9.新居の希望
翌朝、扉の下に一通の手紙が差し入れられているのに気付いた。
近づいて拾い上げる。封のされた、一通の手紙。
『少し話があります。今夜、西の東屋でお会いできませんか? アシュレイ』
いつも気づいたら傍にいた彼だが、こうして呼び出されたのは初めてだった。
私は手紙を握りしめたまま、考え込んだ。
(何の用だろう)
もう卒業間近。これから会うこともなくなる。
(きっと、別れの挨拶とか、そういうことだわ)
そう思うと、少しだけ――ほんの少しだけ、安堵した。
私は手紙を机の引き出しにしまい、その日の授業に向かった。
****
夜。私は厚手のコートを羽織り、寮を出た。
雪は止んでいたが、地面にはまだ白い雪が残っている。
足音が、雪を踏む音と共に響いた。
西の東屋は、学院の敷地の端にあり、普段はあまり人が来ない場所だ。
灯籠の光が、揺れている。
東屋に近づくと、彼の姿が見える。
遠くに目を向けると、彼の部下らしき人影が幾つかあった。
私が近づくと、彼は立ち上がり、目尻を緩め安堵の息を漏らした。
「来てくれたんだ」
彼は嬉しそうに微笑んだ。
「お待たせいたしました」
「ううん。僕も今来たところだから」
私は彼から少し距離を取って、ベンチに腰を落ち着けた。
「そろそろ卒業だね」
彼が口を開いた。
「ええ。本当に、あっという間ですね」
私は当たり障りのない返事をした。
「いつ帰るの? 準備はしている?」
「え、ええ…」
私は少し迷ってから、言った。
「卒業したら、すぐに――」
すぐには実家に帰らない――そう告げようとした。
「そう! すぐに…」
彼の声が、私の言葉を遮った。目をきらきら輝かせて身を乗り出した。
その笑顔はいつもより深いく喜びを溢れさせんばかりだ。
予想外の反応に呆気にとられ目を瞬かせる。
(……?)
その反応に気づかないふりをして微笑む。
「あの、研究所で仕事をしようと思います」
彼の表情が、一瞬、固まった。
「私は、研究をもっとしたくて」
私は続けた。もう決まったことだ。
あれこれ言われる筋合いはないだろうと思って告げることにした。
「研究所……」
彼は瞠目して不意を突かれた顔をした。
その反応に対し、胸を撫で下ろす。
彼が私の就職活動を知らなかったということは、まだ秘密を守れる領域があったのだ。
してやったりとついくすりと笑った。
私の笑いに彼が何を思ったのかわからないが、
まるで自分の事のように嬉しそうに微笑みを返した。
「政は嫌いではありません。ですが――」
私は言葉を選びながら、続けた。
「城の中で、そんなことばかりに人生を使いたくありませんし」
(だから実家には帰らないし、結婚したくない)
心の中で、強く思った。
「そうだね、それはそうだ」
彼は真摯に頷く。その反応に、私は少し拍子抜けした。
(どうして私は殿下が反対するって思っていたんだろう?)
いつもの思い込みの激しい彼なら、なぜか反対されても当然のように思っていた。
「少し難しいかもしれない。
でも、大丈夫だよ。君の望みは叶うよ」
「…え?」
その言葉に、私は首を傾げた。
(どういう意味?
もしかして、言わないほうが良かった? 何か余計なことをしようとしている?)
じわじわと不安が込み上げてきた。
彼はさらに続ける。
「あのね、新居について、希望を聞きたいのだけど」
何か楽しいことを話すかのように、柔らかい声で。
「新居……ですか?」
思いがけない問いに自然と声が上ずった。
私の頭の中で、色々な可能性が駆け巡る。
(ああ、卒業したら魔王城を改装するとか、そういうことかな?
それとも今の王宮とは別に住まいを整えるとか?)
でも、それと私に何の関係が。
「うん、そうだよ」
彼はいつになく上機嫌だが、その双眸はまっすぐと私に注がれていた。
まばゆい眼差しが、私の答えを今か今かと待ちわびているようで、思わず気を呑まれてしまう。
「うーん……」
これはいい加減な返事ができない。どうしたものかと唸った。
彼の新しいの住まいについて、どうして意見を述べることができるだろうか。
「あの引っ越しをされるのですか。」
「もちろん。だって居候なんて真っ平ごめんだよ。
そうだろう? 静かに暮らしたいよね」
「そ、それは確かに」
たじろぎながら、とりあえず同意しておいた。
彼の答えからして、王宮とは別に新居を構えるのだろう。
(魔王城は人が多いらしいし……。
王様になられるお方が、王城に通うのも変な気がする。
でも職場と住まいを別にしたいのかもしれないし)
「良かった。君が僕と同じ意見で嬉しいよ」
安心したように笑顔をほころばせる。
「……」
(殿下は、なぜこんなに嬉しそうなんだろう)
私は混乱していた。会話がどこか噛み合っていない気がする。
だが、そもそも彼との会話が噛み合ったことなど殆どないではないか。
過剰に身構えてしまったが、取り越し苦労だろう。
(まあ、私には関係ないもの)
昔のことを、ずっと謝らないまま来てしまった。
幼い頃、あれほど彼を傷つけたこと。
彼と話す度、謝ろうかと思いながらも、先延ばしにしていた。
だが正直、今更蒸し返したくない。
思い込みの強い彼がどう思っていたのか聞くのが心底怖い。
それに、彼とは、もう卒業したらおさらばだ。
会うこともないだろう。
そういえば、彼はなんの話をしに来たのだろうか。
「殿下、まだご要件を伺っておりませんわ」
私が改まって尋ねるのに、彼はきょとんとした顔をした。
「いや、用事は終わった」
晴れやかに笑みを零す。
「…え?」
(終わった? 何が?)
「長居させてごめんね。何か聞きたいことはある?」
「いいえ……」
「じゃあまた卒業式の日に会おう。」
彼は立ち上がり、優しく微笑んだ。
「楽しみだね」
その言い残して、彼は去っていった。
雪の上に、足跡が残る。それを眺めながら、私は呆然としていた。
(本当に何だったの、今の?)




