(中)鶏が先か、卵が先か
登場人物
高坂 侑子
佐久間 実
好きなことを話していたはずなのに、それは泣きながらだった。
目をものすごく見開いて、とても熱いものが頬を流れていたって、そのときは“泣く”だなんて言葉が存在しないように言い聞かせて────いいえ、端から存在しない行為だと思い込んだ。
トマトソースのオムライスがわたしの世界なら、そのことを糧にしてなにを泣くことがあるのかしら。どうして? 本当に理解できなかったから。
変革の嵐は吹き荒れていた、あのとき確かに。
嵐が去ったあとに、新しい芽が育ってしまった。
手に負えそうもない、苦しくてゆがんだ芽。
経験がそれに先行するなら、愛情という名前の抱擁がそれを凌駕するなら、きっともっとスタイリッシュに、スマートに。わたしが思う理想なかたちでアプローチできたはず。
“事実は真実とはちがう”
使い古された言い回しだわ。わたしのなかの真実はなに? それがわかっていれば、揺るぎない心を、まっすぐな道を、確立できるはずよ。
経験が勝る、愛情が勝る。
どちらなんだろう。
苦しくてゆがんだ芽が真実なら、どちらを信じたらいいのだろう。
どちらが、第一義なのだろう────。
*** *** ***
「世界中に事件があふれているのに、自分の周りはなにも起こらないって思ったことはない!? この、空恐ろしいほどに感じる矛盾を。つまりね、その矛盾は近代社会の発生に起因するとわたしは思うの。言い換えれば自己矛盾、二律背反、二者択一。イエスとノー、裏と表。自由と束縛、解放と隷属。自己のなかにある矛盾は、そのまま近代社会の投影なのよ。だから近代社会は、自我確立の歴史でもあったということなのね。けれど立ちはだかるのは倒錯した現象なの。個人は自由であるはずなのに、自我は個性の獲得と解放を求めて永遠にさまようことを宿命づけられている。近代以降の、人が生まれながらにして背負うかなしき性、越えることのできない、そう非業なのね」
「……おい」
「近代社会の縮図が自己にそのまま投影される、つまり自己のなかにある矛盾は社会の矛盾になるというわけ。Do you understand?」
「おい、高坂」
「わたしはいつも考えているの。原点というものを。近代社会の発生は、個性の獲得、言い換えれば自我の確立に起因するなら、自我の発生が先か、前時代の綻びが先か? 両者は相関関係にあって、切って離すことはできないわ。ふたつはいわばシーソーのような、あるいは綱引きのような均衡にあったとすれば、自我の発生が前時代の終焉の引き金をひき、近代社会の幕開けの決定的要因となった。――――ならば、なによりも先行するのは個人であるはずよね? でも、でもちょっと待ってほしいの。Keep your cool. 答えを焦ってはいけないわ。だってね、こ、個人は――ゲホッ、個人と認識されるから、個人なのよ。では、個人が個人という権利を有していなかった社会の人間は、社会に組み込まれていただけの人間は、いわば集団だったっていうことよね。だったら綻びをどうやってみつけたのかしら? 集団の綻びを集団でみつけることはできないわ、だってそこに個人はいないのだもの!」
「高坂、聞こえてるか」
「こ、個人の綻びを集団がみつけるの? おかしな話ね。では集団の綻びを個人がみつけるの……っ? ……ゲホッ、ゲホッ、ゴホッ――――失礼。それも変じゃないかしら。だからわたしはいつも考えるの。どちらが先なのかって。どちらが先、そう畢竟この問題はね、鶏が先か卵が先かという理論に置き換えられるのよ。なんということ、ここからが真実なの、だからつまりね、卵そう、オムライス。“オムライスは何をもってオムライスとするのか”、これがけっして外せない重大な懸案なの。そしてここからが、Issue of that is of primary importance. この問題において一番重要なことなの、どうか聞き逃さないでね、Please don't miss it! オムライスという事物に何よりも先んじるものはね――――」
「高坂、おい、一旦口を閉じろ。それともう泣くな、第一どこを見て話してる」
――――おかしなことを言うのねと思ったなあ。オムライスのことを話すのに、いったいどこに泣く要素があるっていうのかしら。どこを見ているかですって? 凝視しすぎていてほんとうは目が痛かったのよね。
……このときは、知らんぷりをしていたけれど。
「……泣いてなんかいないし、デスクの下を見ているのよ。あそこに白いスニーカーがあればいい仕事ができるんじゃないかと思っているだけよ」
――――そう言ったら、ものすごく胡乱げにわたしのデスクの下と、わたしの顔を交互に見たのよね。七月に入ったばかりで、日本特有の梅雨だけど雨がザバザバと降っていたのよね。梅雨らしくない嵐みたいな暴風雨。でもそれはわたしの心と呼応していた。
とにかくわたしは嵐のただなかにいた。
右の眉を器用にあげて、右目を眇めてわたしの姿をとらえている同僚――佐久間実――に、一瞬見蕩れてしまったのよね。
もともと精悍な顔つきをしているから、余計に凄みがまして、きれいだなあなんて思ってしまった。
「……誰がどう見ても泣いてる。しかもなんだ、その執念深そうな目は。スニーカーがおまえはそれほど好きなのか?」
「白でこそ至上の意味をもつといもの。白でなくちゃだめ」
白でなくちゃね。
「白がそんなに好きか」
Of course!
