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第3話 敬二

 池内千春は、加賀美敬二の姿が階段からのぞいたのを認めて、あわてて目の前のグラスに集中しているふりをした。

 背こそさほど高くないが、敬二はひきしまった身体つきにきりっとした顔立ちを持ち、一緒にいるところを誰に見られても恥ずかしくない。

 ただ、首を長くして待っていたと思われるのは、付き合い始めて半年を経過したいまでも面白くはなくて、懸命にどうでもいいと思っているような表情をとる。千春自身の自分への評価からすれば、これでちょうどいい。顔だって身体だって、なかなかのものだ。

 小さく手を上げて、「ごめんなさい、待たせて」と敬二は言った。千春はかすかに動悸が増すのを感じながら、平然さを装い隣の席に座るよう、促した。

 喉が渇いたので、と敬二はモヒートを注文した。千春の顔を見て「わかってるよ、俗っぽいのは」と笑う。千春はすでにスコッチになっている。「でも、私も飲んでみようかな」と言ってみる。届いた酒を嬉しそうに受けとる敬二の表情は、悪くない。


 彼に引かれたのはなんだろう、と考えることがある。顔はたしかにいい。千春のつきあってきた男性の中でも一、二を争う。しかし、それだけが理由ではもちろんない。

 酒を飲む態度もいい。楽しげな様子でバーカウンターに座り、いかにも自然にグラスを受け取り、自然に香りをかいでから大事そうに飲み干す。スマホを爪弾くことも、身体をくずして座ることもない。一連の動作は滑らかで、飲み物を味わうことに集中されていた。親戚の経営するバーを手伝っていたというだけあって、酒にはなかなか詳しいが、ひけらかすこともない。

 だが、一番の理由は敬二の「におい」だ。千春の嫌いな男性化粧品ではないし、むろん敬二からはっきりした体臭を感じるわけではない。ただ、なんともいえない「波動」のようなものを彼から感じる。

 とはいえ、波動という表現そのものが敬二の口からでた言葉だ。彼はいい酒にはその魅力を伝える波動があって、それは香りとしか言い換えられないが、それを敏感に感じられるようになると、いろいろ楽しいよと言った。

「わたしにも波動ってあるかな」

「そうだなあ」敬二はくすっと笑った。「人は難しいな。その人固有の香りをかぎ分けるのに、時間がかかる。口に入れるわけにはいかないし」とあいまいにごまかした。

「なに、それ」半ば苦笑しながら千春はそのままにした。


 だが今夜、普段はゆっくり目に会話をはじめる敬二が、

「どうしたの、その目は」といきなり聞いた。真面目な顔つきだ。千春の左目が、赤く充血していた。

「ああ、会社を出るときに、葉っぱでね。観葉植物の取り替えとすれ違ったの。台車が床に引っかかって、私の方に倒れてきたのよ」

「えっ、それが目に入った」

「そういうこと。かすり傷だよ。そのあとゴシゴシ擦ったからだと思う」

「それは危ないなあ。目は大切だよ。ちゃんと治療しておかないと」

「はは、心の窓だもんね。大丈夫よ。痛みはないし」

「そう。でも、目は大切なんだ」敬二はそういってから。「ボクには姉がいてね」とつぶやくように言った。そういえば千春が家族構成を話した際に、ちらっと聞いたことがあった。


「彼女は美術をやってたせいもあって、人の体がすきでね。いろいろウンチクを垂れるんだけど、とりわけ目は不思議なパーツだと主張するんだ」

「顔の印象は、その人をかなり左右するよね」

「うん。それが姉に言わせると、顔立ちって残酷で、いくら美しく整ったひとでも内面が醜ければ、それが透けて見えたりする。セットみたいなものだ。ところが目は、あれだけ感情を伝える機関なのに、取り出すとそれだけで楽しめるんだそうだよ。逆に、いやな目つきの奴でも目玉だけ取り出したら可愛く思えるってさ。なんか矛盾だらけの言い分だけど」

