被告人AとBの語った、いくつかの証言
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こちらの作品は
胸くそ悪い系の怖さを追求しております
作品上必要な描写として
小児性愛並びに同性愛が出て参ります
お読みになる場合はその点をご了承の上でお願い致しますm(_ _)m
ローカル線の駅で猫が一日所長に任ぜられたことがニュースになるような、うんざりするほど平和な、とある国。
その国は、あらゆる犯罪が法により取り締まられ、非実在の人物ですら法に守られるような、完璧な法治国家だった。厳しい法はときに、ひとびとの表現の自由すら奪い取ったが、公共の福祉の理念に基づき、個人に課される多少の不自由はやむなしと、大多数の声は受け入れていた。
その国は多数決の法が正義としてまかり通っているため、大多数の声がそれを良しとするのであれば、それが国の総意として認められる。むろん、多数決と言うのは、意見を表明する権利と力のあるものの集団におけるマジョリティを国の決定とする、と言うものである。権利を持たぬもの、声を挙げぬものに関しては、なきものとして判断される。
ひとびとは実在、非実在のいかんに関わらず法により保護され、他国に類を見ない安全な生活を送っていた。
まるで現し世に現れた桃源郷のような国。他国の国民はかの国を指してそう言ったと言う。
呆れるほどに安全な、幻の理想郷のような国。
これは、そんな国で起こった世間を揺るがす大事件、その、被告人AとBが語ったいくつかの証言の記録である。
彼らの証言を記す前に、まずは前提となる事件とその背景を整理しよう。
大事件と言っても、たとえば大量虐殺や、大規模な窃盗があったわけではない。市民が多大なる迷惑を被ったわけでもなければ、国家を危険に晒したわけでもない。
そういう意味では私は、彼らを『犯罪者』として扱うことに少し躊躇いを覚える。
いや、紛れもなく、彼らは法を犯したのだが……。
それが悪であったのか、責められるべきは彼らであるのかについての判断は、この記録を読んだ読み手に預けようと思う。
では、事件について語ろう。なに、難しい話ではない。必要な前提だけを、簡単に説明するだけだ。
その事件が表沙汰になったのは、ひとりの青年の行動によるものだった。
『芸術家が二人だけで暮らししている家』にもかかわらず、『毎週大量の食料』が買い込まれていることを不審に思ったとある青年が、怪しい家として警察に通報した。
警察組織自体はそんな些細なことに付き合っている暇はないと取り合わなかったが、数人の警官が興味を持ち、件の家を観察したところ確かに大量の食料が買い込まれている上、明らかに『その芸術家たちが着るには小さい服』まで買い込まれていた。
もしやと思った警官のひとりが芸術家ふたりの留守中にその家を訪れると、応答はなかったが、家のなかから『複数人と思われる気配』がした。
もしや『戸籍登録されていない子供』が『大勢』『監禁』されているのではないかと考えた警官は上司にその予測を提言。事件である可能性があると判断した上司は警察組織を動かし、件の家に突入した。
結果見付かったのは、『娼婦のような手練手管を教え込まれた』『四歳から一七歳までの子供』計二十三名であった。
子供に虐待の痕跡はなく、栄養状態も良好。壁に囲まれた箱庭ではあったが外で遊ぶことも許されていたため体力も付いており、年齢に合わせた教育まで施されていたが、その教育からは、性に関する倫理観が、すっぽりと抜け落とされていた。
『児童』にあたる年齢であること以外には年齢、性別、容姿、来歴すべてバラバラの子供たちのなかには、年中下衣も履かされず肌の透けるベビードレス一枚で生活させられていた子供もいた。
子供ひとりひとりから事情を聴取したところ、容疑者ふたりから子供同士の性行為や自慰行為を見せることを命じられたり、容疑者との性的な行為をさせられること、容疑者から身体を触られたりすることがあったと言う。ただし、行為を強要されることはなく、子供たちの自主判断により合意の上ですべての行為は行われていたそうだ。