「オムライスにかけるソースの色は赤でなきゃだめ。赤って言ってもケチャップではないの。トマトソースなの」
「高坂。おい、あのなあ……高坂よ。効率って意味を知っているか。おまえが言うところのKeep your cool だ。筋道立てて、脈絡のないことは話すな。それでだな、俺は部長に報告するつもりだからな――――」
「聞き苦しかったなら、それはごめんなさい! でもこの重大問題を語らずして、世界のなにが完結するっていうの!? スニーカーについて言えばね、スポーツメーカーが一昨年出した型なのよ、革新を表す“白”がコンセプトなの。何物にも染まらない、世界は白から始まったっていうキャッチコピーなのね。世界が白から始まっただなんて何を根拠に言っているのかしら? たとえば創世記においては光は神が創ったのね、闇が最初だったから。だから世界が白から始まったというならそれは言ったもの勝ちということになるわ、どうかしらこの欺瞞と虚構。今の時代は根拠はなくとも先に言った方が勝つのよ。ネットふうに言えばnrnrするってところだわ。近代の合理性から生み出された怪物のようなものだと言えなくもないわね。それと、好きだからって執念深いだなんて形容が正しくないと思うのよ」
「……“執念深い”って単語を覚えてるあたり、十分執念深いと俺は思うぞ」
「心外な感想に憤慨しているわ」
Absolutely!
「俺にだって思いも寄らない事態はある。高坂、そろそろ本題に入っていいか」
「私の命題は、トマトソースのオムライスなの」
「高坂、それはわざとなのか? 話を逸らすな」
「逸らしてなんかいないわ。好きなことはいつだって真剣に考えているもの」
別に間違っていないわ。
「いま考えることじゃねぇだろう。だいたいな、聞き苦しい以前におまえの言ってる内容は意味不明なんだ。オムライスの話をしていたと思ったら、いきなりスニーカーなんて言い出す。それも世界が近代がどうのと。それはおまえにしか理解できない話じゃないのか? 俺はな、そもそもおまえがオムライスが好きらしいってことを今初めて知ったんだぞ。それもまだ確かめたわけじゃねえ。“らしい”止まりだ。いいか高坂、物事には順番ってものがあるんだ。重大問題を語りたいのなら、まず話し相手のもつ情報を確かめろ。相手が理解を拒否するような突飛な発言は、最悪おまえの評価を下げるぞ。……だいたい世界の完結ってなんだ、この世の終わりって意味か。しかも一昨年の型って古くねえか」
「メシアが降臨するのよ」
「……何だって?」
「だからメシアよ、救世主。わたしにおける救世主、運命って言ってもいいわ」
「……おまえは効率って言葉を一生知ることはないのか? じゃあなんだ、おまえが言うところのメシアが降臨したら世界はオムライスでハッピーエンドになるのか。スニーカーが白ければおまえは永劫幸せになるのか。そんなままでか?」
「そんなままでって何? わたしは、真実はひとつしかありえないって考えに驕り高ぶってはいけないと思うの。わたしには運命って言えるけど、他のひとはそうじゃないかもしれないでしょう? わたしにとっての運命は、オムライスにトマトソースがたっぷりかけられていることだけれど、そうよ出合う全部がそうであればきっと幸せだわ……、だからって、真実はだれにも見えないのよ。白いスニーカーをデスクの下におくことのなにが幸せで心地よいかどうかなんて、そのひとの見た目だけで判断できるはずないじゃない……」
そうよ、“そんなままで”ってなによ。
わたしは、変わるんだから。というか、変わったのよ。
ここから、たくさん。
「……なあ、高坂。おまえは今、泣いていないって本当にそう解釈してるのか」
だから泣くってなによ。しつこいのではない?
「なにを泣くことがあるの? 好きなことを話しているのに?」
「どの話だ。世界か、スニーカーか? トマトソースか?」
「全部よ、すべて。世界を内包したトマトソースのオムライスよ」
「つまりスニーカーはそれほど重要じゃないんだな?」
そんなわけないじゃない。泣くほど好きなんだから。
「あなたは誤解をしている。世界というのは、すなわち真実なの。わたしの真実は、白いスニーカーで、トマトソースで、金曜日のオムライスなのよ」
「……金曜日のオムライス……?」
Yes, that is ――――
「────わたしの真実」
「――――俺の頭は非常に混乱している。高坂。わかった、今日はいい。今日のところは、だ。だが部長には、明日報告するからな」
「……佐久間さん。報告って、一体なんの報告? わたしが外見のせいで仕事を回してもらえなくて、大事なところでミスをおかした今日のようなことを話すっていうの? それが以前からずっとそうだったってことを、時系列に詳細に話すっていうの?」
“わかってるんじゃないか”って、溜め息をつきながら視線を落として……、あなたがどうしてそんなに疲れているの?
