カフェーでコーヒーを
それから三人は再び銀座をそぞろ歩いた。レンガの道にアーケード。琴子にとってはどれも初めてみるものでただ、歩いているだけでも楽しい。道行く人の多くは着物だが、洋装の人も多い。
「あ、かわいいピン」
今度はデパートに入り込んで、色々と見ていると琴子はふと足を止めた。
「マーガレットのヘアピンね。琴子さんにお似合いよ」
「私、これ買います」
せっかく銀座まで来たのだ。なにかおしゃれなもののひとつは買いたかった琴子はそのピンを買う事にした。お会計を済ませると、今度は万喜がこんなことを言いだした。
「あっ私、お化粧水を買わなければなのだわ。私はいつもあっちで買いますの」
「お化粧品……」
「琴子さんは?」
「いえ、私はまったく……」
「まあ! それでそんなにつやつやなんて羨ましいわ」
万喜もまた物欲を刺激されて足を止めたので、三人は化粧品店に入る。甘いような粉っぽいような不思議な匂いが充満している。
「化粧水と……あ、口紅も」
「く、口紅……」
「うふふふ……琴子さんもどう?」
「いえ、私は……」
そしてまたしこたま買い込んだ万喜。車は少々遠くに待たせてあるので、美鶴が半分荷物持ちをやらされた。
「やはり、ひらひらのドレスで来なくて正解だった」
「なにかいいまして?」
「なーんでも」
少々不服そうな美鶴を無視して、化粧品店を出ると万喜は両手を叩いて琴子に言った。
「さーて、それでは……カフェーに入りましょう!」
「カフェー」
「喉も乾いたし……コーヒーでも飲みましょう」
「銀座でコーヒー……」
琴子にとってそれは兄、清太郎からの手紙に自慢げに書いてあった銀座の風物詩である。こうして自分が体験することになるとは、と思った。と、同時に不安が頭をもたげる。
「大丈夫、かっ、かしら……」
「あーら、現代女性たるものカフェーくらい、なんですか」
「これぞ大正デモクラシーってね。ははは」
しかし連れ二人はまったく臆することがない。琴子は意を決して二人についてくことにした。
三人は面から見て、女性客もいるのを確認して適当なカフェに入った。席に通されて琴子は借りて来た猫のようにちょこんと座った。
「あら、ここの給仕は美々しいわ。覚えておきましょ」
「万喜さん……」
「言ったでしょ。私、かわいいものが好きなの」
万喜の中のかわいいの基準が少々謎である。
「さて、私はコーヒーだな」
「わっ、わたしも!」
琴子がさっそく美鶴のマネをしてコーヒーを頼もうとすると、すっと美鶴はメニュー表を手で隠した。
「琴子、コーヒーを飲んだことは?」
「ないわ」
「じゃあ、こっちのソーダーフロートにしておきなよ。苦いよ」
「そうねぇ」
「子供あつかいしないでください」
「私もソーダーにするわ」
「味見なら私のを一口あげるから、ね」
あんまり万喜と美鶴がそう言うので、琴子はしぶしぶそれに従った。そしてやがて注文がやって来ると、早速美鶴のコーヒーを一口貰う。
「う……ぺぺっ。苦い!」
「……やっぱりね」
「私はこっちの方がいいわ……うふふ……アイスクリンが乗ってるのね」
甘くとろけるアイスクリンと爽やかなソーダ。どっちも琴子は大好きだ。悔しいけれど、美鶴の判断は正解だった。コーヒーは……少々訓練のいる飲み物だったらしい。琴子がそう思いながらぱくりとアイスクリンをすくって口に入れた時だった。
「おやぁ、二人も女連れでカフェでお茶なんて優雅なぼっちゃんがいるぞ」
そんな野太い声が聞こえてきた。琴子がギロリとそちらを見ると、学生風の男子が三人こちらを見ながら聞こえよがしにそんなことを言っていた。
「いやいや、一人は妹だろう」
「子守の最中か。はっはっは」
誰に子守が要るというのか。まあ十中八九自分だろう、と思った琴子はばっと立ち上がった。……が、その前にその三人の前に向かったのは美鶴だった。
「あいにくここにいるのは女性三人だよ、諸君」
「な、な……女……」
「貴公らが勘違いするのも無理ないけどね、私は君たちよりよっぽど男ぶりがいいみたいだから」
「くそ、黙って聞いていれば……」
学生の一人が立ち上がった。
「どうするんだい? 殴る?」
「ぐぬぬ……」
男のなりをしていても美しい女の顔をはたくのを男子学生が躊躇している間に、琴子はだーっとその男の側に駆けていってその脛を蹴り上げた。
「痛いっ! こら何すんだガキ!」
「ガキじゃありません。私は天野琴子! れっきとした十六歳です!」
「じゅ、十六歳……?」
「何か!? 問題でも!?」
相手がきょとんとした顔でこちらを見てくるものだから、さらに琴子の頭に血が上った。
「なんですの、自分らがむさくるしい男連れだからって! ぶつぶつ陰口きくなんて!」
「そうよねぇ」
気が付くと万喜もいつの間にか琴子の後ろについて行った。
「私の信望者にするにはかわいらしさが足りないわ。デートするなら修行し直してらっしゃい」
なにげに一番万喜がひどい事を言っている気がする。この騒ぎが一体どうなるのか、周りのお客もじっと様子を見ていた。その時だった。
「もうおやめなさい」
そう言って、間に一人の男性が入って来た。三人組の学生のうち、ずっと黙っていた一人だ。そしてぽこぽこと連れの男の頭をはたいた。
「品性のない言動をしたのはお前らだ。このお嬢様がたにお謝りなさい」
「う……」
その学生に叱られた学生はふたりとも揃って琴子達三人に向かって頭を下げた。
「すまんかった」
「……謝ってくれたのならいいわ」
琴子はふんと鼻を鳴らした。そしてふたりを叱ってくれた学生を見る。年頃からして同じ位かちょっと上か。といっても大学予科、といったところだろう。兄の清太郎のような柔和な顔ではなくきりりと武者人形のような印象の男だった。
「あなた、ありがとう」
「いえ……俺は北原雄一。東都大学予科の一年生。このふたりは初めて銀座にきたからついキレイなお嬢さんを見て舞い上がって口を滑らせたんだと思う」
「まあ……あの、その……」
「これ以上なにかあれば、つれてきた俺に文句をくれ」
潔くそう言う雄一に、琴子も連れのふたりもすっかり毒気を抜かれた。
「あの、もう大丈夫です。私も悪かったわ。いきなり蹴り上げたりして」
琴子も弁慶の泣き所が痛いのを分かっていてそこを狙ったのを謝った。
「……それでは、失礼する」
そうして、雄一は連れのふたりを引き摺るようにしてカフェから出て行った。
「はー……、大した殿方もいるものね」
万喜はその後ろ姿を見送りながらそう言った。琴子も婦女子にたいしてああした態度を取れる人がいるんだ、と少し感心した。啖呵を切った後だからかもしれないが、雄一は一度も琴子を子供扱いしなかったのだ。