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夜を歩く光は消える

作者:鯨井あめ
   ♦

立ち止まって、ミハは空を見上げた。
真っ暗で、どっぷりと闇夜に浸かった世界だった。
ぼんやりとほのかに揺れる街灯は、オレンジときいろの間の色をしていて、藍色の中で息づいている。

「ミハ」

隣で、変声期を過ぎた低い声が彼女を呼んだ。

「早くいかないと、ヤミヨがやってくるよ」
「……そうだね、サミル」

サミルの持ったランタンが、ぼうっと彼の横顔を照らした。最近になってぐんと伸びた身長のせいで、サミルが手持無沙汰な時に耳を触る癖が、いっとう見やすくなっていた。
頭一つ分小さなミハはつま先立ちをすると、夜の中でも黄色の明かりを受けて煌めく金色の短髪に触れた。

「なに?」
「何度見てもいい髪だなって」
「男が髪を褒められたところで、という微妙な心境になるけど、悪い気はしない」
「平安時代なら、モテモテかもしれないよ」
「金髪はモテないし、俺は男だから髪で判断されることはないよ」
「和歌もうまく読めるんじゃない?」
「それは……まあ、そうなら嬉しいのかな」

もう一度、彼女の冷たい手が、するりとサミルの髪をすり抜けた。

「うらやましい」
「ミハも、きれいだよ」

頭を撫でられたミハは、「やあだ」とその手を軽く払って、くしゃりと笑った。

「そうでもないよ」
「謙遜はよろしくないな。俺は本気だ。ミハは俺にとって光だよ」
「ありがたいとは思うけど」

足元に視線を落とす。

「なら余計と、黒髪っていうのは、見栄えしない」
「だからいいんだけど」
「溶けてしまうなら、違う色でいたいでしょ」
「夜に溶けたところで、みんな混ざって黒になるんだ。なら、最初から黒であったほうが、何倍も奇麗だと思う」
「それでも、些細な反抗心は持っておきたいから」
「そんなもんなの?」
「そんなもんなの」

ぱっと顔を上げる。
ランタンの明かりがまぶしかった。ミハは目を薄めた。その奥で、彼女を見つめるコバルトブルーの瞳を見つけた。映えて艶めかしい宝石のようだった。

「どこにいても、闇なのにね」
「街明かりはまだあるよ」
「どうせこんなの意味ないでしょ」
「なんで?」
「ここには夜なんてないんだから」
「……、ここは、今は、いつまでも夜だよ」
「そうだけど」

街は深淵で息をしている。
深い深い夜の底で、昇ることのない太陽を忘れて、ひたすら月を見上げて生きている。波打つ海面は遥か彼方で、深海で進化してしまった哀れな魚のように、空気を吸って吐いて、みな夜を歩いている。

「ミハ、俺は、ミハの髪も、目も、好きだよ」
「わたしもサミルの目も髪も好きよ」
「そうじゃない。ただ、俺が君に恋慕しているって話だ。応えてほしいんじゃないんだよ」
「なら、わたしがいないところで言ってもらわないと。聞いたら返しちゃうから」
「そうかもしれないけど」
「それに、愛の告白をするには少し早いかな?」

腕時計を確認すると、蛍光塗料付きの短針が示しているのは23時だった。

「ミハ、時計変えた?」
「うん、寝ぼけて壊した」
「腕時計を寝ぼけて壊すの?」
「壊れるもんだよ。わたしは、わたしが案外重かったということを発見したの」
「踏んづけたかな?」
「ご名答。だから一昨日、駅前の時計屋で買ったんだけど、慣れてないからちょっと見辛い。時計盤に数字がないやつ買っちゃって」
「それは面倒だ」
「でも、デザインはシンプルで最高なのよ」
「彼が作ったものは、すべて最高だと思うよ、俺は」
「そうね」

駅前の時計屋は、いつもあたたかな明かりを湛えている。
世界が夜に沈む400年前から、老舗の時計屋はずっと9時に開店して、18時に閉店しているらしい。規則的な生活を営む店主は、御年77歳の8代目。真っ白な頭と真っ白な髭を生やしている。丸眼鏡をかけていて、柔和な笑みで学校へ行く子どもたちを毎朝見送っている。ミハとサミルも毎朝彼と顔を合わせてきた。
彼の笑い皴を思い出して、ミハは口元を緩めた。あの店は、いつも強い電灯の点いたアーケード街でも、柔らかい。

