綺麗な花が、咲きました
この坂道を登れば、その先には僕の高校がある。
僕――馬場颯太はこの坂道を今日も登る。
重たい重たい足をひきずるようにして。
僕がなぜ足取りを重くしているのか、と言えば、別に坂がきついから、というわけではない。
学校に着いて、校内靴に履き替えるために靴箱をあける。
当然、そこには僕の靴はない。
はあ。
ため息をついて、僕は靴下のまま教室へ向かう。
教室に着いて、自分の机を探す。
当然、僕の机は教室内にはない。
はあ。
ため息をついて、今日はどこに僕の机があるのだろう、と探す。
今日は机は廊下の端っこの方に放り出されていただけだった。
よかった。
机をえっちらおっちら運んだところで予鈴が鳴る。
すぐに席に着くと、担任がやってくる。
五十がらみのおじさんで、無気力そうにやってきては、当たり障りのないことを言うだけの担任だ。
恐らく担任は僕のことなんか、来年になれば忘れているだろう。
もしかしたら、今も覚えてないのかもしれない。
授業は刻々と過ぎていく。
英語、数学、国語、社会。
そして昼休み。
地獄の時間。
「おう、馬場。俺腹減ってんだよ!」
阿久津だ。
髪の毛を染め上げていて、ピアスもしている。
こんななりの奴を学校でのさばらさせておくな。
生活指導、仕事しろ。
僕のそんな心の声は無視されて、不意に胸ぐらを掴まれる。
そして、そのまま教室の隅へと引きずって行かれる。
「……そんなこと言ったって」
「うるせぇ!」
胃液とさっき食べた弁当が逆流して盛大にえづく。
ドス、と重たい音が響いたはずだけど、クラスの誰にも聞こえていない。
「なんで殴るんだよ……」
「うるせぇ」
またみぞおちに一発。
「お前の顔見たら腹立つんだよ。あーあ、腹減ってるからだな」
「そんなこと言われたって……」
「あぁぁん!?」
阿久津にすごまれて僕は金縛りに遭ったように何も言えなくなる。
「殴って欲しくなけりゃ、何か飯買う金でも寄越せや」
僕の返事も待たず、阿久津の取り巻きの井元が僕のポケットをまさぐって財布を取り出す。
「おい、なんだよ。千円しかねぇじゃねぇか!」
二発、三発。
僕のみぞおちにまた拳が叩き込まれる。
我慢しきれずに盛大に戻し、その上に倒れ込んだ。
「けっ!」
阿久津はそれだけ言うと、ゴミのように僕の財布を吐瀉物の中に捨てて教室を出て行った。
「あんた臭いんだからなんとかしてよ」
「最低」
周囲のクラスメイトが、僕のこともゴミを見るような視線で見ていた。
僕は授業中は好きだ。
せいぜい消しゴムを投げられるとか、そのくらいで済むから。
そして、六時間目まで終わると、部活の時間だ。
「おい、馬場、スパーリングパートナーがほしいんだわ。お前親友だよな? やってくれるよな?」
阿久津は急いで教室から出ようとした僕を捕まえてにやりと笑う。
阿久津はボクシング部。
試合をしたなんて話を聞かないボクシング部だ。
阿久津の取り巻きの井元と、詫間の二人に引きずられるようにして、僕はボクシング部の部室へ連れて行かれる。
そこには僕の処刑場がしつらえられえていた。
一辺十八フィートの僕の処刑台。
ヘッドギアとグローブをつけさせられて、形だけは対等を見せかける。
「へへへ、別に打ってきてもいいんだぜ?」
阿久津はそう言うとヘッドギアの下からにやりと笑った。
右から、左から、阿久津のパンチが飛んでくる。
「うわぁぁぁぁ」
僕は叫びながら、阿久津目がけて腕を振り回すが、頬に、顎に、頭に、好きなように殴られる。
口の中が切れて、目がちかちかする。
殺される。
そう思うと、慌てて腕を振り回した。
その振り回した腕が、阿久津の顔に当たった。
「てめぇ!」
阿久津は顔を憤怒に染めると激しくパンチを浴びせてくる。
右、左、右、左。
僕は首を左右に振られて、ヘッドギアは吹っ飛んで仰向けにひっくり返る。
だが、阿久津は止まらない。
馬乗りになって、右、左、右、左。
気付いた時には、リングの上に一人取り残されていた。
顔中が、体中が痛い。
すでに日は傾いてボクシング部の部室は暗くなってきていた。
「帰ろう」
ぽつりと呟いて、制服を探すと、シャワー室でびしょびしょになっていた。
僕は家に帰る。
担任が、前に立っている。
「転校生を紹介しよう。遠野揚羽さんだ」
担任が何か言っている。
「そうだな、馬場の隣の席が空いているな」
転校生が僕の隣の席に来るらしい。
僕は彼女のことをまじまじと見る。
黒い、フリルたくさんのドレス。
ゴチック調の、お姫様のようなドレス。
僕が聞いていなかっただけで、制服がないのだろう。
色白の肌に、黒目がちの大きな瞳、鼻筋の通った美しい顔。
天使がいた。
その天使は、僕の隣の席に座る時に、にこりと微笑んでくれた。
次の日もまた、僕はいじめられていた。
その次の日もまた、僕はいじめられていた。
いつものことだとはいえ、誰も助けてくれないのに、僕の心はどんどん凍り付いていっている。
僕は、昼休みにトイレに籠もっていた。
ここならば誰も来ない。
「おい、馬場!」
不意に怒鳴り声が聞こえる。
僕は身を縮こまらせて、阿久津が行きすぎるのを待つ。
「ちっ」
