第三話 陰謀
慣れてしまえば、男女の間柄のことなど、たいしたことはない――。
ルジエはそう思い始めていた。
後宮にあがってからというもの、皇帝は足しげく彼女の元へ通ってくる。
皇帝が用意してくれた――元はといえば、第一夫人の為の――光の宮は広く、そしてとても美しかった。
白と金を基調にした宮殿で、どこの部屋の装飾も細かく、うっとりするほど美しい。
さらにルジエには多くの使用人が遣わされたので、ルジエは、それらの取りまとめをリウルに任せることにした。
皇帝から遣わされた使用人とはいえ、もともとこの宮殿にいたような人間は、誰が信用できるか分からない。
それに比べ、リウルはダイアスが太鼓判を押してくれた人物だ。
それだけではなく、ルジエは彼女の人間観察能力も高く評価していた。
あの使用人はダメ、でもこちらの使用人は信頼できる……など、リウルは秘かにそう言った情報を教えてくれた。
そして、それはとても的確だった。
普段はほとんど表情を変えないリウルだったが、このところよく、不快な顔を目にすることが増えた。
「また、届いたのね」
ルジエはさりげなく、リウルの後ろ姿に声をかけた。
彼女ははっとしたように、振り返り、ため息をついた。
「ルジエ様には、隠しごとができませんね」
「あら、そんなことないわ。リウルの鉄壁の表情は、なかなか読み取るのが難しいもの」
冗談めかしてルジエが言うと、リウルはふっと表情を緩めた。
そして、すぐさま、いつもの顔に戻る。
「今度は誰から届いたの?」
「陛下の名を語って届いたので、一応封を開けてみたのですが……」
そう言って、リウルは語尾をにごした。
ルジエはため息をひとつついた。
女という生き物は、どうしてこうもくだらないことをするものなのだろうか?
最初は、封書の中に小さな汚らしい虫が入っていた。
その次は小さな刃物。
頼んでおいた高価なドレスが、ここに届く前に、切り裂かれてしまっていたこともある。
呪いの言葉が書かれた紙が湯殿の周囲に張られていたときはさすがにうんざりしたし、陛下から賜った高価な置物が割られていた時には、陛下にどう説明しようかと頭をひねったものだ。
「本当にうんざりするわね」
そう言って、ルジエはくるりと目をまわした。
嫌がらせをしている人間は、ほぼ特定できている。
第一夫人のターニアと第三夫人のポリージャが、首謀者だ。
犯人は分かっていても、相手は奥方で、こちらは新参者の妾。どう考えても分が悪い。
「どうにかならないかしら。――というより、どうにかしたいのだけれど」
こちらから手出しするのは、マズイ。
陛下は初々しいルジエを気に入っているのだ。
夫人たちに告げ口でもされたら、たまらない。
「ルジエ様、実はこんな話を耳にしたのですが――」
不意にリウルが切り出した。
普段、噂話などしようともしないリウルの言葉に、ルジエは耳を傾ける。
しかし、リウルが耳打ちしたそれは、噂話などというレベルのものではなかったのである。
少女は皇帝の第一夫人ターニアに仕え初めて、まだ日が浅かった。
他の女官たちの中で一番下っ端の自分が、こんな大役を引き受けていいものかと、彼女の手はわずかに震えていた。
彼女の手には、ターニアに託された高級なお菓子箱がある。
“これは第四夫人ルモーニア様からの頂きものなのだが、珍しいものだから、是非、ルジエ様にも召し上がっていただくように”――と、彼女はそう言い含められていた。
少女は光の宮まで来ると、あまりの美しさに思わずため息をつく。
そして、光の宮はもともと、第一夫人ターニアのために建てられたものだったと憤慨していた先輩女官たちの言葉を思い出していた。
こんな立派な離宮を与えられたルジエという女性は、よほど魅力的で、皇帝の心をとらえたのに違いない――、とそこまで考えて、少女はそんな考えを振り払うように首をふった。
自分は第一夫人ターニア様付きの女官なのだ。そんなことを考えてはいけない。
取り継ぎの使用人に話を通し、少女は光の宮に足を踏み入れた。
そして、少女は小さな部屋に通され、一人の女性と対面した。
「私はルジエ様付きの女官、リウルです。第四夫人ルモーニア様からの贈り物があると伺いましたが?」
リウルと名乗った女性はまだ若く、てきぱきとした印象だった。
少女は浮ついた心を落ち着かせるように小さく息を吸って、口を開いた。
「はい。ルモーニア様のご実家より、とても珍しい菓子が届きましたので、ルジエ様にもぜひ召し上がっていただくようにと申し使ってまいりました」