「ミハ、おいで」

サミルの低く強い口調に、ミハは口をきゅっと結んで、彼に一歩近づいた。
サミルがランタンの火を消した。
ぞろり、と米俵を引っ張るような音がして、辺りの住宅の明かりが一瞬で掻き消えた。

「やっぱり、ヤミヨだな」
「どこ?」
「98番通りをまっすぐ歩いてる」

ミハは斜め後ろを見やった。
夜目を利かせると、ぶよぶよした黒い塊が、住宅街の間からひょこりと頭を覗かせていた。塊は重そうに体を引きずって、そのまま進んでいく。目もない、頭もない、子どもがふざけてシーツを頭からかぶったような、奇妙な姿。
その塊から、細い何かが生えてきて、近くに灯っていた青色の電灯に触れた。
電灯は数度点滅したのち、こと切れたように消えた。
ヤミヨがひとまわり大きくなった。やはりまた進みだす。足がどうなっているのかはわからない。誰もあれを怖がって近寄らないからだ。夏は20時過ぎから翌日4時前まで、冬は5時から翌日7時まで現れて、世界に点在する明かりを食って大きくなっていく。食われた明かりは、24時間後に回復するから、別段誰も困っているわけじゃない。多少不便になるだけだ。それでも、あの姿かたちは、やはり恐怖を与える。

「結構食ってるな」

ぼそり、とサミルがつぶやいた。

「そうだね」

ミハは彼から離れて、じっとヤミヨを見つめた。
ヤミヨはいつも、何かを探しているように現れて、いつの間にか闇に溶けて消えてしまう。便宜上名前を付けられたけど、このヤミヨという名前が正式名称なのか、俗称なのかは、誰も知らない。研究すらされていない。
夜の時間にいてあたりまえの存在だから、誰もヤミヨについて知らなくても、知っているのだ。

「ミハは、ヤミヨが怖くないんだな」
「まあね」
「どうしてか、訊いても?」
「当ててみて」

ミハが歩き始めたので、サミルもランタンは消したまま、彼女のあとに続いた。

「あれは、ただ光を食べて大きくなって、消えて、元の大きさに戻って、また次の夜の時間にやってくる。ただそれだけだから?」
「んー、まあ、それでいいよ」
「でも、人を襲うかもしれないって話もあるだろ」
「本当かどうかわからない」
「そうだけど、嘘だって決まったわけじゃない」

ミハは振り返った。サミルを見た。闇に慣れた目は、簡単に彼を捉えてしまえた。

「つまらないから」
「つまらない?」
「離れて見てるだけじゃ、つまらないでしょ」
「そうかな。危ないよりいいと思うけど」
「それがつまらない」
「危ないほうがいいってこと?」
「そういうわけじゃない」
「むずかしいね」
「むずかしいのよ」

サミルは呆れ半分、愛しさ半分で笑ってみせた。といっていも、ミハにその細かな表情の変化まで読み取ることはできなかったので、彼女は彼の声音からそれを察した。

「ミハを理解するには、俺はまだまだ勉強不足らしいな」
「そうよ。百科事典を何度読み返したって、3色問題を解決したって、わたしには一手も迫ってない。そんなに単純な生き物じゃないよ」
「乙女心ってやつ?」
「わたしは乙女よりはるかに厄介だから」
「手厳しい」
「敢えて厳しくいきます」

ミハはまた振り返った。ヤミヨが遠くに見える。あそこまで離れてしまえば、明かりを見て寄ってくることもない。
サミルがランタンに再び火を灯した。

「行こうか」

彼の背中に背負われた大きなリュックサックが、少し揺れた。

   ♦

郊外の丘までやってきた。
腕時計の短針は、0時を過ぎていた。
目印を見つけたサミルは、斜面にリュックサックを下ろし、中からレジャーシートと毛布を取り出した。ミハは肩掛けカバンから魔法瓶をふたつ取り出して、敷かれたレジャーシートの真ん中に置いた。夜食のサンドイッチも一緒に置いた。毛布には触れないで、カバンをシートの端に重しとして放ると、目印だった隣の盛り上がったブルーシートをめくった。
大きな天体望遠鏡がくるまれている。

