開発は空挺団の編成が決まった1939年に開始され、1941年度中の制式採用を目指した。

開発当初、二式小銃は九九式小銃のストック部分を蝶番を用いて左右どちらかに折り畳む形式で設計されており、実際、試作品である試製一〇〇式小銃はこの形式を採用した。

しかし試験の結果、折りたたみを繰り返すとストックの切断面に施された防水加工が剥がれ、そこから腐食やカビの増殖が発生する例が発生したため、量産化は見送られた。


そこで戦前に試作した二分割式の三八式騎銃が注目された。

これは東鉄情報部が入手したドイツ軍の降下猟兵向け試作銃「Kar98/42」の分解方式を完全模倣したものであり、後方兵科や航空機の備品として試作されたものの、必要とする工作精度が高すぎて不採用となっていたものだった。

この試作銃を基にベースを九九式小銃に変更し、構造を簡略化することで作られたのが試製一式小銃であり、こちらはわずか二ヶ月で設計・試作したと言われるほどの突貫工事が行われた。

だが試験結果は良好であり、数ヶ月の試験と小改良を経て、1942年度初頭に二式小銃として仮正式採用され、同年後半の制式採用と同時に量産が開始された。

量産準備までも突貫で行われたため、関係者から「吶喊銃」とあだ名されたという。



特徴はなんと言っても、銃本体を二分割にすることが出来る点である。

これによりパラシュート降下時でも小銃を携行できるようになっており、サブマシンガンや拳銃、M1カービンの射程外からアウトレンジされる問題をある程度解決している。


本銃用の銃剣として、二式銃剣という三十年式銃剣を20cm程短くした銃剣も製造された。

この銃剣は本来空挺部隊向けの限定生産品だったのだが、空挺部隊に短い銃剣が配備されているという噂が広まると前線の至るところから配備要求が殺到したため、一般兵科向けにも大量生産が行われるようになった。

その後二式銃剣はさらに刀身を5cm短くして量産性を良くした四式銃剣へと改良され、戦後も暫く使用されることになる。


二式小銃は前期型と後期型が存在し、前者は九九式小銃中期型を、後者は九九式小銃後期型をベースとしている。後期型は部品の規格化により九九式小銃後期型と一部部品の互換性がある。


戦争後半でグライダーが多数用いられても、コストの問題からパラシュート降下が引き続き使われ続けたため、二式小銃は重宝されることになった。

そのため九九式狙撃銃とは違って大量に生産され、末期には空挺部隊の被害が減ったことから余剰になる程だったため、一部が戦車や装甲車の備品として支給された。

総生産数は30万丁ほどであった。



ちなみにテラは「挺進落下傘/挺身落下傘」用小銃の文頭から取ったものであり、どちらかというと小銃区分を指す言葉であり、個体名を指す言葉ではない。だが挺進落下傘用小銃の採用例は本銃のみなので、戦後は本銃を指す言葉として普及した。




九九式自動小銃は九九式小銃をベースとした自動小銃であるが、詳しい説明は次回、自動小銃編にて行う。




・旧式の小銃達

九九式小銃の前に存在した小銃達はどうなったのであろうか。

本項ではそれぞれを解説する。


三八式歩兵銃は戦前から三八式騎銃に更新される形で予備役となり、多くがそのまま使われないまま眠るかに思われた。

しかし、陸軍は第一次世界大戦の戦訓から狙撃銃の必要性を痛感しており、開発費の低減も兼ねて三八式歩兵銃をベースとした狙撃銃を開発した。

1937年に開発された九七式狙撃銃は、三八式歩兵銃の中から比較的新しく、なおかつ射撃精度も高い個体に2.5倍率のスコープを取り付け、その他多数の小改造を施した改造銃である。