「――――それこそ全部だ、すべてを」
「……そんなこと、してもらう謂れはないわ」
わたしの領域だもの。そこは主張したいわね。
「なぜ」
「解決したいわ、ひとりで全部」
「言っておくが、おまえ一人の問題じゃない」
「だったら、できるところまではやってみたいわ」
「できるところっていうのは、具体的に何を指してる。どこからどこまでの範囲だ? 高坂、必要な情報もおまえのもとに回ってこないこんな状態が健全と言えると思うのか」
「それが外見の理由でなんて、信じてもらえると思う?」
「今さっき、真実はだれにも見えないって言ったのは誰だ。理由がどうあれ、事実が動くわけじゃねえだろ」
「彼女たちのレイシズムに付き合うつもりなんてない」
「そういう話じゃねえ。というか、部長も事態は把握してるぞ」
言ってることがおかしいじゃない。部長に、詳細に報告するって言ったことと矛盾してるじゃない。
――――このとき、それに気づかなかったわたしにも問題はあったかもしれないけれど。そして自覚がなかったこともどうかと思いはするけれど。
わたしのなかには変革の嵐が吹き荒れていたから。
ここで「なぜ」と尋ねていたら、きっかけはこのときだったかもしれない。
このときがきっかけになっていれば、今ほど苦しくなかったかもしれない。
ここで気づいていれば、今はもっと奔放だった、きっと、こんなに、ゆがんでいない。
嵐は一時的にわたしを強くしてくれた。でも自分の真実の多くをぶちまけてしまってから気持ちに気づいたら、あとはどうしたらいいのかわからなくなった。
「……やってみたいわ、変われるなら。わたしには、トマトソースのオムライスがあるもの」
「あのな、どうやったらその話に戻るんだよ。いちいち言葉の選択がおかしいなおまえは」
「おかしくないわよ」
「だから泣きながらする話かよ――――もういい、とにかく俺は動くからな。おまえの納得と了承を待ってたら日が暮れる」
「もう日が暮れて時間が経つわ」
「……ツッコミどころはそこじぇねえ」
「たたかいはこれからなのよ」
「意味が分からねえ」
「あなたこそ意味がわからないわ、わたしは泣いてなんかいないし、トマトソースがある限りたたかうのよ」
「もういい、わかった。好きにしろ、というか好きにさせてやる」
「その言い方は傲慢だと思うけれど」
「おまえは強情で偏屈だと言いてえ」
「だったら、それがわたしだわ」
「――――――――」
*** *** ***
「……佐久間さん、あのとき絶句していたなあ」
わたしだって今より強気に出ていたのが、なんだかおかしい。
「でも、さっきほどじゃなかったかも」
ものすごく固まっていたものね。スプーンを持ったまま口を開けて固まるのが、あの人らしくなくて笑いがこみ上げる。
ふう、と一旦足を止めてダウンジャケットのファスナーを上げた。少し早足で歩いてきたし頭に血が上っていたしでむしろ暑いくらいだったけど、それに抵抗してみた。
何の意味もない。
この憂慮も鬱屈も解消なんかされないのに。
芽生えた感情は、地面からわたしの足に絡みついて全身を縛る蔦になったみたいだった。
変革を起こして、髪が短くなったわたしの首元には、新しい風が吹いていたのに。
ひとりで起こしたはずの変革は、“わたしが変わった事実”を構成する側面に過ぎなかった。
変革は事実だけれども、真実ではない。
いままでの経験が、どんな感情よりも先行して、予期せぬ事態に対応する神経の下支えになってくれたら。
それとも、蔦を引っこ抜くほどの勢力を従えて、愛情という感情が、わたしを包んでくれたら。
苦しくてゆがんだものなんて、なにもかも凌駕してもっと颯爽と、気持ちを表せたんじゃないだろうか。
なぜだか最近はずっと不機嫌な同僚に、以前みたいに無秩序に関われたんじゃないのかしら。
「――――なんであんなに不機嫌なのよ」
思い出したらムカついてきたわ。
“おまえは自由だな”ですって? ひとの気も知らないで。
「あんたのほうがよほど自由じゃないのよ、You suck!」
「――――その“くそったれ”っていうのは、俺のことか、高坂」
……Jesus……
鶏よりも卵よりも、先に気にしていなきゃいけないのは、後方だったなんて。