「ミハは座ってて。俺が組み立てるから」
「でも、そんな小さな筒で見えるの?」
「見えるかどうかじゃなくて、夜の空を見上げるにはこれがないと、むず痒いんだよ」
「天文オタクは言うことが違うよね」
「お褒めいただき光栄ですよ」
「よきにはからえ」

レジャーシートに腰かけたミハは、おとなしく毛布にくるまった。
わずかな風が肌寒さをもたらす。8月だから毛布だけでいいと思っていたが、もう少し厚い服装でよかったかもしれない。長袖長ズボンで来ているが、ダウンジャケットがあってもよかったはずだ。
ミハの後悔など露知れず、サミルは嬉々として望遠鏡を組み立てていく。事前に彼の兄に頼んでここまで自動車で運んでもらったのだ。彼の兄は今日の夜の時間、飲み会が入っているらしい。
この丘には夜草がない。この街周辺の夜草は、根から茎にかけて赤色に灯る。秋になれば実をつけるが、それも鬼灯の実のような形をしていて、やはり赤の光を放つ。ほのかなものだが、天体観測には邪魔でしかない。ここなら地面が光ることもないし、明かりを求めてヤミヨがやってくることもない。街からずいぶん歩かなければならないのが難点だったが、ミハもサミルも歩くことに関して苦痛を感じたことはなかった。

「みんな空を見上げないのはもったいない」

サミルが弾んだ声で言った。

「晴れの日は星空しかないというのに」
「サミルにとっては、星が見放題だもんね」
「でも、みんな俺のことを馬鹿にするだろ? それがわからない。こんなに奇麗なのに」
「わたしの髪とどっちがいい?」
「どっちも同じくらい……いや、比べられないかな。まったく別のものだ」
「そうかな。星はいつも空にあるし、暗いところに行けばもっと見られる。わたしもサミルのそばにいるし、明るいところに行けばもっと見られるよ」
「同じようにみえて、似て非なるものなんだよ」
「ふうん?」
「まあ、こればかりは言葉にしようがないね」

興味なさげな生返事をすると、ミハは魔法瓶の蓋をひねって、温かなオニオンスープを一口飲んだ。とたんに胃が熱を帯びる。体は知らぬ間に冷えている。

「外に出れば夜だし、家の中は朝と昼だし、そういう区分がしっかりとしてるのはいいけど、わたしはつまらないと思うよ。たった一歩で何もかもが反転するのは楽しい。でも、移り変わるさまは一生見られない」

蓋を閉じて言うと、サミルは鏡台をいじりながら「そういうところ」と答えた。

「俺は好きだよ」
「まだ時間が早いかな」
「いつになれば、正解なんだろう?」
「自分で探すのも大切だよ。サミルは頭がいいんだから、すぐわかるはず」
「頭がいいやつが、頭が柔らかいとは限らないんだよ、これが」
「そうなの? 頭脳明晰は大変だね」
「まあね」

腕時計は、1時を差しかけていた。
丘の先に見える街は、ヤミヨのせいで奥の方が真っ暗になっていた。でもみんな非常用の電気と電灯を蓄えているので、すぐに点くだろう。点いていない家は、きっとヤミヨを機に眠ってしまったに違いない。それくらい雑でいい。起きる時間になれば、自然と家は明るくなって目が覚めるはずだ。朝の時間と昼の時間、外は暗いが、家の中はいつでも明かりが点いている。

「よし、できた。何か見たくなったら、声かけて」

サミルが接眼レンズを覗き込んでから、レジャーシートに腰かけた。ミハが持ってきた魔法瓶をひねって開き、中のスープを飲む。

「サミルはさ」
「うん」
「星の何がいいの?」
「そうだな」

サミルは蓋をしっかりと閉めると、カンテラを消して寝転がって、空を見上げた。
するりと腕が上がって、指先が天上のひとつの星を指した。

「あれらは全部恒星なんだ」
「恒星?」
「水素を核融合させて、自ら光り輝いている星だよ。特に俺が今指さしているのは、赤色巨星と言って、赤色に膨張している恒星だ。中学のときに習っただろ?」
「そうだったかな。受験が終わったらすぐに忘れちゃった」
「まあいいけど。ちなみにあそこには惑星状星雲がある。膨張しつくした恒星が、一気にガスを噴出して、白色矮星になるんだ。そのとき放出したガスが散らばっている。超新星爆発はそれの規模が大きなものだと考えてくれたらいい。とにかく、とても奇麗なんだ」
「この光ってる星全部が恒星?」
「だいたいはそうだよ」
「サミルには、奇麗なものがたくさんあるんだね」
「そうなるね。ミハにはないの?」

