A氏攻略戦
授業を終えると、琴子は一目散に自宅に駆け足で向かった。その後ろを万喜と美鶴が追いかけてくる。
「なんでっ、ついてくるんですかっ!」
「かわいい琴子さんの一大事ですものっ!」
「聞いたらすぐに捜索隊をださないとね!」
おのおの付いてくる理由があるらしいが、琴子は一旦玄関の前で待っていて貰えるように頼みこんだ。
「……じっとしていてくださいね」
「はい! 隊長」
なにが隊長だ。完全に面白がっているなと琴子は思いながら、清太郎を探した。
「清太郎お兄様―? たま、お兄様は?」
「あら、お早いお帰りで。ぼっちゃまならまだ会社ですよ」
「そ、そっか……」
琴子は肩の力が抜けた。
「万喜さん……美鶴さん……」
「分かったの?」
「あ、いやお兄様まだ帰ってなくて……中で待ってて」
琴子は気まずく笑ってから、二人を自分の部屋に通した。
「たま、お茶とおやつを用意して」
「あい、お嬢様」
「ふう……」
たまにお茶を持ってくるように命じて、琴子が部屋に戻ると万喜と美鶴は物珍しげに琴子の部屋を見ていた。
「何もないでしょ、そんな見ても」
「これはなんだい?」
「ああ、それは捨てる繭で私が作ったお人形……」
自分の作った不細工なネズミの人形を美鶴はじっとみていて、琴子はなんだか恥ずかしかった。
「うちは製糸業をしているの。糸や織物を扱っているんだけど、その支店を東京に作る事になって兄が先に来て、それから私が来たわけ。『兄をしっかり見張っておけ』ってね。まあ……嘘だったみたいだけど……」
「織物を扱っているならウチとも取引あるかしら」
「どうかしら、私は商売の方にはまったく関わってないから」
でも、もし清太郎がより抜いた絹織物が、なんらかの形で万喜の家の百貨店に売っていたらなんだか素敵だな、と思った。
「お嬢様がた、お茶です」
「あ、ありがとうたま。……え、大福? ほらなんか他になかった?」
「あとはせんべいくらいしか……」
清太郎も大して甘い物を好まないので、洋菓子なんて端からこの家には無いのである。おろおろしているたまの手から、美鶴は大福をつまみとった。
「私は大福好きだよ、琴子」
「あ……そう……?」
琴子はそう言ってちょっと自分の我が儘がすぎたと反省した。
「では時間ができたから、琴子の兄上が帰るまで作戦会議といこうか」
「いいわねぇ……」
「琴子、なにか紙を」
「はい!」
琴子は帳面の紙を一枚破り取って美鶴に渡した。そこに美鶴はぐるりと黒い丸を描く。
「標的はまあ……A氏としておこう。第一段階はこのA氏の名前を琴子の兄上から聞き出す」
すると、万喜が身を乗り出した。
「そしたら私の信望者の帝大生の何人かにその名前と素性を聞いてみるわ。うふふ……」
「で、それからどうする?」
美鶴は琴子を見た。琴子はうーんと顎に手をやってしばらく考えた。
「放課後、道を張って……まず見に行って……」
「あらあ、見るだけなの?」
「え、でもいきなり声をかけたりするのは……」
「じゃあ、これでどうだろう。目の前で鼻緒が切れたフリをするんだ。しらんぷりをして通り過ぎたらマイナス一点」
美鶴は興が乗ったのだろう、黒い丸のA氏の下に点数表を付けはじめた。見た目、親切さ、男らしさ……と勝手に項目を作り点を振っていく。
「それでどうします……? もし鼻緒を直してくれたら……」
「えーと……」
「お礼にあんみつでもおごるっていうのはどう、琴子さん」
「なるほどー」
さすが万喜だ。だけどうまく切り出せるかしら、と琴子はちょっと心配になった。
「あのー、琴子お嬢様、清太郎坊ちゃまがお帰りになりましたが……」
「あ、はい!」
たまが琴子を呼びに来た。琴子は部屋の座布団の上に座っているふたりを振り返った。
「では、お兄様に聞いて来ます。そこで待っててくださる?」
「了解」
美鶴と万喜はびしっと軍人のように敬礼をした。
***
「お兄様、お帰りなさいませ」
「おやあ……明日は雨かな」
玄関先で三つ指をついて清太郎を出迎えた琴子を見た彼はとりあえず明日の天気の心配をした。
「お帰りをお待ちしてましたのよ」
「……僕はいつもどおりの帰宅だがね」
やれ、あんみつだアイスクリンだと放課後により道ばかりしている琴子の方がまっすぐ職場から帰ってくる清太郎より帰りがいつも遅かったのである。
「で、なんだい用事は」
「あ、あの……! その……縁談の」
「その話か……とにかく父上が来ないことにはどうにもならんよ」
「あ、そうじゃなくて縁談相手の名前、お兄様ご存じじゃないかしら」
「名前……」
清太郎はじっと琴子を見た。そしてしまった、と思った。昨日は清太郎も相当慌てていたらしい。
「すまない琴子……言い忘れていた。日本橋の布問屋の御嫡男で名前を北原雄一さんという。十七歳で琴子の一個上だ」
「きたはら……ゆういち……」
琴子はその名前になにか聞き覚えがあった。
「あっ!」
「ど、どうしたんだい琴子」
「ななな、なんでもありません……それでは失礼をば……ほほほ」
琴子は顔から血の気が引いていくのを感じた。北原雄一。それはあの銀座のカフェーで琴子達にからんだ同級生をたしなめてくれたあの男子学生の名前ではないか。琴子は早足で自室へと戻った。
「……どうでしたの、琴子さん」
「琴子?」
部屋で待機していた万喜と美鶴が琴子を出迎え、口々に首尾を聞いたのだが……琴子は座布団の上に顔を埋めた。
「うわああああん!」
「え、琴子さん!?」
「どうした琴子?」
「もうお仕舞いですぅうううううっ!!」
わめく琴子に事情が分からずおろおろする万喜と美鶴。その時だった。間の悪いことにふすまの向こうから兄の清太郎の声がした。
「琴子ー。お友達が来ているそうじゃないか。ご挨拶させてくれ……え?」
すらりとふすまを開けた清太郎が見たものは、やたら大人っぽいセーラー服の万喜と男装した断髪の美鶴、そして座布団に頭をこすりつけている琴子のお尻だった。