生産は全て三八式歩兵銃の改造という形で行われ、九九式狙撃銃の生産が本格化する1942年頃まで生産が続けられたとされる。


九七式狙撃銃は反動が小さく、なおかつ使用する三八式実包の特性も合わさり、非常に遠距離狙撃を行いやすい銃と化した。

その命中率は驚異的であり、冷戦終結後にアメリカの銃火器保存団体主導で行われた試験では「全参戦国が使用した銃の中で最も命中率に優れた銃」という評価を獲得した。

この銃の恐ろしさは枢軸国兵士のみならず、鹵獲された本銃に撃たれた連合国兵士にも牙を向いた。

そのため日本軍では、鹵獲されそうな状況下に置かれたら菊の御紋を無視してでも躊躇なく破棄せよとの特例が下ったほどだった。また捕虜にされた時に本銃を所持していたら惨たらしく殺されるという噂も広まり、新兵や迷信深い狙撃手からも忌み嫌われたという。(実際のところ、捕虜となった狙撃手が惨たらしく殺されるのは万国共通であったのだが)


九七式狙撃銃は後継の九九式狙撃銃の生産が遅々として進まず、また前線の将兵の強い人気もあって終戦まで使用が続けられた。

総生産数は2万丁とも3万丁とも言われる。



戦時中に九九式小銃の生産が軌道に乗ると、三八式騎銃、四四式騎銃は第一線を退くことになる。

しかし三八式騎銃はその全長の短さと反動の小ささから、場所を変えつつ細々と使われ続けた。


例えば一部歩兵部隊ではスコープを無理やり増設する改造を施し、三八式騎銃を狙撃銃として運用した。これは九九式狙撃銃の配備が中々進まず、九七式狙撃銃の生産も終了し、在庫がないことによる苦肉の策であり、主に開戦初頭より前線に投入されて続けている連隊に見られた。

こうした改造狙撃銃は軍規違反による処罰の対象となるため、多くが後方に下がる際に元に戻されるか、使い潰して戦場で遺棄されるなどされたため、現存数や資料が極端に少ない。

また戦争後期になると、部隊の後方移転とそれに伴う装備の補充・更新によって改造する必要がなくなり、改造例がほぼ無くなっていった。

それ故、幻の狙撃銃として戦後に人気となり、アメリカにて偽物が多く出回る事となった。

近年の例としては、ロシアにて兵士の遺骨・遺品収集をしていたところ、泥沼の中からドイツ軍に鹵獲され使用されていたと思わしき本銃が見つかり、SNSを通じて大きな話題となった。


また砲兵や工兵、空挺部隊などは、全長の短さから終戦時まで三八式騎銃や四四式騎銃を愛用したという。ただしこれら兵科にはアメリカから供与された(国内でのライセンス生産品含む)M1カービンが装備されるようになると、次第にその数を減らしていった。


総じて九七式狙撃銃という例外中の例外を除き、大戦末期には全ての三八式騎銃や四四式騎銃は予備役として倉庫に送られることとなる。




・戦後の九九式小銃

1946年に第二次世界大戦が終結に伴う動員解除が始まると、前期型と中期型の退役が行われることになった。両者は銃身寿命が来ていた事もあるが、何より部品の互換性を有していなかったのが問題とされたためである。

日本陸軍内では、平時ならまだしも戦時における部品の破損や紛失はもはや不可避な事態という認識が広まり、簡単に修理できない銃は実戦には不適と評された。(ただし平時での部品損失は防げるものとされ、今日に続く過剰とも言える銃の整備や部品捜索等の問題につながる)

またこの判断以外にも、アメリカから大量に輸入された工作機械と戦時に育成された工員両方を暇にさせない(失業させない)ために、旧式の銃を一気に退役させて新銃を作らせるという目的もあった。もし軍縮派の議員が「なぜまだ使えそうな銃を使わないのか」と質問したならば、上記の理屈を持ち出せば簡単に黙らせられたとも言われる。


前期型は1947年度中には全て退役し、中期型も後期型に変わる形でほとんどが予備役送りとなる。

未だに極一部で現役であった中期型は、支那戦争時には後期型やM1カービン改(M2仕様)、四式自動小銃に追われる形で基地警備隊の装備へと都落ちし、ほとんど実戦を経験しなかったとされる。

それどころか、支那戦争中に新銃の生産が多数行われたことで現役を維持する理由も無くなり、戦争中にひっそりと退役した。


後期型は主力小銃として戦後も生産され続けたが、1948年初頭には四式自動小銃に代わる形で生産を終了した。

だが四式自動小銃がいくら優れていても、軍事予算の制約、M1カービンからの更新を優先したという事情もあり、多くの九九式小銃後期型は第一線にとどまることになる。この傾向は国内に駐屯し、海外派遣の予定のない連隊に多く見られた。(逆に国外に派遣中、または派遣予定の連隊は四式自動小銃への更新が優先して行われた。)