ミハはサミルの隣に寝転がった。

「あるよ」

彼女の脳裏には、先月街の美術館で見かけた、美しい写真が浮かんでいた。
それは鮮明で、一箇所の狂いもなく再現できた。目を閉じたら、もっと色濃く強く、彼女の瞼の裏に浮かぶに違いなかった。
全国を回っているらしいその展示会は、2週間だけ、この街の美術館の2階の一角を占めていた。先月のとある日が2週間の最終日で、それまでテスト期間だったミハとサミルは、テストが終わるとすぐに学校を飛び出して、バスで美術館まで向かった。――正しくは、サミルがミハの手を取ってバス停まで走ったのだが。
美術館は昼の時間いつも明かりが点いていて、ミハは前を通るたびにまぶしいと嫌厭していた。正直行きたくなかった。しかし、その日だけは美術館にも、強引なサミルにも感謝した。世界一美しいものと出会ってしまったからだ。感謝せざるを得なかった。
その展覧会の題名は、『かつての世界』。数百年前に撮られた多くの写真データの修復に成功し、それを印刷して並べているだけのもの。まだ朝と昼が実際にあったころに撮られた光景には、知らない男の子が明るい海の中ではしゃいでいるものや、ビルの隙間から真っ青な空が映っているものがあった。どれも文献で読んだことはあれど、目の前で見たのは初めてだった。写真越しだったから、夢物語に感じたといえばそうなのだが、それでもやはり、かつての世界に関心を寄せた。
その一番角に隠すように飾られた一枚の写真。淡いオレンジと黄と緑とピンクがでたらめに散らされていて、まばゆい何かが、白い雪原の大地の先で零れ落ちそうに輝いていた。その全面に何色もの色が弾かれたように落ちていて、ちぎれた白い綿菓子のような雲に光が反射して、写真一枚に色と光がばらまかれた光景だった。
息を呑んだ。言葉も忘れた。瞬きもしなかった。表現できなかった。ただ奪われた。果てしなく美しかった。吸い寄せられるように、引き込まれるように、体から感情という感情を根こそぎ抜かれて、動きすらも許されなかった。何時間でも眺めていたいと思った。
夜明け、というものらしかった。
けれど、ミハはそれの言葉の意味を知って、さっき押し寄せた不意打ちの感情の嵐については誰にも言わないと、きっと口にはしないだろうと直感で思った。
あまりに弱すぎるから、言えないだろうと。
反して、言いたい瞬間は、きっと来るのだろうと。
その時までは、黙っていようと。

「あるけど、まだ言わないよ」
「知ってる。前も訊いて、教えてくれなかった」
「これは黙っておくのが正解なんだよ」
「そうものもあるね」

サミルがもう一枚の毛布を手繰り寄せて、半分をミハに掛けた。

   ♠

少し、時間が流れた。
風が3度吹いて、ミハはそのたびに目を閉じていた。それをサミルは横目で眺めていた。

「あ」

視界の隅で、空に線が走った。ミハはすぐに指さした。

「流れた」
「これからもっと流れるよ。毎年ペルセウス座流星群は最高だけど、今年に限っては流星雨と言ってもいい」
「いいよね。夏休みだから一日中見れるでしょ」
「極大は朝の時間、えっと、7時あたりだから、それまで寝ていていいよ」
「起きてるよ。ただ、眠たくなったら眠る」
「そこは素直だ」
「睡眠欲には身を任せるべきだから」
「勉強になったよ」

サミルは笑った。
本当は朝の時間までお互い家にいてもよかったのだが、ミハが拒んだのでサミルも彼女に寄り添っていた。彼女の両親は彼女の本当の両親ではなくて、彼女はあの大きな家のなかですいぶんと肩身の狭い思いをしていると、彼は知っていたからだ。
彼にとって、ミハの肩を抱いてその心を弛緩させるのは、すでに己に課した義務だった。ミハはそれを知っているが、知っている素振りを見せないようにしている。それをサミルは知っているが、サミルが知っているということもきっと、ミハは知っているのだろうと彼は思う。
サミルは生まれつき優秀な頭脳を授かったが、彼女が生まれ持っているそれは、彼の頭脳を脆弱と嘲笑えるほどの何かなのだ。