また、子供たちはなんらかの理由で社会から隔離される、あるいは、安全な場所に庇護されることを望んで、自主的に容疑者の家に滞在しており、外出や逃亡を禁止されてはいなかった、と語っている。この事実は、事件が報道された折りに過去同じ家に暮らしていたと語る数名が名乗り出たことより裏付けが取れている。
つまり容疑者ふたりは、『合意の上で』『十八歳以下の児童』を複数集めて、『性的な行為を行っていた』のである。また、容疑者宅からは児童を撮影した写真や映像、集めた児童がモデルと思われる絵画や彫像も数多く発見されている。
この内容から彼らに掛けられた嫌疑は、『児童ポルノ禁止法違反』『青少年健全育成法違反』『未成年略取及び誘拐罪』である。
子供を性的に見ることが悪とされている国で起きたこの事件は世間を揺るがし、国中の関心を集めた。
容疑者のひとりが画家、もうひとりが彫刻家であり、どちらも稀代の若手芸術家として名声を得ている人物であったことも、世間の注目を集めた理由だろう。
容疑者ふたりの行為の正統性、賛否、また、彼らがそのようなことをした動機について、さまざまな意見や臆測、報道が飛び交った。そのなかには、性犯罪を煽る創作物への批判や、彼らが元々裸体をモチーフとした作品を創ることが多かったことより危険性は十分考えられたとするもの、数年前に改編された青少年健全育成法と児童ポルノ禁止法がいけないと批判するものなどがあった。
なお、青少年健全育成法と児童ポルノ禁止法についてだが、数年前に起きた改編は、保護対象を『実在する児童』から『創作物を含む』としたこと、禁止する内容を『大衆もしくは保護対象の目に触れさせること』から『所持すること』に変更したことである。
この改編がいけないと批判する根拠は、元々、容疑者ふたりが主に子供の裸体をモチーフとした作品を多く創る作家であり、この法律改編によりそう言った作品の作成販売が出来なくなったこと及び、最初の子供が家に連れ込まれた時期と法改正が発表された時期が一致することである。
法律に関しては、つまり、数年前から『子供をいやらしい目的で裸にしたり触ったりすること』だけでなく『裸の子供を描いた絵や像を持つこと』も禁止になった、と理解してくれれば十分だ。
さて、面倒な背景説明はこのくらいにして、これからは容疑者が刑事告訴され、被告人として裁判に掛けられるなかで、私が個人的に被告人たちと会話して得た証言について記そう。
被告人Aは画家、被告人Bは彫刻家だ。ふたりとも幼い頃から才能を発揮していて、商業的に芸術活動を始めたのは中学生の時。同じ芸術学校に通っていた仲で、現在はふたりとも二十八歳の、青年だ。若き天才としてふたり一緒に取り上げられることも多く、現時点でもふたりの資産を会わせれば一生豪遊して暮らせる程度の稼ぎは上げている。
まあ、でなければ二十三人も子供を囲ったり出来ないだろうが。
検察側から少しも反省の態度が見られないと責められるふたりに初めて会ったとき、私はついつい問い掛けた。
犯罪を行ったと言う自覚はあるのか、と。
被告人Aはこう言った。
俺たちのやったことが犯罪でないのなら、今の状況はおかしいだろ?俺は犯罪者だから捕まってるんじゃないのか?
被告人Bはこう言った。
法律を犯した、それは間違いないだろう。
ふたりとも、悪びれたようすはなかった。
だから続けてこう訊いた。悪いことをしたとは、思っていないのか、と。
被告人Aはクスクスと笑った。
悪いこと、ねぇ?俺はなにか、悪行を働いたのか?
被告人Bはにやりと口端を吊り上げた。
食卓に話題を与えてやったんだ、良いことしたんじゃないか?
ああ、そうだ。彼らは常にこんな調子だから、弁護人は頭を抱えているし、検察官は怒り狂っている。さらに外では、倫理がどうのとうるさいやつらと、表現の自由がどうのとうるさいやつらが、しょっちゅう喧嘩している。
罪を犯しただろうと言えば、被告人Aはケタケタと大仰に笑い出した。
犯罪と罪は違うし、犯罪者と悪人は別物だよ、おっさん。悪いこと、なんて、受け取り手次第さ。結局、自分がどう思うか、だろ?悪人だから捕まるなんて、その歳でガキみたいな考え方だな。俺たちは法律を犯した、それだけだ。
いたいけな子供を弄んだと責めれば、ふむ、と微笑んで被告人Bは問い掛けた。
弄ばれたと、『わたしの作品』が言ったのかな?