そのため1950年に勃発した支那戦争にも主力小銃として従軍することとなる。


支那戦争では原爆が多数使われたため、1951年まではあまり銃撃戦は発生しなかったというイメージが強いが、実際ではそうではない。

人民解放軍も数に任せた攻勢や反撃を行うことがまま有り、砲兵による火力支援や航空支援(時には原爆)が到着するまでは、最前線では常に数的劣勢化で銃撃戦を行わざるを得なかった。


1951年1月10日のジュドマロース宣言、ソ連の核実験成功と原爆西側専有時代終焉の報、をきっかけに原爆が使用できなくなり、ソ連から送られた大量の義勇軍を用いた人海戦術が頻発するようになると、その傾向はより顕著となった。


戦闘の中で九九式小銃はボルトアクション式に起因する連射力の低さと装弾数の少なさが問題視され、次第に第一線から遠ざかるようになった。これには支那戦争勃発により四式自動小銃の生産数が一気に増加したため、予定よりも早く更新作業が進んだという理由もある。

九九式小銃後期型は支那戦争末期には実質的に第一線から退くこととなり、支那戦争終戦後の1955年には予備役となった。だが、軍内での九九式小銃の使用は終わらなかった。


NATO弾の規格が定まり、陸軍内で戦前からの悲願であった使用弾薬の統一の気風が高まると、九九式小銃にもNATO弾対応改修が行われた。

この改造は当初、四式自動小銃のNATO弾対応のための試験が目的であり、数丁程度の改造にとどまる予定であった。しかし全歩兵携行火器を国産銃に統一するべきとの提案書をきっかけに話は膨れ上がり、いつの間にか後方兵科への配備のみならず、親日国への輸出と日本製銃火器の海外市場での地位確立を目指すという大規模な計画にまで膨張した。


ここまで話が膨れ上がった理由に、砲兵や輜重兵、内地の基地警備隊などの後方兵科に四式自動小銃は高価過ぎ、M1カービンは構造上NATO弾改修が不適のため、丁度良い装備としてNATO弾対応改修の本銃が期待されたというのが挙げられる。

また戦前の得意先だった満州や支那軍閥が、独立に伴って銃の国産化やアメリカ製銃火器を採用するなどして日本製銃火器から離れたため、民間の銃火器製造企業を存続させるため東南アジアを中心に新たな市場を構築する必要があったとされる。


改修の内容は7.62x51mm NATO弾への対応であり、新規製造はなく、既存の九九式小銃後期型、それも戦後に生産された個体を改造する形で1956年から生産された。

戦後の個体が選ばれたのは、戦前の設計通りの高品質木材を使ったため、戦時生産型より耐久力が高く、NATO弾による強力な反動に耐えうるとされたためだ。

このNATO弾対応の九九式小銃は一般的に最終型と呼ばれている。


だがこの改造は失敗だった。

まず改造の費用が当初の想定よりもかかり、一丁の改造費がM1ガーランド一丁の新規調達費を超えてしまった。これは銃身のクロームメッキの再処理や銃そのもののオーバーホール費用を計算に入れてなかった事が原因であった。

次に後方兵科向けとは言え、支那戦争の戦訓から旧式化が明らかな銃を兵士に持たせる事に、陸軍寄りの政治家や陸軍内ですら反対意見が噴出した。この反対意見は新聞への寄稿という形で国民や一般兵達にも知られ、支那戦争を経験した兵士達から最終型を配備しないことを願う嘆願書が家族名義で兵部省に提出される始末だった。