「あ、また流れた」
「今のは長かったね」
「サミルの願い事は?」
「今のところ、ないかな」
「平和だね」
「幸せだから」
「何よりだよ」

サミルは、空を半分横切った流れ星の跡を、目でたどった。
先日のテスト終了後、歴史で世界が夜に包まれたところの時代を習った。世界暗黒時代と呼ばれるその数十年間、突然の夜に人々は混乱の渦に引きずり込まれ、世界に朝と昼がないというだけで、多くの人間が発狂したらしい。
ミハもサミルも、この世界が安定期に入りかなり経ってから生まれているので、もはやこれがあたりまえとなっているから、発狂と聞いてもピンとこなかった。意味のない自殺理由を聞かされて、眉を顰めることすらせず首をかしげるように。クラスのなかでその戦々恐々とした出来事に涙を流す子もいたが、まったくもって理解不能だった。
そもそも、暗黒時代については小学校で2度、中学校で1度、すでに扱われている。高校生で再度聞かされたところで、感想は「知ってる」以外見当たらなかった。
だって、今がすべてだ。
まだ思春期の真っ只中を駆ける彼にとっては、酸素を吸って二酸化炭素を出し、細胞呼吸で筋肉を動かし、エネルギーで脳を活発に稼働させて、日々をひたすら懸命に立っている今のほうが、何十倍も、何千倍も、身近なものだった。
暗黒時代がなんだ。歴史がなんだ。それよりももっと大切なことがある。サミルは白い電灯の下でチョークを握る教諭を眺めた。おまえには、きっとわからないだろうな、と口の中でつぶやいた。そう言ってから、自分もちゃんと文字にしろと言われれば、きっとできないだろうと気づいたが、恥ずかしくなったので意地を張ってみせた。そうしたところですべて彼の心の中での出来事だから、誰も彼を笑わなかったし、誰も彼を励ましたり叱ったりしなかった。
ミハ以外は。

「あ、流れた。あ、また、そこも、あ、あそこも」
「ミハは、なにか願い事したの?」
「うん」

あっけらかんとした肯定に驚いたが、表情には出さないように努めて、「何を願ったの?」と尋ねた。
ミハはむーっと唇を尖らせた。黒い髪を踏まないようにして、彼は寝ころんだままミハに近寄った。

「まあ、口にはしたくないんだけど」
「だけど?」
「ただ、見たいものがあるから、それが見れたらいいなって」
「見れるよ」
「無理だよ」
「無理なの?」
「絶対に無理。無理だから、願うんだよ。こんな儚いものに、願いを込めるの。ただの石ころが燃えているだけの、何の変哲もない天体現象に、願いを馳せるんだよ」

流れ星について説明したのは、一昨日のサミルだった。
淡々としたいつもの甘い声で、ミハは続ける。

「神様と流れ星に大差はないんじゃないかな。結局はみんな縋るでしょ、お願いします、叶えてください、わたしの願いを叶えてください、思い通りにしてくださいって。でもそれがかなうのは、その人の運や実力であって、神様のおかげでも流れ星のおかげでもないんだよ。神様の姿は見えないし、流れ星は燃え尽きる。たまに落ちてくるけど、やっぱり石でしょ」
「……一理あるね」
「でしょ。神様も流れ星も、踏み台なんだよ。わたしは流れ星を踏み台にしてるだけなの。でも、その先は奈落で、踏み出す先なんてないんだ。ちょっとだけジャンプして、高い景色を見て、満足したフリをする。それでいいの」

あまりにいつものトーンだから、サミルはどうやって返答していいのかわからなかった。
ただ、義務だけは果たすべきだと思った。

「奈落、埋めてあげようか」

ミハがちらり、と彼を見た。

「つまり?」
「叶えてあげようか、ミハの願い」
「無理だよ」
「俺ならできるかもしれない」
「サミルは頭がいいもんね」
「うん」
「でも、きっと無理。だってサミル、星空が好きでしょ?」
「うん」
「ずっと夜空を眺めていたいんでしょ?」
「そうだよ」
「将来は、そういう職業に就きたいって言ってたでしょ?」
「言ったね」
「だから、止めたほうがいいんだよ」
「……ミハは、何が見たいの?」

