おゆずりします
「良かったらおゆずりしましょうか?」
アパートの隣人の木下さんに急に声を掛けられ部屋に招かれた。木下さんは腕に抱えた赤子に一度視線を向けてから私に向き直り笑った。
「きっといい子よ。かわいいし」
抱いてみてよと言われ断る事も出来ず私は隣人の赤子を腕に抱いた。
「あら、未経験なのに上手じゃない」
木下さんは胸の前で小さく拍手をした。
自分の腕に収まる他人の赤ちゃんを見下ろす。
かわいい、のだろうか。分からない。自分の子供ならもしかするとそう思えるのかもしれないが、この子は私のものではない。
「どう? 良かったらあなたの子供として育ててくれていいけど」
木下さんは確か三十後半で、同い年ぐらいの夫と見たことはないが五、六歳ぐらいの娘三人で暮らしている。みすぼらしい見た目から想像に難くないが、こんなせまい安アパートで暮らしているのだから、一人暮らしの私と比べれば生活はギリギリのはずだ。
そこに来て二人目。馬鹿なのだろうか。全く気が知れない。既にギリギリだろうに育てる財力はあるのだろうか。お金の計算や将来への見通しといった脳味噌はこの人達にはないのだろうか。こういう人間を見るたびに愚かで仕方ないと思えてならない。
木下さん一家がやってきたのはここに住み始めて二年程が経ってからだ。そこから三年は経つが、特にこれといったトラブルはない。金額と構造上、少しばかり音は気になるが子供がいるにしては静かな方だと思う。
悪い人ではない。顔を合わせれば丁寧に挨拶もしてくれる。その度全くケアしていない張りのない乾いた肌が残念だなと思った。
なぜこんなことをするのだろうか。金も余裕もないからだろうか。じゃあお前が悪いだろうが。それとも同年代なのに一人でいる私を憐れんでいるのか。もしくは馬鹿にしているのだろうか。
「お金とか必要なものは遠慮せずに言ってくれていいから」
思わず木下さんを見る。どの口が言っているのだろうか。金ならあなた達より十分持っている。ただ無駄にいい部屋に住んで浪費するのが馬鹿らしいからここに住んでいるだけだ。
「ベビーシッターという事ですか?」
「違うわよ。それだとお仕事じゃない。これはただのお裾分けよ」
木下さんはずっと笑っている。まるで意味が分からない。
「うちはもう一人いるから。練習とかゲームぐらいの軽い気持ちでいいから」
穏やかな子供の寝顔に視線を戻す。
ーー軽い。
少しだけ私は思案する。
たいした趣味もない。世の中くだらない事ばかりだ。だから出来る限り穏やかに静かでいたいと思っていた。でも、どこかで少し刺激が欲しいと思っている自分がいた。
「飽きたらお返ししていいですか?」
「ええ、もちろん」
ダメだったら捨ててもいいですかとはさすがに口にしなかったが、この感じならいいですよと変わらない調子で答えが返ってきそうだった。
「じゃあ、少しだけ」
魔が差したという感覚に近い。
私は気まぐれに隣人の子供を育てる事にした。
*
「ぎゃああああああ。ぎゃああああああああ」
ーーうるさい。
全く何時だと思っている。深夜二時だぞ。
これが噂に聞く夜泣きというやつか。とんでもない。私は毛布の上で眠る子供の頬を軽くはたいた。
「ぎゃああああああ。ぎゃああああああああ」
子供の声は更に激しくなった。
耳障りだ。泣くことしかできない騒音の塊。どうしてこんな厄介な生き物を皆自ら進んで育てているのだろうか。
これが我が子じゃないから? いや、自分の子供だとしても我慢できる範疇ではない。
ーーやはり無理だ。
夜だったが私は構わず木下さんの部屋のインターホンを鳴らした。
「あら、もう嫌になったの?」
最初から全て予想通りだったかのように木下さんは笑った。
「そうでしょうねー、どうしてあなたが受け取ったのか理解できなかったもの」
