1 古池や蛙飛び込んだらそのまま死ぬ
つらたん。
「辛い」を柔らかく言い換えたネットスラングである。
男は今年25になるしがないサラリーマンだ。
取引先に頭を下げてきたところだった。
今回も皆にこっぴどく叱られてしまった。
この三年間、土下座した回数はすでに三桁に上る。
それにしてもあんなに怒ることはないじゃないか。
たかが見積もりの額を12桁間違えただけなのに。
万と書かなきゃいけないところを京って書いただけじゃないか。
つらたん。
帰社しながら胸の中でつぶやく。
この言葉は心の防波堤だ。
どんなに辛いことがあっても、
「つらたん」と言えば、なんとなくユーモラスに思えてくる。
俺はまだ「辛い」までは至っていない。
こんなのは所詮「つらたん」止まりだ。
そんな風に踏ん張れるから、と。
電車の窓から見る夕焼けは、なぜだか涙でにじんでいた。
(つらたん……つらたん)
念仏のように唱える。
どんどん落ち込んできた。
あれ、だめだ。なんか全然効かない。
なんかもう、嫌になってきた。
なんだよつらたんって。
すげー頭悪そうだよ。
もういい。
早く会社に戻ってスピーディーに土下座して、
とっととおうちに帰ろう。
そうだ、ロップイヤーのウサたんに慰めてもらおう。
ウサたんは見積もりを見てため息ついたりしないし。
「先輩の土下座姿似合ってますよね」とか笑わないし。
と、気づく。
電車の中は真っ暗だった。
「あれ?」
男はつぶやく。
足下が崩れ、落下してゆくような感覚に襲われたのは、次の瞬間だった。
そして、今ここ。
石の上に大の字に寝かされていた。
辺りは薄暗い。地下室だろうか。
身を起こすこともできない。
拘束されているのかもしれない。
何者かが男を見下ろしている。
「~~~~」
「~~~~~~~~」
なんかよくわからない言葉で喋っているし。
こわい。
するとひとりが近づいてきて、
男の首になにかを突き刺した。
「うわチクッとする」
「あ、ごめんなさい」
謝られた。女の子だ。
「あれ、言葉が通じている」
「はい。今コトバワカールを打ちましたんで」
「すごい言葉わかるようになりそう」
彼女は上から下まですっぽりと外套をかぶっている。
透き通るような白い肌に赤い目。
長い銀髪がフードの隙間からこぼれている。
よく見えないが、小顔の美少女であるということはわかった。
自分とはあまり関わりがない類の可憐な娘だ。
異国の人だろうか。
「こほん……じゃあ、その、
一応マニュアルなんで、始めますね」
「え、あ、はい」
寝たままうなずく。
手に抱えていたファイルをめくる少女。
ミニスカートだったらパンツが見えてしまいそうな位置だ。
「おお、よくぞやってきたー、異世界からの勇者よー。
どうかそなた、われわれのせかいをすくいたまえー」
「ええ?」
「われわれのかいしゃをすくいたまえー」
「規模が小さくなった」
「……えと、次、あれですよね?」
女の子は振り返り、もうひとりに手順を確認するようにうなずく。
再び向き直ってくる。
「というわけで、よろしくお願いします」
「え、なにが」
「わたし、ミミニ=ミニロップスと申します」
「あ、これはどうも。
平素お世話になっております」
男は名刺を取り出そうとしたが、腕が動かない。
「えーと、身動き取れないんで、
このままの位置で失礼します」
「どうぞお気遣いなく」
「自分は藤井ふみやです。
元チェッカーズではありません」
「すみません、よくわかりません」
「あ、そうですか。
覚えやすい名前だとよく言われるのですが」
頭をかこうとしたが、やはり腕が動かない。
なんでもいいから、早く拘束を解いてほしかった。
「それでですね、フミヤさん」
「あ、はい。
急に下の名前を呼ばれるとちょっとドキッとします」
「フミヤさん、事情は飲み込んでもらえたと思うのですが」
「え、いやあ」
一瞬うなずいてしまおうかとも考えたが、やはり問い返す。
「すみません、全然わかりません」
「じゃあとりあえず起きてもらってもいいですか? 現場に向かいますんで」
「はあ」
「途中でご説明します」
「といっても、その、体が動かないんですが」
「ええ? そんなはずは」
「いや、えっと」
藤井は精一杯腕を持ち上げようと力を込める。
すると、ゆっくりと動き出す。
しかし。
「え、なにこれ重い。すごい重い」
「ええ?」
ミミニは再び目を丸くした。
そんなはずはないとばかりにファイルをめくる。
「なんでですか。どうして重いんですか」
「俺に言われましても」
「ちゃんと毎日運動していますか?
ふざけていないで真面目にやってください」
「怒られても」
歯を食いしばり、渾身の力を込める。
だが、半分ほど持ち上げるのがやっとだ。
「もう」
業を煮やしたミミニが藤井の上にまたがって、
両腕を強く引っ張ってくれた。
「う、重いです……」
「はあ。お手数おかけします」
顔を真っ赤にして藤井を引き上げるミミニ。
ゆっくりとだが、藤井の体が持ち上がってゆく。
ミミニはそれほど力があるわけではないのだろう。
なんだか悪いな、と思ってしまう。
柔らかい手の感触を楽しみながら、少し照れる。
女の子に手を握られるのなんて、何年ぶりだろう。
ふいに桃色の妄想は散った。
ずるりと手が滑ったのだ。
「あ」
「え」
藤井は後頭部を地面に打ちつける。
ゴン、と嫌な音が響き渡った。
それきり、彼は動かなくなってしまう。
血もなにも、流れているようには見えないが……
ミミニはおそるおそる、問いかける。
「えっと……フミヤ、さん?」
返事はない。
ただのしかばねのようだった。
初回死亡。
死因:後頭部の打撲。