彼女は静かに息を吐いて、黙った。
数秒だけ、ほほ笑んだ。

「わたしがこれを言ったら、夢を諦めたことになるのかな」
「わからないけど、言わないと始まらないんじゃないかな」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないよ」
「始めてみないと、駒は進まない」
「チェス? 将棋?」
「すごろくのつもりだった」
「サミルの庶民的なところ、好きだよ」
「ありがとう。とにかく、言うか言わないかはミハが決めるから、俺には何も言えない。ただ尋ねるだけだよ」
「そっか。そうだね」

流れ星が、ふたつ連続で流れた。朝の時間に近づけば近づくほど、数を増していくはずだ。やがて7時にはピークを迎え、雨のように星が降る。

「でもね、あまりに弱すぎるの」

ミハの声が、震えているように聞こえた。ぎょっとして隣を見るが、彼女の目元には何も浮かんでいなかった。

「立ってるだけで、やっとなんだよ」

サミルは、じっと彼女を見つめた。声は何一つ変わっていなかった。震えは勘違いだったのかと思わせるほど。

「風が吹いたらなくなっちゃうの。だって、それ、きっと二度と来ないから」

彼女の笑顔は、空に向いていた。

「それなら返って諦めてしまったほうが、いいのかもしれないけれど。けれど」

口に出せないのは、どこかで支えにしてしまっているからだ。
今にもちぎれそうな双葉に傘をかけて、じっと傍に居座って、寝ることもせずに雨に降られながら、雨合羽の裾を引っ張って、成長を見守ってしまうから。

「現れない何かを待ち続けるなら、わたしはいっそのこと、ヤミヨに触れてみたい。光を食べて生きて、朝の時間になったら死んで、また生まれてを繰り返す、あれに触れてみたい」
「……危ない、よ、きっと」
「そうかな。案外、そうでもないかもしれない。あれらの方が、何十倍も生産的だよ。だって光で生きている。光を求めていて、体の中に光を蓄えている」
「……」

体を起こして近寄って彼女の首に触れると、「くすぐったい」と返された。そしてミハは目を細めて、サミルを見上げた。影の中で浮かんだ彼女の笑みは、煽情的だった。何かをひたすらに求めていた。でもそれは、届かない先で輝いているものらしかった。彼を通して遠くの何かを見つめている。もう少しだけ、あと手を伸ばせば届くんじゃないだろうか。そう思わせておいて、実はずっと先にある何か。

「俺、ミハが遠くに行ってしまう気がするんだ。……美術館に、連れていくべきじゃなかったって、思ってる。きっとあそこで何かが、ミハを変えてしまったと思うんだ。だってあの日から、何か、」
「変なの」
「でも、」
「ねえ、星を見ようよ」

サミルは唇を一度舐めて、うなずいた。

   ♠

短針はいつの間にか3時を差した。
ミハはずっと表情を変えなかった。笑顔のままだった。
彼女が隣にいると思うと、おめおめと寝てしまうわけにもいかず、サミルはずっと空を眺めていた。時々望遠鏡を使って天体を観測したが、すぐに彼女の隣へ戻るようにした。不安が胸に巣くっていたから、だった。
唐突に、彼女は「あのさ」と切り出した。

「わたしは、サミルのこと、好きだよ」

サミルは横を向いた。ミハの大きな目と視線が合った。

「今が、言うタイミングだったの?」
「まあね」
「わかりづらいよ。サインは何だったの?」
「雰囲気かな」
「余計にわかりづらい」

彼女の目がすっと細くなった。

「でも実は、いつだってよかったのかもしれないよ」
「君が散々文句を言ったのにね」
「だって、それはサミルが知らないから」
「何を?」
「ここには夜なんてないってこと」
「夜の世界になってしまったのに?」
「そうだよ。すべてが夜だから、夜なんてないんだよ。――わたしが求めているものは、夜の先にあるんだけど、夜すらもないから、それもなくなってしまったんだよ」

