(前)オムライスのカタストロフ
金曜日の投稿に間に合いませんでした……。
I'm just thinking about that problem now.
世界は事件と憂慮に満ちていて、何かしらあたらしい潮流を生み出そうとするダイナミズムに導かれているよう。けれど、その先にあるものが必ずしも幸福だといえるかしら。
真実がいろいろな側面をもつのなら、あるひとにとっては真実は悲劇的結末になるのではないか。真実をどう受け止めるかは、誰にも責任がもてない。
じゃあ反対に、真実が真実だと確定させなくてもいいっていうことになる。
だからつまり、人々の思惑、さまざまな事象が複雑に絡みあい錯綜し、自分の目の前で起こったことさえ真実ではないかもしれない――――ということを、目の前のオムライスをみてわたし、高坂侑子という人間はいま考えている。
ソースはトマトソースでって頼んだはずなのに、デミグラスソースがかかっているのはなぜなのかしらって案件を。具はシーフードがメインのオムライスなのに。
どう見積もっても“そこはネット予約じゃないかしら?”ならぬ、“そこはトマトソースじゃないかしら?”が、正しいんじゃないかしら。
今の問題とは関係ないけれど、半年前にわたしはあの“そこはネット予約じゃないかしら?”というキャッチーなCMを観て、サロンを予約した。今まで無理に長く伸ばしていた髪をバッサリ切った。ほとんど切った。ベリーショートって言われるくらいに切った。
無理やり黒く染めていたものは、急に元に戻すことはできないから、それは諦めたけれど。時間が任せるままに地毛の色を出していった。
真っ赤なルビーのピアスをつけて、それまではいていたスカートやパンプスを脱いで、ルーズなTシャツにパッションカラーのスキニージーンズと真っ白なスニーカーで街を歩いた。
最初にそういう恰好で出勤したら、同じフロアのひとほぼ全員が唖然とした顔をしていた。驚いていなかったのは、ほとんど何事にも動じない部長と、あることでわたしが醜態を見せてしまった同僚だけ。
いえ、同僚もおそらく少しは驚いていたと思う。手に持ったバインダーを肩にトントンと当てながら、何気ない風を装ってこちらに歩いてきた。
“なかなか自由でいいんじゃないか”と、すれ違いざまに残していった。部長は一言、「高坂さん、思い切りはいいけど取引先の訪問がある日は無難に仕上げておいてね」と書類を見ながら感想と指摘を言った。
このときは、自分自身の革新のただなかにいて怖いもの知らずだったのだ。
そのときと今とは、なぜこんなにも違っているのだろう。
耳を露出させたヘアースタイルが、今はとても寒い。
「単純に間違えただけだろう。いちいち立ち止まって考えるな」
との発言は向かいに腰掛ける同僚。
立ってない、座っているじゃないと抗議すれば、
「ツッコミどころはそこじゃねえ」
と器用に片眉をあげて、非常に苛立ったようすで返された。
なぜこの同僚はこんなに苛立っているのか、というかなぜわたし達は向かい合って食事を共にしているのだろう。
この同僚にふられた残業を二人でこなして、残業のせいで狂ってしまった予定をなんとか元に戻そうと奮闘しようとしていた矢先だった。慌ただしく退勤の準備と挨拶をしたわたしに、“飯でもおごる”と強引に一言言い添えて返事も聞かずにフロアを去ってしまった。
でもいざお店に来てみたら、このひとはなんだか不機嫌だった。というか今日一日不機嫌だった。もっといえば最近はずっと不機嫌だった。なんなのかしら。
――――近頃ほんとうによく口にするけど――――
「あなたって傲慢だわ」
さっきの、退勤前のオフィスでのやりとりを蒸し返すようにわたしは彼を睨んだ。
「何だって?」
「人の予定も確かめずに、いきなり食事に誘うなんて。なんだか機嫌を損ねているみたいだし。そんな人と食事をしたって、ご飯がおいしいわけないじゃない。誘った意味がわからないわよ」
同僚は、湯気のたつオムライスにじっと視線を落とし、小さく息を吐いた。
「悪かった。だけど、おまえは自由だな」
「自由っていうなら、あなたのほうがそうじゃないの。もしかしてこのお店が気に入らないの? でも食べ終わるまでの我慢だから、あと20分くらいは耐えてよね」
「本当に食ったらすぐ切り上げるつもりなんだな」
「言ったでしょ。今晩は予定があるの。その前に、この倒錯した現象と戦わないといけないんだから。短期決戦で決めたいの」
「なんだよ、倒錯した現象って。お前はオムライスが絡むと本当に面倒くせえな」
「仕方ないじゃない、トマトソースがわたしの運命なんだから」
肩を落とせば目の前には、わたしの好みの軌道を大きく逸れたデミグラスソースのかかったオムライス。呆れたようにため息を吐く同僚。
「交換してもらうように言ってやろうか」
「いい。冷めるから、あなたも早く食べたら」
フン、と鼻息を吐いてわたしは大皿に載ったデミグラスのオムライスにスプーンを入れた。同僚の不機嫌がわたしにも移ってしまったみたいだった。
大好きなオムライスをこんな気分で食べるだなんて。なんだか悲しくなる。それも、大好きっていってもわたしの好きなソースじゃないところが、余計に悲しい。
トマトソースがよかった。トマトソースじゃなきゃ、わたしにとってオムライスはオムライスではない。
真実は、ひとによってさまざまだと、自分の思うとおりに事が運ばなかったときほど感じる。
“いちいち立ち止まって考えるな”、“単純に間違っただけだろう”