さらに友好国への輸出も、既にアメリカ製の安価な中古自動小銃が友好国で採用されていたことから一丁も売れず、大失敗に終わった。


そのため生産期間はわずか2年、生産数も大幅に減って数百丁程の少数となり、費用も改造数の大幅減少によって四式自動小銃一丁分に達した。

おまけに最低でも数千丁の需要を見越して改造業務を請け負った日本特殊鋼から、契約違反を理由に裁判を起こされ、陸軍が敗訴するオチまでついた。


生産された個体も海軍や戦略空軍に払い下げられる事となる。前者は艦艇の備え付け、後者は基地警備隊や爆撃機の備品として80年代まで用いられた。


銃自体の評判も悪かった。使用弾薬のジュール値が増加したことにより弱装弾を用いても反動が強くなったため、兵からは「肩壊し銃」、「バカ小銃」、「年増」という不名誉なあだ名を付けられた。

そのため九九式狙撃銃や二式小銃は、戦後も使用弾薬を変更せずに用いられることになる。


それでも当初懸念された銃の負担増による自損事故がほとんど起きなかった事は、九九式小銃の品質の良さを表すエピソードとして有名である。

またフランスのFR F1/F2のようにNATO弾対応改修を行っても狙撃銃として成功した例もあるので、前述した当時の悪評は単に兵士の体格に起因する問題だったのでは無いかと近年指摘されている。

実際、90年代初頭に射撃訓練銃として本銃を新兵に撃たせたところ、前述した苦情はあまり聞かれず、むしろ射撃音の大きさが共通した苦情だったという。(新兵ゆえ射撃音で耳が馬鹿になっていなかった)


こうして晩節を汚す事になった九九式小銃であったが、その系譜を絶やさなかった。

前述した最終型は失敗作という意見が多いものの、そこで得たノウハウなどは次世代の小銃へと受け継がれることとなる。また当初の目的である四式自動小銃NATO弾対応改修の試験は十分果たせており、現代では存在自体は無駄ではなかったと評価される。



ちなみに意外なことだが、九九式小銃の使用自体は現在でも継続されている。

その唯一の配備先は儀仗隊であり、そこでは九九式小銃最終型が使用されている。

以前は後期型を使用していたものの、戦時生産型故に使用している木材の質が低く、経年劣化によりひび割れる事態が多発したため、海軍や空軍にて保管されるか訓練銃として使われていた最終型を陸軍が回収して90年代なかばより再使用している。

ただ近年では老朽化が著しく、2019年には式典用銃の開発が決定され、豊和工業による特許申請が行われるなど、後継銃の開発が着々と進んでいる。

日本軍内で九九式小銃が完全退役するまで後5年ほどであろうと見られている。



・民間での九九式小銃

九九式小銃自体も民間に居場所を見つけることとなった。


最初の居場所となったのは、中学校などの教育機関であった。

廃銃となった多くの九九式小銃は教練銃として中学校等に売られ、多くの学生が本銃を人生で初めて担いだ銃として記憶することとなる。

だが1970年代の改革開放政策と、それに伴う学校での軍事教練廃止によって教練銃としての価値を失い、ほとんどが破棄されるか非稼働銃としてアメリカ等の銃所持合法国に売られる。ままあった例だと、自治体の資料館が本銃を購入し、展示するというのもあった。

ちなみにアメリカでは九九式小銃の人気自体は高かったものの、撃てないという理由からあまり売れなかったとされる。ただし一部マニアが後述する戦後型の部品をむりやり流用して実射可能にするなどの改造を施した。


戦後の九九式小銃最大の晴れ舞台となったのは、アメリカであった。

同盟国であるアメリカ兵からは、九九式小銃は仕上げの美しさ、性能の良さから人気があり、戦後アメリカ国内の銃市場にて注目を集めていた。

これに目をつけた豊和工業は九九式小銃の生産設備、製造権を買い取ると、アメリカ民間市場向けに九九式小銃後期型の生産を開始する。

この豊和工業製九九式小銃は前期型に付いていた一脚をあえて取り付けることで他社の銃との差別化と、九九式小銃の特徴づけというイメージ戦略を用いた。他にも散弾への対応や、複数社の倍率スコープをつけるための米国規格マウントレールの増設などの小改造が行われた。