視界のどこかで流れ星が一筋走ったが、サミルは彼女から視線を逸らすことはしなかった。彼の義務に反するからだ。

「見えたら、きっとみんな、死んでしまうから。美しすぎて、まぶしすぎて、あたたかすぎて、死んでしまうから」
「だから、俺でもミハの願いは叶えられない?」
「きっとね。恐ろしいものだから」
「恐ろしいものを、ミハは見たいんだ」
「うん。だって、美しいのよ。果てしなくどこまでも突き抜けてそれはきっと永遠に何度でも美しい。続くことのない何かについてわたしは美しいと結論付けてしまう。そういうものほど手に入れがたくて経験できないからこそ手に入れたくて遠いからこそ素晴らしいんだと思うの」

ずる、ずる、ずる、と、何かを引きずる音が聞こえた。
カンテラの明かりが灯った。
体を起こした彼女が、火を点けたのだ。

「お願いね」

サミルは体を持ち上げた。その間に、ミハは立ち上がっていた。

「わたし、見たいものがある場所に行きたいけど、それはサミルの隣であって隣でないから、半分のわたしはあなたにあげる」
「ミハ」
「気づいたの。ヤミヨは、恐れるべきものじゃないんだって。だってあれらは光を持ってるから。反する何かを持ってるから、ひとつの闇でいられるのよ」
「待って」
「好きよ、サミル」

彼女が目の前でかがんだ。唇が重なった。柔らかな感触に、サミルは目を見開いて茫然と彼女を見上げた。彼女の後ろに、黒い塊がいた。ぶよぶよとうごめいていた。

「ミ、ハ」

それには目があった。真っ赤な瞳が、真っ暗な闇の中で煌々と光っていた。
彼女と同じ、色だった。

「知ってた? わたし、半分は光なの」

彼女は一歩下がって、目を伏せて、背中から倒れ込んだ。ぶよぶよのそれが彼女を抱いて、彼女の華奢な四肢はずぷりと沈んだ。
立ち上がって手を伸ばした。ヤミヨに腕ごと突っ込もうとした。はじき返された。もう一度手を伸ばして返された。ヤミヨが震えた。カンテラのかすかな明かりが、パッと霧状になって消えたそれを照らした。
霧を払った。彼女が倒れていた。

「ミハ!」

傍らに膝をついて抱えて揺さぶった。

「ミハ!」

うっすらと目が開いた。赤い光がこぼれた。

「聞こえる!? 俺の、俺の声、聞こえる!?」

ミハは少しの間ぼんやりとしていたが、細く白い腕を持ち上げて、冷たい手でサミルの頬に触れた。

「聞こえるよ、ごめんね」
「ミハ、なんで」
「ごめんね」

ミハの目尻から、涙が粒になって伝って落ちた。
小さな口が、動いた。

「星、見よう」

サミルはゆっくりと、彼女をその場に横たえた。

「星を見よう」

彼女は空を指さした。

「――ずっと夜だから、いつまでも見ていられるよ」
「ミハ」
「サミル。わたしね、ずっと見たかったものがあったの。だから見に行ったんだよ。光がたくさんあふれた場所に、光を見に行ったの」
「……見れたの?」
「わからないよ、わたしには。でもそれは、見れないものなんだよ。どれだけ必死に足掻いたところで、目の前には浮かばないものなんだよ。ただわたしは、夜も好きでいなきゃいけないの。こんな世界に生きている以上、夜を愛していかないと、わたしは世界が嫌いになってしまうから。そんなのは、生きているのが辛すぎるから」

サミルは、彼女が薄ら笑いを浮かべているのを見て、目を伏せた。

「もういいの。この夜の世界が好きなんだよ、わたしは」

光をまとっていた彼女は、もうここにいないのだと、知った。
彼女は光を愛して、光の中へ消えてしまったのだと、悟った。
夜が続く中で変化を求めて、変化に恋をしたのだと、解った。

「ここでは見れないあれは――夜明けは、もうひとりのわたしが愛しているから、それでいいんだよ」

闇の中にある美しさを認めなければならないのだと、知っていたから。
手を伸ばそうとしない人が生きている場所なのだと、悟っていたから。
彼女自身が求めて、世界を捨てる必要があるのだと、解っていたから。

「星を、見ようよ。終わりなんて来ないよ」
「……そうだね」

サミルはうなずいた。

「ミハ、俺は、ミハが夜に溶けても、奇麗だと思うよ」

ミハはふっと消えてしまいそうに笑った。

「違うよ、サミル。わたしは、光に溶けたんだよ。光だから」

サミルは、目を閉じて、開いた。
彼女の赤い瞳が、じっと彼を突き刺していた。

「知ってる」

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