それは多分、真実のうちのひとつではあるんだろう。オムライスという事物を目の前にして、でもわたしにはこの憂慮に満ちた事実を受け止められない。わたしの運命がねじれている現象、だから、オムライスにデミグラスソースがかかっていることは、倒錯した現象。
オムライスの完全という形が、わたしにとっては真実。
完全とは、なめらかな表面の卵生地が、筒のように米を包んだ形状で、ソースはトマトソースという条件を満たしてこそ。ケチャップではなく。
このお店は、白熱電球が天井から剥き出しのままいくつか下がっていて、光源はそれだけだから店全体がくすんで見える。
フローリングの塗装や板はところどころ剥がれていて薄汚れているし、備え付けてある横長の六人掛けの木椅子は、どこをどう見ても向かって右側が傾いている。曲線を描く背もたれの木椅子も、その上に敷かれてある座布団もくたびれている。座布団に至ってはなかの綿がはみ出している。
うらぶれた、寂れたって言い方がとてもしっくりくるようなところ。
手抜き放題、悪条件がそろい踏みの内装でも決して居心地が悪いわけではないそこは、わたしの真実を具現化してくれるお店だった。どういう訳か、割合に繁盛しているようだった。
いまも数名の男性客が、スポーツ新聞やスマートフォンを片手に大きなサイズのオムライスを咀嚼している姿があった。
毎週金曜日は、オムライスにシーザーサラダとコーンスープのついたプレートをサービス価格で出してくれる。オムライスの形こそ統一されているけれど、サイズやソース、メニューによっては具までも自分の好きなものを選べるようになっている。これ以上の真実があるだろうか。いいえ、ないわ。
そしてその真実に、今日はもうひとつ、とても大切な真実が存在しているのだけど、最近はその真実の不安定さに揺さぶられて、わたしの日常は停滞と後進を繰り返す憂慮に満ちている。
世界中に事件があふれているのに、今のわたしの日常は停滞している。
なんという、矛盾。
短期決戦で決めたいと表明したものの、わたしは一旦お皿にスプーンをおいて、ため息を吐いた。
ほとんど手をつけていないわたしとは対照的に、向かいの同僚は、デミグラスソースのオムライスをもう三分の二ほど食べ終わっていた。
黙々と同僚の口に消えてゆくソースが、このひとの真実をわたしに思い知らせているよう。交わることのない、それぞれの真実。散々、馬鹿馬鹿しいって相手にされなかったけど――――。
「おまえ、デミグラスソースのかかったオムライスを食ってる人間は、人間じゃないって思ってんのか」
「……えっ?」
唐突な同僚の発言の意味がわからなくて、目の前にある顔を瞬きもせずに見つめた。
迫力のある精悍な顔立ちに、息を呑んだ。
このひとは、いつの間にわたしのことを見ていたんだろう。観察されるような目つきで、それだけではない他の意味もあるような表情に、わたしは動けなくなった。
器用に右眉だけをあげる癖のほかに、右目だけを眇めてみせることがよくある。
わたしは、その表情をわたしに向けられることが、いつだったかとても苦手になった。でも、惹かれずにはいられなくなる。どうしても、心の深い部分を強引に引っ張り出されるような感覚がしてしまう。
これ以上は、もうやめてと言ってしまいたい。
「だから、デミグラスソースのオムライスが好きな人間とは付き合えないのかって訊いてるんだ」
いま、そんな質問だった?
しかも、そんな質問をわたしにするの?
――――あなたが?
「佐久間さん。どういう意味で訊いてるのかまったくわからないけれど、わたし、好みで人を差別するような偏狭な人間じゃないつもりよ。もしそう思われていたのなら、とても心外ね」
「偏狭じゃねえけど、偏屈だろう」
「真実を追い求めてなにがいけないの。でも、デミグラスソースのオムライスが好きな人は人間じゃないなんて人種差別は持ち合わせてないわ」
「どうしてもその真実の話につなげたいのか。おまえは、言葉の選択がいちいちおかしい」
おかしくないったら。
無言で水の入ったグラスを持って、飲んだ。
いい加減、この鬱々とした停滞を打ち壊してしまいたい。
待っているのが、たとえ一生、トマトソースでなくデミグラスソースのオムライスを間違えて提供される未来だったとしても――――。
「そんな気を持たせるようなこと、言わないでよ……」
聞こえない程度につぶやいて、ゴンッとグラスをテーブルに叩きつけた。
姿勢を正して息をスウッと吸った。ふたたびスプーンを手に取って、同僚がというよりも周りが引くくらいカンカンカンカンカンッとスプーンをお皿にぶつけて、ものすごく口を開いてオムライスをかっ込んだ。そしてズズズズーッと店中に響くぐらいの音をさせてお皿の両端を持って、上向いてデミグラスソースを喉を鳴らして飲んだ。
ドンッ、と鈍い音をテーブルに鳴らして、束になっている紙ナフキンをガッと掴んでグッと口を拭った。
「――――ごちそうさま」
唖然としている同僚をよそに、静かに席を立った。
よほど驚いたのか、スプーンを持ったまま固まっている。
「Everything depends on you……」
自分がこんなに弱い人間だなんて思っていなかった。
一切を刷新して、髪も服装もすべて自分ごと生まれ変わったと思えた。
うつむいても首にかからなくなった髪は、勇気の証明のはずだった。
わたしのくだらないオムライス近代論に耳を傾けてくれるひとに、これほど寄りかかっていたなんて。