真実の筆
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
つぶつぶは、文章を書いている時、平静であるという自覚はあるかしら?
……いや、アーティストには野暮な質問かもしれないわね。
お酒を飲んでいるように、酔いながら乾き、飢えている。すべてのクリエイターがそうじゃないの?
本当に満たされているなら、わざわざ筆を執る理由はない。一日中、家でごろ寝して、お尻でもかきながら過ごし続ければいいわ。
好きだからやっているという人も、その「好き」を外に出したいと熱望しているわけよね。頭の中で延々と妄想を垂れ流し、自己満足していればいいのに、それに耐えられなくなったわけでしょ?
いいんじゃない? ハングリー精神って好きよ、私。飢えに飢えたのに、行動を起こさず静かな死を選ぶなんて、私はドン引き。「あんたどこの仏様? 人間じゃないな」って感じ。
命って満ち足りているより、飢えている時間の方が長いと思うのよね。もちろん、実際の腹具合のことばかりじゃないわよ。ならば、「飢え」こそが命の本質じゃない?
飢えに忠実な作品、面白いわよ。悲しいかな、技のつたなさがネタを潰しちゃっているものも見受けられるけど、かもしだすエッセンスは濃厚ね。それが昔の、命が背中でひりつく時代ならば、なおさらのこと。
芸術をめぐるドラマのひとつ。聞いてみない、つぶつぶ?
応仁の乱より後。将軍の権威は落ち込み、戦国の時代がやってきたわ。これは絵師にとってもまた、競争の時でもあったわ。
時に流れに勝利し、権力を握ったものにはべること。それがすなわち、自分の名前と影響を後々まで残すことになる。芸術家にとって、これほどの大きな誉れが他にあって?
応仁の乱の原因の一つとなった、室町幕府八代将軍、足利義政の後継者争い。その足利義政によってこさえられた、京都修学旅行の鉄板ポイント、銀閣寺。その銀閣寺の障壁画を任されたのが、社会の資料集にも出てくる「狩野派」の始祖、狩野正信という人よ。
更にその息子、元信は中国から伝わった絵の作風「漢画」と、日本の絵の作風「大和絵」をハイブリットした、狩野派としてのオリジナリティを創出。技術でみれば、当時の最高峰と目されていた。
しかし、いかに優れた技も歴史の勝ち馬に乗らねば、根を存分に伸ばすことかなわない。絵師たちは自分の名を残すために、ある時は地位を、ある時は人を、そして何も持っていなくても足と腕を持って、将来の覇者へ取り入ろうとしたらしいわ。
彼もまた、自らの筆と身体を持って己の価値を示し、後世に残さんとする画家の一人だったわ。
応仁の乱よりすでに数十年。十六世紀に入り、ますます戦国は混迷を極め始めようとしていた中で、彼は「従軍絵師」としての立場を思いついたの。
従軍絵師は合戦の記録を、絵として残す仕事。手柄を記録する軍目付、臨時の手紙発行などを承る祐筆衆との兼ね合いを考えながら、彼は戦場を渡り歩いた。
終始安全だった山の上の陣から合戦の様子を見下ろすこともあれば、すぐ隣にいた者が流れ弾に当たって死んでしまうほどの乱戦で、命からがら逃げ延びたこともある。彼としては首実検の様子も描きたかったらしいけど、手柄に関わる重大事のためか、軍目付に「領分をわきまえよ」と下がらされて、とうとう描けずじまいだったみたい。
描いた絵を将たちに買い取ってもらうことで、日々の稼ぎとしていた彼。初めのうちは情熱をたぎらせていったけど、少しずつ彼の心には、よどみが溜まっていったわ。それはたびたび「真実」をゆがめて描くことを強要されたから。
武将の肖像は、その最たる例だった。容姿端麗に描けといっても、人によって度合いが違う。やや輪郭を整えるだけで済む者もあれば、欠損した四肢や、消すことができない傷に至るまで、しかるべき「直し」を行って描くことを強要された。
劣等感の現れ。当時、自分の身体は親からいただいたものだから、それを無くすことは不孝である、という考えもあったみたい。
人として、おかしくない考えであることは彼も分かっていたけれども、偽りの筆を走らせることに抵抗を覚えていたのも確かだったようね。
かといって自分の思いを貫き、無礼を働いたとして投獄や手打ちにされてはかなわない。まだ自分の思うがままの筆を振るえぬうちに、生涯を終えるわけにはいかない。
――この命尽きるまでに、どうにか「生」の姿を、この筆で。
