突然の知らせ
「なんか、ごめんなさいね。騒がしくって」
帰りの人力車の隣で、万喜が申し訳無さそうに琴子に言った。
「いえ、とっても楽しかったわ。私一人じゃ入る勇気の出なかったところばかりだったもの。……今度は浅草にも行ってみたいわ」
「ええ、ええ。きっと行きましょうね」
にこっと万喜は微笑んだ。そうすると万喜の頬にはえくぼが浮かんで、年相応の感じになる。琴子は万喜のこの笑顔が好きだった。
「じゃあ、万喜さん、美鶴さん。また明日……学校で会いましょう」
「ええまたね」
「気を付けて帰るんだよ」
二人と別れた琴子は、今日買ったものを胸に抱きしめながら、家へと急いだ。
「ただ今帰りました」
「こっ、琴子! やっと帰ってきたか」
家に帰るなり、琴子はなんだか大慌ての清太郎に玄関先で出くわした。さほど遅くはなっていないはずだ、と思いながら琴子はブーツを脱ぐ。
「どうしたのお兄様」
「あ……ああ……その……とにかく上がりなさい」
「はい……?」
琴子は清太郎の様子を怪訝に思いながらも一旦自室に荷物を置いて、居間に向かった。
「琴子、まずは座って」
「はい」
琴子が居間のソファーに座ると、清太郎はひとつ咳払いをしてから言葉を続けた。
「いいかい、落ち着いて聞くんだよ……先刻、父上から連絡があって……お前に縁談が来たそうだ」
「ええーっ!? え、えっ縁談?」
予想外の話に琴子は大声を出してソファーからずり落ちそうになった。
「だから落ち着けって……それで父上が来週上京するそうだ」
「父上が……」
この清太郎の様子や、父上の上京ということを鑑みるに嘘やからかいの類いではないことがよく分かった。
「だ、だけんどまだ東京に来て間もないのに……」
「お相手は東京の方だそうだ」
その清太郎の言葉に、琴子はピンと来た。父が、いかに跡取り息子が心配だとはいえ、琴子をあっさりと東京にやった理由が透けて見えてしまったのだ。
「もしかして端からこっちで縁談があったから、私を東京に行かせたんじゃ……」
「ううーん、そうかもなぁ」
「嫌よ! 私まだまだ女学校に通いたいもの。お嫁入りなんて……お嫁入りなんて……」
琴子はせっかく出来た愉快な友人達と、こんな早々に別れ別れになるなんてとても耐えられない、と拳をぎゅっと握った。
「琴子、話は最後まで聞きなさい。あちらさんも学生さんでお嫁入り云々はまだ、先の話だそうだ」
「ほ、本当……?」
「ああ。父上の古くからの友人の息子さんで、年が近いから良かろうと……そういう話になったそうだ。ま、婚約者という訳だな」
「そ、そう……ですか……」
すぐに嫁入りで女学校を辞めるはめにはならなそうだが、琴子はずーんと気分が重くなった。婚約者がいたら、やはり身を慎んでおくべきなんだろうか、と。せっかくの東京暮らしなのに、家と学校の往復ではあまりにつまらない。
「琴子、大丈夫かい?」
「あんまり大丈夫じゃありません」
「まあそうだろうね。ただまあ、一度父上の話を聞いてみてやっておくれよ」
「……はい」
浮かぬ顔の琴子に、清太郎はやさしく語りかけた。
「さ、話はこれでお仕舞いだ」
「では、夕食まで部屋にいます……」
「うん、そうしなさい」
琴子はさっきまでの銀座見物で浮かれた気分が嘘みたいにしぼんで、とぼとぼと自分の部屋に戻った。
「婚約者……か……」
畳んである布団にもたれて、琴子はぽつりと呟いてみた。まったく実感がわかない。今日の買い物の中からマーガレットのピンを取りだして、眺めてみる。ついさっきまで楽しく銀座観光をしていたというのに……。
「それにしても父上! 我が子をだまし討ちするような真似をして!」
琴子はそうわめくと、ここにはいない父の代わりに枕をひっぱたいた。
***
「今、なんて言いましたの。琴子さん」
「……婚約者が……できたようで」
「ようでって、なんでそんなふわふわしてるんだい」
次の日、学校で様子のおかしかった琴子は早速、万喜と美鶴に問い詰められて昨日聞かされたばかりの縁組みの話をするはめになった。琴子もそう長く二人に黙っておくことなど出来ないと思っていたけれど、あまりに早い陥落であった。
「まだ早いわよ、婚約なんて! 東京に来てひとつきも経っていないでしょう?」
「そもそも縁組み相手と引き合わせるのが目的の上京ならそうなるだろうな」
「なに!? どなたの味方なの美鶴!」
「……私は琴子の味方だよ。どうなんだい、琴子の気持ちは……」
ただただ怒って興奮している万喜と違って美鶴は冷静だ。
「どう、って顔も名前も知らないのだもの……」
「そうかぁ。それなら向こうもそう思ってるかもしれないね」
「向こうも!?」
「ああ。向こうも琴子のことなんて何も知らないのに、そんな話をされて面食らっているかもしれない」
美鶴の言葉に、琴子は目から鱗が落ちるような思いがした。
「ねぇ、せめて名前くらいわかりませんの? 名前が分かればこの私の信望者に聞いて回って……」
「……どうするつもりだい、万喜」
「破談にさせますわ」
「こら、これは琴子の問題だろ」
ぎゃあぎゃあと言い合いをしている二人の横で琴子は昨日はショックのあまり、相手の名前も聞いていなかったことに気が付いた。
「ありがと!」
「ん?」
「家に帰ったらお兄様に縁組み相手の名前を聞いてみるわ!」
琴子はそういって席を立った。
「聞いてどうする、琴子?」
「もちろん、会いに行くわ。お父上が東京に来る前に。とんでもないブ男なら私、ずっと見合いの最中阿呆のフリをする」
「……すばらしい美男だったらどうするんだい」
「えっ……!?」
美鶴にそう言われて琴子は固まった。
「そ、その時はお話してみます! ガワより中身ですから!」
「なんだか主張がぐちゃぐちゃだけども……そうだね、会ってみて悩む方がいいだろうね」
何か必死にわめいている万喜の口を塞ぎながら、美鶴は冷静にそう言った。