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境界人  作者: らくろ
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欠落事由

今年の夏は、まるで太陽が地球に落ちてくるのではないかという暑さだった。

連日の猛暑はアスファルトの表面で陽炎を揺らめかせ、街の景色を油絵のように歪ませていた。交差点を行き交う人々の顔も、ビルを覆う看板の文字も、すべてがドロドロに溶け合い、意味を持たない一つの均質な塊へと還元されていくかのようだった。

「今年の夏は異常だな。このままじゃ、街ごと溶けちまうよ」

岩田は額の汗を手の甲で拭いながら、自販機で買った冷たい缶コーヒーを隣の青年に放り投げた。

「お疲れ様です、課長。ほんとですね、路面温度、目玉焼きが焼けちゃいますよ」

後輩は無邪気な笑顔でコーヒーを受け取り、ちゃぷちゃぷと缶を振ってプルタブを開けた。

課長と呼ばれる岩田誠いわた まことは、インフラの空間データを管理する部署の中間管理職だった。気さくで面倒見が良く、現場仕事の帰りにはこうして部下に缶コーヒーや昼飯を奢るのが常だった。

休日はよく山へ登った。岩田は登山靴の底から伝わる「確かな大地の反発力」と、岩肌にあたる腕の「冷たい摩擦」を大事にしていた。自分という人間は、間違いなくこの強固な物理法則の上に立ち、他者と関わり合いながら平穏な日常を築いている。その体温の通った「当たり前」の感覚を、彼は心から愛していた。

二人は、ルーフにレーザースキャナと全方位カメラを搭載した実験用の高性能測量車に乗り込んだ。機材への電力確保のため、この測量車にはクーラーがない。窓を全開にして熱風を浴びながら、二人はクーラーの効いた社内へと戻った。

オフィスに戻ると、外の狂気じみた暑さが嘘のように、冷たく乾いた空気が彼らを包み込んだ。

岩田は自席のワークステーションを立ち上げ、先ほど走行してレーザースキャナで取得したばかりの3D点群データをモニターに呼び出した。

画面上に展開されたのは、数千万、数億という無数の「点(XYZ座標)」の集合体によって精密に再現された、あの夏の交差点だった。信号機も、道路の白線も、彼らが立っていた自販機の横の空間も、すべてが無機質な数値の集まりとして可視化されている。

岩田は慣れた手つきでマウスをドラッグし、3D空間をグルグルと回転させながら、ノイズの除去作業を始めた。

人間が肉眼で見る「意味のある風景」を、機械の眼は一切の感情を交えずに「ただそこにある物理座標」として記録する。彼はこの無機質だが完璧な世界のコピーを見るのが好きだった。

しかし、交差点の中央付近のアスファルトのデータを拡大した時、岩田の指がマウスの上でピタリと止まった。

空間の空中に、奇妙な欠損があった。

「……なんだ、これ」

岩田は顔をしかめ、マウスのホイールを回してさらにその部分をズームした。

道路の表面からわずかに浮いた位置。そこに、点群が一切存在しない「完全な空白」があったのだ。

障害物でレーザーが遮られたオクルージョンではない。レーザーの反射異常によるランダムな欠落とも違った。

それは、直径ちょうど10センチほどの、恐ろしく滑らかな「真球状の穴」だった。

周囲の点群は、その見えない球体の表面をなぞるように、ミリ単位の狂いもなく正確に球の輪郭を描いて途切れている。まるで、何者かが3Dモデリングソフトで意図的に「その空間の情報だけを削除した」かのように。

「山ちゃん? 機材のレンズに虫でもへばり付いてたんじゃないか?」

岩田はお茶目に笑いながら、隣の席の先ほどの後輩、山本康太に声をかけた。

「え? いや、走行前も後も、レンズは専用のクロスで完璧に拭きましたよ。エラーログも一切出ていませんでしたし」

山本は不思議そうにモニターを覗き込んだ。「うわ、本当だ。見事に丸く抜けてますね。まあ、たまにある原因不明の反射バグじゃないですか? 適当に周囲のデータから平均値出して、補間パッチしときますよ」

後輩の言う通りだった。実務上は、こんな些細な欠損など、ソフトウェアのフィルタリング機能で簡単に周囲のアスファルトのデータで「埋めて」しまえば済む話だ。誰もそんな10センチの穴など気にしない。

