第3話 17時21分
※第3話は、ついにその日——8月15日がやってきます。
由比ヶ浜での撮影。
光と風と波音。
そして、たった一分で変わった世界。
「撮る」ことが、初めて「止める」ことになった瞬間を、
静かに見届けてください。
◇◇◇ 水野結衣side ◇◇◇
八月十五日、由比ヶ浜は夏の終わりを予告するような風が吹いていた。
砂の表面を撫でる波音が、いつもより少し低い。
写真部の夏特集撮影。補助として呼ばれた私は、カメラと三脚を運びながら悠真の後ろを歩く。
空はまだ青いが、水平線に薄い雲が重なっている。
光は強いのに、どこか落ち着いていて――時間がゆっくり溶けていくような午後だった。
「集合写真、もう一枚いい?」
悠真の声に、私はレンズを調整する。
「ピントが甘かったから。」
彼は砂を踏んで戻ってくる。
「帰るの、ちょっと遅くなっちゃうかな」と苦笑しながら。
ファインダー越しに、光の筋が彼の髪を掠める。
シャッターの音。
液晶の隅に時刻が表示される。17:21。
——その一瞬、世界が静止した。
波も、風も、光も。
ほんの一呼吸のあいだだけ。
砂浜を後にして、駅への坂道を下る。
夕暮れの気配が空気を重くしている。
悠真のスマホが一度だけ鳴り、彼は画面をちらりと見た。
「母さんから……すぐ帰れって。」
軽く笑って、ポケットに戻す。
そのとき、海の向こうからかすかなサイレン音が聞こえた気がした。
どこか遠くで、誰かが助けを呼んでいる。
「今日、楽しかったね。」
私が言うと、悠真は少し照れたように笑う。
「うん。こういう日を残せるの、写真っていいよね。」
駅前で別れる。
彼の背中が人混みに消えるのを見送りながら、
私は無意識にカメラのデータを確認した。
17:21のファイル。サムネイルには、確かにあの光景。
タップしても、なぜか開かない。
f1721.jpg — cannot open.
エラー音が小さく響く。
二十分ほどして、スマホが震えた。
着信画面に《黒川悠真》。
海風の記憶がまだ指先に残るうちに、通話ボタンを押す。
「……結衣、今どこ?」
声が震えている。背後に、聞き覚えのないノイズ。
「家に着いたところ。どうしたの?」
「母さんが……倒れて……。」
言葉が途切れる。サイレンのような音が漏れ聞こえる。
「救急車、呼んだの?」
「ううん……誰かが呼んでくれて。たぶん、17時19分くらい。」
数字が胸の奥で跳ねた。
——17時19分。
シャッターより二分早い。
「海の階段あたりで、誰かが……。俺、気づくの遅くて。」
彼の声に、かすかな空白がある。
電話の向こうで、救急車の赤い光がちらちらと反射しているのが見える気がした。
「大丈夫、きっと大丈夫だから。」
そう言って電話を切る。
けれど、手のひらが冷たくなっていた。
夜。
悠真からの連絡はない。
ネットで近隣のニュースを検索しても、何も出てこない。
ただ、カメラのデータフォルダだけが、静かに17:21を主張している。
開こうとするたびに、同じエラーが出る。
f1721.jpg — cannot open.
液晶の光が指先を照らす。
その光は、まるで海辺の夕陽のように暖かかった。
私は深呼吸して、ファイルをそのままにした。
消すことも、開くこともできなかった。
深夜、外は風が強い。
目を閉じると、波音と救急車の音が混ざり合う。
悠真の声が、耳の奥で反響する。
——「誰かが呼んでくれて。」
誰か、とは誰なのか。
海から帰る坂道で、サイレンを聞いたのは私だけだった。
あのとき、電話の向こうにいたのも私。
17時19分に、何かが起こった。
そして17時21分に、私はそれを写真に閉じ込めた。
二分の誤差。
たったそれだけの、取り返せない距離。
私はベッドの上で、スマホを握りしめた。
悠真からの連絡は、まだ来なかった。
翌朝、SNSのクラスグループに投稿が上がっていた。
《黒川悠真の母が倒れました。病院にお見舞いを。》
返信欄には、私の指が止まる。
書くべき言葉が見つからない。
カメラを開く。
17:21のファイルは、まだ開かない。
サムネイルだけが、無音でそこにあった。
——私が、止めた。
あの光景を、永遠に閉じ込めるために。
外の空気が、少しだけ冷たく感じられた。
夏の終わりが、静かに始まっていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
ついに「17時21分」が訪れました。
この回で、結衣の十年が始まる“原点”を描きました。
次話『立ち止まること』では、
葬儀後の教室で、真帆との会話が待ち受けています。
結衣が初めて「止めたかもしれない」と呟く場面です。
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どうか、この静かな時間の流れをお楽しみください。




