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地続きに存在するとはにわかに信じがたい「向こう側」の文化を垣間見る場所が、混沌とした街の一角にある。
照明を蝋燭の火に頼る店内は、隣に座る者と肩が触れ合うほど狭苦しい。食事を済ませて退店しようと人が歩けば、背中を押されてしまう。入店できるギリギリまで客が詰め込まれているのだ。
そこに集う者たちは、人間界の者も見られないではないが、大半は魔界に出自を持つ異形たちである。それも、魔界の半数以上を占める人間の魔法使いではなく、少数派のゴブリンや獣人、ドワーフたち少数派の魔族たちだ。
人間界、王都郊外の都市キトノスは、かような異界の種族たちの街であった。
キトノスに暮らして一〇余年にもなる人間の少女モニカは、濃密な魔界の呼吸を感じられる店内の片隅で目を輝かせていた。
「これは、すごいな」
お喋りの性分の彼女にしては、ごく短い感想である。
高貴な身分ゆえに、屋敷の外では身分を偽り、ほとんど口を利けない少女を装っていなければならないのだ。
感心する彼女を見て、アール――モニカに仕える魔法使い――は、帰りが遅くなるのを承知で店に連れてきて良かったと感じていた。もちろん、口には出さない。
「ヴァンパイア料理は美食の象徴です。人間界でそれが食せるとあらば、当然魔族たちが集います。ただ、魔族が集まるからには治安も心配です。早く食事を済ませてしまいましょう」
モニカは乏しい表情の中でも、アールの無粋な物言いに口を尖らせて見せるのだった。
ヴァンパイアが営む店は、日光に当たることができないヴァンパイアの特性上、開店時間が遅い。魔界への好奇心を持て余すモニカは、これまで何度も行ってみたいとせがんだが、そのたびにアールから却下されてきた。夜のキトノスがいかに危険であるかは承知しているから、彼の心配ももっともである。
正論であるだけに、反論もできない。しかし、承知はできても承服はできない。一五歳の誕生日を機に許しを得たせっかくの夜間外出、喜びに水を差されたくないのだ。
「…………」
気を取り直し、モニカはメニュー表に目を落とす。味も見た目も想像できないような摩訶不思議な料理たちに、彼女の不機嫌はどこかへ吹き飛んだ。
ワイバーンの尾の窯焼き。
オリエント龍の逆鱗の姿煮。
大蛇の炭焼きウロボロス。
牛鬼の舌肉のステーキ。
とりあえず、逆鱗に興味を持った。メニューを指さし、これを食そうとアールに提案する。
ところがアールは渋い顔をして、口許に手を添えて顔を寄せた。
「モニカ様。カネの心配がないとはいえ、あまり高い料理を頼まれては目立ちます」
モニカは小さく舌打ちし、
「ワイバーンならいいよな? 魔界ではありふれた肉だろう?」
と声を低くして言い直すと、アールもしぶしぶ了解した。
アールは立ち上がり、カウンターの向こう側にいる店主に注文を伝える。青白い顔の店主は、鋭い犬歯を見せてにっと笑ってオーダーを承諾した。
その間もモニカはメニューを眺めていた。魔界の肉や野菜が提供されているほかは、人間界の飲食店と大差はないように見える。しかし、ページを捲れば、この店が吸血鬼によって営まれているのだと実感する。
数種類の酒に対して、何倍もの種類の「血」が売られているのだ。
どうやら、肉として提供する動物たちの血液らしい。
「吸血鬼は、動物の血を啜って、残った肉をこうして売っているのか?」
モニカがふと質問を漏らすと、アールが目を見開いた。「あまり喋るな」というアールの訴えに対し、屁理屈を返す。
「そう心配するな。これだけやかましい店内だ、わたしの声など誰も聞こえない。それに、夜遊びで出かけるのをアールは渋ったのだろう? だったら、わたしに勉強させてくれないか。お前はわたしの家庭教師ではないか」
この程度の御託なら言い返す術がいくらでもあるのだが、アールも主人に対して強く出られない。それに、彼女の我儘はしつこい。放っておくといつまでも縋りついてくるので、要求を認めてやるほうが得策だった。
人が近寄ったら黙るよう忠告したうえでモニカに説明してやることにした。
「モニカ様の言う通りです。本来、魔界において吸血鬼のような不死、あるいはそれに限りなく近い種族は、貨幣経済から排斥されています。無限に富を蓄えられるので、有利すぎるからです。反対に、永久に貧しい浮浪者になられても厄介ですからね。ところが、吸血鬼は例外で、人間の血を吸わない代わりに魔獣の血を得、余った肉を売って現金にすることが許されました」
魔界出身のアールにとっては常識でも、モニカにとっては未知の非常識である。年齢相応に幼い瞳と、年齢に不似合いな知能とがアールに詰め寄る。
「そんな取り決めをして、ほかのアンデッドは不満ではないのか? 吸血鬼以外にも、ほら、スケルトンとか、キョンシーとか、不死の種族がいるだろう?」
「アンデッドのうち最大多数の吸血鬼でも魔界の人口の一割にも満たないのですから、その他の少数種族の不満の声など、初めから存在しないのと同じです」
人間界と同じか、とモニカは表情を歪めた。
まもなく、店主がテーブル席まで料理を届けてくれた。それを機に会話を中断したところを、魔界の食物に不慣れな少女が驚いて言葉を失ったと思ったのだろうか。蝶ネクタイを付けた正装の店主は、ふたりに温かく微笑んだ。
「……?」
店主が去ったあと、モニカはじっとアールを見つめる。
「モニカ様?」
「アール。お前、魔力が落ちたか?」
「はあ? 近衛兵のころよりは、鍛えていないので腕が落ちると思いますが」
「そうか。なら、何でもない。わたしの勘違いだ」