第9話 ラブホ・インシデント
「うわっ、やべぇ……!」
恵純は額に滲む雨粒を乱暴に拭いながら、目の前の光景に絶望した。
目的の動物園に着く前に、大雨に見舞われてしまったのだ。
「……天気予報、見てなかったの?」
雌伊子が呆れ顔で睨んでくる。
「悪い、完全に油断してた……」
恵純は申し訳なさそうに頭をかく。二人の休日デート、意気揚々と誘ったはいいが、このざまだ。
「このまま帰るのはさすがにまずいな。どっかで雨宿りするか」
そう言って視線を彷徨わせていた恵純の目に、近くのビルの入り口が映った。
「お、ちょうどいいとこあった! ここ入ろうぜ!」
雌伊子は入り口に掲げられた案内板に目を向けた途端、顔を真っ赤に染めた。
そこに書かれていたのは、ラブホテルの料金案内だった。
「ちょっ……! せんぱい、ここ……っ!」
「ん? 休憩二時間でこの値段なら安いじゃん。ちょうどいいな!」
悪びれもせず、さっさと足を踏み入れようとする恵純。
「ま、待ってください!」
雌伊子が慌てて彼の腕を掴むが、恵純はキョトンとした顔をしている。
「……なんで顔赤いんだ? 熱でもあるのか?」
「そ、そういうわけじゃ……!」
「お前、雨で冷えたんじゃないか? よし、温まるためにも入るぞ」
「えっ!? いやいやいや、ちょっ……!」
恵純は雌伊子の反応を気にも留めず、ぐいっと手を引いて中へと入っていく。
ロビーに足を踏み入れた瞬間、恵純は目の前の光景に驚きの声をあげた。
「なんだここ!? 自動販売機みたいに部屋選ぶのか? 変わったシステムだな!」
雌伊子は顔を伏せたまま、観念したように小さく頷いた。
「お前、ちょっと休んでろよ。俺が適当に選んでくるから」
「……うん……」
普段の小悪魔的な笑みは消え、雌伊子はしおらしく従った。
数分後、二人は指定された部屋に入る。
「広い部屋だな……へぇ、風呂もあるのか……」
室内を見回しながら、恵純はふとバスルームに目を向けた。
次の瞬間、彼は大声をあげた。
「うわっ!? なんでここの風呂、ガラス張りなんだよ!!?」
突然の叫びに、雌伊子がビクッと肩を震わせた。
「そ、そりゃあ、ここが……そういう……」
言いかけたところで、彼女はまた顔を真っ赤にする。
「……まぁいい、寒いし、先に温まってこいよ」
「……う、うん……」
雌伊子は恥じらいながら、そそくさとバスルームへと入っていった。
ドアが閉まると同時に、恵純は深く息をつく。
「……なんだこれ、変な空気になってねえか?」
モヤモヤを払拭するために、テレビのリモコンを手に取る。そして、何気なく電源をつけた。
次の瞬間、画面には裸の男女が激しく絡み合う映像が映し出された。
「ブフォッ!!?」
思わず壁に頭をぶつける恵純。
ゴンッ!! という派手な音に、シャワールームの中から心配そうな声が飛んできた。
「せんぱい!? だ、大丈夫ですか!?」
「ななな、なんでもねぇ!!!」
声を裏返らせながら、慌ててチャンネルを変える。
やがて、シャワーを浴び終えた雌伊子が、バスローブ姿で現れた。
その姿を見た瞬間、恵純の思考は一瞬停止する。
濡れた金髪が肩に貼りつき、頬は蒸気でほんのり赤い。バスローブ越しに見える美しい鎖骨、しなやかな脚。
「……あ、えっと……シャワー、空きましたよ?」
恥ずかしそうに視線を泳がせながら、小さく声をかける雌伊子。
「……お、おう……」
ぎこちなく返事をしながら立ち上がった恵純。
足元がふらつき、そのまま壁に頭をぶつけた。
「いってぇ!!」
「せんぱい!? だ、大丈夫ですか!?」
駆け寄る雌伊子。
「だ、大丈夫だ……!」
後ろ手に手を振りながら、フラフラと浴室へ向かう恵純。
その背中を見つめながら、雌伊子はゆっくりと息を吸い込んだ。彼の不器用な仕草が、今は妙に愛おしく感じる。いつもは強がってからかってばかりの自分が、今日はなぜか黙って見送ることしかできない。
バスルームのドアが静かに閉まり、シャワーの音が響き始める。雌伊子は無意識に自分の指先を撫で、頬の熱さを意識した。
胸の奥が、そわそわと落ち着かない。
普段なら絶対に言わない言葉が、喉元までせり上がってくる。
「……恵純……」
小さく呟くと、心臓が跳ねるように鼓動を打った。
今すぐにでも、もう一度彼に声をかけたくなる衝動を、どうにか押し殺してソファに身を沈めた。
唇をかすかに噛み、ぎゅっとバスローブの襟元を握る。胸の奥がくすぐったく、じれったいような気持ちが膨らんでいく。
「……バカせんぱい……」
小さく呟くと、雌伊子はふわりと微笑みながら、頬をそっと押さえた。