がらん、と蹴られたらしい何かが転がる音がする。
阿久津はどうやら去っていったらしい。
そう思った時。
ばしゃり、と上から何かが降り注いだ。
「うわぁぁぁ」
僕が叫ぶ。
どん、とトイレのドアが蹴られる。
「いるじゃねぇか」
その声には、怒りの色しかなかった。
「おうおう、びしょびしょだな」
お前がやったんだろ。
そう言いたかったが、言葉が出ない。
僕はトイレの床に正座させられている。
「井元、なんかおもしれえことないか?」
「また、スパーやります?」
「あーそれもいいけどな……」
阿久津と井元がそんな物騒な会話をしている。
「そうだ、いいこと思いつきました」
詫間がそんなことを言い出す。
「脱がしちゃいましょう!」
「は? 男の裸見て何が楽しいんだ?」
「んで、隣行かせましょう」
詫間の言葉に、阿久津がにやりと笑った。
僕はパンツすら取り上げられて全裸に剥かれた。
「立てや」
僕は黙って立つ。
「出ろ」
「えっ?」
「出ろ」
裸で学校の廊下に出ろというのか。
阿久津は目が据わっている。
これ以上阿久津に逆らえない。
のろのろと立ち上がって、僕は出ようとして逡巡する。
阿久津の目の怖さに頭が麻痺していたが、こんな格好で出られるわけがない。
僕は、吹っ飛んで顔面から床に滑り込んだ。
阿久津が僕の尻を蹴り上げたらしい。
慌てて起き上がろうとして、自分がどこにいるか気付いた。
男子トイレの隣――女子トイレ。
金切り声が聞こえる。
「いやぁぁぁぁ! 変態!」
誰かが汚いモップで僕を殴る。
誰かが雑巾を投げつける。
僕は仰向けにひっくり返って、余計に悲鳴が大きくなる。
「汚いもの見せないで!」
モップで思い切り急所を突かれて意識を失った。
「大丈夫デスカ?」
遠野揚羽がいた。
「揚羽さん……」
だが、自分の姿を思い出して絶望した。
下半身丸出しで、女子トイレの入り口のあたりで倒れている男を見て揚羽さんは何を思うか、などというのはわかりきっている。
「颯太くん」
揚羽さんは僕の方を見た。
「どうしても、困ったら、“パピヨン”と呟いて下サイ。それで貴方は助かりマス」
彼女の言葉が、僕の頭の中を響いた。
次の日、学校に行くと僕の居場所はますますなくなっていた。
今まで無関心だった女子たちまでが、僕のことを見ると親の仇を見つけたような眼で見るようになってきていた。
僕の安寧の時間だった授業中にも、後ろから蹴り飛ばされたり、机をひっくり返されたり、色んなものを投げつけられたりするようになっていった。
阿久津や井元や詫間はにやにやしながら休み時間の度に僕をぶん殴り、昼休みの度に僕の財布から有り金全部奪っていった。
そして、僕はある日、夜の学校に呼び出された。
「おう、来たか」
阿久津と井元と詫間はボクシング部の部室でスパーの準備をしていた。
また殴られる。
右、左、右、左。
殴られる度に首が振り子みたいに振れて、それを見て阿久津がにやにやしながら更に、右、左、右、左。
跳ね飛ばされて、頭を打って、馬乗りになられて、また、右、左、右、左。
意識が遠のくと頭から水を浴びせられる。
「もう……やめて……」
僕はか細い声で言った。
「やめてだってよ! サンドバックがしゃべってら」
何が面白いのか阿久津たちは大笑いをしている。
「よし、じゃあ百万持ってこい。持ってきたら許してやるよ」
そう言うと阿久津は大笑いする。
「出来るわけ無いじゃないか……」
僕はそう呟くと、また阿久津に無理矢理引きずり起こされて、スパーリングさせられる。
右、左、右、左。
ぼおっとしてきて、何がなんだかわからなくなる。
世界が極彩色のような、モノトーンのようなわけのわからないことになる。
頑張れ、頑張れ。
自分を励ましても何も始まらない。
その時、僕は思い出した。
「パピヨン」
そう呟くことを。
ふらり、と意識が薄れる。
目の前には揚羽さんがいた。
「揚羽さん……」
彼女はにこりと笑う。
「花の上で、華麗に舞って見せましょう」
彼女の涼やかな声が聞こえる。
意味はわからないが、何か心が安らいだ。
阿久津を見ると、恐怖で顔を歪めている。
何だ?
何が怖いんだ?
僕は目覚めると、家のベッドで寝ていた。
揚羽さんがきてから、どうなったのか覚えていない。
もう朝だ。
学校へ行こう。
学校に着くと、人だかりが出来ていた。
「聞いたか? 人が三人も殺されたってよ」
「もうすぐ警察来るらしいぜ」
「先生たちも吐いちゃうくらいの凄惨さだったらしいぜ」
野次馬たちのそんな声が聞こえる。
え?
僕はその人だかりの中心へと向かう。
先生は部活棟の入り口にいたが、いつも阿久津たちがやっているようにこっそり忍び込んだ。
鼻をつく血の臭いと、そして喉をかっ斬られた三人。
阿久津と、井元と、詫間。
リングの上と、青コーナーと、赤コーナーと、一つずつ。
彼らの身体という茎と、血で描かれた大輪の花が咲いていた。
僕は、ぞっとした。
青い顔をしたまま教室に戻った。
隣の席を見る。
鞄はない。
「なあ、揚羽さんは来てないのか?」
僕は思わず近くにいた奴に声を掛けた。
迷惑そうに僕を見る。
「誰だ、それは?」
僕の耳元で、涼やかな声が聞こえる。
「綺麗な花が、咲きました」