「目を楽しむ?」千春は首を傾けて、笑みを浮かべた。「いまわたし、取り出した目玉を並べて楽しむあなたの姿を頭に思い浮かべちゃったよ」

「それ、間違っていない。きみって、愛らしい容姿から想像できないほど鋭い」

「褒められているのかな、それ」

「もちろん」

「ねえ、お姉さんとは、仲いいの?」

「うーん。どうかな」敬二は首を傾げた。「小さな頃はとても良かった。でもこのところ、溝というかズレをすごく感じるようになっていて」

「へえ、そうなんだ」千春はうなずいた。「うちの伯母とかとでもあったよ。仲良くて価値観は近いと思ってたのに、家族を持ったりして生活環境が変わって、そのうち気がつくと、いつのまにか全然別の生き物になってる」

「別の生き物にね」

「そうだよ。ちなみに伯母一家とはぐっちゃんぐっちゃん。言葉通じないんだから」

「なるほど。言葉通じないか。うまいこというな」


「ああ、美味しい」千春は目を閉じた。「でも敬二くん、昔カクテルバーにいたんでしょ。お客に勧めたりしたの?」

「勧めはしたけど、無責任なバイトだったからなあ。自分で珍しいと思ったのばっかり勧めた。あ、そうだ」

「なに」目を開けると、思ったより敬二の顔が近くにあった。ほのかに感じる彼の「波動」めいた香りに、千春はうっとりした。

「ここから車で15分くらいかな、その親戚の店にいた人のはじめた店があるんだ。マジで小さな店構えなのに、出てくる酒は、ちょっと珍しく、ユニークだよ。僕も一回しか顔を出してなくて、行ってもいいなあって」

「いいじゃない。よろしい。同行してやってもいいよ」

「ありがと。ついてきてくれるなんで、うれしいよ。ちょっと焦りすぎって声もあって凹んでたんだ」

「へえ。誰の声」千春は自分の声が、遠くから聞こえている気がした。

「うん、心の声」

「そりゃ、いいわね」



 週末のドーナッツ店は、騒がしかった。渚沙と由実は祖母に話しかける時ぐらいの声を出して、喋りあった。

「それでこの前、そっちのおばあちゃんとうちのおばあちゃん、松月で一緒にご飯食べたじゃない。あれから雰囲気は変わった?わたしのとこは、やたら玲子さんとの会話の内容を聞きたがったのに、突然なにも言わなくなった」

 松月とは、彼女らの住む街では一番とされる日本料理店だ。名声の割に店構えはこじんまりして、容易に予約はとれないはずだが、二人の祖母は好きな時に出入りし、密談に利用したりする。

 由実の言葉に渚はうなずいた。

「おばあちゃんも二、三日前からなにも聞かなくなった。それで、さっきわたしが出かける時、今日は暑いでしょう、駅前に出たら寄ってきたらって、ここのプリカをくれた」

「ははは」由実は笑った。「誘導かい。おばあちゃんも大変だね。でも助かったからいいじゃない。それで今日、あんたにくっついてる追跡チームはお弟子さんとか?」

 由実の祖母と母は二代にわたって料理研究家として活躍し、マスコミへの登場もめずらしくはない。主催する教室は全国に広がり、弟子を名乗る人間も大勢いた。

「違うよ。今回は身内。大袈裟にはしたくないからと思う。お弟子さんを巻き込んだのに、ただの思い過ごしってことになったら、今度はボケを疑われるもん」

「ふーん。そんなもんかい」

「紹介したくはないけど、トイレの前にいるうざい二人組の男がそう。従兄弟と、たぶんその友だち。どっちも気絶しそうなぐらいダサいのは共通してる」

 言われて由実がそっと振り向くと、それらしい刈り上げが二人いた。一人は発達した筋肉でパンパンのポロシャツをパンツにインして、真面目な顔でアイスコーヒーをすすっている。その向かいには眼鏡をかけ、胴回りは連れの五割増しのさらに大柄な男が背中を曲げ、いつまでもドーナッツを口に運んでいる。パッと見はそろっておっさんだが、まだ学生だろう。

「なにあれ。相撲部?」

「アメフトだったかな。興味ないから忘れた。いつも金欠だから、おばあちゃんに安価で雇われたと睨んでる」

「うーむ。いくらなんでも、あれはちょっとひどいな。自分がしあわせに感じられる」

「由実にも尾行はついてるのよね、そっちはだれ?」

「ウチはねえ……」由実はそっと首をめぐらせ、店内の様子をうかがった。

 いた。

 店の中央に、動かないメリーゴーランドがある。その影となって由実たちからは見えにくい位置にあるテーブル席に、一組の男女が座ってなにやらしゃべっている。

 女も男も、帽子にダブっとした無地のTシャツという華のない格好をしている。こっけいなのは、どちらも大きなマスクをつけたままなところだ。ときおり持ち上げ、飲み物を口に運ぶ。顔を見せない工夫なのだろう。男は最初、ごていねいに薄いブルーのサングラスまでかけていたが、マスクのせいで曇ってしまうのか、途中で外した。