なんとか詰まらずにそれだけ言うと、少女は手にしていた包みを差し出す。
「そうですか」
リウルはさりげなく壁の時計に目を走らせた。
「お茶の時間には少し早いですが、折角ですから、ルジエ様に早速召し上がっていただこうかしら」
少女は何と答えていいのかわからず、あいまいに微笑んだ。
「しばらくこちらでお待ちいただけますか? ルモーニア様に感想をお伝えした方が、きっと喜ばれることでしょうから」
断る理由もなかったので、少女は黙ってうなずいた。
しばらくそこで待っていると、リウルはすぐに戻ってきた。
「ルジエ様が、貴女もご一緒してほしいそうです。いかがでしょう?」
思いがけない申し出に、少女は今度こそ首を横に振った。
「そんな……滅相もございません。私はまだ新参者の女官です。ルジエ様とご一緒にお茶などできるような身分ではありません」
「まあ、そうおっしゃらずに。ルジエ様は時々、私ともお茶をご一緒されるのですよ? 一人では寂しいとおっしゃられて。――ルジエ様はまだお若いし、こちらに来て間もないので、仲の良いお友達もいらっしゃらないのです。ルジエ様を少しでも慰めて差し上げるのも私たち女官の務め。ぜひ、私からもお願いいたします」
そこまで言われては、断りようがなかった。
少女もお茶の作法ぐらいは仕込まれている。
粗相のないように気をつければ、問題ないだろう。
「わ、わかりました」
うなずくと、リウルはにっこりとほほ笑んだので、少女は少しホッとした。
案内されたのは、専用のティールームだった。
「よく来てくれましたね」
出迎えたのは、あまり年の違わない、まだ幼さの残る少女だった。
(この方が、ルジエ様――)
後宮で様々な噂が飛び交っているが、少女がルジエを見たのはこれが初めてだった。
第一夫人のターニアも細面で美しいが、ルジエはそれ以上だった。
真っ黒な髪がハッと目を引くほど美しく、長く腰まで垂れていて、切れ長の瞳は吸い込まれそうなほど、神秘的だ。
それなのに頬はふっくらとピンク色で、まだ少し幼さが残っている。
肌の色は抜けるほど白く、とても自分と同じ年頃の娘だとは思えないほどの美しさだった。
(陛下が夢中になるはずだわ……)
「さあ、遠慮せずにこちらにお座りなさい」
ルジエはまるで親しい友達のように、少女に席を勧めた。
(こんなに美しい方と、一緒にお茶をするなんて……)
少女が戸惑っていると、ルジエが信じられないような美しい顔で微笑みかけてくれた。
「私の方から頼んだのだから、遠慮することなどないのよ? 今日は特別な紅茶も用意させましょう」
気さくな様子で話しかけてくるルジエに、少女は胸が熱くなった。
第一夫人のターニアも美しいけれど、女官をこんな風に扱うことなど決してなかった。
ターニアと少女の間には、越えられない高い壁がある。
「持ってきていただいたお菓子を広げましょうね」
そう言って、リウル自ら、銀製のワゴンを押してきた。
「ああっ、申し訳ありません! 私……っ」
「いいの。気にすることないのよ。あなたは、私のゲストなのだから」
そう言ってルジエは優しく微笑むと、美しい皿にのせられた菓子に手をのばした。
「まあ。本当に変わったお菓子だこと。綺麗な細工がしてあって、食べるのがもったいないくらいだわ」
そう言って笑いながら、ルジエは、その菓子を一口食べた。
少女も震える手で、紅茶の入ったきれいなカップに口をつける。
香りのいい、温かい紅茶が少女の喉を下っていったが、緊張しすぎて味が分からない。
「いかがですか? ルジエ様」
リウルがそう声をかけた時だった。
少女はルジエの様子が何かおかしいのに気がついた。
(手が震えて……?)
なんだか顔色が悪い――、そう思った瞬間、ルジエの体がぐらりと傾いた。
「ルジエ様!」
リウルが血相を変えて、ルジエに駆け寄る。
少女は一気に背筋が寒くなった。
(どうして……、どうして……?)
「誰か、医者を……!」
リウルの声にハッとなり、少女は扉の方に駆け寄った。
「すみません! どなたかお医者様をお願いいたします! ルジエ様が……! ルジエ様が大変なのです……!」
少女は胸をぐっとおさえた。何が起こったのかを考えまいとした。
自分が持ってきた菓子。
もし、そこに毒が入っていたとしたら、一体誰の仕業だと考えるのが自然だろう?
少女はその恐ろしい思いつきを、必死で振り払おうとしたが、その努力は、どうやら全く報われそうにはなかった。