『わたしの作品』、それは、『被害者』とされる子供たちのことだろう。
『保護』された彼らの多くはむしろ、幸福な生活を壊したと警察側を責めている。それは、彼らの家を抜け出た子供たちも同じ意見のようだ。
逃げたければ逃げられた。好きでその生活をしていたのだ、と。
実際、抜け出た子供には十二分の金銭が与えられて、と言うか、抜け出る際に子供が家にあった金銭を持ち出していた。家の鍵も食料も衣服も金も、すべて子供たちが自由に触れるところにあった。手を出して怒られることもなかったそうだ。
洗脳、あるいは、ストックホルム症候群と言うには、無理があった。いちばん最近来たと言う少女は実の父親に虐待を受け、彼らの家に逃げ込んだと言うのだから。
警察も学校教師も児童相談所も、なにもしてくれなかったと少女は大人を責める。彼らだけが、手を差し伸べてくれたのだと。
自分を救った彼らに奉仕することが、彼女の喜びだったそうだ。
彼らはただ、居場所を与えてくれただけ。
子供たちは、口々にそう言った。
それのなにが、悪いと言うのかと。
問い掛けに答えられない私を、被告人Bは笑い飛ばした。
私はなにも言えなくなって、その日の会話はそれきりになった。
二度目に会ったとき、私は彼らに訊ねた。
子供に性的な行為をすることに、罪悪感はなかったのかと。
被告人AとBは迷いもせずに、なかった、と答えた。
子供だろうが人間は人間だろ、と、被告人Aは肩をすくめた。
子供は守るべきものだろうと言えば、だから助けて世話をしただろうと、被告人Bは左の口端を吊り上げた。
寝床を与え、食事を与え、服と存在意義を与えた。汚れれば風呂に入れ、必要とあらば教育も施し、病気になれば医者にも見せた。この上なく守っていたと思うが、違うか?
下手な児童養護施設や孤児院よりも良い暮らしをさせていた自信がある、と、被告人Bはのたまった。
『保護』された先で爪を切れと言われ、切れないと答えた子供がいた。爪が伸びれば被告人Bが切り揃えてくれ、手が荒れれば被告人Aがクリームを擦り込んでくれたと言う。幼い子相手ならば歯磨きや風呂、トイレや寝小便の面倒まで見ていたそうだ。
その側面だけ見たならば、なるほど確かに彼らは子供たちを守っていたのだろう。子供たちは、飢えも、恐怖も、寒さも、暑さも、痛みも、与えられていなかった。美味い食事と温もりと庇護、彼らが子供たちに与えていたのは文句なしの慈愛だろう。
性的な行為が、挟まれていなかったのならば。
その一点が問題視され、その一点が責められているのだ。
もしもそれさえなかったならば、やり方に問題があったとは言え、彼らが悪し様に言われることはなかっただろう。
子供を性的対象として見るのが異常だとは、思わなかったのか。
子供、と言うだけではない。彼らの家には少年も居て、少年相手に『そう言う行為』も行われていた。
『同性』の『幼い子供』と『性行為』。おぞましいと声高に批判するものも数多く居る。強い嫌悪感を覚えたものは、少数ではなかった。
俺は芸術家だ。
被告人Aはきっぱりと言った。
美しいものを愛でて、なにが悪い、と。
わたしにとってはこれが正常だ。
被告人Bは堂々と宣言した。
自分と違うなら異常だなどと、ずいぶん傲慢な考え方だな、と。
さて、間違っているのは、私なのか、彼らなのか。
警察が押収した彼らの作品を写真に収め、ネットにアップした警官が居た。
件の警官はすぐに捕まったが、一度流れた画像はもう回収出来なくなっていた。消しても消しても、誰かがまた流す。流した人間を捕まえても、別の誰かによりまた画像が流された。それが国外の人間ならば、罪に問うことも出来ない。
芸術作品だ。
その絵画を、彫刻を見て、そう思った人間が何人居ただろう。
我が国に亡命を。
そう言った政治家も居たらしい。
ネットの画像を消しても、ダウンロードされた画像までもは消せない。画像の所持は国内ならば犯罪に問えるが、数が、多過ぎた。
子供は生命力の塊。それを美しいと感じるのは、ごく自然なことではないのか。
とある著名な芸術家は、そんな意見を表明した。
私の個人的な感想を言えば、確かにそこに描かれているもの削り出されているものは子供の裸体なのだが、いわゆる春画のたぐいと同じものとは感じなかった。
卑猥な雰囲気の作品がない、とは言わない。けれど、それも併せ呑んで芸術作品だと言えるものだった。さすがは、若くして才能を認められた天才、か。
芸術を殺すな。
プラカードを掲げてデモを行う団体が現れ始めた。
彼らに他国から移籍の誘いがあったことを知る。
少なくとも描き彫塑するだけならば、他国に行けば許されたはずだ。
なぜ国を捨てなかったのか、と問い掛けると、他国で友が指を飛ばされた、と被告人Bが答えた。
銃の氾濫する国で、知り合いが気違いの暴走に巻き込まれたらしい。ノミを握れなくなった友人は、数日後に首を吊ったそうだ。
国籍を与える代わりにケツを出せと言われてね。
本気かどうかわからない口調で、被告人Aはのたまった。
法律の改編が起こる前も、児童ポルノに対する世間の目がぬるかったわけではない。
なぜ、よりによって規制が厳しくなってから、彼らは子供に手を出したのか。
犯行動機を答えないと言う彼らに私がそう問うたとき、検察と弁護人は隣室で会話を盗み聞いて居た。
ちらりと隣室とこちらを隔てる壁に視線をやり、被告人Aは目を細めた。
俺はずっと、『実在しない子供』を描いて来たわけだ。
でなければ捕まるからなと、被告人Aは笑う。
ずっと、と言うのは、法改編の前の話だろう。
頷いて促せば、被告人Aは続けた。
『実在する子供』と『実在しない子供』は別物だからな。『実在する子供』の人権は、ずっと尊重して来たわけだが、
言葉を止めた被告人Aが、またちらりと壁を見る。その向こうで聞き耳を立てる存在に、気付いているとでも言うように。
国が、『実在する子供』も『実在しない子供』も、分け隔てなく接して良いと公言したからな。なら、良いのかと思った。
だからだよ、と、言って口を閉じた被告人Aの言葉を理解するのに、しばらくの時間を要した。
そして、絶句する。
どうした?顔色が悪いぞ?