このため豊和工業製の九九式小銃は戦後型、あるいは豊和工業がつけた製品番号のM-100と呼ばれる事になる。


民間市場に出た九九式小銃は猟銃として人気を集め、アメリカ人から「キング・オブ・ライフル」の称号を得た。

その人気は現代でも衰えず、有志の手によって改造パーツが製造・販売され続けるほどの規模となっている。

さらに日本でも猟銃として使われた有坂銃の後継として、ある程度の成功を収めた。

また国内市場にて九九式小銃のライバルとして立ちふさがったM1カービンの民生品であるM-300も豊和工業製であり、どっちみち豊和工業に金が入るというオチがついた。


このアメリカ市場での大成功により、第二次世界大戦中から業績を伸ばしていた豊和工業は確固たる経営基盤を築き、大企業に成長。以後、様々なメーカーを吸収合併することにより、現代では日本最大の銃器メーカーとして君臨することになる。



・戦後の九九式小銃派生型

九九式小銃の戦後使用は派生型でも行われた。


九九式狙撃銃は1949年度には五式狙撃銃を後継にするという決定のため、一旦は生産ラインを閉じることになる。

しかし1950年から勃発した支那戦争の戦訓から、人民解放軍の人海戦術への対処に遠距離狙撃銃が有効(現場指揮官を狙撃し、指揮系統を麻痺させるため)と再認識すると、再び生産を再開することになる。

五式狙撃銃の生産は続いていたものの、高精度かつ遠距離での狙撃を考えた結果、本銃が復活した。


1951年から生産再開された九九式狙撃銃は戦後型と呼ばれ、九九式小銃後期型をベースとした再設計が行われた。具体的には後期型との部品互換性の取得、一脚から二脚への変更、スコープ装着用マウントレールを独自規格から米軍規格のものへと交換(これにより当時はまだ国産品より高品質だった米国製スコープが使用できる)等が挙げられる。

この改修によって部品の交換が可能となり、整備も容易になった。また狙撃銃自体が高精度を求められるという特性から、銃本体だけでなく予備部品を多数製造して不良部品をすぐ交換できる体制を整え、総合的に寿命を伸ばすという方法が取られた。

これは狙撃手がより専門的な知識を求められ、今までの狙撃手に求められた役割の多くが選抜射手とマークスマンライフルに交代した事が理由である。つまり狙撃銃の数はそこまで多く求められず、代わりに改造や整備が容易になるような体制が求められたのだ。


こうして復活した九九式狙撃銃の生産は70年代まで続いた。また生産終了後も、80年代と90年代に改修が行われ、近代化された。(ただしNATO弾対応化改修は見送られた)

そのおかげで2021年現在も現役である。ただし近年では戦後に開発された狙撃銃に見劣りするようになり、退役も近いのではないかと噂される。




二式小銃は戦後も空挺部隊などでしばらく使用が続けられ、インドネシア戦争時のパレンバン降下作戦でも少数が使用されたと記録に残っている。インドネシア戦争後に空挺部隊から退役し、戦車や装甲車の備品として残っていた個体も80年代には退役したと考えられる。


二式小銃がもっとも有名となったのは、戦後での民間の活躍であった。

というより、余りにも文化面での貢献が大きいことから、戦時中の活躍がオマケ扱いされることすらある。


ドイツなどの枢軸国に鹵獲された本銃が戦後に裏ルートを通じてマフィアの手に渡り、分解できる特徴を活かして暗殺用に使われることになる。楽器ケースに分解して収納したり、密輸の際も分解して思わぬ場所に隠すなど、軍隊以上に「二分割できる」という利点を活かした。

これに影響されて、無可動改造が施された本銃が英国のスパイ映画で使用されると、映画の世界的ヒットも相まってたちまち有名となる。

さらにこの人気にあやかる形で60年代のハリウッド映画に多数の本銃が小道具として使用された。


日本でも70年代の第二次特撮ブームの際に、ヒーローや悪役が使う合体武器としてハリウッドで不要となり払い下げられた本銃の改造品が多用された。

この合体する武器のコンセプトは子供たちからのウケが良く、中には一度きりの登場予定だった本銃の改造品が、評判が良かったので番組のテコ入れも兼ねて再登場させて、急遽おもちゃも販売されるという事例もあった。