「……ああ、そうだな。頼む」

岩田はそう返事をして、自分のPCの画面に視線を戻した。

しかし、彼の心臓の奥で、氷の破片のような冷たい違和感がチクリと刺さっていた。

岩田は機材の生データのログを開き、その「穴」の周囲のレーザーの反射強度と照射角の数値を一行ずつ目で追った。

エラーは、多分ない。

機材は正常に稼働し、光の速度という絶対的な物理法則に従って、その座標にレーザーを照射している。

しかし、光は反射してこなかった。

つまり、データが壊れているのではない。

その直径10センチの空間だけが、反射を返さない虚空なのだ。

クーラーの冷風が首筋を撫でた。

先ほどまで岩田が確かに感じていた、あの息苦しいほどの夏の熱気と、削れて薄くなった革靴の底から伝わってきたアスファルトの固い感触。それが急に、ひどく薄っぺらな「幻覚」のように思えてきた。

岩田は無意識のうちに、モニターの中のその完璧な「虚空」へ向かって、震える指先を伸ばしていた。

コツ、と指先が液晶画面に触れる。当然、そこにあるのはただの平坦で生温かいガラスの感触だけだ。だが、画面の奥に開いた暗闇は、岩田を静かに見つめ返しているようだった。

結局、岩田はどうしてもその滑らかな無の輪郭が頭から離れず、生データ一式をコピーして自宅へと持ち帰っていた。

その夜、岩田はダイニングテーブルに会社のノートPCを広げていた。

「今日も遅かったね、まこちゃん。お疲れ様」

キッチンから、妻が麦茶の入ったグラスをコトッとテーブルに置いた。換気扇の回る単調な音と、リビングのテレビから流れるバラエティ番組の笑い声。岩田が長年守り、愛してきた、平熱の「当たり前」の空間だった。

「ああ、ちょっとデータの確認が長引いてね」

岩田はグラスに水滴がつくのを横目で見ながら、曖昧に微笑んでみせた。しかし、彼の視線はすぐに青白く発光するモニターへと引き戻された。

画面の中央には、あの「10センチの虚空」が鎮座している。

山本は適当に補間しておきますと言った。確かに普段の業務ならそれで終わりだ。だが、岩田は点群処理ソフトのコマンドラインを開いた。手作業でパッチを当てる前に、まずは周囲の点群のXYZ座標から平均値を算出し、あの穴の空間をスクリプトで自動補間しようと試みた。

いつもなら、数秒で処理が終わって滑らかなアスファルトのデータが生成されるはずの、単純な計算だ。

エンターキーを叩く。

冷却ファンが微かに唸りを上げた直後、画面に冷たいシステムメッセージが表示された。

『Error: ZeroDivisionError - NaN (Not a Number)』

岩田の背筋を、ぞくりとした悪寒が駆け抜けた。

エラー? なぜだ。ただの空間の欠損を埋めるだけの計算だぞ。

彼は変数の指定ミスを疑い、別のフィルタリング機能を使って再度穴を塞ごうとした。しかし、結果は同じだった。ソフトウェアが、その10センチの境界線に触れた途端に「計算不能」を吐き出すのだ。

まるで、その虚空が「人間の作ったちっぽけな三次元座標系」や「ゼロとイチの論理」で埋め合わせられることを、絶対的に拒絶しているかのように。

「ねえ、お風呂沸いたわよ。先に入る?」

妻ののんきな声が、遠い別の次元から響いてくるように聞こえた。

「……ああ、すぐ入るよ」

返事をしながら、岩田は自分の足をじっと見つめた。

昼間、あの交差点で削れた革靴の底から伝わってきたアスファルトの固い感触。あれは本当に「そこにあった」のだろうか?

機械の冷徹な眼は、物理法則に従って「そこには何もない」と弾き出している。そして、人間の論理はそこを修復することすらできない。

ならば、俺が今日踏みしめたあの固い地面は、一体何だったんだ?

データが狂っているのか、それとも俺の感覚が狂っているのか。絶対に交わらない二つの事実が、岩田の足元を不気味に揺るがしていた。底の抜けたような吐き気が、内臓をゆっくりと這い上がってくる。

「まこちゃん? どうしたの、顔色が悪いよ」

妻が覗き込んでくる。その心配そうな顔と、テレビの笑い声が満ちるこの温かい部屋が、今はひどく遠く、頼りないものに感じられた。

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