被告人Aに覗き込まれて、私はびくりと立ち上がった。蹴倒されたパイプ椅子が、耳障りな騒音を立てる。
私は、逃げるように部屋を後にした。
被告人Aが恐ろしいのか、この国が恐ろしいのか、わからなかった。
気の進まない私に、検察と弁護人は被告人Bにも同じ質問を投げろとせっつく。
なぜ、と問うた私ではなく壁を見て、被告人Bは微笑んだ。
どちらも同じ罪ならば、どちらも破って構わないだろう?
被告人Bがなにかをなぞるように、手を動かした。
わたしは彫刻を造らずには居られないし、あいつは絵を描かずには居られない。人間、動物、植物、なんだろうと関係ない。美しいと思ったものを、わたしは彫刻にする。彫刻と言う形で、わたしは世界を愛でる。……実物に触るのは、犯罪と言われるからな。
べつに犯罪者になりたいわけじゃない。彫刻で十分だ、と、被告人Bが壁に言う。
壁に、いや、その向こうに、だろうか。
けれど、彫刻を愛でるのも実物を愛でるのも、同じことだと言うからな。どうせ犯罪者にされるのならば、どちらにも手を出して良いだろう。
ふふっと、被告人Bが笑う。
わたしもあいつも、モデルには敬意を払う。子供だろうが大人だろうが分け隔てるつもりはない。モデルを引き受けると言う人間しか描かないし、手を出して良いと言う人間にしか手を出さないさ。
動物や大人、植物の彫刻だって、造っていただろう?
胸に鉛を流し込まれたような心地がした。
彼らの家には、たくさんの植物が植えられ、何種類ものペットも飼われていた。
動物も植物も、それはそれは丁寧に手入れされていた。
大人、子供、だけじゃない。彼にとっては、人間も動物も植物も、同じものなのだ。
ただ、人間の子供だけは特別に法律で守られていたから、手出ししなかっただけ。
その、特別性を、この国は自ら棄て去ったのだ。
『実在しない子供』
そんなものの、人権のために。
守るべき身体を持つ子供と、守るべき身体など持たない子供。後者の地位を上げるために、前者の地位を致命的に下げたのだ。
安いから外国産の牛肉を買っていた消費者に対して、国産牛と同じ値段で外国産牛を提供したらどうなるか。
彼らは高いから買わないと言う選択肢ではなく、同じ値段ならどちらも買うと言う選択肢を選んだ。
値段を揃えることで、彼らの中で国産牛の価値が外国産牛と同じところまで落とされたのだ。
それは、彼らの過ちか?国の過ちか?
創作物ならば許すと言っておけば、彼らは決して実物に手を出さなかったと言うのに。
被告人Bが見つめる壁に、私も思わず視線を向けていた。
検察官も、弁護人も、この発言を法廷で言えるのか?報道関係者も参席する、クローズドには出来ない場で?
子供の人権は絵の一枚と同じと国が言っているなんて、宣言できるのか?
不意に視線を感じて顔を戻すと、被告人Bがにいっと口端を引き上げて私を見ていた。
青褪めた私に対して、問い掛ける。
さて、わたしは、悪人ですか?
答えはどうか、これを読んだあなたが出して欲しい。
拙い作品をお読み頂きありがとうございました
ホラーってナンダッケ……orz
あ、えっと
ジャンル詐欺じゃないか!?と言うご意見は
謹んでお受け致します
作者はこれをホラーで行けると判断しましたが
あまり自信はありません
作者は法律に詳しくないですし
逮捕された経験もありませんので
その辺の突っ込みどころは生暖かい目でスルーして下さい(ノД`)
ぞくっとして頂けていると嬉しいです