と言いながら木下さんは手を叩きながら笑い声をあげた。
じゃあなぜゆずりますだなんて言い出したのか。不快が顔に出ていたせいか、木下さんは「あら、怒った?」と言いながら相変わらず笑顔は崩さなかった。
「金もないくせに子供産んで馬鹿だなーこいつらって思ってたでしょ? あなた言葉が全部顔に出てるのよ。言われたことない?」
木下さんから今まで一度も聞いた事のない真っすぐに人を突き刺す言葉がいつもの優しい笑顔のまますらすらとその口から吐き出された。
「三日ぐらいは頑張ってくれるかなぁって思ってたけど、まさか数時間でギブアップなんてねぇ。良かったわーあなたが親になんかならなくて。そんなの子供が不幸すぎるものねぇ。こんな安アパートで同じようにお金もないくせに愛情もないだなんて終わってるものねぇ」
饒舌に木下さんは私の一切合切を頭の先からすりつぶすように否定していく。この人は最初から私をそんな目でいたのか。だからこんなことを仕掛けたのか。
「お、どうした? あー名取さんか。何? ギブアップですか? ははは、本当にどうしようもない人だねー」
朗らかな笑顔で辛辣な言葉を吐きつけながら、部屋の奥から木下さんの旦那さんがやってきた。何年間も着続けてきたであろうよれよれの上下灰色のスウェットは年季の限界を超えていた。
「そんな程度なのに私達のこと見下してんだから笑っちゃいますよね。駄目ですよ、何も出来ないくせに人の事ばっか否定してちゃ」
二人して同じように笑いながら私を言葉で蜂の巣のように穴ぼこに貫いていく。
「とりあえず、うちの子返してもらっていいですか?」
返すだと。お前らが私にゆずったんだろうが。
「返しません」
「はい?」
「もらったので返しません」
「じゃあ育てるの? 無理でしょあなたじゃ」
「私のものなので私が決めます」
「子供をもの呼ばわりする人には無理よ」
「隣人に子供をゆずるような人に何も言われたくありません」
私は足早に自分の部屋に戻った。
「平気で赤ちゃんに手をあげるような人は最低の屑ですよー」
扉が閉まる直前、隣から木下家の笑い声が聞こえた。
*
やっと静かになった。これでいい。私のものなのだから私が決めていいのだ。
朝になり、横たわる物体を抱え私はもう一度部屋を出た。
「あら、こんな朝早くにどうしたの?」
昨日のことなど何もなかったかのように木下さんはいつもの笑顔で私を出迎えた。
「お返しします。いらなくなったので」
固くなった子供を木下さんに差し出す。
「あはは、本当に最低の屑なんだからあなた」
死んだ子供を笑いながら平然と受け取り、木下さんは部屋の中へと戻っていった。
それからほどなくして警察が来て私は逮捕された。
少しの間子守をお願いしたら殺されたと、木下さんが通報したそうだ。色々言いたいことはあったがどうでもよかった。殺したのは間違いないのでどうしようもない。
知っていた。全て木下さんの言う通りだ。
自分がいかにろくでもない人間かなんて自分が一番よく分かっていた。だからこそ静かに穏やかに過ごしてきた。関わればろくなことにならないから。でも結局それは自分を抑圧しただけで根本的な解決ではなかった。だからこれで良かったのだと思う。自分はこの程度だったのだ。
ただ、木下さんが何をしたかったのかは分からない。
あれだけ立派な講釈を垂れながら、殺された自分の子供を見ても取り乱さず笑っていた。
ひょっとすると、木下さんも全部図星だったのかもしれない。結局あの人達も、あの子を育てられなかっただけなんじゃないか。
ーー大丈夫かな。
あの家にいる一人娘。名前も知らない。というか姿すら見たことない。
本当に娘なんているのだろうか。いたとしてどうなっているのだろうか。
どうせなら、その子も私にゆずれば良かったのに。