彼は家族を持った後も、合戦があると聞くや、衰え始める身体も構わず、絵描きとしての同道を軍の大将に願い出続けたそうよ。
そして、雪のちらつく時期の合戦に従軍した彼は、圧倒的な大敗を目にしたわ。
こちらの二倍以上の勢力を誇る相手。籠城するべきという意見が出ていた中を、城の鼻先をかすめるようにして、自分を無視するかのような動きに怒った若き領主は、強引に出陣した。
けれどもそれは罠。相手方は領主側が確認しづらい地点で、万端の迎撃準備を整えていたの。領主側が気づいた時にはすでに遅く、もはや双方はぶつからざるを得ない状況だったの。
結果は惨敗。従軍絵師であった彼は、早めに離脱するよう指示を出されたけれど、彼自身は長年の従軍経験から、領主の戦死さえ十分あり得る劣勢と思ったそうよ。
どうにか城にたどり着いた彼は、残っていた祐筆衆たちと並んで、大広間で静かに紙と筆を用意し始める。そこにもたらされるであろう凶事も、しっかり記さねばいけない。
しかし、領主は帰ってきた。その姿は憔悴そのもので、出陣したのがほんの一刻程度前だとは考えづらいほどの、やつれ具合だった。
部下たちへの下知を済ませた領主は、大広間へ赴き、彼だけを別の部屋へと連れ出したわ。道具も共に持ってくるように指示をして。
別室で、当時は珍しい三つ足の椅子に座る領主。その足元で紙を広げ、脇に筆とすずりを置き、背筋を伸ばしながら正座をする彼。
この状況には覚えがある。肖像画を描かされるのだろう。これからされる注文を思うと、彼の気は重くなった。どのように顔色を良くしたものかと思案し始めた時、続く指示が飛んだ。
「そなたが見たままの、余の顔を描け」
その言葉に、思わず領主の顔を見返す彼。その口元は「へ」の字に持ち上げられ、悔しさややるせなさを隠そうともしていない。
「多くの部下を失った。諫められた戦の結果がこれよ。今でこそ、我が身焦がさんばかりにくすぶる悔いの念だが、時を経れば、決して同じものを思い起こすことはできまい。だが、忘れてはならぬ。この辛きがあふれる今を。虚飾、媚態、一切無用。描いてくれ。余からの頼みだ」
領主が頭を下げる。下賤のごとき絵描きの身には、それこそ身に余るほどの名誉だった。
彼の身体が震えたわ。期待に応えられないかもという不安じゃない。待ち望んでいた、「真実」の筆を振るう機会。それを得られたことへの武者震いよ。
彼が描き上げた絵は、これまで描いたどの絵よりも高く、領主が買い取ったそうよ。それこそ彼ら一家が何年も不自由なく過ごせるほどの。
けれども、領主は言ったわ。この絵は後世には残せない、と。
「これは乱世の中に描かれた真実。だが、我が子や孫に見てもらいたいのは、その先にある泰平の真実。この絵に描かれた思いを、二度と味わうことなき世界。これより史家を志す者には迷惑であろうが……この絵はわしの死と共に燃やす。描かれた苦しき心も、次代には残さぬ。わし限りのものにしたい」
領主なりに考えた末のことではあったみたい。でも、彼の画家としての矜持もあった。
自分の描いた真実を、後に残せずに消えてたまるか、と。
お金に困らなくなった彼は、帰宅後、部屋にこもることにしたけど、あの絵はどうやら彼の命さえも、身体の外へと流し出してしまったみたい。
あの絵を再現しようと、何度も何度も描き直し、天下の趨勢がほぼ決まるころに、輪郭とその表情の下書きができたところで、彼は急に身体の自由が利かず、寝たきりに。筆を持てない身体になってしまったの。
自分を囲む家族に対し、彼は無念を漏らしたわ。
「身は惜しくない。ただ、絵を遺せないことを、惜しむ」と。
彼の死後。絵はしばらく保管されていたけれど、父の遺志を継ごうとする息子によって、絵は描き足されて完成を迎えたわ。
けれども従軍経験がなく、史料が揃っている時代の装備を参考にして息子が描いたものは、父が描いた顔以外を、戦国当時にそぐわない格好にしてしまったらしいの。それはある意味で、泰平ゆえにもたらされたものともいえた。
やがて彼も絵師の一人として幕府に召し抱えられた時、その絵を持参して献上したとのこと。くしくも、従軍した父の名も、献上した息子の名も、歴史の波の中でもまれて消えてしまったけど、絵そのものは残り続けたわ。
それが現代に伝わる、天下人徳川家康の「しかみ像」なのだ、という言い伝えよ。