(なによ、あれ)

 姉の梓と、幼なじみの秋山タケルであるのは、ひと目でわかった。

 日ごろ、なにかと祖母に頼りにされる姉の梓はともかく、出不精かつ社交性の乏しさを知る彼の出馬には少々驚かされたが、どうせ姉が引きずり込んだに違いない。

 タケルは昔から、姉には極端なほど従順だった。由実の知らない弱みでも握られているのかもしれない。

(それにお前たち、架空でもデートだろ。もっとましな格好をしろよ)と、由実は心の中で叫んだ。

(いくら変装のつもりにしても、どうしてそろって冴えない服なの?)


 ここまで考えて由実は、ようやく自分の内心を理解できた。

 二人のわざとらしく地味な衣装こそ、お互いの呼吸が合っている証拠である。心の底でそれを感じ取ったのが、この不快さの原因なのだ、と。

 ああ、むかつく。

 彼女にとってタケルは、不動の王子様候補筆頭だった。二位以下は頻繁に変わるが、筆頭は長年に渡りタケルなのだ。気安く忠犬扱いする姉とは違う。なのに……。

(ちぇっ、どうしてくれよう)


 腹の中で怒りを溜め込むより、面と向かって吐露するのが健康かなと考え直し、ようやく向き直ると渚沙が心配そうな顔で友を見ていた。よほど怖い顔になっていたようだ。

「あ、気にしないで。本日の、私の追跡担当者はおねえちゃん」

「おー、そうきたか」渚沙はうなずいてから、「ちょっと待って」と言った。「隆正っていうあの従兄弟、梓さんのことなにかで見かけて知ってるんだ。すごく可愛いとか言ってやがったし、キモ。変な展開にならないといいなあ。ねえ、梓さんは、今日はひとり?」

「いいや。連れがいる。男」

「ふうーん、男かよ。モテる女は違うね。隆正ざまあみろ」

「そうだよな」

「んっ」由実の気の無い返事に、渚沙は不審を感じたようだった。

 しばし彼女は考えて、「まさか秋山さん?」と口に出した。

「おっ、鋭い」由実は肩をゆらした。「というか、うちのお姉ちゃん、ああみえて世間が狭い」

 渚は一瞬、長い背中を伸ばしかけてあわてて縮めた。

「どこっ、教えなよ」

「メリーゴーランドを挟んで、対角線上の二人連れ」

「うっ」首を巡らした渚沙は息を呑んだ。「ほんとうだ。どうしよう」

 彼女は椅子の下でどかどか足踏みした。「マスクしてても、カッコいい」


 渚沙は由実と下校中、駅で偶然タケルと会ったことがある。一度で顔を覚えたのはもちろん、彼の飾り気のない人柄と美少年ぶりに、それ以降いたく関心を抱いてしまっていた。

「変装のつもりらしいけど、二人とも笑っちゃうほど地味だよね」

「でも、すぐわかった。梓さんと秋山さんって、なーんか人目を引くなあ。タレントっぽいっていうか、オーラがあるのかな」

「怪しいだけだよ。それより、これからどうする?」由実は身を乗り出した。横目で確かめた姉と秋山タケルは、妙に慎しげに席に収まっていた。

「いま、席に近付いて怒ってやろうかと考えたけど、だんだん、引っ張り回してからかってやった方が楽しそうに思えてきた」

「賛成。あたしたち、別に後ろ指さされるようなことしてないし、今日だってさらっと帰るつもりだし。二人をちょっと連れ回して遊んだりしてもいいかな」

「それで、最後にやつらが打ち合わせしてるところに、どかっと座り込む。やあ、お二人さん。調子はいかが。よし、これでいこう。ところで、あの暑苦しい従兄弟はどうする」

「しらん。勝手に死ねや」渚沙のかわいい唇から、吐き捨てるように言葉が出た。


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