こうした事例もあって80年代以降の各種特撮作品では合体武器というジャンルが定着し、現代までその命脈を保っている。


さらに本銃の活躍はネットミームという歪な形で現代まで続いている。

きっかけは、本銃の主任設計技師(本名未公開)の息子を名乗る男性がホームページで父親の戦後の本銃への反応を証言したことだった。

記事内では「俺が作った銃が悪役の銃になるのが分かってたら設計技師なんて目指さなかった」、「長生きするもんじゃない。今じゃ変な色に塗られた俺の銃が、変な格好した巨大な異星人だかヒーローだかに使われてる姿を見るハメになるとは」、「孫に嫌われないため、俺の銃みたいなおもちゃで遊んでるのを叱れないのは辛い」と、かなり否定的な心情を吐露したと書かれていた。


この証言が発表されてから15年後、支那連邦共和国製の銃擬人化スマホゲームに本銃が実装された際に上記のホームページが発掘され、プレイヤーから「親不孝者」、「戦勝国の末路」、「親以外誰からでも愛される女」とあだ名された。

最初は身内ネタだったのだが、ある日そのキャラの音声を使った音MADが動画サイトで投稿されると何故か流行し、有志の手によりシリーズ作品が多数制作された。さらに一部作品が転載という形で海外掲示板や動画サイトに輸入され、そこでも好評を博した。

この人気にゲーム公式が目をつけ、キャラの3Dデータを使用規約ほぼ無し(公式素材を明記しない再配布や、荒らし活動やヘイト活動時の使用、エロ目的での使用のみ禁止)で無償公開。

当時注目されつつあった、3Dアバターを用いたコミュニケーションゲームにそのキャラのスキンを用いたプレイヤーが増殖したことで、非日本文化圏や非英語圏の国々にも周知された。おまけに世界的に有名な某エロ動画サイトにそのキャラのエロ3D動画シリーズ(3Dスキンは公式配布のものをベースにフルスクラッチしたものを使用したため削除されなかった)が投稿されると、スキンの出来も相まって非常に完成度が高かった事からほぼ全てのエロ動画サイトに拡散され、世界中から「なんか知らんが妙に流行ってるエロキャラ」と認識され、さらなる人気を集めた。

最終的に既存のミームを取り込む形で各種ミームの常連キャラとなり、キャラのセリフ(中には編集や言葉遊びで無理やり言わせたもの、言ってないけど言いそうなセリフ含む)が元のミームも多数作られるようになった。


現在では「親以外の人類から愛される女」としてネットミームの地位を築いてしまった。



【追記】

本記事投稿の数日後に、前述のホームページでは13年ぶりの更新が行われた。

「ホームページ更新のきっかけは、孫が親父の作った銃が世界中で有名になってると教えたことでした。調べてる内に、ネットで親父の銃の名前をしたアニメの人物が有名になってるのを知りました。正直、親父にはすまない気持ちで一杯になってしまった。」

「孫には幼い頃から親父の作った銃を見せて親父の功績を語っていた。だけど今ではそれを学校で自慢しているらしく、とても恥ずかしいです。」

「息子に聞いたところ、私が傷つくからあえて言わなかったそうです。全く賢い男ですよ。」

「既に親父の享年を超えていつ死んでもおかしくない歳になるが、あの世で親父にどう報告すれば分からない。」

と男性の心情が吐露された事で、「親族からは愛されない女」「孫には愛される女」「孫はクソガキで勘当されそうだから、実質親族からは愛されない女」という新たな称号を得ることになる。

こうして第二次世界大戦を戦い抜いた九九式小銃は民間でも活躍し、改良を重ねつつ現代でも生産され続けている。

最近ではKar98の民間向けや、戦後に開発された自動小銃式の猟銃などに人気が集まっており、その地位は危ういものとなっていると言われることがある。


それでも九九式小銃の命脈が途絶えることはしばらくはないだろう。何故なら、第二次世界大戦を戦い抜いたという実績、猛獣を一発で仕留められる威力、高い命中精度、ダストカバーの装備等による汚れの強さは後発のライフルでは到底追いつけないものだからだ。


また九九式小銃の派生型も、片方は80年以上現役という伝説を、もう片方は偶然が重なり、映画やテレビ番組、ネットにて伝説を築き上げた。


ここまで多くの伝説を残した銃は他になく、伝説は今後も続くことになるだろう。


次回は日本軍の自動小銃について執筆する予定である。

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